人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年6月18日・19日/初期のヌーヴェル・ヴァーグ作品(4)

 前3回ヌーヴェル・ヴァーグ作品を観直してきて、流れから言えば今回はエリック・ロメールの長編第1作『獅子座』'63を選びたいところですがロメール作品はいずれまとめて観直したいと思いまたの機会にしました。『獅子座』は後のロメール作品からさかのぼると異色作で、第2長編『コレクションする女』'66から晩年まで一貫するロメールの作風が始まりますが一見同じ路線のようでいてロメール自身が名づけた「六つの教訓話」「喜劇と格言劇」「四季の物語」シリーズは同一シリーズ内でも作品ごとにカラーがあり、別シリーズとなるとなおさらで、『コレクションする女』とロメール作品の日本初公開作品になった『海辺のポーリーヌ』'82では作者(そして観客)と作中人物の距離感に相当質的な変化が感じられます。ロメールは'60年代、'70年代、'80年代、'90年代、2000年代とも時代の空気から乖離しない映画を作り続けた稀有な映画作家でした。ヌーヴェル・ヴァーグ作品をまとめて観返すめったに起きない気分のついでに(監督ごとならその気も起きますが)、観直す気になる機会のあまりない作品を2本観てヌーヴェル・ヴァーグ作品の連続視聴はひと区切りつけたいと思います。どちらも青年時代に観て強い印象を受けた作品ですが細部はすっかり忘れており、今回観直してみてかつて観た時とはずいぶん異なる感想を抱いたので、それなりに観直した甲斐がありました。

●6月18日(日)
ルイ・マル(1932-1995)『鬼火』(フランス/イタリア'63-10-15)*108min, B/W
・『死刑台のエレベーター』'58、『恋人たち』'58、『地下鉄のザジ』'60、『私生活』'62に続く第5作にして日本初公開は本国公開から15年後、初めて観たルイ・マル作品なので印象が強かった。好きなフランス作家ドリュ=ラ=ロシェル(1893-1945)の原作映画化作品で、原作『ゆらめく炎』'31はドリュ作品では代表的な諸作『からっぽのトランク』『女に覆われた男』『奇妙な旅』『夢見るブルジョワ娘』『ジル』より一段落ちるが映像ではどうなるかと素朴な期待で観に行ったのもある。アル中のブルジョワ30男(モーリス・ロネ)の自殺までの2日間の彷徨を描いた作品だが原作は発表通り第1次・第2次大戦間の話なのに映画ではラストシーンで主人公が読みさしの本がF・スコット・フィッツジェラルド(1896-1940)だったのであれっ?と思ったのとサティの「ジムノペディア」「グノシエンヌ」が使われていたのはこの作品あたりが再評価の兆しだったのかもな、といろいろ有楽シネマ(だったはず)の暗闇で感心したのを覚えている。マルは第1作以降は本国での評価と観客動員数は下降する一方で『地下鉄のザジ』と本作は特に不入りだったらしいが、本作は15年も前の旧作なのにキネマ旬報年間ベスト10に入りもして、映画雑誌の年間ベスト10ほどくだらないものはないなと思うきっかけにもなった作品でもある。'30年代初頭ではなく映画製作時のパリに時代を変更してある、と気づいてから観直すとこの深刻ぶりは単なる気取りか、あまりに甘えたものに見える。原作小説の主人公になったダダイストの自殺者詩人ジャク・リゴーも、リゴーの友人でダダイストから愛国的対独協力者に転じてドイツ敗戦とともに自殺したドリュ本人も絶体絶命の絶望に追いつめられた人で、これは'60年代初頭のフランスには置き換えがきかない。スタイリッシュな映像と端正な演出がなおさら題材との違和感を増幅させていて、別に原作など関係なくオリジナル・シナリオとして観てもいいがこの映画、あまりに最初に結論ありきで何の逡巡もなく絶望一直線すぎやしないか。観客の想像力に訴えかけてイメージを喚起させようとするのではなく映画自体がナルシシスティックに完結していて見世物映画に止まり、観客を常に豊かなイメージに誘うカイエ派の映画作家たちともアラン・レネの佳作『ミュリエル』'62のように描けないものは描かず制約自体を映画的表現力に変える逆説的な方法でもなく、ヌーヴェル・ヴァーグの衣は着ているが映画意識はマルセル・カルネとは言わずともルネ・クレマンやジョルジュ=アンリ・クルーゾーらの世代とあまり大差なく見える。ジャンル映画の枠組みの中で犯罪サスペンスやメロドラマを作るのが本領で本作のようなシリアス・ドラマは柄にもなく、ジャンル映画でさえ企画に成否の大半がかかっており作家性は稀薄なのではないか。現代日本の若者言葉では中二病と呼ばれてしまう主人公の性格設定があまりに弱い。人間を描かなくても設定と状況をしっかり描いて成功した映画はたくさんある。もっと上手く観客を陶酔的に騙してくれる映画だという印象があったのでこんなに風化してしまった作品とは意外だったが、マルという本来職人気質の映画作家も資質と時代感覚と才能のアンバランスを抱えて大変だっただろうなと何となく同情したくなる。

