人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

K県Y拘置所・未決囚監の思い出(5)番外/メンタルヘルス編

 留置場と拘置所の違いは先に書いた。前回は拘置生活中の衣食住について書こうとしてかえって話題は散漫になってしまった。作文にはありがちなことで、あまりに体験からの創傷が深いと感情抜きに綴るのは困難極まりなく、強すぎる怒りや憎悪は集中して的を射るより暴発して四方八方に散る。10年前、2007年の6月23日から9月5日の足かけ4か月、この作文の筆者は警官・刑務官監督下に置かれ24時間留置場~拘置所に監禁された。裁判後の懲役刑でも禁錮刑でもなく告訴確定までの留置場での禁錮、裁判終了までの拘置所での禁錮だから命じられた通りの環境整備(つまり掃除)以外に布団の上げ下げがあり、拘置所では体操や運動、昼寝など命令事項が増えるが基本的には一日は禁錮で始まり禁錮に終わるので、この精神的な閉塞感は多くの感覚を異常に至らしめる。

 まず留置場では昼夜と日時の感覚が食事と就寝命令、起床命令にしか寄りどころがなくなるので正常な時間感覚を失い、時間感覚の失調は記憶の錯誤を招き、そうした状態での閉所監禁は空間感覚の失調さえももたらす。時空間ともに感覚の失調状態のままほとんど無刺激に近い低刺激の持続的監禁が続くとやがて低刺激を突き破るように幻覚、幻聴が出現する。ある時は耐えられずメラミン樹脂製の茶碗を鉄扉の格子窓部分に投げつけたが、三畳間ほどの空間で鉄扉までは優に二車線あまりの距離に感じられて、硬化プラスチック製の茶碗は粉々に砕けた。だが人の体は通り抜けられないにしてもメラミン樹脂茶碗程度ならば格子窓の格子の幅を通るはずで、握り拳も通らないほどの狭い格子とは分かっていてもなぜ留置場の当直警官に向けて投げた茶碗が砕けて弾けたのか理不尽な事のように感じて憤懣やる方なかった。つまり怒りと憎悪とはこうした分別のない激情を生み、時に無駄な暴発を引き起こす。

 完全に錯乱していたのであればこんな事も覚えているわけはないのだが、結果的に自分自身でも強いショックを受けるので忘れられようもない。冷静な観察をしていた自分と錯乱した自分に人格が分かれていたのではない。精神障害者である自分は病相状態で陥ったほとんどの異常について克明に記憶しているが(前後関係の錯誤はある)それは重篤状態でも異常それ自体を自覚していたからではなくて、異常体験そのものに常に強いショックを受けていたからであり、正常な判断力による自己認識が働いていたことによるものではない。

 精神障害者にとっての重篤な病相がしばしば神秘体験として語られるのは同じ理由によるもので、現実法則では起こり得ない超常現象を現実の次元で経験してしまうと主体者は主観的認識の上では確かに起こり得ないことを体験した、という衝撃を受けることになる。10年を経てたかだか足かけ4か月、留置場には6月23日~7月30日までの38日間、拘置所には7月31日~9月5日までの37日間、計10週間と5日の間の獄中生活に過ぎないのに毎日が死の前夜のような夜を経験していた。明日という日が信じられなかった。これは75日間強制拘置監禁されてみれば、つまり行政機関によって人生から突然今日から75日間を強奪されてみれば(しかも最後の一週間まで釈放=監禁終了の期日を知らされずに突然の獄中生活を強いられれば)誰にも分かる、とは言わない。この経験は誰とも共有できないし、説明すればするほど体験と言葉の乖離の虚しさを噛みしめることになる。

 獄中体験を経た誰もがおれはおまえらとは違う、という精神生活をくぐってきたとは断じられないが、国法の下で人は法によって護られているという意識で従順な国民と、国家と全裸で対立する経験を経て法によって罪人とされ生存権を蹂躙される立場に甘んじた悪い国民に大別される。この悪い国民はもはや国法の義を信じず、行政機関などについては自分の都合の良い部分だけ利用しようとしか考えない。悪い国民から見れば法は国民を護るために存在するのではなく、大半の従順な国民を従わせることで国家自体が巨大な権力機構として存続するための詐術にすぎず、それは常に一定数の有罪者を保有することで世論の反抗に釘を刺している。この作文の筆者がどちらの側にいる日本国民なのかはいうまでもないだろう。

 ちょうど10年前は獄中で過ごしたひと夏で、蝉の鳴き声が始まる前に拘置され出所するともう蝉の季節は終わっていた。物心ついて蝉の鳴き声を聞かない夏は40代前半にもなって初めてだった。生涯に年の数しか巡ってこないひと夏を国家的な暴力によって奪われたのだ、とはっきり分かった。そして当時9歳の長女と6歳の次女とは先10年も一度も会えないままになる、と当時は知る由もなかった。執行猶予つき判決による釈放は事実上社会的落伍者、無用者としての生活の始まりだった。5年目前後がもっともつらい時期で、2年半=30か月のうちに4回の精神病棟への入退院をくり返して合計入院期間10か月におよび、入院のたびに女性患者からの煩わしい接近に苦しめられた。離婚後5年、というのは別れた娘たちと再開し得たとしたら面影を見出せるおそらくぎりぎりの時期で、それを過ぎたらもう娘たちと再開しても記憶にある娘たちの面影は求めるべくもないだろうと覚悟を決めなければならなかった。

