人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

河井醉茗・日夏耿之介と『現代詩人全集』(昭和4年=1929年~昭和5年=1930年)

(河井醉茗<(明治7年=1874年生~昭和40年=1965年没)>)
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稚児の夢   河井醉茗

そらに きみの こゑを きけり
むねと むねと かげと かげと
そらに あひて こゑを きけり

たびの ひとの みては かへる
ふるき かべに うたを のこし
きみと ともに そらを あゆむ

ふかき もやは ゆくに ひらけ
うみは とほし しまか やまか
うごく ものは みえず なりぬ

きしと きしの はやき しほを
およぎ こえし こひの もさは
ひとの くにの ものに みえぬ

われら ふたり いかに はてん
われの すがた くもと きえて
きみは たかき ほしと なるか

そでは まどひ おびは のろひ
ひとの きぬを とみに ぬぎて
きみは ちさく ちさく なりぬ

ちゝを さがす ちごの ごとき
きみを だけば わがて かろし
まこと こひは ちごの ゆめか

(初出・明治34年=1901年「文庫」秋号/第2詩集『塔影』明治38年=1905年6月・金尾文淵堂)

落葉を焚くの歌  河井醉茗


秋晴(しうせい)の朝、庭守(にはもり)は
黄なる樺なる雌黄(しわう)なる
木(こ)の葉草の葉うづたかく
火をうつさんとかゞまりぬ

夜(よ)にうるほひし露霜も
一葉ゝゝに乾きゆく
畑のかげに立ち添ひて
葉守(はもり)の神やあらはれむ

眞夏大野を覆ひたる
國つ鎭めの公孫樹(こうそんじゆ)
光に透いて金葉(きんえふ)の
皆地に落つる響きかな

櫻の精は遠春(とおはる)の
海を渡りて去(い)にゝけり
朽ちては輕き乾き葉(ば)の
梢はなるゝ力かな

常磐なるべき檜葉(ひば)杉葉
うらがれたるがめらゝゝと
火になりやすき秋のはて
地の美はそらに収まらむ

機(はた)にかかれる織絹の
自然の彩(あや)のまばゆきも
捲かるゝまゝに彼方なる
はてしなき手に渡されぬ

あゝ落つる葉に驚いて
烟を擧ぐる庭守よ
萬葉焚いて盡きせざる
林に入らば悸(をのゝ)かむ

(初出・明治38年=1905年「中学世界」/詩文集『玉蟲』明治39年1906年5月・女子文壇社)

ある朝   河井醉茗


我身の上に苦しい事件(こと)がふりかゝつて來た、けれども自分には勤めがある。
いつもの同じ時刻、同じ電車に乘る。
今朝は妙に人の顔が遠くで動いてゐるやうに見える、毎(いつ)の朝も馴染(なじみ)のやうな意(き)がしてゐる乘客(のりて)の人々が、何だかそらぞらしく、急に他人になつたやうで、自分一人だけ運ばれてゆくやうだ。
女學生が掛けて居る幅廣のリボンも、中學生の帽子の徽章(しるし)も一向(いつかう)氣に留まらぬ、動いてゐるものに見えぬ。
車掌も運轉手も旗振も、皆自分に關係の無いことをしてゐるやうで、坂は上(のぼ)つたのか、下りたのか、今は何處を通つて居るのか、考へてみないと分からぬ。
兩側の家並(やなみ)も、街路(まち)の日影も、今朝に限つて知らぬ顔をしてゐる、世の中と、うとゝゝしくなつた、よそゝゝしくなつた。
明るい光線が不思議になつて來た、新聞を讀んで居る人が羨ましくなつた、皆、人が苦勞なささうな顔して居るのが嫉(ねた)ましくなつた、昨日まではそんなことは何ともなかつた、只(ただ)明るいものは明るく、美しいものは美しかつた。
今朝は明るいものに暗い影があるやうに思ひ、美しいものに僞(いつわ)りがあるやうに思はれてならぬ。
違つた道を歩くやうに思ひながら、毎朝來る自分の勤め場所に入つた。

(第4詩集『霧』明治43年=1910年5月・東雲堂書店)

ゆずり葉   河井醉茗


子供たちよ。
これは讓り葉の木です。
この讓り葉は新しい葉が出來ると
入れ代つてふるい葉が落ちてしまふのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを讓つて----。

子供たちよ。
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前たちに讓られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。

輝(かゞや)ける大都會も
そつくりお前たちが讓り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど----。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに讓つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを
一生懸命に造つてゐます。

今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑つてゐる間に気が附いてきます。

そしたら子供たちよ
もう一度讓り葉の木の下に立つて
讓り葉を見る時が來るでせう。

(第7詩集『紫羅欄花』昭和7年=1932年7月・東北書院)


