人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年6月12日・13日/初期のヌーヴェル・ヴァーグ作品(1)

 ヌーヴェル・ヴァーグと言っても21世紀の現在ではどれだけ通用するのかわかりませんが、少なくとも1980年代にはまだ映画青年にとってはまばゆい憧れをかきたてられるフランス映画の系列でした。'50年代後半~'60年代のヌーヴェル・ヴァーグは映画誌「カイエ・デュ・シネマ」からフランソワ・トリュフォークロード・シャブロルジャン=リュック・ゴダールジャック・リヴェットエリック・ロメールを輩出し、「セーヌ左岸派」と呼ばれるアラン・レネアンリ・コルピアニエス・ヴァルダジャック・ドゥミルイ・マルらと並んで国際的に映画の革新運動を刺激したものとされていました。より若いヌーヴェル・ヴァーグ第2世代は第1世代の直接影響を受けた'60年代後半のジャン=ダニエル・ポレ(『地中海』'64,『心臓に弾丸』'65)やリュック・ムレ(『ブリギットブリギット』'66)を筆頭に、最大の才能と目された二人の内『ママと娼婦』'73のジャン・ユスターシュは夭逝しましたが『内なる傷痕』'72のフィリップ・ガレルは現在ではゴダールに次ぐ存在になり、『頭の中に指』'74のジャック・ドワイヨンや『一番うまい歩き方』'76のクロード・ミレール、『壁戸棚の子供たち』'77のブノワ・ジャコ、さらに『汚れた血』'86のレオス・カラックスや『夜の天使』'86のジャン=ピエール・リモザンなどがヌーヴェル・ヴァーグの後継者として注目されていましたが(デビュー作または出世作の長編を上げました)単発的な近年の商業的ヒット作しか目を向けられない今では、往年の熱心な観客の少数の関心しか集めなくなっているかもしれません。ヌーヴェル・ヴァーグに呼応した西ドイツ(当時)の夭逝監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(1945-1982)は生前も急逝後の'80年代もインチキ野郎と悪評の方が高かった人ですが近年の再評価の高まりは異例なほどで、フランスの'60年代~'90年代監督にファスビンダーほど高い再評価をされている作家がいるかというとジャック・リヴェットでしょうが、ファスビンダーほど広い観客から一時代の文化を集約する映画作家と認められるのは難しいでしょう。20世紀の終焉とともにヌーヴェル・ヴァーグは過去のものになり『アデュー・フィリピーヌ』(ジャック・ロジェ)や『地中海』『ブリジッドとブリジッド』『ママと娼婦』『頭の中に指』『壁戸棚の子供たち』など思い出すと泣けてくるほど好きですが、これらもいずれ誰も観なくなってしまうのでしょうか。今回から4回はヌーヴェル・ヴァーグ作品とされるものでも初期に属する作品を選んで観直してみました。ただしフリッツ・ラングの全作品を1か月半かけて観た直後ですから、作品によってはいささか点が辛くなるのはご容赦ください。

●6月12日(月)

ロジェ・ヴァディム(1928-2000)『素直な悪女』(フランス'56-11-28)*91min, Eastmancolor
・18歳の孤児ジュリエット(ブリジッド・バルドー)は酒場の主人(クルト・ユルゲンス)と港町の地上げを企てる実業家を手玉に取り、プレイボーイの青年地主と関係しながら地主の病身で弱気な弟ミシェル(ジャン=ルイ・トランティニアン)を翻弄し、養家に愛想をつかされて孤児院に戻されるのを逃れるためミシェルの求婚を受け入れ結婚するがまた兄とヨリを戻してしまう。そして男たち4人は……、と他愛のない痴情話だが、当時監督ヴァディムの若妻でモデル上がりの、これが初の本格的主演作になるバルドーを売り出すための映画だから男を惑わす小悪魔バルドーのアイドル映画のそのもの。開けっぴろげなエロティシズムが画期的で若い観客や批評家から絶大な支持を受けた作品だが、今となってはバルドー演じる天然小悪魔のキャラクターもありふれたものでこのくらいのズベ公ならそこらへんの渋谷にゴロゴロいるしあまりにアイドル映画なので前半1/3も観ると飽きてくる。これなら日本の太陽族映画(『太陽の季節』『処刑の部屋』は同'56年6月、『狂った果実』は7月)の方が断然進んでいたわけだが、市川崑中平康とヴァディムでは才能の差は歴然だし後の名優トランティニアンも21歳にしては幼すぎる。現実の21歳はこんなものかもしれないが、映画のキャラクターになっていないのはまずい。お話は浮気されたミシェルが意外な男気を発揮してジュリエットが見直す、という結末なのだが本作当時のトランティニアンとバルドーの二人では全然説得力がなくとってつけたように見える。昔観た時はそれなりに楽しめたが観直すと大人の鑑賞に耐えない映画の典型で、なまじ体裁だけは整っているだけになおさら面白みがない。これが若い映画監督志望者を刺戟してヌーヴェル・ヴァーグの発端になった歴史的興味とブリジッド・バルドーのブレイク作品というだけで名を残す映画で、一度観てお終い程度の作品。現行DVDはわからないが、今回観たDVDはシネマスコープをスタンダード・サイズにトリミングしたヴァージョン(民生用16mmプリントやテレビ放映用ヴァージョンにはよくある)で、センターで左右を切っていたり不自然に左右にパンして処理したりというひどいマスターだったのも興ざめで、テレビ画面とはいえシネスコだったらまだしもだったかも。女優本人の成長もあるとはいえゴダールの『軽蔑』'63のバルドーは鋭い演出を得て鋭い演技していたんだなあと改めて思わせられる。

