人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

蒲原有明詩集『獨弦哀歌』明治36年(1903年)より

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
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あだならまし


道なき低き林のながきかげに
君さまよひの歌こそなほ響かめ、――
歌ふは胸の火高く燃ゆるがため、
迷ふは世の途みち倦みて行くによるか。
星影夜天(やてん)の宿(しゆく)にかがやけども
時劫(じごふ)の激浪(おほなみ)刻む柱見えず、
ましてや靡(しな)へ起き伏す靈の野のべ
沁しみ入るさびしさいかで人傳へむ。

君今いのちのかよひ路(ぢ)馳せゆくとき
夕影(ゆふかげ)たちまち動き涙涸れて、
短かき生(せい)の泉は盡き去るとも、
はたして何をか誇り知りきとなす。
聖なるめぐみにたよるそれならずば
胸の火歌聲(うたごゑ)ともにあだならまし。

(初出・明治34年=1901年8月「明星」)

靜かに今見よ


靜かに今見よ、園の白壁(しらかべ)にぞ
楊(やなぎ)の一つ樹枝(こえだ)の影映(うつ)れる。
その影忽ち滅えぬ、――かの蒼波(あをなみ)
かくこそ海原闇き底に潜め。
影また漸く明り射す光の
眩(まばゆ)く白く纒ふをながめいれば、
かつ墮(お)ちかつ浮び來るそのきそひに
滿ちまた涸れゆくこころ禁(とど)めかねつ。

運命深き轍(わだち)の痕(あと)傳へて
見えざる車響けば、宴樂(うたげ)にほひ、
歌聲輟(や)むも束の間、おもへばげに
こは世に痛き鞭笞(しもと)や壁なるかげ――
むちうて、汝(いまし)虚(むな)しく見えなせども
花園榮なき日にもこは無窮(とこしへ)

(初出原題「静かに見よ」・明治34年9月「明星」)

君も過ぎぬ


遽(には)かにわが身變(かは)りぬ、否さらずば
聲なき歡樂(よろこび)手をば高くあげて、
『見よこの過ぎ行く影を、いざ』と指(さ)すか、
遷轉(せんてん)無窮(むきゆう)の夢ぞ卷きて披(ひら)く。
流るるこの甃石(いしだたみ)、都大路
酒の香、衣(きぬ)の色(いろ)彩(あや)みだれうかぶ、――
あやしや此處にもしばし彼の自然の
高嶺(たかね)の、大野(おほの)の力こもりぬらし。

嗚呼喧噪(けんさう)の巷も今し見れば、
往きかふ人影淡き光帶びて
あかつき朝日纒へる雲に似たり。
臈(らふ)たき人よ、この時かしこを君、
極熱(ごくねつ)豐麗ほうれい)の土しばし抽ぬきて
花草匂ふがごとく君も過ぎぬ。

(初出・明治34年9月「明星」、以上3篇詩集『獨弦哀歌』明治36年1903年5月より)


 明治時代の詩人で誰が良いといえば蒲原有明(明治9年=1876年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)になります。有明薄田泣菫(1877-1945)と並んで、明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』、明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、明治38年(1905年)の第3詩集『春鳥集』、明治41年(1908年)1月刊の第4詩集『有明集』と4冊の古典的詩集を明治30年代~40年代に発表した、明治詩人の第一人者でした。泣菫には明治32年(1899年)の第1詩集『暮笛集』、明治34年(1901年)の第2詩集『ゆく春』、明治38年(1905年)5月の第3詩集『二十五弦』、明治39年(1906年)の第4詩集『白羊宮』がありますが、年齢は1歳年下ながら先んじて詩人デビューしていた泣菫が華のある可憐かつ大胆(泣菫の詩は破格文法、造語、喩法にあふれていました)な作風で人気を誇っていたのに対して、元々小説家志望だった有明の詩は悪く言えば生硬かつ地味で、往々にして難解の誹りを甘んじたものでした。しかし有明の詩は豊かな音楽性を誇る作風や格調の高さ、内省的な観照性では泣菫を上回り、北村透谷や島崎藤村らによって始められた明治の文語自由詩は有明によって極められたと言ってよいものです。自身も啓蒙主義的に訳詩・創作詩の試作を発表していた森鴎外(1862-1922)は日本の現代詩の動向を指導者的使命感から注目していましたが、鴎外没後に発表された、英文学者・翻訳家の妹、小金井喜美子に書き送っていた書簡でしばしば雑貨発表の現代詩について所見を記し、造語と破格文法だらけの泣菫の詩を批判する一方で有明の堅実な作風を賞賛しています。鴎外の泣菫批判はあくまで鴎外の文学観からで羨望や嫉妬も混じっており、裏返せばそのまま泣菫への讃辞にもなるものですが、有明の詩への賞賛は率直なもので裏表のないものでしょう。有明の詩は象徴主義詩を指向した第3詩集『春鳥集』と第4詩集『有明集』が代表作とされますが、有明の詩は島崎藤村の明治34詩集(1901年)第3詩集『落梅集』収録の詩篇「椰子の実」にインスパイアされた作品で素朴な感動を湛え、人口に膾炙した「牡蠣の殼」がすでに第1詩集『草わかば』に含まれており、明治時代の有明の4詩集は鴎外のみならず北原白秋(1885t1942)、萩原朔太郎(1886-1942)、日夏耿之介(1890-1971)らも生涯激賞してやまなかったもので、『有明集』以降の新作や訳詩を収めて全詩集を改作・改訂した有明初の全詩集『有明詩集』は白秋が創設した出版社のアルスから大正11年(1922年)6月に刊行され、大正14年(1925年)5月には改訂5版が刊行されるロングセラーになっています。有明はその後も昭和3年(1928年)11月の岩波文庫版『有明詩抄』、昭和5年(1930年)7月の『現代詩人全集・蒲原有明集』、昭和10年(1935年)8月の新潮文庫版『蒲原有明集』、昭和22年(1947年)8月の『春鳥集改訂版』、昭和25年(1950年)7月の『有明全詩抄』と詩集再刊のたびに新作の追加と全詩集の改訂を行い、昭和27年(1952年)2月3日に数75歳の長寿で逝去しましたが、3月刊行の新潮文庫版の新版『蒲原有明詩集』の序文が絶筆となり、新版新潮文庫蒲原有明詩集』もさらに改訂が加えられたものでした。