●6月19日(月)
ジャン=ダニエル・ポレ/ジャン・ルーシュ/ジャン・ドゥーシェ/エリック・ロメール/ジャン=リュック・ゴダール/クロード・シャブロルパリところどころ』(フランス'65-5-19)*95min, Eastmancolor
・これは観直して発見の多いオムニバス映画だった。『素直な悪女』や『唇によだれ』『鬼火』の場合は背景を理解して映画の見方が擦れてきた分だけ限界が目についたが、本作や『アデュー・フィリピーヌ』は手当たり次第にさまざまな映画を一巡してから再び観直した方がダイレクトに真価が伝わってくる。映画の原点みたいなものを突きつけられたような気がする。短編6編からなるパリの各地を舞台にしたオムニバス映画という趣向も成功している。参加監督の顔ぶれもヌーヴェル・ヴァーグ第1世代の総括と言うに相応しく、翌'66年には第1世代の作家の作風も変化し第2世代の監督が台頭してきて、運動としてのヌーヴェル・ヴァーグは個々の映画作家の活動に解消されていくことになる。その兆しが見えるのも本作を面白いオムニバス映画にしている。製作はカイエ派映画作家の助監督を勤めてきてその後自身も監督になるバルベ・シュローダー。低予算のため撮影は16mm、上映用には35mmのデュープ・ネガに起こされ、実費以外のスタッフ、キャストは全員ノーギャラだったというのも人脈頼りの運動としてのヌーヴェル・ヴァーグはここで一旦お開き、という風情があってますます本作と価値を高めている。なお全6編とも担当監督自身のオリジナル・シナリオなのも撮り下ろしオムニバス映画ではありそうでめったにない、プロデューサーのシュローダーは人望あったんだなと感心する意欲作になっている。

◎第一話 「サンドニ街」(ジャン=ダニエル・ポレ/12min)
・短編『酔っぱらってりゃ…』1958でヴェネツィア国際映画祭で短編賞、以降不遇ながら生涯現役を貫いたヌーヴェル・ヴァーグ第2世代の代表格(1936-2004)。ポレ作品の常連主人公レオン(クロード・メルキ)が年増の娼婦を自室に連れ込む。先に食事をしようとスパゲッティを食べ、不器用な会話を交わす。友人も恋人もいないレストランの皿洗いの主人公の朴念仁さに年増娼婦は好感を持つがそれにも気づかない主人公とうかつに好感を抱いた自分に腹を立て、食事を中断して急かしてようやくベッドに入るが画面は暗転。「ちくしょう、停電だ」「あたしはかまわないわよ」終。滑ってばかりいるジャン=ピエール・レオーの饒舌さとは違うタイプだが、ポレ自身を投影した主人公のぎこちなさが実に良い。本作中最若手監督の前座的作品だが今観るともう'70年代~'80年代的なオフビート感覚があり目が覚めるような新鮮さがある。ヌーヴェル・ヴァーグ第2世代ではポレはリュック・ムレと並んで未だに日本未紹介同然の映画作家だが、輸入盤では廃盤の英語字幕つきDVDボックスが出ているようなので気長に中古市場に出るのを待つつもり。渋谷のどの館で観たか忘れたしその時はまったく印象に残らなかったが、今観直すとこれが本作最高の1編なのではないかと思われてならない。隠しカメラで撮ったらしく画質は本作中最低(笑)だがそれもこの作風とこの短編では成功している。

◎第二話 「北駅」(ジャン・ルーシュ/16min)
民俗学者でカイエ派ヌーヴェル・ヴァーグ作家から『私は黒人』'58で激賞されたルーシュ(1917-2004)の、『パリところどころ』といえば「北駅」と返ってくるくらい本作の白眉と名高い実験的作品。(1)工事現場の騒音に悩まされる高層アパートメントの外景に始まり、(2)その中層階に住む交際から4年、結婚から2年の30代夫婦の朝食から始まり、出勤支度中に口論になり妻はカッとして出てきてしまいエレベーターで降りて道をいそぐが、行く手をかすめた高級車の男にナンパされる。男はあなたとの出会いが唯一の救いだと駆け落ちを持ちかけ、ヒロインが断ると柵を越えて鉄道に身を投げ、(3)倒れた男を画面底部にとらえた大ロングショットで終わる。つまり16分のうち前後の(1)(3)が30秒ずつある以外は(2)の15分におよぶ1シーン(実質3シーン)1カットで構成されている。これはさすがに最初観て噂通りの実験性に驚いたが、技法から逆算したような平凡な内容なので最初観た時の技法的な驚きの確認でしかない。オムニバス映画中の猫だましには効いているし、一度は観ておくだけの価値はあるが、こういう才人の作はこれ1編で十分とも思わせられる。

