人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

金魚屋と囈語(うわごと)

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 あまり注意して通らない道で、金魚、と染めぬいたのぼりを見かけた。金魚屋ができたのだろうか?以前住んでいた町で、夜中に駅前の仲見世商店街が全焼して2キロほど離れたアパートでも爆発音が聞こえて凄かったが、いかにも焼け跡闇市の風情を残したその木造の長家は、二階は住居だろうし大丈夫だったのだろうか。その仲見世には金魚屋もあり、金魚屋の大爆発を思うと壮絶な気がした。焼け跡にはピカピカの高層ビルが建った。そういうものだ。あの町では、次女が生まれたばかりの頃に、次女の生まれた国立の総合病院で廃屋になっていた結核病棟が夜中に大爆発したこともあった。徒歩15分の距離だったがマンションまでススが飛んできて、9.11テロ映像の記憶の生々しかった頃だったから怖かった。
 さて、のぼりには「奥だよ」ともあった。表通りから小路を入ったあたりにあるらしい。

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 金魚というと、萩原朔太郎(1886~1942)と室生犀星(1889~1962)の初期のモダンな詩には金魚がよく出てきて、朔太郎・犀星と三人で同人誌『卓上噴水』『感情』を組んでいた山村暮鳥(1884~1924)、また北原白秋主宰の文芸誌『朱樂(ざんぼあ)』で朔太郎・犀星とともに白秋門下の三羽烏と呼ばれた大手拓次(1887~1934)の詩にも金魚がよく出てくる。犀星などは晩年近くに少女の金魚との会話のみからなる長編小説『蜜のあはれ』1959があるほどだ。
 1915年(大正4年)12月に刊行された山村暮鳥第2詩集『聖三稜玻璃』の巻頭作品で、1行目から金魚が出てくる『囈語』は同年6月、白秋系の文芸誌『アルス』に発表されたものだが、西洋文学ではチューリッヒ・ダダが1915年から計画され翌16年にトリスタン・ツァラの『ダダ宣言』が発表、17年~19年までにはヨーロッパの主要都市にダダイズム文学運動が広まる。1922~23年頃からは比較的ダダの受容が遅かったパリからダダイストたちのシュルレアリスムへの転向が始まる。萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』が1917年で、第2詩集『青猫』が1923年、暮鳥の第3詩集『風は草木にささやいた』は1918年刊だったが、『聖三稜玻璃』への罵倒に近い悪評を受けて平易な文体と人道主義的な内容に変化していた(暮鳥の本職は、重篤結核で事実上の免職処分をされるまでプロテスタント系伝道師だった)。

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 故・塚本邦雄(歌人)は暮鳥の『囈語』を前川佐美雄「たつた一人の母狂はせし夕ぐれをきらきら光る山から飛べり」(歌集『大和』1940)、富澤赤黄男「爛々と虎の眼(まなこ)に降る落葉」(句集『天の狼』1941)とともに、この一編を残せば他を捨てて顧みないほどの不朽の作、と絶賛していた。『聖三稜玻璃』は詩集全体が突然変異的傑作(刊行100周年!)だが、明確な方法で突出しているのは『囈語』で、世界文学的にも特異点と言える詩なのに異論はない。

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『囈語』山村暮鳥

竊盜金魚
強盜喇叭
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
涜職天鵞絨(びらうど)
姦淫林檎
傷害雲雀(ひばり)
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。

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 さて、それらしき店を見つけると、鉄筋三階建てビルの二階がそうだった。看板からすると熱帯魚・海水魚観賞喫茶室なのか、販売もしているのかよくわからないお店だった。たぶん両方なのだろう。高級観賞魚屋だけでもお客は少ないし、喫茶店なら少しは特色を出したい。建物の一階は最近できた画廊で(近所に以前からあった画廊は昨年末、店を畳んでしまった)、画廊と金魚喫茶は経営者は同じなんじゃないかと思う。この画廊にも金魚喫茶にもまず入ることはなさそうだが、突然消えてなくなる可能性も多いにある。こうして日記がわりに書いておけば、いずれ続報を掲載できるかもしれない。