Eric Dolphy - Iron Man (Douglas International, 1968) Full Album : https://youtu.be/FZQj6uBPK6c
Recorded in NYC, July 1, 1963(A3,B2), NYC, July 3, 1963(A1,A2,B1)
Released Douglas SD 755, 1968
(Side A)
1. Iron Man - 9:07
2. Mandrake - 4:50
3. Come Sunday (D.Ellington) - 6:24
(Side B)
1. Burning Spear - 11:49
2. Ode To Charlie Parker (J.Byard) - 8:05
All songs composed by Eric Dolphy except as noted.
[Personnel]
Eric Dolphy - alto saxophone (A1,A2), bass clarinet (A3,B1), flute (B2)
Woody Shaw - trumpet (A1,A2,B1)
Prince Lasha - flute (A1)
Clifford Jordan - soprano saxophone (A1)
Sonny Simmons - alto saxophone (A1)
Bobby Hutcherson - vibraphone (A1,A2,B1)
Richard Davis - bass (A1,A2,A3,B1,B2)
Eddie Khan - bass (A1,A2,B1)
J.C. Moses - drums (A1,A2,B1)
エリック・ドルフィー最後の公式スタジオ録音アルバムはブルー・ノート・レーベル移籍第1弾になる『アウト・トゥ・ランチ』で、1964年2月25日に録音された。フレディ・ハバード(トランペット)、ボビー・ハッチャーソン(ヴィブラフォン)、リチャード・デイヴィス(ベース)、トニー・ウィリアムズ(ドラムス)というピアノレス編成のベスト・メンバーで、ウィリアムズは2か月半前に18歳になったばかりだった。ブルー・ノートでは録音から発売までに最低半年のポスト・プロダクションとプロモーション期間をかける。早くても発売は夏になる予定で、ドルフィーは4月のチャールズ・ミンガス・セクステットのヨーロッパ・ツアーで渡欧し、ツアー終了後も帰国後の仕事のスケジュールがないので単身ヨーロッパで現地ジャズマンとライヴ・セッションしてなんとか活動を続けていた。中ではピアノのミッシャ・メンゲルベルク・トリオをバックに公開収録されたラジオ用ライヴ『ラスト・デイト』(64年6月2日収録)がアルバム化されて晩年のライヴの名盤と名高い。ドルフィーは1928年6月20日生まれだが、持病の糖尿病が悪化して巡業先のベルリンであっけなく急逝したのは1964年6月27日、36歳の誕生日から一週間後のことだった。
そして結果的には没後発表になってしまった『アウト・トゥ・ランチ』は、発表されるやたちまち1964年のジャズ界で最高のアヴァンギャルド・ジャズと大反響を呼び、ジャズ雑誌は訃報とともにジャズの殿堂入りアーティストにドルフィーをノミネートし、それまで所属した各レーベルからは未発表アルバムのリリース・ラッシュが高い評価とともに進められ、つい半年前にはアメリカ国内ではライヴの仕事もなかったドルフィーは急逝によって初めて一流ミュージシャンと認められることになった。
歴史に「もし」はあり得ないが、もしドルフィーの健康状態(糖尿病の悪化は、明らかに単身巡業による心身ストレスと過労によるものだった)が64年秋まで持てば、『アウト・トゥ・ランチ』のヒットと好条件の仕事でもっと長いミュージシャン生命をまっとうできたはずだった。ミンガスのツアー終了後もドルフィーが単身巡業を選んだのは、当時ドルフィーの婚約者がパリでバレエ留学していたのもあった。彼女は1990年代制作のドルフィーの伝記ドキュメンタリーにもインタビューで登場するが、すでに現役は退いてバレエ教室を運営しており、ドレッシング・ルームにはドルフィーと一緒に撮った写真を飾って未婚を貫いている、若々しくチャーミングな初老の女性だった。伝説的な婚約者が魅力的な女性だったのでドルフィーのために嬉しくなるような気分だった。
この連載ではエリック・ドルフィーの公式アルバムを全作品追ってきたので、本来ならば最終回は『アウト・トゥ・ランチ』でなければおかしい。だが『アウト・トゥ・ランチ』はユーチューブでも全曲利用不可能になっていて(ブルー・ノート作品は権利管理がうるさいのだ)、『アウト・トゥ・ランチ』の前作に当たる『カンヴァセーションズ』&『アイアン・マン』セッション(1963年7月録音)でシメなければならないのだった。『カンヴァセーションズ』収録曲は前回ご紹介したが、発売順でも、選曲面でも『アウト・トゥ・ランチ』寸前の作風を示すのは、都合の良いことに後発された『アイアン・マン』の方だろう。 (Original Douglas "Iron Man" LP Side A Label)
ポピュラー音楽一般のレコードは発売日を基準として考えられるのが普通だが、クラシック音楽では録音日がそのヴァージョンを記録する基準になる。ジャズは本来ポピュラー音楽だが、ダンス音楽としてポピュラー音楽に数えられていた(50年代にR&Bやロックン・ロールに取って代わられるまで続いた)系列と、クラシック音楽同様鑑賞用音楽として録音日を重視する1940年代の創始期のモダン・ジャズ以降の系列の両方の見方があった。だからモダン・ジャズ以降ではジャズマンのディスコグラフィーは発売順ではなく録音順に整理されることが多く、むしろ発売順を重視しないディスコグラフィーの方が多い。ドルフィーのディスコグラフィーでも1963年『カンヴァセーションズ』『アイアン・マン』、1964年『アウト・トゥ・ランチ』『ラスト・デイト』と平然と並べられているが、『ラスト・デイト』は1964年のドルフィー没後すぐにオランダ盤が出ているがアメリカ盤は1968年になってようやく出た。『カンヴァセーションズ』は発売後1年もしないでドルフィーが急死したので63年のフレッド・マイルス盤は短期間小部数しか出回らず、新装改題版のヴィー・ジェイ盤『メモリアル・アルバム』1964が取って代わった。
