人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年9月21日・22日/ レオ・マッケリー(Leo McCarey, 1898-1969)のコメディ映画(3)

 アメリカ映画の監督の中でマッケリーは戦前の日本ではキング・ヴィダーに次ぐ名匠としてフォードやスタンバーグ、ワイラーと並ぶ人気が映画人(監督、批評家)、観客ともにあり、戦前にはイギリス時代の作品が3本公開されただけだったヒッチコックやギャング映画のイメージが強かったウォルシュやホークスより評価が高かったのが昭和初期からの日本の映画人の著書を読むと知られます。国民性というのもあるかもしれませんが、アベル・ガンスやマルセル・レルビエ、ルネ・クレールやデュヴィヴィエなどフランスの映画監督なども本国での人気よりも諸外国での人気の方が長期に渡って高かったらしく、自国の映画ほど旬を過ぎると忘れられるのが早かったのは戦前すでによくある現象だったようです。マッケリーの場合は作品のブランクがちょうど作品の少なかった太平洋戦争の5年間と重なったので日本未公開の作品がほとんど生じずに済みました。数少ない戦時中の作品で日本未公開に終わったのがマッケリーには珍しい反ナチ映画『恋の情報網』で、終戦の前年の作品でアカデミー賞を大量に獲得してマッケリー最大のヒット作になり、日本でもいち早く敗戦の翌年に公開されたのが一世一代の代表作とも言える『我が道を往く』です。『我が道を往く』の翌年には続編『聖メリーの鐘』が公開され、この2作がマッケリーのキャリアのピークになりました。映画監督では空前絶後の全米長者番付第1位になったのはこの時期で、時代の寵児とも言えたマッケリーは、戦後には急激に過去の人になってしまいます。なぜそうなったか、というのも『恋の情報網』と『我が道を往く』をじっくり観直すと見えてくるような気がします。今回でマッケリー編はお終いですが、7作しか取り上げられなかったのが残念です。あとせめて『人生は四十二から』『明日は来らず』『聖メリーの鐘』『善人サム』『めぐり逢い』あたりは観直したかった心残りがありますが、いずれまた未見の作品ともども観直す機会があればご紹介したいと思います。

●9月21日(木)
『恋の情報網』Once Upon a Honeymoon (RKO'42)*115min, B/W; アカデミー賞録音賞ノミネート。

イメージ 1

イメージ 2

(「キネマ旬報社」データベースより)
日本未公開・DVD発売(アイ・ヴィー・シー)
ラブロマンス
[ 解説 ] ジンジャー・ロジャースケイリー・グラント共演によるラブコメディ。オーストリアの男爵との結婚を控えるアメリカ人・ケイティの下に、ある日ひとりのジャーナリストが現れ……。監督は『我が道を往く』のレオ・マッケリー。1938年、ナチス支配下にあったウイーンで、アメリカ娘のキャサリン(ジンジャー・ロジャース)はオーストリアのフォンルバー男爵(ウォルター・スレザック)と結婚する事になっていた。一方、彼がヒトラーと組んでいる事を知った新聞記者パット(ケイリー・グラント)は彼女から情報を聞き出そうと彼女に接近し、彼女が結婚した後でもそれは続いた。やがて男爵の悪行を感じだすと共に、キャサリンはパットが好きになっていき……。
(アイ・ヴィー・シーDVD内容紹介より)
[ 内容紹介 ] ジンジャー・ロジャース×ケイリー・グラント! 戦乱のヨーロッパを駆けめぐる知られざる愛の大戦争! ミュージカルの女王とヒットラーの側近貴族が結婚した。 さあ大変、ドイツの世界征服を助ける一大事だ。米社交界の粋なニュースキャスターが彼女に接近して夫婦仲をぶち壊そうとする。陰謀に巻き込まれて危機また危機のコミック風、シチュエーションを変えて8つの国を飛びまわり、ユダヤ強制収容所で抹殺されかけた彼女を救え!才気みなぎる恋のダイアログがマシンガンのように飛び出す、のちのスピルバーグ・アクションのお手本になったハイ・スピードのロマンティック・コメディ。スーパースター街道まっしぐら、人気絶頂の軽妙なグラントと『恋愛手帖』でアカデミー賞を受けた直後のロジャースが、つぎの『我が道を往く』で作品賞と監督賞に輝く巨匠マッケリーとトリオを組んだ。
(「Oricon」データベースより)
[ 内容 ] 戦時下の欧州に飛んだラジオ通信員と、人妻の恋を描いたラブコメディ。サスペンス風味も織り交ぜられた娯楽作。ジンジャー・ロジャース、リー・グラントほか出演。

