人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(2); 高村光太郎と金子光晴(e)

 このシリーズは最初に採り上げた蒲原有明(1875-1952)が5回でしたので、第2章以降も5回単位で一応切りをつけていこうと思います。第2章は高村光太郎(1883年=明治16年3月13日 - 1956年=昭和31年4月2日)と金子光晴(1895年=明治28年12月25日 - 1975年=昭和50年6月30日)の詩をご紹介する初回で、明治の詩では抑制されていた表現分野が大正・昭和の詩では開拓された例として高村と金子ともに反権力を指向した詩があり、性が主題にされるようにもなったとも指摘いたしました。反権力を微温的に表現すれば自由主義的とも言えますが、性が主題になったのも自由主義的な傾向の一端と言えるかもしれません。
 権力と性は近代のタブーでは代表的なものと言え、具体的には20世紀の思想はマルクスの資本主義社会分析による権力の解明、フロイト精神分析による性の解明に立脚していました。近代社会では性は権力によって制限されているものであり、性的な原因によって社会から抑圧された立場に置かれる事態を考慮すれば性の解放はそのまま反権力的なものにつながっていきます。これは歴史的には普遍的なものではなく、性のあり方が社会的には制限されない文化も歴史上・地域的には存在したことに留意する必要があります。また近代化とは資本主義文化に限られたのではなく、帝国制文化、社会主義文化でも共通するのは私有財産制の確立という概念でしょう。ブルジョワ層による私有財産制の国政化、富の独占は資本主義でも社会主義でも共通する現象で、人民に対する疎外の形態だけが異なるにすぎないと言えます。
明治44年、自宅アトリエにて、29歳の高村光太郎

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 高村光太郎の生涯の業績は開国日本の中央集権化による統一と近代化がもたらした高揚感に後押しされたもので、社会批判的な詩はむしろ高村の理想主義による改良的発想が根底にありました。一読して痛烈な現代社会批判「根付の國」でさえも、これはひとつひとつの批判を裏返していけば高村にとって願わしい文化国家を希求した詩、とひとまずは言えるとしても、その表現は高村自身の積極的な理想を提出する、という発想から作品化されてはいません。あくまでも現代社会の風潮への嫌厭と拒絶を語っているだけで、ここには民主主義思想や社会主義思想の地盤となる建設的な連帯感とは別の種類の自意識がかろうじて認められることで作品が成立しています。
高村光太郎詩集 道程 / 大正3年10月(1914年)抒情詩社刊

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  根付の國  高村 光太郎

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
           (十二月十六日)

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(明治44年=1911年1月「スバル」に発表、詩集『道程』大正3年=1914年10月・抒情詩社刊に収録)
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 詩の表現の中、特に行文の後半になるほど副詞節に主観的な好悪が露出していますが、高村自身は一気呵成に読み下しているので意味よりも詩句にクレッシェンド効果をもたらすための強調でしょう。言うまでもなく「根付の國」の衝撃性は長短全7行からなる1編の詩の全編が1センテンスで出来ている、という破格の技法によるところが大きいので、この音楽はメロディではなく爆発的に高まっていくリズムに全力を尽くしています。リズムは圧縮されているほど強いので、結語までのすべてが「日本人」にかかる比喩として1編を構成したのは造型美術作家である高村ならではのオリジナリティが認められます。ただしこの手法で「根付の國」のような否定の詩、拒絶の詩以外の表現をとれるかというと、高村自身が主体となって語ることはできない難点があります。肯定できる対象を見つけだして自分の理想を仮託するしかありません。その代表的なものとして『智恵子抄』という特殊な恋愛詩集があるのですが、昭和16年=1941年の時点で重篤精神障害者の家族看護を描いた文学作品は世界的にも類例のない先駆的な業績で、裏返せば恋愛詩集としては普遍性に欠ける上に、社会を切り離して夫婦だけが存在している詩の危険性こそが魅力になっているという厄介な作品ですらあります。そして智恵子夫人の歿後、高村はそれまでの慎重な寡作をかなぐり捨てて戦争詩の多作期に入りますが、それは「根付の國」で否定・拒絶した現代日本をまるごと肯定し同化する作業でした。なぜそんな180°の転換が安易に行えたのかが、高村自身は真摯な詩人だっただけに解釈の難しい謎になってきます。『智恵子抄』以前には、高村の恋愛詩は世界を遮断しない性の詩として率直な斬新さを持っていました。