 日本の現代詩史が初めて総括されたのは、日夏耿之介(1890-1971)の上下巻計1000ページ以上、別冊年表・索引150ページあまりの大著『明治大正詩史』(新潮社・上巻昭和4年1月、下巻昭和4年11月)であり、同書は明治期~大正初期の現代詩史観として後世に決定的な影響を与えました。明治大正詩人はまだ昭和4年には多くが現役で、また日夏自身も詩人でしたので(処女作『転身の頌』大正6年=1917年刊)『明治大正詩史』では明治詩人たちの業績については客観性を保った史観が保たれていますが、大正期の詩人については強いライヴァル意識がうかがわれ、必ずしも日夏の評価が妥当とは言えない面も目立ちます。しかしそうした偏差も含めて現代詩史としては日夏の著作は初めて明治以降の新体詩=現代詩史を体系化したものでした。新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年=1929.7~昭和5年=1930.7刊)は時期を同じくして同じ出版社から刊行され、初めて明治以来の現代詩を全集化したもので、『明治大正詩史』に匹敵する役割を果たしています。この全集に日夏が直接携わったかは不明ですが伊良子清白、石川啄木高村光太郎など1冊の既刊詩集しか持たない詩人に未刊詩集を含む全詩集に近い紙幅を与え、生前刊行詩集すらない三富朽葉は歿後出版の詩集全編に未収録詩編も加えて全詩集とするなど『明治大正詩史』の高い評価がなければなかなかできない人選です。日夏は後に『日本現代詩大系』(河出書房・昭和25年=1950年)の明治期編の編者になりますが、『現代詩人全集』との重複を見ても『明治大正詩史』『日本現代詩大系』との共通性がわかります。『現代詩人全集』全12巻の収録詩人は以下の通りです。

第1巻●初期十二詩人集
湯浅半月集/山田美妙集/宮崎湖処子集/中西梅花集/北村透谷集/太田玉茗集/國木田獨歩集/塩井雨江集/大町桂月集/武島羽衣集/三木天遊集/繁野天来集
*附録・現代詩の展望 (明治、大正、昭和詩史概観) 河井酔茗
第2巻●島崎藤村土井晩翠薄田泣菫
第3巻●蒲原有明・岩野泡鳴・野口米次郎集
第4巻●河井醉茗・横瀬夜雨・伊良子清白集
第5巻●北原白秋三木露風川路柳虹
第6巻●石川啄木山村暮鳥三富朽葉
第7巻●日夏耿之介西條八十・加藤介春集
第8巻●生田春月・堀口大學佐藤春夫
第9巻●高村光太郎室生犀星萩原朔太郎
第10巻●福士幸次郎佐藤惣之助千家元麿
第11巻●白鳥省吾・福田正夫・野口雨情集
第12巻●柳澤健・富田砕花・百田宗治集

 この全集は後に文庫化されてもおり、3人集は1人1冊のほぼ全詩集のヴォリュームがありましたから、3人集収録の詩人が33人、明治新詩初期の詩人12人の選詩集(これも作品の少ない詩人が多いので、実質的に全詩集に近い)を足して45人の詩人が収録されています。本来は明治後期にさらに12人集、大正期に12人集、まだ昭和5年ですが昭和期に12人集を加えた全15巻でもいいでしょう。むしろその方がまだしも現在でも知られた詩人が増えたはずで、そのくらいこの1929年~1930年刊行の詩人全集は死屍累々に古びてしまっています。現代詩史の研究者以外はまず読まない詩人が半数以上を占めているものが90年前にはポピュラーな読者を想定した詩人全集として通用していたのは、歴史の風化作用を痛感せずにはいられないとともに、日本の現代詩がいかに貧弱な土台の上に歴史を築いてきたかを思い知らされるようです。現行の出版状況を参観しても、この45人の詩人のうち新刊書店で手軽に手に入る詩人がどれほどいるかを思えば一目瞭然です。読まれないものは忘れられていくのも自然の道理で、全12巻のうち奇跡のように第9巻の高村光太郎室生犀星萩原朔太郎集がある。逆に言えば、昭和5年当時この3人が分散せずに集められたのは、詩質の高さではなく高村・室生・萩原1組で他の巻と等価だったことを示します。

