人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

溝口健二『雨月物語』(大映1953)

イメージ 1


(予告編)
https://www.youtube.com/watch?v=VwsnTi7dQmQ&feature=youtube_gdata_player
(本編)
https://www.youtube.com/watch?v=qPqe1OYusn4&feature=youtube_gdata_player
*

イメージ 2


[第一部]天正11年、近江の国琵琶湖北岸の村に暮らす貧農の源十郎(森雅之)は、畑仕事のかたわらで焼物を作り町で売っていた。賤ヶ岳の戦いの前に長浜が羽柴秀吉の軍勢により占領されて賑わっていることを知った源十郎は、妻の宮木(田中絹代)と子を残し、焼物を載せた大八車を引いて長浜へ向かった。義弟の藤兵衛(小沢栄太郎)は、侍になりたいと源十郎に同行する。源十郎は大銭をもって村へ帰ってきた。藤兵衛は市で見かけた侍に家来にするよう頼み込むが、具足と槍を持って来いとあしらわれる。
 源十郎は戦さが続くうちに、さらに焼物を作り大儲けをしようと、人が変わったように取り組むが、宮木は親子三人が幸せに暮らせればそれで充分なのに、とつぶやく。源十郎と藤兵衛は焼物を窯へ入れ、火をつけるが、折り悪く柴田勝家の軍勢が村へ近づく。男は人足として徴用され、女は乱暴される、と村民は山へと逃げだす。村荒らしの後、窯の火は消えていたが、焼物は綺麗に焼けていた。
-----------------------
[第二部]皆は裏道を使い湖畔に出て、そこから捨て船で長浜へ向かうが、海賊に襲われたという瀕死の男が乗る船と出会い、宮木と子はやはり村へと返すことにする。長浜で源十郎の焼物は飛ぶように売れる。分け前を手にした藤兵衛は、今度こそ侍になるのだと、妻の阿浜を振り切って逃げ出し、具足と槍を買って兵の列に紛れる。探し疲れた阿浜は兵の集団に捕まり強姦される。兵から代金だと銭を投げ捨てられた阿浜は、藤兵衛を呪う。
 市で焼物を届けるように頼まれた源十郎は、若狭(京マチ子)という上臈風の女の屋敷へ向かい、饗しを受けた。織田信長に滅ぼされた朽木氏の生き残りであるという若狭に惹かれ、源十郎はこの家に居つく。
 そのころ、湖岸で別れた宮木と子は落武者勢に見つかり、宮木は槍で一突きされ殺されていた。いっぽう、藤兵衛は戦に敗れ切腹した敵大将の首を拾い、手柄を立てた。馬に乗り家来を連れて村へと凱旋しようとする途中で寄った宿で、遊女に成り下がった阿浜に出会い、許しを乞う。
 町の着物屋で源十郎は買い物をするが、朽木屋敷へ届けるよう言うと、店の主は恐れ代金も受け取ろうとしない。帰り道では神官から死相が浮かんでいる、家族の元へと帰りなさいと諭され、死霊が触れられぬように呪文を体に書いてもらう。家族の元へと帰りたいと切り出した源十郎を若狭は引きとめようとするが、呪文のために触れることができない。源十郎は倒れ、気を失う。
----------------------
[続・第一部]朝に目を覚めると、朽木家の屋敷跡だという野原の中で目を覚ます。金も侍に奪われた源十郎は村へ戻るが、家々は荒らされ、家族の姿もなかった。源十郎は囲炉裏で飯の用意をする妻の宮木の幻を見て、自らの過ちを悟る。阿浜と村へ帰った藤兵衛が畑を、源十郎は焼物作りに取り組んでいるシーンで物語は終わる。
*
 以上のように『雨月物語』も人間の貪欲の罪の報いを描いて、前作『西鶴一代女』と対をなしています。ですが『西鶴一代女』はめまぐるしい展開とはいえ独立したエピソードの積み重ねだったのに較べ、『雨月物語』のプロットは緊密に練られた、エピソードのひとつひとつが有機的に組み合わされたものです。
 映画の前後を挟む第一部は『浅茅ケ宿』、中間部の第二部は『蛇性の淫』という構成も、映画全体の基本アイディアもすべて溝口監督本人の構想によるものであることが依田義賢氏の回想録『溝口健二の人と芸術』に証言されています。メジャーなプロダクション・システムの中で、これほど映画監督の個人的な構想が作品化されるのは当時も現在も難しいことで、溝口はスランプ三部作のように外から持ち込まれた企画では気乗りのしない作品になり、『一代女』や『雨月』のように溝口自身が企画した作品では傑作をものにする作家的資質の監督でした。
*
 溝口と田中絹代は激しく反目し牽引しあう仲だったそうですが、それは両者の資質が似ているからでもあり、直前の『お遊さま』『武蔵野夫人』1951は演出も演技も冴えない作品でしたが、『西鶴一代女』1952や今作では、田中絹代の美しさも映画全体の演出の切れも、光り輝くばかりに鮮やかです。『西鶴一代女』がヴェネツィア国際映画祭監督賞、『雨月物語』が同映画祭銀獅子賞(グランプリ)というのも順当な反響でしょう。
 この作品の田中絹代は夫を愛して尽くす妻ですが、意志の強く現実的で、戦下での夫の荒稼ぎをはっきりたしなめる女性です。それが夫への愛情に基づいていることもきちんと表現されているので、彼女の哀切さが染み入るのです。
 京マチ子は怨霊ですからこの作品では精気に富んだ演技は必ずしも必要とはされない。田中絹代との対照で描かれたキャラクターになっています。この第二部は、妹夫婦の別離と再会のエピソード以外は怪談ですので、ホラー映画的な楽しみ方もできます。また、朽木の方の怨霊に足留めされて帰国できないのが日本版リップ・ヴァン・ウィンクル(秋成は中国の古典説話から採ったそうですが)たる『浅茅ケ宿』にうまくつなげられています。
*
 巧みに張られた複線、綿密な構成、複雑さをうまく捌いた作品世界の広さの点で、『雨月物語』は『西鶴一代女』に勝って、シナリオライター映画作家にとっても教科書になり得る作品でしょう。多少は救いのある結末を映画会社に要求され、子供だけは生かし妹夫婦も地道な百姓生活に戻って平和な幸せを噛みしめる、という締めくくりに依田氏は不満を記していますが、作品の主眼はそれによって弱まりもぼやけたりもしておらず、田中絹代演ずる妻の非業の死への救いになっているので説得力もあるのです。
 贅沢を言えば、『西鶴一代女』は驚くべき大胆な構成による、破天荒な傑作でした。『雨月物語』も奇蹟的な傑作ですが、『一代女』のような破天荒さはありません。計算しつくして、作品の成功への確信を持って悠然と建てられた建築物のような傑作です。『一代女』が事件だとすれば『雨月』は企画というくらいの差があります。二作の間に優劣はつけられませんが、この性格の差があるからこそ『一代女』と『雨月』は連続して同じテーマを扱い、ともに成功を収めることができたといえるでしょう。世界映画のベスト10に『一代女』か『雨月』のどちらかは必ず入る作品ですが、どちらを採るかでベスト10全体が変わってしまうような、それほどの作品です。