人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

衣笠貞之助『狂つた一頁』(新感覚派映画聯盟1926)

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『狂つた一頁』A Page of Madness(現行版59分・全/サウンド版)
https://www.youtube.com/watch?v=0B1QqrFbHvo&feature=youtube_gdata_player
[スタッフ]
製作・監督:衣笠貞之助
原作:川端康成
脚色:川端康成衣笠貞之助、犬塚稔、沢田晩紅
撮影:杉山公平
撮影補助:円谷英一
配光(照明):内田昌夫
舞台装置(美術):林華作、尾崎千葉
タイトル(字幕):武田清
監督補助:小石栄一、大杉正巳
現像主任:阿部茂正
[キャスト]
小使:井上正夫
妻:中川芳江
娘:飯島綾子
青年:根本弘
医師:関操
狂人A,B,C:高勢実、高松恭助、坪井哲
踊り子:南栄
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 小津安二郎作品のご紹介も次回からは戦後作品になる。少し趣向を変えて、気分を切り替えてから続きを書くつもりでいます。で、せっかくだから日本映画史上に名高い『狂つた一頁』を見直してみた。今はサイト上で手軽にこんな作品まで観られるのだから、古典的作品一本観るのでも常に網を張って特殊な上映会場まで出かけていかなければならなかった四半世紀前とは大違いだ。でも苦労してやっと観られたからこその感激があの頃にはあり、四半世紀前にも観る機会がほとんどなく今でも観る機会がほとんどない名作はどっさりある。『狂つた一頁』はなどはサイト上にアップされているだけ幸運な作品だろう。
 この作品は現在では世界的に実験的サイレント映画の傑作と評価が高く、2008年には『狂つた一頁』を中心に日本の1920年サイレント映画の実験を考察した研究書も刊行されている。諸外国語版ウィキペディアにもこの作品の詳細項目があるが、日本語版は英語版ウィキペディアの簡略な翻訳版で、評価も諸外国の方が高まっている。映像ソフト自体、諸外国では発売されているのに日本では発売されていない。それには理由があると思われるが、ウィキペディアから引用しながらご紹介します。

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「衣笠(監督)が横光利一川端康成新感覚派の作家と結成した新感覚派映画聯盟と、衣笠映画聯盟で製作した作品で、無字幕のサイレント映画として公開された[注釈 1]。激しいフラッシュバックや多重露光などの技法を駆使して斬新な映像表現を試み、日本初のアヴァンギャルド映画といわれた。
[注釈1] 映像の純粋性を保つため、横光が無字幕で公開するように主張した。また、題名も当初は『狂へる一頁』だったが、横光の意見で『狂つた一頁』と変更された。」
 無字幕は思い切った試みだが、『狂つた一頁』はドイツの表現主義映画、特に『カリガリ博士』(ロベルト・ヴィーネ、1919)と『最後の人』(フリードリヒ・ムルナウ、1925)の影響なくしてはあり得ない作品で、『最後の人』のキャラクターたちを『カリガリ博士』のシチュエーションで描く、というのがアイディアの根本をなしている。日本でもこの両作は公開当時からセンセーショナルな話題を呼んだ作品で、特に文学者受けが良かった芸術映画だった。ではウィキペディアからあらすじを引用してみよう。

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[あらすじ]
「元船員だった初老の男は、自分の虐待のせいで精神に異常をきたした妻を見守るために、妻が入院している精神病院に小間使いとして働いている。ある日、男の娘が結婚の報告を母にするために病院を訪れ、父親が小間使いをしていることを知る。娘の結婚を知った男は、縁日の福引きで一等賞の箪笥を引き当てる幻想を見る。男は妻を病院から逃がさせようとするが、錯乱した男は病院の医師や狂人を殺す幻想を見る。今度は男は狂人の顔に次々と能面を被せていく幻想を見る。」
 このあらすじを読んでもどんな映画か理解できないと思うが、あらすじ(というより人物設定)を知っておくのは鑑賞の助けになる。1926年の観客には一目瞭然に理解できたのだろうが、現代の観客にはこのあらすじに書いてある設定が映像だけではすぐにわからないからだ。「元船員、虐待のせいで精神に異常をきたした妻を見守るために病院の小間使いとして働く男」というのも、結婚のために母を訪ねてきた娘、というのも、あらかじめ言語情報として与えられていればなるほど、それに沿った映像描写があるのがわかる。だが『狂つた一頁』は冒頭のクレジット・タイトル以外一切無字幕のドラマなので、このあらすじ以外にも解釈があり得る。解釈の多様性に具体性を持たせるためにも、ある程度は字幕を入れた方が効果的だったのではないか。次はこの作品が製作され、公開に至るまでの解説から引く。

