人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(3); 過渡期の詩人たち(c) 横瀬夜雨

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 この章は第2回に詩誌「文庫」主宰者だった河井醉茗(1874-1965)をご紹介しましたが、醉茗は新潮社『現代詩人全集』第1巻に全巻解説に相当する現代詩史を書き下ろしており、名義上は新潮社創業者でもある佐藤義亮ですが、同昭和4年にやはり新潮社から上梓された日夏耿之介(1890-1971)の大著『明治大正詩史』(上下巻・別冊の3分冊)からの示唆が大きいのは初回で触れた通りです。明治以降の現代詩史は同書が初めてではないようですが、これほど浩瀚に大家から群小詩人・詩誌までを網羅してほぼ完璧な書誌を別冊にし、詩史的位置づけと明確な文学的評価を行ったのは画期的な業績で、資料面で協力者がいたとしても通常これだけの大著は分担執筆による共著になるところですが、日夏の単独執筆だからこその一貫性が強みになっています。同書は戦後の昭和23年~24年に創元社から上中下の3分冊(総頁数1,360頁)の『増補改訂』版が再刊され第1回読売文学賞(研究部門)を受賞し、日夏自身も編集委員である河出書房『日本現代詩体系』昭和25年(全10巻)の編集基準にもなりました。
 しかしこの『現代詩人全集』の総解説が河井醉茗によるものなのは納得がいくもので、醉茗は現役長老詩人として日本詩壇の名伯楽というべき位置にいました。1929年には醉茗は55歳、現代ならば老大家というほどの年齢ではありません。しかし明治からの詩人としては土井晩翠(1971年生)、島崎藤村(1972年生)、この全集には(歌人としての盛名の高さから)未収録の与謝野鉄幹(1873年生)が当時存命だったとは言え、藤村は詩からは引退して長く、晩翠の新作はほとんど注目されず、鉄幹は長詩よりほぼ完全に歌人にシフトしていました。醉茗は明治40年の「文庫」解散を引き継いだ早稲田詩社の口語自由詩の詩人たちにも、「文庫」末期に登場した北原白秋三木露風のデビューにも携わり、白秋・露風のライヴァル関係にも、早稲田詩社系=川路柳虹主宰「日本詩人」~「詩話会」系詩人と白秋門下生と露風門下生の三つ巴の抗争のいずれとも恩人的な存在だったので、もっとも穏便な中立的立場にいたのです。特に早稲田詩社から発展した「日本詩人」~「詩話会」は特定の流派を持たない詩人の組織であり、早稲田詩社創立には「文庫」がパトロン的役割を果たしていたため、露風と柳虹の恩師だった醉茗はいつの間にか日本詩壇の親方的立場的にいました。そこで新潮社『現代詩人全集』の巻立てを今回も再掲載します。

新潮社『現代詩人全集』
昭和4年(1929年)~昭和5年(1930年)
第1巻●初期十二詩人集
湯浅半月集/山田美妙集/宮崎湖処子集/中西梅花集/北村透谷集/太田玉茗集/國木田獨歩集/塩井雨江集/大町桂月集/武島羽衣集/三木天遊集/繁野天来集
*附録・現代詩の展望 (明治、大正、昭和詩史概観) 河井醉茗
第2巻●島崎藤村土井晩翠薄田泣菫
第3巻●蒲原有明・岩野泡鳴・野口米次郎集
第4巻●河井醉茗・横瀬夜雨・伊良子清白集
第5巻●北原白秋三木露風川路柳虹
第6巻●石川啄木山村暮鳥三富朽葉
第7巻●日夏耿之介西條八十・加藤介春集
第8巻●生田春月・堀口大學佐藤春夫
第9巻●高村光太郎室生犀星萩原朔太郎
第10巻●福士幸次郎佐藤惣之助千家元麿
第11巻●白鳥省吾・福田正夫・野口雨情集
第12巻●柳澤健・富田砕花・百田宗治集