 有明は上記の通り生涯に渡って既発表作品の改作と断続的な新作発表を続けたので、『有明集』以降の新作も悠に詩集2冊分相当はあるといえ、30歳の第4詩集『有明集』までの全詩集の改訂を75歳の逝去直前まで行っていた特異な経歴は有明と同世代の詩人にも類を見ないもので、有明研究の単行本論集も長文の有明論を含む日夏耿之介『明治大正詩史』(昭和4年)、矢野峰人蒲原有明研究』(昭和23年・昭和16年刊行予定の内容が戦時事情から出版の遅れたもの)、長文の有明論を含む窪田般弥『日本の象徴詩人』(昭和38年)、松村緑『蒲原有明論考』(昭和40年)、蒲原有明評伝を含む河合醉茗夫人の島本久恵『明治詩人傳』(昭和42年)、安東次男による詳細な註釈が付された中央公論社『日本の詩歌・第2巻』(昭和44年)、雑誌「現代詩手帖」増頁特集号「特集・蒲原有明」(昭和51年10月)、先駆的現代詩人としての有明を論じ画期的な長編論考となった渋沢孝輔蒲原有明論』(昭和55年)と精緻な論考に欠きません。晩年近くに偶然近況が知られたことから自伝的長編小説『夢は呼び交す』が刊行(昭和22年)されたのも有明研究を促すことになり、同自伝の刊行によって有明土井晩翠とともに日本芸術院会員に迎えられています。有明没後の昭和29年に初めて『草わかば』『獨弦哀歌』『春鳥集』『有明集』がのちの改作によらず初版本を底本に創元社の『現代日本詩人全集』に収められ、創元社版では『獨弦哀歌』『春鳥集』『有明集』に収められた訳詩は割愛されていましたが、昭和32年筑摩書房版『現代日本文學全集』や昭和42年の筑摩書房版『明治文學全集』、昭和43年の講談社版『日本現代文學全集』では有明の明治時代の4詩集全編が訳詩も含めて収録されました。河出書房から昭和32年に刊行された『定本蒲原有明全詩集』は有明生前の最終改訂版が採用され、雑誌掲載時から初版詩集、有明生前の全詩集・選詩集ごとのヴァリアント(改訂異稿)がまとめられています。現在有明の詩は初版詩集収録型が最善とされているので、日夏耿之介の論考以来、矢野峰人、松村緑、島本久恵らも日夏の指摘を是としています。実作者の立場から(日夏も実作者でしたが)アルス版『有明詩集』以降の改訂稿、『有明集』以降の新詩集に再評価を促したのが安東次男や渋沢孝輔で、安東の註釈や渋沢の論考では数次に渡る改訂稿や『有明集』以降の新詩集が目を向けられていますが、その辺は初版詩集による翻刻を味読してから立ち入らないとなかなかわからない領域でしょう。今回は第3詩集『獨弦哀歌』から佳作を3篇上げました。いずれも高度な達成を見せてあまりあり、今日読むと北原白秋の『邪宗門』や三木露風の『廃園』が有明の存在を脅かして引退同然に追いやったのは何かの間違いではないかと思われるほどです。文語や稀語によってこれらの詩は一見難解になっていますが、漢語と倭語(やまとことば)の配分によって有明の詩が湛える音楽性は文語自由詩型ならではの美しさがあり、それは明治30年代~明治40年代につかの間に日本の現代詩に咲いた花でした。大正以降100年来の日本の詩人はもはや有明のようには文語詩を咲かせることはできません。ただ読んで歎息するしかないこれらの詩の美しさはあまりに急速な文化状況にあって有明本人をも置き去りにするようなものでした。有明が生涯自作を改作し続けたのも同じ理由からだったに違いなく、有明の栄光も悲劇もそこに同居していたのです。