人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

チャールズ・ミンガス Charles Mingus - コーネル1964 Cornell 1964 (Blue Note, 2007)

チャールズ・ミンガスセクステット・ウィズ・エリック・ドルフィー Charles Mingus Sextet with Eric Dolphy - コーネル1964 Cornell 1964 (Blue Note, 2007) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kMfFHfJavE1tCllnPWgs5rCkAg8Bg4EfI

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Recorded at Cornell University in Ithaca, New York on March 18, 1964
Released by The Blue Note Label Group 0946 3 92218 2 8, July 17, 2007
Produced by Michael Cuscuna, Sue Mingus
All pieces composed by Charles Mingus except as noted.
(CD 1)
D1-1. Opening - 0:17
D1-2. Atfw You (Jaki Byard) - 4:26
D1-3. Sophisticated Lady (Ellington, Mills, Parish) - 4:23
D1-4. Fables of Faubus - 29:42
D1-5. Orange Was the Colour of Her Dress, Then Blue Silk - 15:05
D1-6. Take the 'A' Train (Billy Strayhorn) - 17:26
(CD 2)
D2-1. Meditations - 31:23
D2-2. So Long Eric - 15:33
D2-3. When Irish Eyes Are Smiling (Chauncey Olcott, George Graff Jr., Ernest Ball) - 6:07
D2-4. Jitterbug Waltz (Fats Waller) - 9:59

[ Charles Mingus Sextet ]

Charles Mingus - bass
Johnny Coles - trumpet
Eric Dolphy - alto saxophone, bass clarinet, flute
Clifford Jordan - tenor saxophone
Jaki Byard - piano
Dannie Richmond - drums

 チャールズ・ミンガス(1922-1979)は晩年の1970年代までライヴ活動の場に恵まれなかったバンドリーダーで、'60年代末まではほとんどレコード制作だけで乗り切ったジャズマンでした。ミンガスはトップクラスのベーシスト、アレンジャーの力量のみならずデューク・エリントンセロニアス・モンクと肩を並べる作曲家でしたので革新的なアルバムを次々制作し、批評家には絶賛されアルバム売り上げも高く、ミンガスのアルバムに参加するのはジャズマンたちにとって最高の栄誉でしたが、ジャズ・クラブの経営者たちには難解なジャズを演る気難しいジャズマンとされており、ミンガスが客に演奏中の会話禁止・飲食禁止を呼びかけたのが話題になったのが輪をかけてジャズ・クラブのブッキングから締め出しをくらうことになりました。同じ理由でライヴ活動を困窮したジャズマンにレニー・トリスターノ(ピアノ、1919-1978)がおり、一時は辛うじて理解のある学生向けのカフェでトリスターノとミンガスのデュオのライヴを行っていた(録音未発見)という恐ろしい逸話もあります。ミンガスがレギュラー・メンバーのバンドを持てるようになったのは'70年代を迎えてからでした。
 ミンガスのアルバムは'50年代から晩年まで40作あまりありますが、キャリアが長くスタジオ・アルバムも多い大物ミュージシャンなのにライヴ盤が偏った時期しかない、発掘ライヴも少ないのはそのせいで、例外的に1964年3月~6月の足かけ4か月だけこのメンバーだった時期はヨーロッパ・ツアーがあり、渡欧に前後して大学やコンサート会場(ジャズ・クラブではなく)で行ったライヴは主催者が記録録音していたため、短期間にも関わらずミンガス自身が主催した公式ライヴ、発掘ライヴを合わせて10作あまりのライヴ盤が残されています。このヨーロッパ・ツアーは途中でジョニー・コールズ(トランペット、1926-1997)が急病で帰国、ツアー終了後には不況のジャズ界で帰国後の仕事先の見込みがないジャッキー・バイヤード(ピアノ、1922-1999)とエリック・ドルフィー(アルトサックス/バスクラリネット/フルート、1928-1964)がそれぞれ単身ヨーロッパ巡業のため残留し、無事に帰国したのはミンガス、ダニー・リッチモンド(ドラムス、1931-1988)、クリフォード・ジョーダン(テナーサックス、1931-1993)の3人だけという壮絶なものでした。帰国したミンガスは現地採用のジョン・ハンディー(アルトサックス)、ジェーン・ゲッツ(ピアノ)を加えて西海岸ツアーを行いますが、渡欧中から健康を害していたドルフィーは6月末にベルリンで糖尿病の悪化のため急逝してしまいます。ドルフィーが晩年2年に行ったドルフィー自身のアルバム、参加したアルバムはすべて没後発表になりました。
 1964年はエリック・ドルフィーの急死がアメリカのジャズの転換点になったとも言える年で、周囲の薦めにも関わらずドルフィーのバンド参加を拒んだマイルス・デイヴィスが『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』『フォア&モア』を録音し、オーネット・コールマンセシル・テイラー、そしてドルフィーを先行とするフリー・ジャズアヴァンギャルド・ジャズの第二世代に当たるアルバート・アイラーがニューヨーク・デビューし、ドルフィーの親友だったジョン・コルトレーンドルフィーの死とアイラーの出現のショックによって『クレッセント』から『至上の愛』に作風を転換した年です。また同年がビートルズの全米・世界的ブレイクの年なのは言うまでもなく、当時ポピュラー音楽市場はシングル中心で、ジャズのアルバム売り上げは全米で初回プレス300~500枚、1万を越えればヒット作、5万枚で特大ヒットでした。ジャズマンはクラブ出演が主収入で、しかもロックの台頭以来不況に突入していたので、むしろヨーロッパのリスナーに需要があったのです。また皮肉にもビートルズ以降のロック・バンドはモダン・ジャズ以降の小編成ジャズからバンド・コンセプトを借りたものでした。ジャズ自体が黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンのアイディアのキャッチボールで成り立っていましたが、ロックはジャズやリズム&ブルースとのキャッチボールから発展したジャンルで、マイルス、ミンガス、コルトレーンらの革新的ジャズは数年遅れでロックに反映されることになります。