  淫心  高村 光太郎

をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛慾に光る

縦横無礙(むげ)の淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃(るり)黒漆の大気に
魚鳥と化して躍る
つくるなし
われら共に超凡
すでに尋常規矩の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創世期の混沌に発し
歴史はその果実に生きて
その時劫(こう)を滅す
されば
人間世界の成壌は
われら現前の一点にあつまり
われらの大は無辺際に充ちる

淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
万物を拝せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大声を放つて
無二の栄光に浴す

をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
万物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈烈----
           (八月二十七日)

(大正3年=1914年9月「我等」発表、詩集『道程』大正3年=1914年10月・抒情詩社刊に収録)
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 戦争詩に至る前までの高村は日本の歪んだ文化を批判してはいますが、それは未熟さであれ本質的な頽廃ではないので啓蒙によって西洋諸国のように文明化し得ると考えていました。その文明化の一面が生活方針の自由主義であり、高村の性の詩もそうした理想主義的な発想に由来するものでした。しかしこの詩の魅力は思想的なものではないでしょう。文語脈の残った過渡期の口語自由詩型で、大言壮語に近いまでに性の喜びを放埒に綴るその享楽主義者(エピキュリアン)的姿勢のふてぶてしさが面白いので、性について書きながら一種の芸術家的生活態度の表明になっています。これは愛嬌あるものですが、思想性や批評性を生むものではないのです。そこで以前にご紹介した金子光晴の名作を読み返してみましょう。
昭和13年、詩集『鮫』刊行翌年、44歳の金子光晴

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  洗面器  金子 光晴

(僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。)

洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれてゆく岬(タンジョン)
雨の碇泊(とまり)

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。

(昭和12年=1937年10月「人民文庫」発表、詩集『女たちへのエレジー』昭和24年5月=1949年創元社刊に収録)
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 この「洗面器」は女性の放尿を描いた詩で、性というよりはエキゾチックな環境における日常的スカトロジー、エロティシズムというよりは生のわびしさについて語った詩です。後半3連は作者の感慨ですから抒情詩の手口としては古い。面白いのは前文の散文が散文詩を意図しない文体なのに、質量ともに本文の詩を圧倒する鮮やかな印象を残す手法の大成功でしょう。淡々とした叙述は高村の「淫心」の高揚感とは対照的といえるくらいですが、「淫心」は詩人の意気軒昂とした精力だけが抽象的に浮かんでくるにすぎないのに較べ、「洗面器」は大袈裟に言えば人類永遠の生きる哀しみがアジアの民間女性たちの活写からひろがってきて、詩行の半分は説明的なものにもかかわらず押しつけや説教臭はほとんどない。それは金子の共感が素直にアジア人賄婦たちの日常感覚に同化しているからで、こうした行きずりの酌婦の女性たちへの理屈を超えた敬意と人間的愛情を表現することに成功したのは金子光晴だからこそ、とも言えます。そして高村光太郎がいちばん遠いのも金子の「洗面器」のような詩で、「根付の國」「淫心」の詩人には「洗面器」のような詩は絶対書けないでしょう。
 一方金子は大東亜戦争の開戦中にアジア~ヨーロッパ放浪から帰国し、痛烈な反戦詩集を1冊出して敗戦後までの10年間近い沈黙に入りました。それが巻頭詩「おっとせい」で知られる傑作詩集『詩集 鮫』ですが、「おっとせい」の前に「根付の國」の系譜で高村光太郎がどのような現代日本批判の詩をたどっていたかを振り返ってみたいと思います。
高村光太郎詩集 猛獣篇 / 昭和37年=1962年4月・銅鑼社刊250部限定版

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  ぼろぼろな駝鳥  高村 光太郎

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る國にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無邊大の夢で逆(さか)まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

