人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年7月10日~12日/イングマール・ベルイマン(1918-2007)の'40年代作品(4)

 今回はベルイマンの監督作品第8作~第10作目までを取り上げます。年代は1950年に入りますが次作からスケールを拡大するベルイマンの作品歴ではここまでを初期と区切ってよく、第10作『夏の遊び』'51はベルイマン最初の名作と人気の高い作品になりました。第8作『歓喜に向かって』と『夏の遊び』は構成に共通点があり、第9作『それはここでは起こらない』はベルイマン本人も認める「注文仕事の失敗作」かはともかく作品系列の上では他に数作しかない異色作になりました。早い話がベルイマンのスパイ映画で、ベルイマン作品と思わずに観ればB級スパイ・サスペンス映画としてそれなりに楽しめるものです。『夏の遊び』の次作『シークレット・オブ・ウーマン』'52からはベルイマンはより多くの登場人物が織りなすドラマ作りに進むので、今回を'40年代の初期ベルイマンの総決算としてもいいかと思います。

●7月10日(月)
歓喜に向かって』Till gladje (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'50)*99min, B/W, Standard

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ベルイマン映画は何を置いてもとにかく撮影がいい。歴代カメラマンのグンナル・フィッシェル、スヴェン・ニイクヴィスト、ヨーラン・ストリンドベルイらはいずれも名手で、ベルイマン映画は大半が室内セット撮影だが照明の微妙な陰影をとらえており、屋外撮影でも晴れていてもどこか曇っているスカンジナヴィア半島の空気感が伝わってくる。残念なのはプリント状態に限界があるようで、定評あるクライティリオン社のリマスター版ソフトでもB/W映像の階調が潰れ気味で、良くないフィルムしか使えなかった撮影条件が察せられる。オーケストラ楽員のヴァイオリニスト、スティーグ(スティーグ・オリーン)と職場結婚した妻マッタ(マイ=ブリット・ニルソン)の夫婦生活の波乱を描いた本作(常連俳優ビルイェル・マルムスティーンは今回は楽団員のチョイ役)では『愛欲の港』『牢獄』から顕著になったヒッチコック『ロープ』'48流の長回しのカットがさらに工夫され、切り返しショットを使わず夫婦の会話を5分以上螺旋状に移動するカメラでとらえる、という大胆で洗練された用法に進んでいる。すると当然逆光になる構図も出てくるわけで、黒味の階調の潰れがますます惜しまれる。映画は枠物語の構成を取り、晩のコンサートのためベートーヴェンの『第九交響曲』をリハーサル中にスティーグに電話が入る。急ぎ帰宅したスティーグはガスオーヴンの爆発で妻マッタは即死、長女マッタは重傷入院という事態を知り、スティーグの回想が始まる。楽団員同士としての馴れ初め、離婚や中絶歴もあるマッタの過去、長女の妊娠から始まる結婚。スティーグに目をかけてくれる指揮者センデルビイ(スウェーデン映画の父と呼ばれる監督兼俳優ヴィクトル・シェーストレム<1879-1960>客演)はスティーグをメンデルスゾーンの協奏曲のソリストに抜擢するが、一時演奏中断するほどのミスをしてしまう。