 明治~大正の詩人の大半は30歳前後までで詩作から引退していましたが、醉茗は55歳にして詩歴35年を越える当時稀有な現役詩人でした。影響力においてはむしろ若手詩人たちの後を追う作風にすぎなくなっていましたが、醉茗によって世に出た詩人たちが直接・間接的にせよ詩壇の大半を占めていたのですから、流派同士では派閥的対立があっても醉茗には頭が上がりません。この全集の第4巻以降に収録されている詩人のほとんどがそうです。三木露風川路柳虹が主宰となった早稲田詩社同人には加藤介春、三富朽葉山村暮鳥、野口雨情、福士幸次郎、人見東名、相馬御風がおり、北原白秋は「文庫」から石川啄木高村光太郎、木下杢太郎、佐藤春夫堀口大學の依った鉄幹の「明星」を経て「屋上庭園」主宰を主宰し、大手拓次萩原朔太郎室生犀星を世に送りました。三木露風ら「文庫」から上田敏主宰「藝苑」を経て早稲田詩社結成後、川路柳虹と「未来社」を主宰して西條八十、柳沢健を門下生とします。早稲田詩社系の詩人たちは白秋・露風に対抗して川路柳虹主宰「日本詩人」を創立し、やがて白秋系・露風系詩人とも和解し「詩話会」に発展しましたが、佐藤惣之助千家元麿日夏耿之介、生田春月、白鳥省吾、福田正夫、富田砕花、百田宗治が日本詩人~詩話会系詩人たちです。これで4巻以降の収録詩人全員の出自に触れたと思いますが、人見東名、相馬御風はともかく、暮鳥、萩原、室生に並ぶ重要詩人ながら大手拓次(1887-1934)が収録されていないのは、遺稿が「中央公論」誌に掲載され遺稿詩集『藍色の蟇』が刊行されたのが昭和11年(1936年)と認められるのが遅すぎたので、伊良子清白『孔雀船』や石川啄木の生前未刊行詩集、『三富朽葉詩集』のように昭和4年の段階では詩史的位置づけができなかったことにもよります。大手拓次は生涯を白秋門下生の詩人として終え、同門以外には知られませんでした。
 北原白秋の存在感は大きく、北原白秋全集全60巻という巨大な文業は日本の専業詩人でも空前のものですが(絶後ではないのは谷川俊太郎がいるからですが)、白秋と同門でなければ木下杢太郎の精妙な詩作はもっと注目されていたでしょう。白秋は門下生にも強烈なカリスマがあり、「日本詩人」~「詩話会」の存在を徹底的に敵視していたのは白秋ひとりを信奉していた萩原朔太郎ひとりと言ってよく、ほとんどの詩人は萩原の業績を認めていたので萩原の批判は本人に不利なだけでした。そこで萩原に対する詩壇の過小評価から、萩原門下生をもって任じる昭和の新人たちの詩誌「四季」が創刊されるのです。「日本詩人」~「詩話会」について言えば、内部からの批判者である生田春月、日夏耿之介らの意見の方がより実践的で尊重されていました。この詩人全集の人選は昭和期の詩人たちが本格的に日本の詩をリードする以前の詩人相関図をそのまま反映したもので、第1巻~3巻までを現代詩の古典期とすれば4巻以降はおおむね「文庫」~「日本詩人」~「詩話会」ラインで引っかかってくる詩人たちが選出されているのです。