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高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」肉筆原稿

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(昭和3年=1928年3月「銅鑼」発表、のち初出型の6行目「何しろみんなお茶番過ぎるぢやないか」を削除、初出では行末句読点なし。「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録、昭和37年=1962年4月「猛獣篇」銅鑼社250部限定版に再収録)
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 この「ぼろぼろな駝鳥」は架空の動物と実在の動物を各10編ずつ題材にして『猛獣篇』という詩集を草野心平主宰の同人誌「銅鑼」社から刊行する計画で着手されましたが、連作途中で智恵子夫人の病状が悪化したため中断し、数年の休止期間の後で続編が書かれましたが未完に終わった詩集の1編です。『猛獣篇』は高村の歿後に全集収録された後で生前の約束通り銅鑼社から未完の状態で限定出版されました。この詩が行末表現「ぢやないか」をリフレインに「根付の國」のヴァリエーションなのは明瞭でしょう。日本文化の貧困を動物園のダチョウの寓意で表現しているために非常にポピラリティの高い詩になっています。
 この詩の面白さは小中学生にでもわかるもので、この結句2行は詩としての形を整えるため以上のものではないでしょう。それはやはりこの詩の弱点と言えて、「人間よ、/もう止せ、こんな事は。」を金子光晴「洗面器」の結句2行「洗面器のなかの/音のさびしさを。」の余韻と比較すると金子のさりげない大手腕に対して「ぼろぼろな駝鳥」の結句2行はいかにも貧しいとしか言えません。
 ですが高村の詩の魅惑は強烈なもので、直接的な訴求力では日本最高の20世紀詩人の筆頭格でした。金子光晴を対照させて相対的に鑑賞しないと高村の手中にはまって賞賛するだけで終わってしまう。明治の現代詩を蒲原有明から始めて(他の明治詩人はいずれとりあげます)大正期を高村光太郎で始め、金子光晴を対照させたのは、北原白秋萩原朔太郎は文学的完成度で穏当な鑑賞・評価もできますし、同時代詩との懸隔も対照的とまで乖離していない。高村ははっきりと異質の資質を持って登場してきました。その異質性は詩としての純度を明らかに損ねていて、それが読者に訴えかけるという作風の詩人です。ほとんど在り方としては思想家・宗教家に近い読まれ方に読者を誘い込みます。白秋・萩原・高村らの10歳年下の金子光晴はまさに高村らの世代の先輩詩人を乗り越えるために出てきたので、高村光太郎の紹介には金子光晴を併置してみる必要がありました。さて、高村が具体的に世俗の詩を書くとどんなものになったでしょうか。
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高村光太郎詩集(創元選書) / 昭和26年=1951年9月・創元社

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  のつぽの奴は黙つてゐる  高村 光太郎

 『舞臺が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割方持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は來てるでせうな。壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。萬能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい氣な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の餘興は、結城孫三郎の人形に、姐さん達の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

 『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
スチユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ。老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。
何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考えてゐる。
何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。

高村光太郎父・仏具彫刻師高村光雲(嘉永5年=1852年 - 昭和9年=1934年)、昭和3年喜寿祝賀会にて

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(昭和5年=1930年9月「詩・現実」発表。のち、初出型の最終行「何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。」を削除。初出型のまま「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)
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 これは明治彫刻界の巨匠にして高村光太郎の父・光雲の喜寿・受勲祝いの祝賀会を題材にしています。前文で参列者たちの会話、後半で高村の心象を描いた構成は金子の「洗面器」の先駆をなしてもいます。ただし高村作品は前半の見事な再現力と較べて後半は未定稿のように不安定になっている。要するに高村は観察力や再現力は素晴らしい才能を持っていましたが「根付の國」や「ぼろぼろな駝鳥」のように単純で静止的なシチュエーションを描くならともかく「のつぽの奴は黙つてゐる」や、次にご紹介する明治の大物財界人の老男爵から依頼塑像を受けた時の詩「似顔」では情景描写は人物のモノローグを借りて巧妙なのに、結語で腰砕けの詩になってしまいます。高村はいわば彫刻家の手つきで事象を活写するまでが本領で、結語はあまりにも平凡な批判的感想しか書けなかった。この落差には唖然とします。