イメージ 3

 ジンジャー・ロジャース(1911-1995)といえばフェリーニがそっくりさん芸人コンビの老年を描いた晩年の佳作『ジンジャーとフレッド』'85を捧げたほどの伝説的なミュージカル映画のスターで、フレッド・アステア(1899-1987)と共に『空中レビュー時代』'33の脇役で初共演してたちまち注目され、翌年のアステア&ロジャース初主演作品『コンチネンタル』'34*から『ロバータ』'35、『トップ・ハット』'35*、『艦隊を追って』'36*、『有頂天時代』'36、『踊らん哉』'37*、『気儘時代』'38*、『カッスル夫妻』'39と7年の間に9作、うち8本もの主演作品がRKOピクチャーズで製作されトップ・スターの座に就いた女優です。アステアとの性格的相性はあまり合わず、コンビを組んでいた期間は長くなかったわけですが、アステア&ロジャース主演作8作品中5作(*)を監督した早逝の名匠マーク・サンドリッチ(1900-1945)と共にアステア&ロジャース作品全9作は映画中の映画として愛されているミュージカル映画の至宝です。ところでコンビ解消後のアステアはリタ・ヘイワースビング・クロスビーとコンビを組みミュージカル俳優の道を変えませんでしたが(クロスビーと組んだサンドリッチ作品『スイング・ホテル』'42は特大ヒット曲「White Christmas」を生みました)、ロジャースは演技派女優を目指して歌も踊りもない映画出演を選びました。サム・ウッド監督、ダルトン・トランボ脚本のヒット作『恋愛手帖』'40で初めてロジャースはアカデミー賞にノミネートされ主演女優賞を獲得します。戦後にウッドがハリウッドのマッカーシズム(反共産主義運動、「赤狩り」)の先鋒に立ち、トランボが共産主義シンパのかどで匿名脚本家に身をやつし潜伏を強いられるのを思うと複雑な気分になりますが、ウッドは戦前~戦中にはマルクス兄弟映画最大のヒット作『オペラは踊る』『マルクス一番乗り』の監督、ゲイリー・クーパーの代表作『打撃王』の監督、ヘミングウェイ原作でダドリー・ニコルズ脚本かつクーパー主演でイングリッド・バーグマンのハリウッド進出初の大ヒット作『誰が為に鐘は鳴る』の監督でもあったわけで、愛国主義者で右翼のウッドと批判的愛国主義者で左翼のトランボが理想主義において一致する時代、というのがあったわけです。一方マッケリーといえば右翼に傾かず左翼を排斥しないノンポリ自由主義的理想主義者でした。『恋の情報網』の次作『我が道を往く』とその続編『聖メリーの鐘』'45で最大の成功を収め全米長者番付第1位の映画監督にまでなったマッケリーですが、戦後のヒステリックなマッカーシズム共産主義者を告発しない態度までもが共産主義シンパである、というほどファッショ的にエスカレートしたもので、マッケリーのような中立的自由主義者ですら圧力を受けるようになります。旧作『邂逅(めぐりあい)』をケイリー・グラント、デボラ・カー主演でセルフ・リメイクした『めぐり逢い』'57を最後のヒット作に、マッケリーの遺作は逝去7年前の『誘惑の夜』になりましたが、初期のコメディ短編から全104本の監督作品があるマッケリーは1969年の逝去までの晩年20年間の監督作品は6作に激減します。ホークスやハサウェイの晩年までの創作力の持続と較べて一見柔軟なマッケリーは、やはり自作のセルフ・リメイクばかりになっていったキャプラと似て、盛りを過ぎると凋落と見られるような履歴をたどることになりました。さて、なかなか本題の『恋の情報網』の話に入らないのは本作は第二次世界大戦中に映画監督なら全員撮っている戦争映画で、マッケリーは自分の土俵に反ナチ映画の題材を近づけようとしているのですが、戦時中に製作された反ナチ映画の名作として思い浮かぶヒッチコックの『海外特派員』、フォードの『果てなき船路』、ラングの『マン・ハント』、ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』、ルノワールの『自由への闘い』、ウェルズの『恐怖への旅』、ジンネマンの『第七の十字架』、ワイルダーの『熱砂の秘密』、ホークスの『脱出』、極めつけ『チャップリンの独裁者』のようには上手く行っていると言えない作品です。強いて言えば設定を裏返したコメディ版『カサブランカ』(マイケル・カーティス)と言ったところでしょうか。反ナチ映画ではナチ党員を暗殺するのは普通に正義として描かれているのが困りものですが、ナチ党員=戦闘員という解釈で非戦闘員である一般ドイツ市民とは異なり、国際法違反にもならないのでしょう。