新聞にも酷評が載り、マッタに激励されるが落ち込んだスティーグは公園で座り込み、昨夜の公演を聞いたよという老俳優ミーカエルに慰められる。夜更けに帰宅するとマッタが戸口で立って待っていたが、スティーグが駆け寄るなりつわりを起こす。マッタの妊娠を知ってオーケストラ楽団員たちとスティーグの距離はますます縮まる。良い楽団員になるのは良いソリストになるのと同じくらい重要、とセンデルビイはスティーグに説くが、ソリスト志望のスティーグには納得できない。やがて長女が生まれて家庭は和やかになり、さらに第2子の長男が生まれるが、ソリストの芽が出ない自分に苛立ったスティーグはミーカエルの若い妻ネリーに言い寄り、スティーグとマッタは別居状態になる。ミーカエルもネリーがスティーグのもとに走る覚悟をしていたがネリーはスティーグを拒み、スティーグはマッタに謝罪と和解を乞う手紙を書く。マッタはスティーグを許して結婚生活は再出発する。スティーグは回想から覚めてコンサート会場に向かう。センデルビイにいたわられ、演奏できるか訊かれてスティーグはうなずき、初めてオーケストラの一員に溶け込んで演奏する実感をかみしめる。客席ではスティーグとマッタの幼い長男が音楽に聴き入り目を輝かせている。90分を切る作品も多いベルイマン初期作品中99分と比較的長いのは演奏シーンがあるからで、ドラマ自体は同じ夫婦ものでも煩雑な構成だった前作『渇望』から一転して明快だが、この回想形式にはあまり効果がないように感じる。主演のスティーグ・オリーンは『危機』ではプレイボーイの情夫、モランデル作品だが『エヴァ』では妻を友人にけしかける男、『牢獄』では娼婦のヒモ、『夏の遊び』ではバレエ教師と何でも演らされて役柄の多彩さと起用頻度はビルイェル・マルムスティーンに次ぐ。どちらかというと困った軽薄薄情男の役が多く、本作のようなシリアスな主人公役は他にないが、オーケストラ楽団員ともなれば身なりもきちんとしているから馬子にも衣装で役柄相応に見える。本作と『夏の遊び』は構成に共通点があり、映画の始まりと終わりが現在で回想が挟まれている枠物語形式だが、回想の中でもエピソードごとに時間が前後するでもなく過去から現在まで一直線なので、この構成から何を描き出したいのか手法が生み出す効果と内容にふさわしい語り口が一致していない。あえて言えば回想形式を取ったことでエピソードが断片的だったり省略や飛躍が多くても回想だからで気にならないことくらいだろう。作品の意図は明らかに前作『渇望』の夫婦関係の探求の続きだが、歩み寄って夫婦円満になった矢先にガスオーヴン爆発というのも、それが主人公の意固地さを捨てさせ楽団員の一人として演奏することに意味を見出すというのもそういうこともあるかもしれないが、何だかお話まで芸道ものの書き割りめいていて他に工夫はなかったのだろうか。ちなみにシェーストレムはのちの『野いちご』'57で主役を張り、サイレント時代でも聾唖の観客が観てもおかしくないように字幕通りの台詞を俳優にしゃべらせたという人だが、本作の指揮者演技は噴飯ものだそうで確かにオーケストラの演奏もひどい。わざとやっているのかと思ったがシェーストレムに関する限りわざとやっているわけではないらしいのがかえってとぼけた可笑しさを感じさせる。ベルイマンとしては『牢獄』『渇望』と難しい映画が続いたので本作は構成・内容ともわかりやすい作品にしたかったのかもしれない。

