まずこの6月末にジャック・リヴェットの第1長編『パリはわれらのもの』が日本盤初ソフト化されたのを喜びたいと思います。映画批評誌「カイエ」派生え抜きのヌーヴェル・ヴァーグ監督の5人は、長編デビュー順ではシャブロルの『美しきセルジュ』が'58年、トリュフォーの『大人は判ってくれない』が'59年、ゴダールの『勝手にしやがれ』が'60年、リヴェットの『パリはわれらのもの』が'61年、ロメールの『獅子座』が'62年が本国フランスの公開で、トリフォーとゴダール作品はすぐ日本公開され世界的にも即座に古典の位置につきました。シャブロルは『美しきセルジュ』の代わりに第2作『いとこ同士』が紹介されたので、『~セルジュ』と『獅子座』の日本公開はかなり遅れはしたものの'80年代のロメール作品の日本公開の評判から映像ソフト化はビデオテープ時代には行われていましたが、リヴェットのデビュー作だけは日本ではこの2017年まで遅れていたのです(素晴らしいレストア画質のボーナス映像とコメンタリー、英語字幕つき版はすでにイギリス盤はBfiから、アメリカ盤はクライティリオン社から出ており、日本盤の画質と仕様によってはBfi/クライティリオン盤も手放せません)。ちなみにロメールとリヴェットの映像ソフトはこれまで初回プレスだけで廃盤になっているものが大多数なので、ネット通販の割引率が高い時か中古が出回ったら押さえておかないと数年後には数倍のプレミア価格になるので気をつけたいものです。現にゴダールの推挽でデビューしたジャック・ロジェの『アデュー・フィリピーヌ』が現在廃盤・プレミア価格で、2011年には『アデュー~』以外のロジェの日本未公開長編2作と短編集1巻を集めた3枚組DVDボックスがリリースされましたが一瞬で市場から消えて中古ですら出回らないのが現状です。『パリはわれらのもの』『アデュー・フィリピーヌ』ともに必見クラスの金字塔的作品でヌーヴェル・ヴァーグ内の反商業映画の極地というべき作品ですが、まったく対照的な作風の作品ながら一度観たら忘れられない強力な印象を残すデビュー作にして語り継がれるだけのある新鮮さを現在も失っていない点では共通するのです。
●6月16日(金)
ジャック・リヴェット(1928-2016)『パリはわれらのもの』(フランス'61-12-13)*141min, B/W
・シャブロル、トリュフォー、ゴダールの各デビュー作、またロメールの『獅子座』のシンプルなプロットと対照的にプロット、ストーリーともデビュー作にして複雑を極めている。兄ピエールを頼ってパリに上京してきた女学生アンヌはピエールの仲間と知りあううちスペインのコミュニスト組織の一員だったらしい自殺したギタリストの遺品のテープを追うことになる。そこに秘密結社の国際的陰謀が記録されていたらしい。ギタリストの恋人だった女性が持っていたテープは演奏が収められているだけだった。アンヌはピエールの仲間の演出家ジェラールに恋をするが準備中のシェイクスピア劇の上演のあてはなく、ジェラールは劇団員の謀反に絶望して自殺する。ジェラールの愛人のアメリカ人女性はピエールが謎のテープの隠滅に関わってジェラールを殺害したと思い込んでピエールを射殺する。だがそもそも謎のテープの真相を追ってパリに亡命してきたというアメリカ人のピューリッツァー賞ジャーナリストの語る真相は……と、くり返されるシェイクスピアの『ペリクレス』の舞台稽古、謎だらけの秘密結社の国際的陰謀をめぐる調査、肩すかしのオチと唐突な抒情的エピローグと、後年のリヴェットの現代劇映画の原型はこの第1長編にほぼ出揃っている(時代映画の系譜は第2長編『修道女』'66から始まる)。ジョナス・メカスの『メカスの映画日記』中の激賞「素晴らしい映画。ヌーヴェル・ヴァーグのうちではおそらくもっとも知的な映画。他のいかなる映画、いかなる本よりも素晴らしく1962年のヨーロッパを伝えている。この素材に対するリヴェットの精通の仕方はずば抜けている。この映画の素晴らしさに心が動かされるまで三回でも四回でも観に行って欲しい」(1962年11月15日)でも有名な伝説的作品で、着想の類似したトマス・ピンチョンの第1長編小説『V.』の刊行が翌'63年なのはリヴェットの第4長編で12時間55分の超大作『アウト・ワン』'71('74年に4時間24分の短縮版『アウト・ワン・スペクトル』に再編集)が後にピンチョンの第3長編小説で超大作『重力の虹』'73に匹敵する(ジョナサン・ローゼンバウム)と評されるようになったのと併せて興味深い。ピンチョンも荒唐無稽なまでに巨大な陰謀をめぐる群集ドラマを大作に仕立て上げる小説家だが、そんなものを読むよりリヴェットの映画を観る方が人生が豊かになる。第2作の『修道女』の系譜に連なる歴史ものと平行して陰謀(と劇団内幕劇)映画はリヴェットのTMになり、後年は同じ陰謀映画でも『アウト・ワン・スペクトル』の次作でファンタジー色を取り入れた『セリーヌとジュリーは舟で行く』'74から始まる軽やかな作風に転じて観客も広がったが、この陰鬱でストーリーを追うのすら難しくあえて華に欠ける反ミステリー・サスペンス映画をデビュー長編にした意気には惚れぼれする。