 入退院のたびにもう諦めなければならないことが一つまた一つという具合に明らかになり、そうして断念していかないとまた病相を悪化させ次の入退院に至るのを何度も経験し、4回のうち2回は衰弱死または事故死寸前で緊急搬送されたのだから今のところ最後の入退院を経た後はほぼ完全に私生活の人的交流は一掃した。病状の悪化はこれまで決まってリハビリを試みた結果対人関係ストレスでてやんでーバカヤロー状態に陥り、双極性障害 I 型かつアスペルガー症候群精神障害者の場合これは危険な躁転の兆候で2週間もすれば精神的昏迷状態と不眠絶食過活動による身体衰弱に陥る。

 今回は拘置所の思い出と題しながら入獄経験の後遺症によるメンタルヘルスの危機に話題が移ってしまったがこのまま進めると、結局病状の安定のためには昔のバンドメンバーを含む旧友とも疎遠になり、教会の礼拝にも行かず(筆者はクリスチャン家庭に育ったプロテスタント派のクリスチャンである)、自治体ヴォランティアによる患者会の参加も止め、地元の芸術家サークルとも縁を切った。お前らに何が分かるバカヤロー、と自分を攻撃的に躁転させる人間関係をすべて整理し、そして生活の必要でありまた義務として市の福祉課、かかりつけの医院への通院くらいになっている。

 筆者が生活保護需給資格者なのは財産・収入が皆無だからだが、勤労が不可能なのは精神疾患を主とする障害に基ずき、障害が認定されている以上定期通院による受診治療義務が伴うから通院は責務なので、福祉課担当ケースワーカーさんと面談するのは毎回努力をふりしぼるのだが通院ならば精神科、内科、眼科、歯科ときどき整形外科、耳鼻科、皮膚科など医療の話しかしないし自費免除の生保受給者だからと差別されることもない。かえって通院が気晴らしにもなっている。出所後もう10年来通院しているから顔も名前も覚えられているし、何より先方がこちらの健康状態を経過観察し把握してくれている。身体的には10年前の初診当初よりずっと健康になった。双極性障害の方は生活環境と生活習慣の抑制でこの精神疾患では理想とされる軽鬱状態で安定している。

 ただしこれは薄氷の上でスケートしているようなものだ。昔やっていた嫌な仕事と仕事仲間、しぶしぶ人前でジャズ演奏する夢、これまでつきあった女性たちとなかんずく別れた妻、そして10年前の容貌のまま年齢は19歳と16歳なのだと承知している娘たちの夢をよく見る。現在を失っているから過去の夢ばかりをくり返し見るのだが、ハッと目が醒めて心から安心するのだ。もう嫌な仕事も仕事仲間もいないのだ、人前でサックスを吹くこともないのだ、女とひとつ布団を分けて眠ることもなく部屋にはおれ一人だけが誰を気にすることもなく寝ていて、それに別れた妻は娘たちの養育の感謝をされるのは現実では嫌うし、何より娘たちと現実に会う苦しみを思えば夢なら夢というだけで済む。これら薄氷が現実の人間関係によって破られる時、再び感情の暴発と病相の急激な躁転、そしてヴァイタルの危機がやってくる。

 双極性障害疾患者の病状サイクルは生涯で8回程度らしいが、おそらくあと1、2回の悪化を経験すれば病状の慢性化によって自宅療養では済まない、生涯入院に至る可能性もある。双極性障害そのものが完全な完治はなく生涯通院治療によって安定を図るしかないものだが、慢性化して生涯入院に至った患者たちは入院時に間近で見てきた。もし筆者が慢性化に至れば、この程度の作文を書く能力すら失われてしまうのは想像するに容易く、現に今回思いつくまま書き進めて獄中体験記でも何でもなくなってしまったのも(結果的には入獄経験から精神疾患への移行という体験の回想記にはなっているが)今朝の軽鬱状態による不安が作文への集中力を甚だしく拡散させてしまったからに違いない。今回は仕方ないのでこの内容で勘弁させていただきたい。次回ではちゃんと獄中体験記の体をなしているものを書きたい。

 書きたい、と予告だけなら何でも言えるが、このシリーズは書いていてあまりに苦痛なのでこれまでの回を読み返さないで書いている。たぶん留置場の被疑者への処遇についてはそこそこ書いたので、次の舞台は拘置所になる。いやその前に、苦痛でもこれまでの分をちゃんと読み返しておかなくては。