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[製作・公開]
 製作前史は以下のようになるらしい。ちなみに衣笠貞之助は歌舞伎の女形出身の俳優から映画監督になった人だった。
「1925年(大正14年)、マキノ省三の元で映画製作を行っていた衣笠貞之助は、マキノプロ傘下の聯合映画芸術家協会で『月形半平太』を製作して大ヒットさせた。次に衣笠は同協会で横光利一原作の『日輪』を製作したが、完成後に右翼団体が衣笠と内務省の検閲担当者らを不敬罪で告訴するという騒動が起き、上映も中止されてしまった。」
(筆者注・横光利一『日輪』は邪馬台国卑弥呼をヒロインにした空想的歴史ロマンスで、それが右翼団体からの不敬罪告訴の対象になり得たのがこの時代だった。)
「翌1926年(大正15年)、満30歳を迎えた衣笠は、誰からも掣肘を受けず自由に思いのままの映画を作ろうと決意し、『日輪』の製作で知り合った横光利一に映画製作の相談をするべく、葉山森戸海岸の横光邸を訪ねた。4月2日、「営利を度外視して良き芸術映画を製作したい」という衣笠の相談に応じた横光は、『文藝時代』の同人である新感覚派川端康成片岡鉄兵岸田国士、池谷信三郎に声をかけ、ここに新感覚派映画聯盟[注釈2]が結成された。
[注釈2]衣笠の自伝『わが映画の青春 日本映画史の一側面』では、新感覚派映画聯盟の名は「報知新聞がこの映画製作をスクープした時に、新感覚派にちなんで勝手に命名したものであり、これがそのまま正式なプロダクション名となった」と書かれている。」

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「衣笠が始め構想していたストーリーは老人とサーカス一座の話で、ファーストシーンは「雨風の激しい夜、一人の老人がサーカス小屋にたどりつく、天幕が嵐ではためいて音をたてる。激しい雨音がする。そして老人は、人影のない小屋の中へ入ってゆく…」というものだった。衣笠は自宅の地下室に現像場を作り、近所の茶畑を借りて、そこに1ヶ月間借り切った巡業のサーカス一座の天幕を張り、それをステージ代わりにして撮影をしようと計画していたが、川端、片岡の2人と烏森の旅館でシナリオ内容を話し合う内、松沢病院を実際に見学してきた衣笠の見聞を基に、精神病院を舞台としたプロットが構想された。」
 冒頭シーンに限らずこの映画で多用されているのは二重、時には三重にもなるオーヴァーラップだが、当時はオプティカル処理による合成映像ではなく撮影したフィルムに二重・三重撮影する手法でオーヴァーラップ映像が作られていた。また、鏡やガラスを用いたり、撮影スピードや逆回転、反転、激しいパンニング(上下・左右へのカメラの振り)など思いつくかぎりのトリック撮影が試されている。ドイツの表現主義映画では特種な映像技術は作品内容と見合ったものだったが、『狂つた一頁』は映像の実験と技法の移入そのものが目的化している、という違いはあるだろう。
 先に指摘した『カリガリ博士』と『最後の人』からの影響は、精神病院を舞台にしたのは『カリガリ博士』からで、松沢病院斎藤茂吉が院長だった東京でも屈指の精神科単科の大病院だった。『最後の人』は門番の老人が老齢を理由にクビになり、その老人の主観的ショットと客観的ショットの対照で老人の悲しみと苦しみを描いており、『狂つた一頁』も大半は主人公の老用務員の主観的ショットによる精神病院内の様相だといえる。ただし、『カリガリ博士』や『最後の人』の明解さと較べて『狂つた一頁』は良かれ悪しかれわかりづらい。さらに製作過程を追ってみよう。