 トルストイの大長編小説『アンナ・カレーニナ』1877の有名な書き出しは「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭はさまざまである」というものでした。また、20世紀イギリス文学の名作、チェスタートンの『ノッティング・ヒルのナポレオン』の書き出しは「悪人でも人間には違いないように、へぼ詩人でも詩人には違いない」と心優しい警句から始まっています。『アンナ・カレーニナ』の書き出しをその伝で置き換えれば「非凡な詩人の作風はさまざまだが、へぼ詩人はたいがい似たり寄ったりである」となるでしょう。もっとも詩歌の優劣を見分けるには読解力にも相当な鍛錬が必要になります。一応学校教育でも優れた詩歌をテキストに教養はつけさせようとしますが実はそれでは駄目で、名作も凡作も浴びるように読まなければ名作が名作たるゆえんも詩とすら言えない凡作との違いもわからないので、これは詩歌というジャンルに限ったことではないでしょう。

 しかし問題は、芸術において歴史的な水準を示すのは時流を抜いた才能ではなく、模倣者と指導者の区別もつかないほど凡庸な流派こそ時代の本流であり基準と見るべきであって、大正~昭和初期にかけては三木露風(1989-1964)と川路柳虹(1888-1959)が年少詩人たちにとってもっとも模倣の対象になった主流詩人だったと言えます。小林秀雄中原中也との交流で知られる夭逝詩人・富永太郎(1901-1925)の遺稿詩集には刊行後50年あまり三木露風作品の筆写稿が富永作品として掲載されており、また少年詩人時代の三島由紀夫(1925-1970)が師事したのは川路柳虹でした。柳虹・露風亡き後は日本の現代詩史にこの2人は形ばかり名前を残しているだけになっています。柳虹や露風でなければ似たような詩人が指導的存在になっていたでしょう。彼らの作品は創造性においてはまったく不毛でしかなく、いつの時代でも不毛な詩人は一定の割合でいるという意味で存在意義を担っており、『明治大正詩史』や『現代詩人全集』『日本現代詩体系』の索引を見るとさながら屍の山の観すらあります。それは当然今日生産されつつある詩にも免れられない運命であり、その大半は明日には顧みられなくなると思えば詩に限らず創作とは常に徒労感との闘いであるとも言えます。

 高校の国語教科書で教わる明治期の詩人の名は北村透谷(1868-1894)、島崎藤村(1871-1943)、土井晩翠(1871-1952)、薄田泣菫(1877-1945)、蒲原有明(1876-1952)の5人ほどで、高村光太郎(1883-1956)や北原白秋(1885-1942)は明治40年代には活動を始めていますが作風は大正以降の詩人ととらえるべきでしょう。明治の現代詩が明治22年(1889年)の新聲社同人(代表・森鴎外)『於母影』でアンソロジー、北村透谷『楚囚之詩』で個人詩集の本格的な幕開けが始まったとすれば、先駆的な詩集にはアンソロジー『新體詩抄』(明治15年=1882年)、山田美妙編『詩體詩選』(明治19年1886年)、個人詩集に湯淺半月『十二の石塚』明治18年(1885年)、落合直文『孝女白菊の歌』明治21年1888年)があり、明治24年(1891年)の磯貝雲峯『知盛卿』、中西梅花『新體梅花詩集』、北村透谷『蓬莱曲』(中学生時代の蒲原有明は学校で持っている生徒を探し当てまでして読んだそうです)、山田美妙(単独詩集)『青年唱歌集』、明治26年(1893年)の宮崎湖處子『湖處子詩集』を経て、当時考え得る限りの詩型をすべて駆使した与謝野鉄幹の実験的な第1詩集『東西南北』明治29年(1896年)に至ります。辛辣なエッセイスト斎藤緑雨が流行詩人5人のパロディ「新體詩見本」(明治27年・新聞発表)を収めたエッセイ集『あま蛙』明治30年(1897年)が示すように、この年までが明治新詩運動の第1期と言えるでしょう。同明治30年には島崎藤村の第1詩集『若菜集』が刊行されて、同詩集が大正期までの文語自由詩の抒情詩スタイル(叙事詩は衰退しました)の標準になったからです。またこの多いとは言えないリストに、精神疾患を発症し急逝した詩人が2人(北村透谷・中西梅花)も判明しているのは異様な気がします。