 ミンガス、そしてエリック・ドルフィーにとっても没後発掘ライヴのうちの最新作、しかも絶頂期の2時間以上におよぶコンサートの全貌をとらえた『コーネル1964』はライヴの43年後にリスナーに届いた驚異的な音源で、発売後即'60年代ジャズの古典的アルバムとなりました。この実質たった3か月だけのセクステットはミンガスの歴代バンドメンバーでも最強の顔ぶれで、ドルフィーを始め全員がリーダーの力量を持つジャズマンたちです。ミンガスのリーダー、作曲家、アレンジャー、ベーシストとしての創造力も最高潮だった時期で、メンバーもミンガスのアイディアを倍以上にして返しています。コルトレーンやオーネットを圧倒したドルフィーを筆頭にここでのコールズはマイルスやアート・ファーマーに、ジョーダンはソニー・ロリンズに、バイヤードはセロニアス・モンクセシル・テイラーに、リッチモンドマックス・ローチに迫る潜在力を発揮しています。ドルフィーのフルートをフィーチャーしたファッツ・ウォーラーの古典曲「ジッターバグ・ワルツ」は前年の'63年にドルフィー自身が当時未発表だったアルバム(のちにジョン・レノンジミ・ヘンドリックスのマネジメントを手がけるアラン・ダグラスの制作)でウッディ・ショウ、ボビー・ハッチャーソンら新世代の若手ジャズマンと録音していたナンバーで、ミンガスの代表曲「フォーバス知事の寓話」やミンガスの最新曲「オレンジ色のドレス」「メディテイションズ(瞑想)」、ツアー後脱退が決定していたドルフィーに捧げられたブルース「ソー・ロング・エリック」と違和感なく、しかもドルフィー自身のヴァージョンを踏襲したアレンジで、ジャズの歴史を横断したようなキャリアを持つミンガス、バイヤードによるエリントン楽団のテーマ曲「A列車で行こう」とともに時代を超越しています。
 このバンドはミンガスにとっても歴代最強メンバーだっただけではなく、ドルフィーにとってもかつてのミンガスのピアノレス・カルテット、ジョン・コルトレーンクインテット、またドルフィー自身のブッカー・リトル(トランペット)との双頭リーダー・クインテット以来の顔ぶれになりました。ジャッキー・バイヤードとはドルフィー自身のアルバムで2作に共演しています。ドルフィーはあまりに突出した力量と個性あるプレーヤーだったのでジョン・ルイスの『ジャズ・アブストラクション』やオーネット・コールマンの『フリー・ジャズ』、オリヴァー・ネルソンの『ブルースの真実』、アンドリュー・ヒルの『離心点』などではリーダーのコンセプトからの飛躍が大きく共演メンバーから乖離してしまう面もありました。コルトレーンクインテットですらそういう難がありましたし、このミンガス・セクステットでもドルフィーがソロをとると異常空間が出現してしまうのですが、ヨーロッパ公演直前のタウン・ホール・コンサート(4月)よりも早い段階だけあってミンガスのベースとバイヤードのピアノ、リッチモンドのドラムスによるリズム・セクションの主張が強くもあれば、所々で楽曲アレンジの可能性の拡張にバランスを欠いた気味もあります。ドルフィーは、特にバスクラリネットのアドリブでは過剰なくらい挑発的ですが、ピアノ、ベース、ドラムスが率先して煽りも突っ込みもするのでフォローの役目も果たしています。一方コールズやジョーダンのような正統的な構築性のあるアドリブではまるで神経接続でもされているように先回りするのもバイヤードのような変態ピアニスト、ミンガスのような変態ベーシストならではで、リッチモンドのドラムスを行司に五つ巴の猛烈なくんずほぐれつが進行していく。ミンガスのバンド・コンセプトは器楽アンサンブルに極限的に肉声的な表現を持たせることなので、ここではユニゾンでも和声でも個々の楽器のピッチのズレがトレモロやモアレのような効果を生んでいます。同年のマイルス・クインテットコルトレーン・カルテットの求心的で精密なグループ表現の鋭利さによる訴求力とは違う、混沌の渦巻くような迫真性や喚起力があり、結果的にはミンガスのジャズは方法的な抽出や分析性、応用化が困難なために主流的規範からは外れる破格のスケールを持てあますことにもなりました。しかしこの音楽は55年を経た今も発展の可能性をはらんでいるので、2075年まで届く音楽が今、2020年現在創られていますでしょうか。しかしミンガス、ドルフィーの音楽が2075年のリスナーにまで届くのは確実なので、このジャズはすでに未来の音楽を実現しているとも言えるのです。