 なかでも第4巻(昭和4年11月刊)の醉茗、横瀬夜雨(1978-1934)、伊良子清白(1977-1946)の3人集は『明治大正詩史』による文庫派再評価もあって、謙虚な醉茗の独断だけでは実現しなかった重要な1巻になりました。醉茗自身が多作な時期を過ぎていたので、これは新作を含む第6詩集で全詩集『醉茗詩集』(アルス、大正12年)に続く刊行になり、『醉茗詩集』からの精選作品に加えて第7詩集『紫羅欄花』(東北書院、昭和7年)とも重複しない大正12年昭和4年の新作を含んだ事実上の第7詩集と言えるものでした。それは夜雨、清白にとっても同様で、新詩集としては『夜雨集』(女子文壇社、明治45年)以来、合本詩集としては『花守と二十八宿』(婦女界社、大正10年)以来、選詩集としては直前に『雪燈籠』(梓書房、昭和4年4月)、同月に『横瀬夜雨詩集』(改造文庫昭和4年11月)がありましたが、新潮社版『現代詩人全集』の「横瀬夜雨集」は初期作品の改訂決定稿から昭和4年までの新作を含むほぼ全詩集と言ってよく、夜雨は昭和9年2月に逝去するのでいわば最後の新詩集にもなったのです。清白の場合はさらに重大で、既刊の伊良子清白詩集は18編を収めた『孔雀船』(左久良書房、明治39年)が唯一のものでした。夜雨の『雪灯籠』と同時に同じ梓書房から『孔雀船』は日夏耿之介の序文を加えて新装版がほぼ四半世紀ぶりに再刻されましたが、新潮社版『現代詩人全集』では『孔雀船』から10編の再録の他に77編の新旧未収録詩編、34編の訳詩がまとめられ、全貌とまではいかないにせよ(『孔雀船』は約160編の手稿から精選されたと言われます)全年代からの選詩集としては全詩集に準じるだけの業績が明らかになったのです。伊良子清白の全集が刊行され、さらに遺漏詩編や未発表詩編、散文、日記、書簡がまとめられたのは平成15年(2003年)のことでした(岩波書店、上下巻)。
 伊良子清白は生前一部の読者にしか読まれない不遇な詩人でした。河井醉茗が専業詩人であり、横瀬夜雨が筑波の農園主(「花守」というのは、家業で花圃を営んでいたからです)を兼ねながら全国紙への詩発表、新聞雑誌の詩欄選者、エッセイストとして生涯著名詩人だったのとは対照的で、現在はむしろ清白だけが文庫派詩人では評価されているのですが、夜雨の生前の存在感は幼児からの身体障害者であったことや(脊椎カリエスによるもので、自力歩行もままなりませんでした)、詩にもほのめかされている女性関係の波乱が同時代の注意を惹いていた面も大きいので、今ならさしずめNHKのドキュメンタリー番組でブレイクするような私生活に対する興味が詩の鑑賞を注釈していたとも言えます。夜雨の詩は女性に熱狂的な愛読者を持ち、それは身体障害への同情と相まって、家出同然に夜雨の介護のため駆けこんできては翻意して、または周囲の反対で、はたまた突然去って行く女性読者が後を絶たず、それは夜雨が40歳でようやく文学少女ではない遠縁の女性と見合い結婚するまで続きました。結婚以降の夜雨は生活も落ち着いた文人となり、詩作は減少しますが三女を授かる幸福な家庭生活を営み、随筆家として一家をなします。夜雨の作品は何を紹介するか悩み、醉茗が夜雨の名作とするのは「雪燈籠」「野に山ありき」「人は去れり」「我脣は燥けり」「人故妻を逐はれて」「やれだいこ」「富士を仰ぐ」「お才」ですが、夜雨の伝記的知識がないとよくわからなかったり(「人は去れり」)、しかも内容的には抒情詩なのに最大4行30連に及ぶ叙事詩体、対話体、独白体混交の「野に山ありき」や「雪燈籠」「人故妻を逐はれて」だったりと引用に不向きなのです。しかも部分引用では意味をなさないので、ここでは夜雨の私生活が比較的反映していないか、反映していても意味ありげな恋愛詩ではないものを選びました。