◎第三話 「サンジェルマン・デ・プレ」(ジャン・ドゥーシェ/18min)
・監督ドゥーシェ(1929-)は『勝手にしやがれ』、『大人は判ってくれない』、リヴェットの『セリーヌとジュリーは舟で行く』、ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』へのカメオ出演でも知られるカイエ派の批評家出身。サンジェルマン・デプレの風景が点描され観光ガイド的文化的名所のゆえんを語る男女交互のナレーション。すぐに知り合ったばかりで男の部屋に来ているベッドの中の男女とわかる。女はアメリカから来て3週間の学生で、男はこれきりの関係としか考えておらず自分の仕事について思いつきの口実で女を追い出す。翌日彼女が美術学校に出席すると男はヌードモデルで、また別の男にナンパされる。今度の男は嘘ではなさそうだがヌードモデル男の出任せとそっくり同じ自己紹介をし、ヒロインは嫌気がさして男を振る。本作中面白さでも作風の個性も最下位の短編だが、観光名所が舞台の風俗映画としてはストレートにオムニバスのお題に答えた作品だろうから中盤の箸休めといったところか。

◎第四話 「エトワール広場」(エリック・ロメール/15min)
・パリジャンは見向きもしない凱旋門は観光名所ではあるものの生活する市民には交通障害の迂回路の源になっている、という真面目なナレーションに続いて真面目な洋品店社員の通勤が描かれ、すれ違った男に傘がぶつかり因縁をつけられてもみ合いになり男は仰向けに後頭部を打って昏倒してしまう。毎日が被害者発見のニュースが気になり気が気ではない主人公。だが2か月後地下鉄内で周囲の乗客に因縁をつけている同じ男を見かけて主人公はようやく安心する。ロメールはシャブロルと共著のヒッチコック研究が処女出版だった映画批評家出身だが、本格的に長編映画監督として再出発する直前に以後の作品とは似ても似つかない犯罪サスペンスを撮っているのが珍しい。無駄のなくほとんど台詞もないテンポ快調の佳作。トリュフォーの犯罪サスペンス系作品だと言われたら信じてしまいそうな短編だが、これを作ったのがエリック・ロメールなのが面白い。

◎第五話 「モンパルナスとルヴァロワ」(ジャン=リュック・ゴダール/14min)
・恋人の針金彫刻アーティストのアトリエを訪ねるヒロイン(ジョアンナ・シムカス)。実は別の男にもずっと口説かれていたけれど断る決心がついた、と告白してかえって彫刻家の怒りを買ってしまう。その足で自動車工の恋人を訪ねるがうっかり別れ話を書いた手紙を先に送ってしまっており、結局両方の男に見捨てられるハメになる。ゴダールはこの小咄が好きだったらしく長編第3作『女は女である』'61でも登場人物が同じ小咄をするが、映像化したのがこれ。他愛ない話だがぶっきらぼうな演出と映像センスで先の読める話を面白く観せてくれる。ゴダール作品中あってもなくてもいいような短編だが、名人の一筆書きの味わいがある。

◎第六話 「ラ・ミュエット」(クロード・シャブロル/16min)
・少年と両親、メイドと黒猫・縞猫2匹のブルジョワ一家。母親(ステファーヌ・オードラン)は倦怠した有閑夫人で会社重役の父親はメイドに手を出しながら少年の学校の成績に口うるさい。夕食を先に食べ終えた少年は夫婦の長話中(仲が悪いのに話だけは弾む)に猫と戯れ、祖父の肖像写真を叩き割り、両親の前で露骨に耳栓をして就寝の挨拶をする。翌朝から少年の居合わせる映像はすべてサイレントになり、夫婦二人だけのシーンのみ音声がつく。晩に少年が勉強中、夫婦喧嘩のすえに出て行く夫に激昂した妻は階段で転落事故にあい強く全身と頭を打って起き上がれない。耳栓を外した少年はモニター・スピーカーで母の呻き声を聴くが黙って家を出て街中を彷徨よう姿で終わる。『美しきセルジュ』『いとこ同士』の意地の悪い青春映画の印象の強いシャブロルだがその後は『殺意』'66、『女鹿』'67、『パーフェクトなんてありえない』'71、『ムッシュー・ベベ』'73などサスペンス映画に見せかけた悪意のブルジョワ家庭ドラマの映画監督に進展したので、この短編はシャブロル直球の好サンプルでちょっとした傑作になっている。さすがオムニバス映画のトリを飾るだけのことはある本気の1編で、こんなもので終わるオムニバス映画というのも思い切ったものだが、監督の力量では明らかにいまいちのドゥーシェ作品を含めても見応えがあり、かつ最短12分、最長18分、平均15分強とコンパクトな作品が並んで小気味よく一気に観られるオムニバス映画の好作でとても面白い。当時のフランスなど映画でしか知らない現代の日本人にはどれだけ作品が古びたか、古びていないかわからないのもあるが、それだってかえって鑑賞には好都合ではなかろうか。