●7月11日(火)
『それはここでは起こらない』Sant hander inte har (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'50)*81min, B/W, Standard : https://youtu.be/06ppAeIUCjg

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・封切り当時はスウェーデン以外ではイギリスと西ドイツのみで公開され、その後ベルイマン本人によって本国以外の国外上映を商業非商業問わず拒否された作品。今回動画サイト上の視聴でようやく観る機会を得たが、ベルイマン作品を全部観ると決めた人でもない限り検索すらしないのではないか。さて、これは反ナチの寓意かスターリニズム批判かわからないが、架空の独裁制国家リキダツィアのスパイ、アクテ・ナタス(ウルフ・バルメ)はストックホルムに亡命した化学者の妻ヴェーラ(シングネ・ハッソ)のもとを訪問し自分も亡命したいと打ち明ける。ヴェーラは亡命希望者援助組織の一員だった。現在のヴェーラの恋人で秘密刑事アルムクヴィスト(アルフ・シュリーン)は地元の警官と亡命者の死亡事件を調査しながらヴェーラと連絡を取る。 ナタスは現在スウェーデンにいるリキダツィアのスパイのリストを持っており、アメリカに売ろうとヴェーラに持ちかける。ヴェーラはナタスを薬で眠らせ書類を奪って組織にナタスを引き渡しアルムクヴィスト宛てに書類を送るが、ナタスを織ったリキダツィアのスパイに追われる身になる。ナタスは自殺し、捕まり拘束されたヴェーラはリキダツィアのスパイたちからナタスとの共犯を追及されるが間一髪アルムクヴィストに助けられる。映画も悪くはないが、それよりベルイマンの弁解の方が面白い。「一生に一度だけ経済的な理由のために映画を作ったことがあります。その時たった一度だけ、至急にお金が要るので映画を作りました。私は何回も結婚したり離婚したりしているので妻も子もたくさんいます。お金が要ります。そのため私は1本の映画を監督しました。それは一種の犯罪映画でした。……準備開始後10日か20日して突然私は考えつきました。ヒッチコック風のお話にしたっていいんじゃいか。おれはヒッチコックが大好きだ。よし、決めた。おれだってそういうのを作ってはいけない道理はない……。ですが、撮影を始めて10日から13日くらい経つと、私はスタジオの中にボンヤリ立ってこう思うようになりました。おれはこいつから抜け出なきゃいかん。もう我慢できねえ。おれは何やってるんだ?おれは何てバカなんだろう。実際それはひどい映画でした。とは言ってもほうり出すわけにはいきません。現に大勢の人間がこの作品のために働いているんですから……。何とか我慢して先へ進み、残り35日間でどうやら一本まとめあげました。芸術家としちゃあ生涯最大のお荷物でしたよ。この話にはオチがあって、映画が完成した頃会社にはお金がなくなり、私は給料ももらえませんでした。天罰ですかな。モラルの実習でした」(『ベルイマンは語る』青土社1990年刊/原著刊行1983年)。'60年代の文献では「注文仕事」と発言していたから'80年代には失敗の原因は自分にあると認めるようになったのがわかる。作者自身がこんな発言をしているものをあげつらっても仕方がないが、こんな作品でも陰鬱な雰囲気にはそれなりに見所があり、娯楽映画としては欠点だが別れた夫を組織の拷問に引き渡すヒロインのヴェーラがちっともヒロインらしくないとか、その恋人の秘密刑事アルムクヴィストがヴェーラに惑わされている間抜けに見えるとか、ナタスは結局本当に亡命希望者だったのか亡命者組織をおびき出すおとりだったのかはっきりしないし、何にしろナタスに一服盛ってスパイ・リスト持ち逃げするヴェーラはいかんだろ、敵味方の両方に追われても自業自得だろと穴があったら入りたいほどツッコミ所がある。ベルイマンは多作の監督だから数本ははっきり失敗作と認めておいた方が正直者と褒めてもらえる、という打算から本作を生け贄にしたのが先に引いた発言からは感じないでもない。リンクを引いておいたので「ヒッチコックをパクったベルイマン」の実物をご覧になりたい方はどうぞ。ただし無字幕なので、スウェーデン語に通じない方は(筆者もそうしたが)内外の映画情報サイトで細かくあらすじを知ってからのご観賞をお勧め……とは無理にお勧めしない。

●7月12日(水)
『夏の遊び』Sommarlek (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'51)*96min, B/W, Standard