 横瀬夜雨の第1詩集『夕月』は収録作品中半数が出版者によって改竄されたので、第3詩集『二十八宿』には改竄作品の原作が再録されましたが(「影」もそのひとつです)、『夕月』から引いた「涙」は改竄を免れた作品。また「お才」は改竄作品で『二十八宿』ではこの4倍あった4部構成の原作が再録されましたが、『夕月』での短い改竄版があまりに有名になったため『現代詩人全集』には夜雨自身によって改作された短縮版が収められています。4部構成版は長大なので割愛しましたが、これはもっとも知られた夜雨作品なので夜雨自身による最終短縮版も載せました。他にも『現代詩人全集』版で夜雨自身が改作し、初出より良くなっている作品が多いのは特筆すべきで、一般的にはほとんどの詩人の場合、自作の改作をすると失敗しますから珍しい例外になります。
 また『現代詩人全集』に収められた最新作の「筑波に登る」は最晩年の絶唱で、夫人とまだ幼い末娘、筑波を訪ねてきた旧知の詩人仲間とともに筑波山を登り、風景を見渡し、幼い娘を見ながら、これが自分には生涯最後の筑波山登山になるのだろうか、と思う澄明な心境が平明簡潔な措辞によって描かれており、併せて引いた旧作「わが額は重し」「吾脣は燥けり」「お才」(夜雨は制作逆年順の詩編配列を好みました)のいずれもが原作よりもすっきりして若々しい、より焦点の定まって感銘の深い作品に生まれ変わっているのは天性の素質の良さを感じます。悲恋詩による不遇な抒情詩人とも、「お才」に代表されるローカルで素朴な民謡体詩人というイメージとも異なる夜雨の冴えた技巧家の面は注目すべきでしょう。
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  涙  横瀬夜雨

おもひしずけきかりねにも
ゆめだにみればやるせなく
なみだにぬるゝわがそでを
からんとのらすきみもがな

ひとよふけゆくなかぞらに
かたわれづきのてれるみて
はかなきかげのうらめしく
たもとをかみてなきにしを

なほすてられぬかがみには
みやまざくらのはなあせて
かねてかゝせしゑすがたの
いろのみいまににほへれど

(第1詩集『夕月』明治32年=1899年12月・旭堂書店)
*

  お才  横瀬夜雨

花の吾妻の花櫛さいて
髪は島田にいはうとも

やはり妹(をばま)と背追繩(せおひなは)かけて
薪拾うてあつたもの

三國峠の岨路を
越えて歸るはいつぢややら

蜻蛉(とんぼ)つりゝゝ田の面に出て
騒ぐ子等にもからかはれ

お才あれ見よ越後の國の
がんが來たとてだまされて

白雲かゝる筑波根を
今は麓で泣かうとは

『心細さに出て山みれば
雲のかゝらぬ山はない』

(初出「文庫」明治31年6月号「そで子、きん子、合作」名義/(改竄版)第1詩集『夕月』明治32年=1899年12月・旭堂書店)
*
  夕の光  横瀬夜雨

堤にもえし陽炎(かげろふ)
草の奈邊(いづこ)に匿(かく)れけむ
緑は空の名と爲りて
雲こそ西に日を藏(つゝ)