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「また衣笠は独立プロダクションの衣笠映画聯盟を設立して本作の製作を行い、犬塚稔の紹介で会った松竹キネマの白井信太郎から松竹下加茂撮影所の使用許可と資金援助をとりつけ、同年5月5日から同撮影所で撮影を開始した。シナリオは撮影開始当日までに完成せず、撮影と同時進行で川端、衣笠、犬塚、沢田晩紅の4人がメモ書きでアイデアを出し合いながら撮影された。シナリオは5月末の撮影終了後に4人がメモを持ち寄り川端が脚本としてまとめ、6月15日の締切日ぎりぎりに入稿させ、翌月創刊の『映画時代』にシナリオが掲載された。」
「主演の井上正夫は衣笠の映画製作に共鳴して、本郷座での公演を断って無償で出演した。また、老け役を演じるために自ら額の毛を抜いて演じたという。ほかに中川芳江、高勢実、関操、高松恭助らが出演し、以上の4人は後の衣笠映画聯盟の時代劇映画で活躍することとなる。スタッフには、助監督に小石栄一が就き、後に特撮監督として名を馳せる円谷英二(当時:円谷英一)が助手(チーフキャメラマン)として参加している。
(スタッフ・クレジットには現像担当者の記載があるのも注目。当時は映画フィルムの現像は手作業で行われていたのだ。)
「完成後、衣笠は封切り交渉のため単身上京するが、料金の点で引き受ける映画館が現れず、完成から4ヶ月後にようやく1週間1500円の料金で洋画専門の武蔵野館(現在の新宿武蔵野館)が引き受け、9月24日に同館の主任弁士である徳川夢声の解説で封切られた。評価は様々だが、岩崎昶は「日本で生まれた最初の素晴らしい映画だ、と私は確信を持って断言する。そしてまた、日本で作られた、最初の世界的映画だ」と絶賛、同年度のキネマ旬報ベストテンでも第4位にランクインされている。しかし、興行的には惨敗し、衣笠は多額の借金を返済するため松竹で時代劇映画を製作することとなった。」

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[フィルムの発見と復元]
「1950年(昭和25年)、松竹下加茂撮影所のフィルム倉庫で発生した火災で多くの貴重なフィルムが焼失、『狂つた一頁』のフィルムもその犠牲となり、プリント・ネガフィルムともに現存しない作品とされていた。しかし、それから21年後の1971年(昭和46年)、衣笠の自宅の蔵にしまってあった米櫃の中から偶然ネガフィルムが発見され、衣笠自ら再編集したニュー・サウンド版(59分に短縮)を作り、1975年(昭和50年)1月にアメリカでニュー・ライン・シネマの配給で公開された。同年には日本の岩波ホールで49年ぶりに再公開された。」
 なのに諸外国ではディスク化されながら『狂つた一頁』の日本盤ディスクはリリースされていない。やろうと思えば海外盤ディスクからの盤起こしで廉価版DVDにしても、パブリック・ドメイン作品として発売は可能なのだ。上掲の画像は頭脳警察による2010年上映時のサウンドトラック・アルバムだが、サイレント映画の新サントラが発売されて肝心の映画は未DVD化というのではあんまりだろう。サイレント映画への新曲サウンドトラック発売という例は他にも多数あるが(アール・ゾイの『ノスフェラトゥ』、マイケル・ナイマンの『カメラを持った男』、ビル・フリゼールの『キートンの西部成金』など)、本国でもディスク化されないというのは人権的配慮の過剰だろうと思われる。『怪物団(フリークス)』(トッド・ブラウニング、1932)は現在でも各社からDVD発売されているが、外国だから、とか元々ああいう題材だから、と見逃されているのだろう。
 要するに『狂つた一頁』は、当時の精神病院の施設を忠実に再現しているにしても、今日では精神障害者への偏見と誤解を助長する表現に満ちているのだ。薬物療法による治療確立以前の精神疾患への対象法は、電気ショックもあったが20年代では隔離と拘束しかなかった。状態が安定してきたらせいぜい座禅や強制的な肉体労働と監禁で消耗させて鎮静化させる。『狂つた一頁』では入院病棟内はサバトの宴のように描かれている。海外では精神治療の歴史的知識はともかく、あくまでもフィクションとして鑑賞可能だろうが、日本の観客にとっては映画本編と同じくらいの長さを使った精神医学の学習ドキュメンタリーの予備視聴が必要だろう。
 そういうわけで『狂つた一頁』はおそらく今後も国内盤ディスクの発売はないだろう。面白い映画なのに特殊な題材なのが仇になった。頭脳警察サウンドトラック・アルバムのジャケットがあながち的外れでもないような、ほとんど40年早かったサイケデリック映画なのだ。国立近代美術館フィルムセンターではたまに上映されることもあるが、本来は現代の精神医学とフィクションとしての『狂つた一頁』をきちんと区別できる知識の普及がおぼつかないと思われる方に問題があるだろう。