リヴェットは『セリーヌとジュリー~』の好評まで第2作『修道女』'66は上映禁止指定、第3作『狂気の愛』'68は4時間10分に完成したが配給会社に2時間に短縮され、『アウト・ワン』は1夜きりの特別上映に終わり、という調子で、『北の橋』'81、『地に堕ちた愛』'84『嵐が丘』 '85などはシネクラブ上映で熱心に観られていたが商業上映の初上映は1991年に単館公開された『彼女たちの舞台』'89までなく、翌92年に日本されたのが『美しき諍い女』'91だった。リヴェットは84分の小品『小さな山のまわりに』2009の後アルツハイマーとの闘病生活で2016年逝去、同作が遺作になったが2012年から世界各地で『アウト・ワン』完全版のニュープリントが公開されて再評価が高まり、2015年には英米で初ソフト化された(日本盤未発売)が、逝去前に本人が喜んでくれていたなら良かったな、と思う。短縮版『アウト・ワン・スペクトル』のエンディング(ジャン=ピエール・レオーの一人芝居)も忘れられないが、『パリはわれらの~』の全然ストーリーとは関係ないエンディングの突然の美しさも忘れられない。ロケ中に偶然見かけたからついでに撮っておいたのだろうが、『パリは~』というと観た人は10人中10人が「ああ、あのラストいいよねー」と口を揃えるのではないだろうか。輸入盤ではずいぶん前から出回っていたが、日本盤も出るとあってお薦めしやすくなって嬉しい。次いで待たれるのは『狂気の愛』と『アウト・ワン』の日本盤ソフト化だが、廃盤になっている諸作すら再プレスされないのでは無理だろうか。
●6月17日(土)
ジャック・ロジェ(1926-)『アデュー・フィリピーヌ』(フランス/イタリア'62-1-8)*110min, B/W
・監督のロジェはテレビ局スタッフが本業で、短編『十代の夏』'56がゴダールに注目され、ゴダールの推挽で製作されたのがこの長編第1作。以後1973年、1976年、1986年、2001年、2006年と散発的に自主制作長編があるがロジェといえば『アデュー・フィリピーヌ』以外には話題に上がらないくらい突出している。ヌーヴェル・ヴァーグ作品中でも突出した一作と言ってよく、プロのテレビ撮影スタッフが本業の人なのに映像は映画の映像構成や話法をまったく顧みない、いったい画面のどこに焦点があるのかわからないような断片的映像を羅列したようなものなのが大胆不敵で、過去一切の映画を参考にしていないんじゃないかと思わせる。話は単純で、あと2か月でアルジェリア戦争の兵役につくテレビ局の青年スタッフがCMエキストラでシェアルーム暮らしの二人の女の子と知りあい、女の子二人は青年をめぐって「フィリピーヌ遊び」(胡桃の実が二つに割れていたら、先に「フィリピーヌ」と言った方が勝ち)でどちらが気を惹くか競って遊ぶ。2か月間の遊びがおわり、青年は出征のため船出していく。見送る二人のヒロインを映したまま映画は終わる。大筋はそんなもので細かいエピソードはあるがキャストはカメオ出演で少し顔見せするジャン=クロード・ブリアリらを除けば街頭スカウトした素人ばかりでもあり、ほとんどのエピソードが中途半端なままワイプで次のエピソードに移るのでエピソードからストーリーが発展する映画ではない。ストーリー要素は極小で出会いと遊びと別れからなるプロットだけで映画の中味ができている。他愛ない青春映画のようでいてもっと別の何かを観たような気になるのは先行するヌーヴェル・ヴァーグ作品やジャン・ルノワールどころかグリフィスまで遡る既成映画を一切参照していないんじゃないかという作為をほとんど感じさせない映像で、実際にはロジェは戦後イタリアのネオリアリズモ最大の監督ロッセリーニを信奉しており、また本作にはフランス映画の発明者リュミエール兄弟の「汽車の到着」1885(46秒)に続く第2作「庭の水撒き」1885(49秒)と同じシーンがさり気なく出てくるくらいだから映画に無知なわけはないが、劇映画としては限りなくプライヴェート・フィルムに近い映像で全編が成り立っているのはなまじっかなドキュメンタリー作品よりも生々しい。『勝手にしやがれ』のジャンプカットは今では見分ける方が難しいが、『~フィリピーヌ』はジャンプカットを含まないシークエンスを見つける方が難しいほどで、構図もほとんどフルショットで人物をとらえているし会話にともなう切り返しショットや登場人物の視点によるショットもない。だからといって映画技法を分解しようとも独自構築しようとしているのでもなく、この映画と同じものは二度と作れないやり方で作られた映画と思わせる一回性が確かにあって、どんな映画もそれを主張はできるだろうが純粋に一回性だけで成り立っている映画はそう見当たるものではない。どこに焦点を結んでいるのかわからない大ロングショットで描かれるラストの青年の船出のシーンなどはまるで清水宏の『港の日本娘』'33みたいだが、1962年には'30年代の清水宏の映画を覚えている人はいても肝心の作品自体の上映用プリントが埋もれていた。第2作以降のロジェ作品を観る機会を逃してしまったので映像ソフトの再プレスを願うしかないが、早いものでも'70年代以降の製作になるというと本作にある開放感をそのまま期待するのは酷な気がする。