 もちろん藤村のスタイルだけが唯一ではなくて、すでに鉄幹の「ますらおぶり」調もあり、藤村スタイルに対して晩翠の叙事詩スタイル、泣菫の擬古典調、上田敏の翻訳詩、有明象徴詩までさまざまな試みがあり、北原白秋明治30年代以降のスタイルすべてを総合して登場した詩人でした。石川啄木はまず現代詩の詩人としてデビューしましたが、詩人としては白秋と同じ発想でした。また、高村光太郎はそれらをすべてを拒否して独自のスタイルを持って登場しました。ただし『若菜集』以降の自由詩に『若菜集』に対抗するでもなく、ほとんど時流と関係なしに活動していた詩人たちがいます。詩誌「文庫」主宰者の河井醉茗(1874-1965)、「文庫」の主力詩人だった横瀬夜雨(1878-1934)、「文庫」で醉茗に随一の有力詩人と目されながら注目されず不遇をかこっていた伊良子清白(1877-1946)の3詩人は明治30年代のロマン主義象徴主義詩の流れにはうまく位置づけられないことから詩史的には軽視されがちですし、有明の親友の象徴詩人、岩野泡鳴(1973-1920)は有明の4詩集と同時期に4冊の詩集を上梓しましたが、あまりに特異な発想と文体から有明以外の詩友からもまったく理解されず、自然主義小説に転じて小説家として成功しました。泡鳴の象徴主義理解は同時代の詩人では有明を圧倒するほどで、没後に小林秀雄河上徹太郎中原中也らに再評価されることになったのです。それは伊良子清白が日夏耿之介によって醉茗、夜雨以上に明治30年代最高の詩人、泣菫や有明の最高の達成と匹敵するという再評価と同時期の、昭和初年になってからのことでした。

 この『現代日本詩人全集』で欠落しているのは、前述の通り第1巻に相当するマイナー・ポエットの巻が明治後期(30年代以降)、大正期、昭和期にも設けられるべきだった、というのもありますし、明治期に限っても森鴎外与謝野鉄幹上田敏は3人集で入れるべき大物でした。鴎外は訳詩と創作詩の比重が難しい上に自由詩以外の短歌、長歌、俳句、漢詩などあらゆる詩型で作品があり、鉄幹も同様です。上田敏は訳詩と創作詩では訳詩の比重が高く、しかもその訳詞は明治後期の自由詩に指導的役割を果たしました。訳詩集ならば永井荷風の『珊瑚集』も上田敏海潮音』と双璧です。また上田敏永井荷風の関連からは木下杢太郎が一家を成す詩人で、日夏耿之介は白秋の初期作品より木下杢太郎の詩業を優れたものと賞賛しています。また、石川啄木を収録しているこの詩人全集の見識ならば、歌人の余技以上の業績として与謝野鉄幹とともに与謝野晶子も入選してしかるべきでしょう。鴎外、鉄幹、晶子、劇作家として高名だった杢太郎を外したのは文業が自由詩主体でないからとして(それを言えば鴎外は生涯本業は軍医でした)、また『海潮音』と『珊瑚集』は翻訳詩として外すと、それだけでも明治~大正の詩は貧しくなってしまいます。『海潮音』と『珊瑚集』の文体は明治40年代~大正期の詩の背骨になり、精神的には昭和年代のモダニズム詩の先例となるものでした。

 それはこの全集のうち高村光太郎室生犀星萩原朔太郎集だけが飛び抜けて光っているのと同じ理由でもあり、昭和期の詩の特色がようやく出揃った昭和5年~10年の間に「四季」や「歴程」などの有力な若手詩人たちの詩誌では「四季」は室生犀星、「歴程」では高村光太郎を擁立し、それは大正期までは必ずしも高い評価を得られなかった彼らこそが自分たちの詩の先達詩人であることの表明であり、萩原朔太郎は党派を越えて現代詩最高の革新者として萩原を乗り越えるスタイルが模索されるほど重要な存在でした。戦後詩の「荒地」や「列島」では「四季」「歴程」が掲げていた詩観がモダニズムマルキシズムとともに批判的検討をされることになります。中立的な立場の詩人たちが多く集まって、おおむね穏健な作風で広い支持を得たのが「櫂」同人でした。「櫂」の詩人たちは一致した主張を持たない点で「荒地」や「列島」とは異なり、むしろ「四季」や「歴程」のもっとも柔軟な部分を継承した新しい世代(と言っても1950年代)でしたが、ふと気づくとそれは1965年の逝去まで、89歳の最長老詩人だった河井醉茗が往年主宰していた「文庫」のあり方に近いのです。日夏耿之介ではなく河井醉茗が『現代詩人全集』第1巻の「附録・現代詩の展望 (明治、大正、昭和詩史概観)」の筆者であるのもその柔軟で公平中立な立場からでした。今回は、明治34年(1901年)の第1詩集『無弦弓』から晩年まで常に温厚な作風との定評を崩さなかった醉茗の、点の辛い日夏耿之介も賞賛する初期代表作2編と日夏が「ここから駄目になった」と指摘する日本初の口語散文詩集『霧』から1編、また小学校教科書への採用や合唱曲でも知られる「ゆずり葉」を上げてみました。蒲原有明と同世代とは思えない平易さにもご注目ください。現代詩の長所にも短所にもつながる醉茗の詩がむしろ平凡さによって明治大正詩を代表したゆえんである、恭順な市民的特色がわかります。

(旧稿を改題・手直ししました)