さゝべり淡き富士が根は
百里(ひやくり)の風に隔てられ
麓に靡く秋篠の
中に暮れ行く葦穗山

雨雲覆ふ塔(あらゝぎ)
懸れる虹の橋ならで
七篠(なゝすぢ)の光、筑波根の
上を環(めぐ)れる夕暮や

雪と輝く薄衣(うすぎぬ)
痛める胸はおほひしか
朧氣(おぼろげ)ならぬわが墓の
影こそ見たれ野べにして

雲捲上(まきあぐ)る白龍(はくりう)
角も割くべき太刀佩きて
鹿鳴(かな)く山べに駒を馳せ
征矢鳴らしゝは夢なるか

われかの際(きは)に辛うじて
魂、骸を離るまで
寂しきものを尾上には
夜は猿(ましら)の騷がしく

水に映らふ月の影
鏡にひらく花の象(かたち)
あこがれてのみ幻の
中に老いたるわが身なり

月無き宵を鴨頭草(つきくさ)
花の上をも仄(ほの)めかし
秀峰(ほつみね)(て)らす紅の
光の末の白きかな

(すが)りて泣かん妹の
(しを)れし花環(はなわ)投げずとも
玉の冠か金光(きんくわう)
せめては墓に輝かば

(第2詩集『花守』明治38年=1905年11月・隆文社)
*

  富士を仰ぎて  横瀬夜雨

大野の極み草枯れて
火は燃え易くなりにけり
水せゝらがず鳥啼かず
動くは低き煙のみ

落日力弱くして
森の木の間にかゝれども
靜にうつる空の色
翠はやゝに淡くして

八雲うするゝ南に
漂ふ塵のをさまりて
雪の冠を戴ける
富士の高根はあらはれぬ

返らぬ浪に影見えて
櫻は川に匂ふらむ
霞みそめたる天地に
遍きものは光かな

涙こほりし胸の上に
閉じたる花も咲かんとして
亡びんとせしわが靈(たま)
今こそ蘇(い)きて新しき

人は旅より歸るとき
花なる妻を門に見む
わが見るものは風荒ぶ
土橋の爪の枯柳

人は旅路に出るとき
美し人を秬梠(ませ)に見む
わが行く路に在るものは
やみを封(こ)めたる穴にして

筑波の山に居る雲の
葉山繁山おほへるも
春は蝶飛ぶ花園に
立つべき足の痿(な)へたるを

やゝともすれば雲の奧に
かくれんとするいとし兒を
悲む母のふところに
退(の)かせじとする枷(かせ)にして

千代もとわれは祈れども
母は子故に死なんといふ
世に一人なる母をおきて
わが有(も)つものは
  有らじと思ふに

(『花守』明治38年=1905年11月・隆文社)
*

  鞭  横瀬夜雨

ほどけかゝりし絹の紐
ゆるき靴もて青梅の
幹はよづるに難(かた)ければ

眉ふりかくす放髪(をばなり)
姉なる姫は長(たけ)のびて
あぐる腕(かひな)の白きかな

袖を抱えて敷石に
かゞみ在(いま)せし二の君の
まろき瞳のやさしさが

(とこ)に置きける銀(しろがね)
鞭をおろして走り來る
庭は木立の緑して

鞭は短し枝高し
踊り上りて下(しも)つ枝(え)
拂へど散るは若葉のみ

母屋(おもや)の屋根に鳩鳴けど
二人の姫は言(ものい)はで
園の白日(まひる)は寂(しずか)なり

(第3詩集『二十八宿明治40年=1907年2月・金尾文淵堂)
*
  影  横瀬夜雨
  月の夕、ひとり過ぎ行く少女を野邊に見て

影まだ淡(うす)き夕月の
照せる野べに俯(うつむ)きて
(まつげ)にあまる涙をば
稀には袖に拭ふらむ
靜に歩む少女(をとめ)あり

風に戰(おのゝ)く花すすき
(すゝき)が中に一筋の
路をし恃(たの)む秋の野に
映る我身の影見ても
寂しからんを哀なり

いかなる憂(うさ)を藏(つゝ)めれば
花の少女(をとめ)のたゞ一人
(ほつ)れし髪をかき上げて
濡るゝ裳裾(もすそ)をさながらに
荒れたる野(のら)を越ゆるらむ

足羽川(かたしはがは)の大橋に
藍もて摺れる衣着(ころもき)
赤裳裾(あかもすそ)曳渡りけむ
昔少女(をとめ)が面影を
今眼(ま)のあたり見つるかな

手枕(てまくら)(ま)きて語らひし
我妹子(わぎもこ)ならば呼びとめて
(しばし)なりとも泣かさじを
月に背(そむ)きて行く人の
悲しき影はあれ限(き)りに

(改竄版初出『夕月』/原作復原稿『二十八宿明治40年=1907年2月・金尾文淵堂)
*

  筑波に登る  横瀬夜雨
  昭和三年、妻と共に三女を携へて筑波に登る。河井
  醉茗北原白秋等十四人、亦行を同じうす。

朽ちたるは 白晒(しらさ)けて
山毛欅(ぶな)の森 蔭荒し
立ち罩(こ)むる 薄霧に
垂れ咲くは 擬寶珠花(ぎぼしばな)

眞弓子(まゆみこ)を 携へて
三千尺(みちさか)の 雲踏めば
從へる 愛(は)し妻の
眼に霧(き)るは 涙哉(かな)