ジャック・リヴェット(1928-2016)『王手飛車取り』(フランス'56)*28min, B/W
・夫と妻とその愛人のかけひきをチェスに喩えて意外な伏兵登場でオチがつくドライな才気が冴えた短編。助監督はジャン=マリー・ストローブがついている。リヴェットは本作以前にも短編があるそうだが、商業映画はクロード・シャブロル(脚本も共作)製作の本作が初で、ジャン・コクトー作品に比較されるのもうなずけるがコクトー的なナルシシズム臭はなく模倣という感じもしない。後年の作風につながる要素をこじつければリヴェットの現代ものには必ず出てくる陰謀だが、後年の長編では集団的秘密結社まで拡大されるほど本作では大仕掛けではなく謎が謎のまま放置(後年はそうなる)されもしない。本作の作風は仲間のエリック・ロメールが継いだと言えないこともなく、「カイエ・デュ・シネマ」派(長編デビュー順にシャブロル、トリュフォーゴダール、リヴェット、ロメール)の相互影響を感じさせないでもない。本作に限って言えばドライで機能的な語り口が確かに新しい。リヴェットの実質的処女作だから贔屓目に観てしまうのもあるが、このウェル・メイドで無駄がなくキレの良い短編からいきなり冗長で陰鬱かつ謎に満ち溢れた大作の第1長編『パリはわれらのもの』'62(6月末に日本盤初ソフト発売)への飛躍はちょっとすごい。

●6月13日(火)

フランソワ・トリュフォー(1932-1984)『あこがれ』(フランス'57-11)*18min, B/W
・これは素晴らしい。そのまま長編第1作『大人はわかってくれない』'59につながる才能がたった18分の短編に凝縮されていて原石の輝きがきらめいている。ヒロイン(ベルナデッド・ラフォン)が自転車で田舎道をどこまでも走っていくのを正面からとらえる長回しのファースト・カットから映画が躍動していて、ヒロインの恋人(ジェラール・ブラン)を嫉妬の目で見つめる子どもたちの世界からの視点で語りながら苦い味わいを残す結末まで焦点にブレがない。天性の才能ばかりが映画ではないがこんな短編を観せられるとぐうの音も出ないというか、結局ヌーヴェル・ヴァーグ運動は二人の天才、ゴダールトリュフォーを世に送ったのが最大の功績だったのを痛感する。しかも方法意識の強いゴダールよりも、自然な感覚の発露ではトリュフォーこそがルノワールを正統的に継ぐ普遍的に新しい映画作家だったのがわかる(その場合ゴダールロッセリーニ的といえる)。原作のモーリス・ポンスはシャーロック・ホームズのパロディ(というより模作)しか翻訳がないがこういう話も書いてたのかあ、と意外な気もし、トリュフォーが大変な読書家だったのは後の作品で明らかになるが原作の選択も目利きだったのも本作から始まっている。『王手飛車取り』の作風はそのまま長編化できないが『あこがれ』は明らかに長編への進展を見据えた作風なのも早熟な才能を感じる。普通こういうのは作為的な企画性が見え透いてしまうのだが、本作にはそういう衒いもないのがなおさら素晴らいい。『素直な悪女』など本作の前には平均点以下のプログラム・ピクチャーに見える。

