人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Sun Ra - Jazz By Sun Ra (Transition, 1957)

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Sun Ra - Jazz By Sun Ra (Transition, 1957) Full Album : https://youtu.be/flED_M5QWjc
Recorded at Universal Recording Studio, Chicago, July 12, 1956
Original released as "Jazz By Sun Ra" Transition TRLP J-10 (1957)
Re-released as "Sun Song" Delmark DL-411 (1967)
(Side A)
1. "Brainville" (Sun Ra) 4:29
2. "Call for all Demons" (Sun Ra) 4:30
3. "Transition" (Sun Ra) 3:40
4. "Possession" (Harry Revel) 5:00
5. "Street Named Hell" (Sun Ra) 3:55
(Side B)
1. "Lullaby for Realville" (Richard Evans) 4:40
2. "Future" (Sun Ra) 3:15
. "Swing a Little Taste" (Sun Ra) 4:25 (CD Bonus Track from V.A. "Jazz in Transition")
. "New Horizons" (Sun Ra) 3:05
5. "Fall off the Log" (Sun Ra) 4:00
6. "Sun Song" (Sun Ra) 3:40
[Musicians]
Sun Ra - Piano, Honer Electric Piano, Hammond B-3 organ, Percussion
Art Hoyle - Trumpet, Percussion
Dave Young - Trumpet, Percussion
Julian Priester - Trombone, Percussion
James Scales - Alto Sax
John Gilmore - Tenor sax, Percussion
Pat Patrick - Baritone Sax, Percussion
Richard Evans - Bass
Wilburn Green - Electric Bass, Percussion
Robert Barry - Drums
Jim Herndon - Tympani

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 (Delmark Re-released Edition "Sun Song" Front Cover)
 サン・ラは1914年生まれで1933年に初レコーディング、1993年の逝去まで生涯現役だったピアニスト/作曲家/バンドリーダーだった驚異的なジャズマンで、長い楽歴だけなら他にも長寿ミュージシャンはいるが、サン・ラの音楽は生涯変化・進展を続けていた。1914年生まれというとカウント・ベイシーより10歳年少、ベニー・グッドマンレスター・ヤングより5歳年少、スタン・ケントンより2歳年少、フランク・シナトラビリー・ホリデイより1歳年長、セロニアス・モンクディジー・ガレスピーより3歳年長、レニー・トリスターノより5歳年長、ジョン・ルイスチャーリー・パーカーより6歳年長、もっともよく比較されるチャールズ・ミンガスより8歳年長になる。
 要するにサン・ラは30年代のスウィング=ビッグバンド・ジャズの時代にキャリアを始め、ビッグバンド・ジャズの父と呼ばれたフレッチャー・ヘンダーソン(1897~1952)楽団の人気凋落期にヘンダーソンの助手に起用されて黎明期からのジャズ史に通暁し、シカゴのジャズ界でCD14枚分にも及ぶ裏方仕事("The Eternal Myth Revealed"Transparency, 2011にまとめられている)をこなしながらニューヨークでもなければロサンゼルスでもない、シカゴのジャズ界ならではの折衷的作風にたどり着いた。