前記の反ナチ映画はまだ映画としての格調が陰惨さに陥らない線に映画を留めていますが、マッケリーもまた陰惨荒涼とした映画など作りたくない監督です。かと言ってヒロインが愛国的使命感からナチ党員の夫の正体をジャーナリストのケイリー・グラントと協力して暴いて抹殺するのはマッケリーのセンスからは楽しくない。「アイ・ヴィー・シーDVD内容紹介より」の「ミュージカルの女王とヒットラーの側近貴族が結婚した」というのは女優のキャリアと役柄を混同している間違いで、ロジャースの設定はヨーロッパ遊興中にオーストリアの男爵に見初められたアメリカ人のブルジョワ娘です。婚約中からグラントがロジャースと男爵に探りを入れるのですが、ロジャースは男爵が反ナチの愛国者貴族を偽っているのでグラントの説明を信じず男爵(ウォルター・スレザック)もグラントに圧力をかけてくる。結婚したロジャースはもって回った8か国もの新婚旅行の行程で少しずつ夫の正体に気づき(「私たちが立ち寄る国って次々とドイツに侵略されるみたい」という台詞が可笑しい)、いつしかナチ党員の夫の職務を妨害するようになりつつグラントの協力者になっていく経緯が、直接にはアメリカ軍部からの士官にロジャースが説得されるシーンがあるもののグラントとの信頼関係がいつ成り立ったか説得力に乏しく、登場から中盤まではドスの効いた不気味な怪人物に描かれていた男爵が後半急にコミカルな悪玉になってしまう、男爵にスパイ行為がバレて抹殺されそうになりグラントと逃げたロジャースが二人とも逃亡ユダヤ人と誤解されて人種衛生収容所に拘置される、解放されると思ったら英語国向け宣伝放送の仕事を強要されグラントの演説の機転で男爵を失脚させて一矢報いる(この手口はラングの別の反ナチ映画の怪作『死刑執行人もまた死す』と似ています)のはともかく、直後に唐突にロジャースとグラントの帰国のシークエンスになるのは納得のいく手順の省略がはなはだしく、グラントの用事でロジャース一人がデッキに佇んでいると……と最後の大事件が起こり、あと一波乱起こして観客サービスしよう、という取ってつけた観はなくむしろ必要な結末ですが、この結末の描き方がよく言えば痛快、悪く言えば乱暴で、スクリューボール・コメディならこの唐突にぶった切ったようなエンディングもありとおもいますが、コメディとは言え反ナチ戦争映画にしては適当に過ぎてすっきりしません。先に引き合いに出した成功した反ナチ戦争映画の監督たち、チャップリン、フォード、ラング、ルビッチ、ルノワール、ホークスヒッチコックらは映画作家として題材を自己の作風でねじ伏せる強靭な個性と力量でマッケリーより上手だったと認めずにはいられません。老練な職人監督カーティス、マッケリーよりひと回り若い世代の俊英ワイルダー、ジンネマン、ウェルズの作品よりも本作は骨格が弱いのは否めず、得意のスクリューボール・コメディ流儀で反ナチ映画をこなそうとして焦点の定まらない作品になってしまっています。最高におかしいコメディと痛烈な反ナチ映画の両立はチャップリンとルビッチがやってのけ、ワイルダーの『熱砂の秘密』もコメディとサスペンスの両立を上手くこなしていますが、要するにマッケリーはナチスやヨーロッパの戦禍といった世界の負の面や悲惨を描ける監督ではなく、マイケル・カーティスのように職人的にそれらしいムードを書き割りにするほどぬけぬけとした図太さにも欠けていた、と言えます。115分もの長さになってしまったのはそのためで、90分台にテキパキとまとめたらずっと密度の高い作品になったでしょう。もっとも本作はマッケリー・プロ作品とはいえ時局の要請に応えた作品でマッケリーの本意ではなく、マッケリーは当時すでに次作・次々作の二部作『我が道を往く』『聖メリーの鐘』の構想に入っていたと思われます。ちなみに本作のすっとぼけたラストシーンでカメオ出演している初老の船長はサイレント期の『血と砂』『ベン・ハー』の大監督フレッド・ニブロ(映画のトーキー化を機に引退)だそうで、マッケリーがハリウッド映画のパイオニア世代とまだ親交があった世代の監督なのを思わせられます。なお本作の設定(ナチスの要人と結婚して動向を探る美女と彼女との連絡係になる諜報員)はイングリッド・バーグマンとグラントが主演したヒッチコックの『汚名』'46とほぼ同趣向です。『汚名』の背徳的ムードと較べるとマッケリーのセンスは一種の軽薄さを感じずにはいられません。