クロード・シャブロル(1930-2010)『美しきセルジュ』(フランス'58-6-6)*99min, B/W
・シャブロルは親族の遺産相続を資本にプロダクションを設立して第1弾にリヴェットの『王手飛車取り』、次いで本作で自分自身も監督デビューした人。映画会社社長令嬢と結婚(初婚)して監督デビューのきっかけをつかんだトリュフォーといい、「カイエ」派監督に共通する現場経験も乏しいのに映画批評家からの監督デビューは本人たちもしばしば自作で自嘲していているのが面白く、本作でも「遺産相続した間抜けが来たぞ」というセリフが出てくる。病気療養に帰郷した大学生フランソワ(ジャン=クロード・ブリアリ)は田舎町の知己と旧交を温めるが、かつて一番の親友で大学入試に受かりながらガールフレンドの妊娠で結婚し田舎で運送屋をしているセルジュ(ジェラール・ブラン。クレジット上はブラン、ブリアリの順)は第1子の死産から酒に溺れた生活で第2子出産間近の妻イヴォンヌにも当たり散らし、フランソワとの再会でなおさら負け犬気分をつのらせる。ホテル住まいのフランソワはセルジュの妻の妹マリー(ベルナデッド・ラフォン)に誘惑され関係するが、彼女はかつてセルジュに処女を奪われ、そもそも死んだ母の浮気相手との間に生まれたので姉とは異父姉妹で父クロモーとの血縁はない、と言う。陰気なアル中のクロモーはカフェでフランソワに「俺の娘と寝ただろ」「わかるか、俺の娘だ」と絡み、フランソワから「違う」と返答を引き出すと一目散にマリーをレイプしに帰ってゆく。フランソワは町の誰からも好感を持たれているが誰からも田舎町の閉塞感をほのめかされパリ帰京を勧められるが、セルジュが気になって帰れない。やがて冬になり雪の日にセルジュの家を訪ねるとセルジュは不在で一人イヴォンヌが産気づいていた。ようやく医師と助産婦を手配し雪の中セルジュを探しに行く。二人が着くとちょうど出産が済んだところだった。どうせまた死産だ、とセルジュ。だが大きな泣き声が響いてくる。赤ん坊を抱き上げずぶ濡れの顔で破顔一笑するセルジュのクローズアップで映画は終わる。「ヌーヴェル・ヴァーグの功績は天才二人、ゴダールトリュフォー」とほざいた舌の根も乾かないうちに何だが、本作だって十分輝かしい。世間の機微に長けている点では『大人は判ってくれない』や『勝手にしやがれ』にはない俗に通じた強みがある。ラストのシークエンスで陳腐なクロスカッティングをしてしまったり所々文句はあるが、映画の始まりから瑞々しい開放感が溢れるのは次作でキャスティングもブランとブリアリを起用し大ヒット作になった『いとこ同士』'59にはない魅力で、監督自身の出身地の町の協力で製作された旨が冒頭の字幕が出るが基本的に全編ロケで、ホテルやカフェ、教会、民家も実際の建物を使い(撮影用に細工はしてあるとしても)、主要キャスト以外は現地の住民や撮影スタッフ自身がエキストラ出演しているだけなのが抜群に映画を風通し良くしている。フランス映画でこれほどセット撮影を排除してロケに徹したのはルノワールに数作先例がある程度で、何しろクライマックスも本当の雪の日を待って撮影しているほど徹底しており(つまり夏・冬と2回に渡って地方ロケする手間をかけており)、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが意識していたのはルノワールの他にはロッセリーニくらいだったはず。世界的にもごく稀にサイレント時代の作品や日本の清水宏くらいしか完全ロケ作品はなかっただろう。ブランとブリアリも『いとこ同士』より本作のキャラクターの方が自然に見える。インパクトでは『いとこ同士』圧勝だしヒット作になったのも納得だが、あえて渋い題材の本作をデビュー長編にしたシャブロルは腹が座っている。トリュフォーが「監督歴10年でもおかしくないほどの円熟」と仲間褒めしたのも妥当で、カイエ派5人衆にはそれぞれが持ち味の重ならない魅力がある。