人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

金子光晴「おっとせい」「洗面器」(詩集『鮫』昭和12年・詩集『女たちへのエレジー』昭和24年より)

(金子光晴<明治28年=1895年生~昭和50年=1975年没>)
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金子光晴詩集『鮫』人民社・昭和12年8月=1937年刊
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おっとせい   金子光晴

そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしていること。
虚無をおぼえるほどいやらしい、 おお、憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。

いん気な弾力。
かなしいゴム。

そのこころのおもひあがっていること。
凡庸なこと。

菊面。
おほきな陰嚢。

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反対の方角をおもってゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画でみる
アラスカのやうに淋しかった。

そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを国外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたたきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢と、饒舌で
かきまはしているのもやつらなのだ。

くさめをするやつ。髭のあひだから歯くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦だ。権妻だ。やつらの根性まで相続ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋党だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。

おしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網があった。

…………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたたくのをきいた。

のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚さばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡で、海水をにごしていった。

たがひの体温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとうて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい声でよびかはした。


おお。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも気づかずにゐた。

みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文学などを語りあった。
うらがなしい暮色よ。
凍傷にただれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

(昭和12年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月=1937年人民社初版200部刊に収録)

洗面器   金子光晴


(僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。)

洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれてゆく岬(タンジョン)の
雨の碇泊(とまり)。

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。

(昭和12年10月「人民文庫」発表、詩集『女たちへのエレジー』昭和24年5月=1949年創元社刊に収録)


 高村光太郎(1883-1956)より6年あまり遅れて詩を書き始めた詩萩原朔太郎(1886-1942)は高村に生涯敬意を払っていましたが、朔太郎の弟子を任じる西脇順三郎(1894-1982)は高村光太郎の詩を「豪傑の詩」と生涯嫌い続けていました。一方、萩原朔太郎の第2詩集『青猫』と同年(大正12年=1923年)に詩集『こがね虫』でデビューした金子光晴(1895-1975)は自分を萩原朔太郎以上の詩人と自負していました。方向性において金子は朔太郎をライヴァル視し、高村光太郎西脇順三郎とは親睦を深めていきましたが、金子光晴の本領が発揮されたのは萩原と共通する方向性のうち芸術至上主義的なものを振り捨て、金子流の象徴主義の発展によって本来なら象徴主義とは相容れない、折衷するのが難しい権力批判の詩と、人間の実存的なエロティシズムの詩を同じ比重で書けるようになった30歳代後半からでした。

 金子は早熟にして晩成型を兼ね備えた詩人でしたが、反権力の詩として最高の成果を上げた「おっとせい」、同年に書かれてようやく戦後の詩集に収録された実存主義のエロティシズム詩「洗面器」を見ると、権力批判において饒舌で暴露的でもあれば鉾先を自分自身にも向けた「おっとせい」と高村の高圧的な短詩「寝付の国」、性において簡略で暗示的な「洗面器」が高村の高揚感にあふれた「淫心」とは逆の方向性を示しているのに気づきます。高村光太郎金子光晴は20代半ばに約2年間のヨーロッパ留学体験がある共通点があり、それは世代が20年上の森鴎外夏目漱石、10年上の永井荷風斎藤茂吉にもありましたが、鴎外は軍医、漱石は国立大学英文科教授としての官費留学で成果が厳しく求められた任務でした。永井荷風の留学は裕家の文学青年の私財による長期遊学で性格が異なります。斎藤茂吉の留学は私立病院院長としてのもので、鴎外や漱石と同じ職業的成果を科せられていました。彫刻家師範家系の高村の場合は最新のヨーロッパ式彫刻術を学ぶためでしたが、芸術家意識の高かった高村は注文職人としての彫刻ではなく芸術表現としての彫刻に目覚めて帰朝してくることになります。金子光晴は自分の遊学体験を永井荷風に近い、ヨーロッパでの生活体験によって西洋文学理解を深めるためのものという開き直った自覚があり、1920年の25歳当時にして実家の遺産1億円を2年弱で使い果たす壮絶な遊学をしています。ボードレール社交界デビューするために破産するまで遺産を使い果たしたのを思いださせます。詩集『鮫』は42歳の詩集で、生活体験だけを目的とした放蕩的遊学経験が詩人にとって着実な糧となった例でしょう。しかもこの詩集は生涯24冊ある金子光晴のやっと3冊目に刊行された詩集(当時未発表詩集を加えれば9冊目)で、戦時中は一切詩集を公刊できず、次の詩集11年後の敗戦後にようやく刊行されます。年代的にも『道程』と『鮫』では執筆時期に25年あまりを隔てていますが、『道程』の発想とその延長線上からは「おっとせい」や「洗面器」は出てこないのを思えば、金子光晴がどれほど現代詩の表現領域を拡大してみせたかがこの2編には凝縮されているとも言えます。

(旧稿を改題・手直ししました)