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・第6作『牢獄』が最初のベルイマンのテーマと手法の独自性が芽生えた作品ならば本作はベルイマン最初の名作として名高いもの。バレリーナのマリー(マイ=ブリット・ニルソン)は新聞記者ダーヴィッド(前作『それはここでは起こらない』の秘密刑事アルフ・シュリーン)と結婚するかバレリーナを続けるか迷っている最中に差出人不明の古い日記を受け取る。それはマリーが15歳でバレエ学校の生徒だった13年前のひと夏の恋人、学生ヘンリック(ビルイェル・マルムステーン)の日記だった。日記を追いながらマリーはその夏の思い出の島を訪ねる。バレエ学校の生徒だったマリーはサマースクールに向かう途中にヘンリックに出会い、ともに孤児の二人はすぐに共感から恋に落ちた。マリーは養父の伯父エールランドに迫られて性的関係を持っており、またマリーがバレエに打ち込み過ぎることにヘンリックは嫉妬する。島に着いた現在のマリーはヘンリックの養母の伯母に再会し、伯母の当てつけに傷つくヘンリックをマリーが慰めたことでさらに二人の愛は深まったのを思い出す。夏も終わり、しばらくの別れを惜しんで二人は海岸でひそかに婚約するが、直後に飛び込みに失敗したヘンリックは死亡してしまう。島の別荘に着いたマリーは伯父を訪ね、日記の送り主は伯父で、マリーを呼び戻して愛人にする意図を知り、二度と会わないと告げて立ち去る。舞台稽古前に訪ねてきた婚約者ダーヴィッドを待たせた間にバレエ講師(スティーグ・オリーン)から受けた皮肉でずっとひきずっていた気持のしこりが解けた彼女は日記をダーヴィッドに見せ、私の全てを知った上でなら、と求婚への返事をして舞台に出て行く。ベルイマン映画は変な顔がぞろぞろ出てきて美男美女はほとんど出てこないが、本作ではヘンリックの養母の老伯母の堂々とした口ひげもすごいがバレエ教師の尖った鼻(つけ鼻だろうが)もすごい。枠物語形式では『歓喜に向かって』を踏襲するが本作では現在と過去の比率はほぼ半々で、現在の進行と平行して回想も進行する細かいフラッシュバック手法が使われており、やはりのちの代表作『野いちご』の先駆的作品になっている。回想の出来事とはいえ15歳のヒロインが打算的に養父の伯父と肉体関係を持つのがごく当然のように描かれる、ヒロインの恋人が突然事故死するなど相変わらずのベルイマン節だが、結末は具体的にはバレエも結婚も両方選ぶのを認めてくれるなら、ということだろう。マリーは恋人の死以来喪失感をバレエで埋め合わせてきてそれを自覚していなかったが、結婚にためらいがあったのは結婚によってバレエを続ける動機を失う予感が無意識にあったからだった。これまでそうしてバレエを踊ってきたのを恋人の思い出ともども肯定するとともに、結婚によってバレエを辞めるという選択もせず求婚を受け入れる。そういう結論に至るまでのマリーを現在と過去の照応から描いているのだが、とにかくこれまでのベルイマン作品の良い要素が10作目にしてすっきりと均衡良く揃っている。野外ロケの比重もこれまでで群を抜いて多く、フィルムも一段高感度のものを使っているのかクライティリオン社の2012年リマスター版を観ると同社からのリマスター版でも'40年代のベルイマン初期作品群中画質も一段上になっている。実はマリーも婚約者ダーヴィッドも含めて感じのいい登場人物は一人もいない、唯一死んだヘンリックだけがナイーヴなのだがナイーヴとは純真といえば聞こえはいいが世渡りでは損をするお人好しなので、ヘンリック以外の登場人物は他人を食い物にする習性が身についたベルイマン流のゲスな俗人ばかりなのだが、これは結局現在のマリーならばヘンリックではなくダーヴィッドを選ぶことにマリーも気づいたということになる。恋人の事故死で終わったひと夏の恋の思い出にとらわれたヒロインが恋人の日記を読んでその夏を回想し婚約者との結婚に踏み切るまで、と要約するとこういう映画なり小説は70年前も70年後も焼き直し続けられると思うが、誰でも上手くやれるかというとそうはいかない。『牢獄』にあった手回し映写機のサイレント喜劇同様本作にもレコード・ジャケットに描いた落書きがアニメになるギャグの余裕もある。普通にヨーロッパの戦後映画名作リストに上げられるこなれた大衆性とほど良い芸術性を備えており、32歳で10作目の監督の充実した成功作として年齢とキャリアに見合った、無理な背伸びもない完成度の高い作品。このハッピーエンドの欺瞞のなさもいい。

*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。