 サン・ラはスタジオ・ミュージシャン、臨時編成のハウス・バンドとしてジャズばかりでなくブルース、R&B、ドゥワップからコメディ・ソングまで何でも作編曲し、ミュージシャンを仕切ってプロデュースした。サン・ラ自身はシカゴから動かなかったが、巡業に来たジャズマンやニューヨークやロサンゼルスに進出したがシカゴに戻ってきた若手プレイヤーからビバップと呼ばれるモダン・ジャズ運動が起こっていることは知っていた。第二次大戦勃発前にサン・ラは徴兵忌避罪で投獄され、刑期を務めていたので大戦中には徴兵されずに済んだが、40年代のビッグバンド・ジャズ全体の凋落をまともに食らい、もし5歳早く生まれていたらビッグバンド・リーダーに成り得た可能性はサン・ラの世代では不可能だった。
 偶然ロサンゼルスではチャールズ・ミンガスがレコーディングのみの臨時編成で自主制作のビッグバンド作品を制作し始めている(1945年~1949年)。既成ビッグバンドにはまだ需要があったので、東海岸ではカウント・ベイシー楽団とウッディ・ハーマン楽団、西海岸ではライオネル・ハンプトン楽団とスタン・ケントン楽団がビバップをビッグバンドに取り入れており、ミンガスはハンプトン楽団のベーシストだった。だがサン・ラは自分自身のレギュラー・バンドで録音もライヴ活動も行う機会を待ち、54年からニュー・サウンズ(Nu Sounds)名義のシングルをリリースし、56年2月に初めてル・サン・ラ&ヒズ・アーケストラ(Le Sun Ra & His Arkestra)名義の記念すべきシングル『サターン』『メディシン・フォー・ア・ナイトメア』を自主制作レーベル・サターン(土星=Saturn、またはEl Saturn)からリリースする。

 アラバマ州バーミンガム生まれの黒人青年ミュージシャン、ソニー・ブラウントが自分が実は土星人であると気づき、土星人としての本名は地球の言語に置き換えればル・ソニー=ル・ラーとなって、それでは呼びづらいからサン・ラでよい、と考えるようになったのは1936年~37年のことだった。ラーは古代エジプトで太陽神を指す尊称であり、ソニーの考えでは人類史上最高の文化は古代エジプトにあり、古代エジプト人こそは最初の黒人民族であって、その出生は土星人の末裔であるという神話がサン・ラの背景になった。ラー神が語源なら日本語表記ではサン・ラーとすべきかもしれないが、従来サン・ラとサン・ラーの2通りの表記が用いられており、無駄な長音は略すという方針でここではサン・ラで押し通しておく。
 サン・ラのレギュラー・バンドは結局7人~11人の中規模コンボを標準とすることになった。3人~6人の小規模コンボよりは大きく、16人以上のビッグバンドよりは小さい。ビバップ以降に主流になった小規模コンボに寄ったサウンドも出せれば、アレンジ次第ではビッグバンドに匹敵するサウンドも出せる。何よりビッグバンドの規模のレギュラー・バンドの運営は人数に見合った経費がかかるが、10人前後のバンドならなんとか維持できる。初期のミンガスが臨時編成ビッグバンドで失敗したのは多人数でしかも臨時編成では粗雑な演奏にしかならないことで、ミンガスも50年代半ば以降クインテットないしセクステット編成で綿密なリハーサルを重ねることでようやく成功作の時代に入ったが、それでもジャズ激戦区ニューヨークではレギュラー・バンドを維持できるほどのライヴ活動は難しく、準レギュラー・メンバーを次々組み合わせていくことで水準を維持していた。その点サン・ラはシカゴに留まることで安定した営業収入をバンド維持のために確保できた。

 サン・ラがニューヨークに進出するのは1961年のことで、オーネット・コールマンセシル・テイラーら新世代のジャズマンが認知されつつあった気運に乗ったものだが、サン・ラはオーネットやテイラーより15歳あまり年長だった。だがデビュー・アルバムの発表は新人たちとさほど変わらず、『ジャズ・バイ・サン・ラ』はサン・ラ42歳のファースト・アルバムだった。黒人ジャズマンの平均寿命は36歳、と真面目に言われていた頃の話で、サン・ラより年少で1956年にはもう逝去していたジャズマンを思うと死屍累々という表現がぴったりくる。ニューヨークに進出してきた時にはもう40代後半で、しかも作風はすでに尖鋭的なフリージャズだった。リーダーのサン・ラは旧世代のミュージシャンだが、メンバーたちはオーネットやテイラーと同世代だった。
 サン・ラのバンドは本格的な初シングル『サターン』の時からアーケストラ(Arkestra)は、ノアの箱船=宇宙船のイメージによるArkとオーケストラ(orchestra)の合成語なのは言うまでもない。サン・ラの音楽は土星文化に根ざして発祥した宇宙ジャズであり、生命の賛歌であり、地球人のレベルで聴くと前衛的に聴こえるのは仕方あるまい、とサン・ラは答えている。バンド全員の奇妙なコスチュームとパフォーマンス、宇宙人のリーダーに率いられて宇宙音楽を演奏するバンド、というサン・ラのアイディアは1955年にはすでに確立しており、直接間接にサン・ラのアイディアから影響された例は枚挙にいとまがない。