だから『アイアン・マン』も漠然と1964年か65年の発売かと思いきや、アラン・ダグラス・プロダクションが『アイアン・マン』を発売したのは1968年のことだった。弁護士出身のダグラス(法に詳しいのが欧米ではビジネスマンの条件)はサム・クックのマネジメントからR&B/ソウル界で儲ける手腕を磨き、60年代半ばからはアンドリュー・オールダムがマネジメントするローリング・ストーンズの専任会計士となり、ビートルズ解散ではミック・ジャガーの仲介でジョン・レノンの顧問となり(ジョンの一時引退までビジネス顧問の関係は続いた)、ジミ・ヘンドリックスが急逝すると未発表録音の発売権を買い占め、90年代後半に遺族が買い取るまで編集アルバムを乱発し、確かに貴重な録音ばかりだったが一貫性のない編集方針から混乱を招いた。『カンヴァセーションズ』『アイアン・マン』制作は黒人ソウル・アーティストを手がけていた時期とストーンズの専任会計士になった時期の間に当たり、『アイアン・マン』をリリースしたのはストーンズ「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」と『ベガーズ・バンケット』でブライアン・ジョーンズ脱落、ビートルズは『ホワイト・アルバム』でバンドとしてついに解体を始めた時期で、『アイアン・マン』のみすぼらしいジャケットはほとんど売る気がないのがわかる。もっとも現役人気アーティスト並みに売れたジミの未発表曲アルバムでも、アラン・ダグラスが編集したアルバムは適当なジャケットばかりだった。
経歴から見てもダグラスがドルフィーのプロデュースを買って出たとは思えないから、レーベル契約のないドルフィーがなんとかセルフ・プロデュースで制作したアルバム2枚分のマスターを二束三文で買い取ったのが『カンヴァセーションズ』と『アイアン・マン』だったに違いない。『カンヴァセーションズ』はフレッド・マイルスなんていう個人レーベルの自主制作盤で出ている。ところが急逝するやにわかに話題のジャズマンになったので、そのままフレッド・マイルス盤のプレスと配給を委託していたヴィー・ジェイに版権を貸し出した。だったら残りの『アイアン・マン』も出せよ、と思うがサム・クックは絶頂期で、しかも1964年12月に逗留先のモーテルで不審者と誤認され支配人に射殺されてしまう。マネジメントのダグラスはサム・クック事件の後始末と次の金のなる木探しでドルフィーの未発表アルバムどころではなかったと思われる。そしてストーンズという大きなクライアントで大成功を収め(さらにビートルズの解散まで請け負うことが決まり)、1967年ジャズ界最大の事件はジョン・コルトレーンの急逝で、そういえばコルトレーンのメンバーだったジャズマンの未発表アルバムのマスターテープがまだ1枚残ってたな、というような流れでようやく『アイアン・マン』が発売されたのだろう。しかもダグラス・インターナショナルという自主レーベルから細々とリリースされたのだった。通販とマニア向けの店からの直接注文くらいしか流通しなかったのは想像に難くない。ストーンズとビートルズのマネジメントを手がける辣腕芸能手配師にとっては、一介のジャズマンにすぎないドルフィーのアルバムなどなんぼのものだろうか。
……と、アルバムの内容にはほとんど触れず、アルバム『アイアン・マン』がたどった運命ばかりを追ってみた。『アイアン・マン』はメンバーもコンセプトもチャーリー・パーカーの愛弟子ジャッキー・マクリーン(アルトサックス)の画期的アルバム『ワン・ステップ・ビヨンド』(ブルー・ノート、1963年4月録音)と双生児的アルバムと言ってよく、マクリーンのアルバムはマクリーン、グラシャン・モンカーIII世(トロンボーン)、ハッチャーソン(ヴィブラフォン)、カーン(ベース)、ウィリアムズ(ドラムス)という編成だった。ドルフィーと共通するグロテスクなユーモア感覚はセロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス由来のものだが、マクリーンとドルフィーはミンガス・バンドの先輩後輩でもあり、アルバム全4曲中2曲を書いたモンカーの作風はさらにモンク的なものだった。この時期のドルフィーのライヴは長年あまり音質・演奏ともに良くない『ライヴ・イン・ニューヨーク』(62年10月録音)しか出ていなかったが、1999年にハービー・ハンコック(ピアノ)、カーン(ベース)、モーゼズ(ドラムス)の4人編成の大学講堂ライヴ『イリノイ・コンサート』(ブルー・ノート、63年3月録音)が発掘されると『イン・ヨーロッパ』以上、『アット・ザ・ファイヴ・スポット』と同等のライヴと高い評価を受けた。すでに『アイアン・マン』タイトル曲もやっており、63年5月にマイルス・デイヴィスがハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズをメンバーにしなければ(この3人はドルフィーの加入もマイルスに進言したが、マイルスは一蹴した)、人脈的に『アイアン・マン』『カンヴァセーションズ』にもハンコック、カーター、トニーが参加していた可能性もあったのだ。しかし結果的に残されたこの2作、ことに『アイアン・マン』もドルフィーの最高の傑作のひとつに数えられるのはA1~A2と冒頭の2曲を聴くだけでも強烈で、オリジナル3曲は名曲だしエリントンのA3、『ファー・クライ』でもやったバイヤードのB2の2曲のベースとのデュオもいい。オリジナル3は曲名もかっこいい。プロレスラーの入場テーマに使いたいくらいかっこいい。