  似顔  高村 光太郎

わたくしはかしこまつてスケツチする
わたくしの前にあるのは一箇の生物
九十一歳の鯰は奇觀であり美である
鯰は金口を吸ふ
----世の中の評判などかまひません
心配なのは國家の前途です
まことにそれが氣がかりぢや
寫生などしてゐる美術家は駄目です
似顔は似なくてもよろしい
えらい人物といふ事が分ればな
うむ----うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
もうよろしいか
佛さまがお前さんには出來ないのか
それは腕が足らんからぢや
寫生はいけません
氣韻生動といふ事を知つてゐるかね
かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい----
わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
一片の弧線をも見落とさないやうに寫生する
このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝國資本主義發展の全實歴を記録する
九十一歳の鯰よ
わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

大倉財閥設立者・男爵大倉喜八郎(天保8年=1837年 - 昭和3年=1928年)肖像

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高村光太郎大倉喜八郎の首」大正15年=1926年制作塑像

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(昭和6年=1931年3月「詩・現実」発表。「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)
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 高村は描く人としては当代一の詩人だった。それは本格的にヨーロッパの最新芸術思潮を学んできた彫刻家ならではの近代的感性だった。しかし高村の才能は観察者の領域で止まっていて、対象の内部にまで踏み込んで自分自身を見いだすことはなかった。詩作によって認識を深めることなどむしろなかったと考えられます。彫刻家の本能でそれを行っていたのなら、描ききるところまでで詩的想像力はエポケーに達し、「好きだ」「嫌いだ」「困ったものだ」程度の結句で一丁あがりにしてしまう。実は『智恵子抄』、戦争詩集三部作、戦後の『典型』ではそうした詩作態度も徐々に崩れて屈折したものになりますが、それはまた改めてご紹介する必要があるでしょう。
 金子光晴が高村の詩の弱点から批判的に学び、いわば「根付の國」や「ぼろぼろな駝鳥」「のつぽの奴は黙つてゐる」などの系列の詩、特に未完詩集『猛獣篇』からのヒントが大きいと思われるのが「おっとせい」「泡」「塀」「どぶ」「燈臺」「紋」「鮫」の長詩7編からなるコンセプト詩集『詩集 鮫』で、これは選詩集である岩波文庫版や中公文庫版金子光晴詩集にも全7編が収録されている、昭和現代詩でも数少ない完璧な傑作詩集です。巻頭を飾る「おっとせい」1編でこの詩集の不朽の価値は決まったようなものでしょう。『詩集 鮫』は蒲原有明北原白秋萩原朔太郎らを修正するものではありませんが、高村の作風から採るべきところは採り、欠けている要素は補って、萌芽としては高村の作品にもあった可能性をほぼ完全に実現してみせました。しかしこれは24冊ある金子光晴詩集の9作目で、発表順では4冊目にすぎません。金子光晴についてもあらためてご紹介する必要があるでしょう。
金子光晴詩集 鮫 / 昭和12年8月=1937年人民社刊

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  おっとせい  金子 光晴



そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、 おゝ、憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。

いん気な彈力。
かなしいゴム。

そのこゝろのおもひあがってゐること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)
おほきな陰嚢(ふぐり)

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反對の方角をおもってゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フイルム)でみる
アラスカのやうに淋しかった。




そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを國外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたゝきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(ほこり)と、饒舌(おしやべり)
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。

(くさめ)をするやつ。髯のあひだから齒くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦(めおと)だ。権妻だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋黨だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。

をしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網(かなあみ)があった。

……………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたゝくのをきいた。

のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚(むな)しさばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。

たがひの體温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとふて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい聲でよびかはした。




おゝ。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも氣づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文學などを語りあった。

うらがなしい暮色よ。
凍傷にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝禮してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反對をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

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(昭和12年=1937年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月・人民社初版200部刊に収録)

(第2章完)