利根鬼怒(とねきぬ)は 白々と
南へ 流れ去り
樺色(かばいろ)の 蝶(てふ)二つ
巌角(いはかど)に 舞ひ上る

浪逆(なみさか)の 湖は
浪の穂や 飜(かへ)るらむ
山の影 映しつつ
(ひむがし)は 天(そら)高し

眠りては 地の上を
人並に 駆れども
日本(ひのもと)に 登るべき
山の名は 知らざりき

眞弓子は 今やがて
走るらむ 跳ねるらむ
夢か我 足痿(な)えて
筑波嶺(つくばね)に 跨れる

風逆山(かざさえし) 風吹けば
白百合の 匂ふ山
風逆山 雨降れば
葛子鳥(しやべりどり) 下りる山

鳴呼山は 筑波嶺
(そら)高く 立てれども
命哉 ながらへて
吾終(わがつひ)に 登りたる

(『現代詩人全集・第四巻』「横瀬夜雨集」昭和4年=1929年11月・新潮社)
*

  わが額は重し  横瀬夜雨

わが額は重し
(うしろ)より射す光を厭ひ
前に動く影を惡(にく)
人憧憬(あこがれ)の夢にばかり
生くれば長き命なるもの
友よ伏せたる眉を咎むるな

わが首(こうべ)は重し
野に走らんか雲湧く
海にせんか浪白き
行くに侶(とも)なき一人ならば
影なる我に神は來らむ
友よ夢見る人の眼を突くな

わが胸は重し
匂へる花を岡に探りて
袖にすとも詮(かひ)あらんや
常陸(ひたち)の小野は秋に入りて
ただ雨の音風の聲々
友よ沈める色を罪なふな

わが心は重し
野がくれ青き草に潜みて
花に埋めし味氣無(あぢきな)の身
今は母の腕(かひな)に凭(よ)りて
幼き夢の國に到らむ
友よ俤人(おもかげびと)の名は言ふな

(初出『夜雨集』明治45年=1912年1月・女子文壇社/改訂決定稿『現代詩人全集・第四巻』「横瀬夜雨集」昭和4年=1929年11月・新潮社)
*

  我脣は燥けり  横瀬夜雨

夕焼の雲西に入りて
星影輝く空となりぬ
一人さまよふ草の戸に
落つるは冷たき涙のみ

筑波の山の猿飛岩も
踏みただらかす脚は痿(な)えたれ
來よと言はば膝行(ゐぎ)りてだに
行きて君に縋らむもの

我脣(くち)は燥(かわ)けり
燥いて焦れんとすれど
露を刺(はり)に貫(ぬ)ける薔薇の花の
白きは人なる君に似たり

肩に凭(よ)れども咎め
手に觸るれども許せし
人は居らぬ故郷(ふるさと)
樫の大木(おほき)は芽をふきぬ

暗き夢よりさめ來れば
野上を照らす電(いなづま)
影は痛める胸の中に
射すとはすれど留まらず

(初出『二十八宿』/改訂決定稿『現代詩人全集・第四巻』「横瀬夜雨集」昭和4年=1929年11月・新潮社)
*

  お才  横瀬夜雨

女男(ふたり)居てさへ
  筑波の山に
霧がかゝれば
  寂しいもの

佐渡の小島(おじま)
  夕浪千鳥
彌彦(やひこ)の風の
  寒からむ

越後出てから
  常陸まで
泣きに遙々(はるばる)
  來はせねど

お月様さへ
  十三七つ
お父(とと)戀ふるが
  無理かえな

三國峠の
  岨路(そばみち)
越えて歸るは
  何時(いつ)ぢややら

やはり妹(をばま)
  背負繩(しよひなは)かけて
薪拾うて
  あつたもの

お才あれ見よ
  越後の國の
雁が來たにと
  だまされて

彌彦山から
  見た筑波根を
今は麓で
  泣かうとは

心細さに
  出て山見れば
雲のかからぬ
  山は無い

(改竄版初出『夕月』/原作復原稿『二十八宿』/改訂決定稿『現代詩人全集・第四巻』「横瀬夜雨集」昭和4年=1929年11月・新潮社)