 処女作にすべてがあるというが、サン・ラの場合は『ジャズ・バイ・サン・ラ』はややあらたまったファースト・アルバムの観があり、発表順では次作になる『ジャズ・イン・シルエット』1959はサン・ラの代表曲が満載されているのを思うと、『ジャズ・バイ・サン・ラ』1956からニューヨーク進出第1作『ザ・フューチャリスティック・サウンズ・オブ・サン・ラ』1961までの間に録音されて1965年~68年まで一般発売されなかった(ライヴ会場販売や通信販売はされていたという)サターン・レーベルからのアルバム群を一覧にすると(サターン・レーベル以外のものは特記、○は録音後すぐに一般発売されたもの)、
○『ジャズ・バイ・サン・ラ(サン・ソング)』(1956年録音、57年トランジション発売、67年デルマーク改題発売)
・『スーパーソニック・ジャズ』(1956年録音)
・『サウンド・オブ・ジョイ』(1956年録音、68年デルマーク発売)
・『サン・ラ・アンド・ヒズ・ソーラー・アーケストラ・ヴィジット・プラネット・アース』(1956-58年録音)
・『ザ・ニュービアンズ・オブ・プルートニア(ザ・レディ・ウィズ・ザ・ゴールデン・ストッキングス)』(1958-59年録音)
○『ジャズ・イン・シルエット』(1959年録音・同年発売)
・『サウンド・サン・プレジャー!!』(1959年録音)
・『インターステラー・ロウ・ウェイズ(ロケット・ナンバー・ナイン)』(1959-60年録音)
・『フェイト・イン・ア・プレザント・ムード』(1960年録音)
・『ホリデイ・フォー・ソウル・ダンス』(1960年録音)
・『エンジェルズ・アンド・デーモンズ』(1956-60年録音)
・『ウィ・トラヴェル・ザ・スペース・ウェイズ』(1956-61年録音)
○『ザ・フューチャリスティック・サウンズ・オブ・サン・ラ(ウィ・アー・イン・フューチャー)』(1961年録音・同年サヴォイ発売)

 と、1956年~1961年の間に14枚のアルバムを録音しながらすぐに一般発売されたのが3枚しかない。他の11枚の大半は1965年~66年に一斉にサターンから正式な一般発売盤がリリースされたが、重要な『ジャズ・バイ・サン・ラ』改め『サン・ソング』と『サウンド・オブ・ジョイ』の2枚のデルマーク盤は発売が遅れて67年・68年になっている。『サウンド・オブ・ジョイ』と『ヴィジット・プラネット・アース』からの再演と代表曲を選りすぐったものが『ジャズ・イン・シルエット』なのもこの2枚が出揃うまでわからなかった。『サウンド・サン・プレジャー!!』に至っては1970年まで一般発売されなかった。
 サターン・レーベルからのアルバムは多くの曲が重複するが、バンド自身による自主制作で直接販売用のレコードだった性格から、楽曲の再演頻度はライヴ用レパートリーとして好評だったと推測できる。『ジャズ・バイ・サン・ラ(サン・ソング)』にその後の再演曲がなく、『サウンド・オブ・ジョイ』『ヴィジット・プラネット・アース』『ジャズ・イン・シルエット』に以後も取り上げられる再演曲が多いのを見ると、『サウンド・オブ・ジョイ』からがサン・ラの本音と思えてくる。