●9月22日(金)
『我が道を往く』Going My Way (パラマウント'44)*126min, B/W; アカデミー賞撮影賞(ライオネル・リンドン)、編集賞(ルロイ・ストーン)ノミネート、作品賞・主演男優賞(ビング・クロスビー、バリー・フィッツジェラルド)、助演男優賞(バリー・フィッツジェラルド)、監督賞レオ・マッケリー・脚色賞(フランク・バトラー・フランク・キャヴェット)、原案賞(レオ・マッケリー)、歌曲賞(ジミー・ヴァン・ヒューゼン作曲/ジョニー・バーク作詞『星にスイング』Swinging on a Star)受賞、ニューヨーク批評家協会賞作品賞・男優賞(バリー・フィッツジェラルド)・監督賞(レオ・マッケリー)受賞、ゴールデン・グローブ賞作品賞・助演男優賞(バリー・フィッツジェラルド)受賞、アメリカ国立フィルム登録簿2004年新規登録作品。

イメージ 4

イメージ 5

(キネマ旬報近着外国映画紹介より)
日本公開昭和21年10月
パラマウント映画製作/セントラル・フィルム・エキスチェンジ配給
[ 解説 ] 1945年度のアカデミー賞獲得作品である。「明日は来らず」の監督たるレオ・マッケリーが原作、監督を担当、フランク・バトラーとフランク・キャヴェットとが共同で脚色したもので、撮影監督は新人ライオネル・リンドンである。主演はパ社の音楽映画でおなじみのビング・クロスビーで、彼はこの映画でアカデミー演技賞を与えられたそうである。彼の相手役は未封切の「チョコレートの兵隊」でネルソン・エディーの相手をしたメトロポリタン・オペラの新進スター、リーゼ・スティーヴンスで、その他にバリー・フィツジェラルド、フランク・マクヒュー、ジーン・ロックハートジーン・ヘザー、ポーター・ホール等が共演する。映画の中で唄われる歌はジミー・ヴァン・ヒューゼン作曲、ジョニー・パーク作詞の"Going My Way"、"Swing on a Star"、"The Day After Forever"の他に、グノーの「アヴェ・マリア」、カルメンの「ハバネラ」、「アデステ・フイデレス」「静かなる夜、聖なる夜」及びジェイ・アール・シャノン作曲作詞になる"Too-Ra-Loo-Ra-Loo-Ral Ral That's an Irsh Lullaby"等がある。
[ あらすじ ] ニューヨークの西49丁目の人気の悪い町にあるセント・ドミニック教会のフィッツギボン牧師(バリー・フィッツジェラルド)の許へ、運動と音楽の好きな若いチャック・オマリイ(ビング・クロスビー)が副牧師として赴任してきた。オマリイは最初色々と失敗をして、信徒の評判を悪くしたが彼の親切は次第に人々の信頼を深めるようになった。彼はまず金棒引きのクインプ夫人(アニタ・シャープ=ボルスター)が家主(ジーン・ロックハート)ともめ事を起した時そを円滑に解決させトニー・スカボニ(スタンリー・クレメンツ)とハーマン・ランガーハンク(カール・"アルファルファ"スウィッツァー)が事件を起こした時には叱責する代わりに彼らの仲間一同を野球見物に招待し、彼らを従来のギャングから、教会専属の素人劇団に育て上げた。キャロール・ジェームズ(ジーン・ヘザー)という家出娘には旅費を与えて帰郷させた。近所の悪童たちはオマリイの指導で合唱隊に組織された。フィッツギボン牧師は僧正がオマリイを牧師に昇進させたいと望んでいることを悟り、オマリイを後任者に推薦して雨の中へ姿を消したが、やがて牧師は疲れ切って教会へ帰って来た。オマリイは牧師を寝室に寝かせ、アイルランドの子守唄を唄ってきかせる。ある晩オマリイは合唱隊の少年たちを芝居へ連れて行った帰り途で、幼なじみで田舎出のオペラ女優ジュヌヴイエーヴ・リンデン(リーゼ・スティーヴンス)に逢う。リンデンは今やメトロポリタン劇場で「カルメン」の主役を勤めているのである。次の日オマリイはキャロール・ジェームズに再会し彼女が家主の息子テッド・ヘインズ(ジェームズ・ブラウン)と結婚したことを知る。教会は財政が苦しかった。オマリイの親友オドード牧師(フランク・マクヒュー)とジュヌヴイエーヴとは援助しようと申し出、オマリイ牧師の作曲を買い、ジュヌヴイエーヴ合唱隊を全国巡業に連れ出した。そのお蔭で教会は担保流れになることを免れたが、オマリイとフィッツギボン牧師が心祝いの宴を張っている最中、出火によって教会は全焼してしまう。オマリイは落胆せずバラックを建てて新教会建設の計画を進める。クリスマスの前夜、ジェニー・リンデンと合唱隊が帰って来た。テッド・ヘインズは飛行隊の中尉となり、愛妻キャロールを伴って出席する。フィッツギボン牧師の40年間会わなかった老母(アデライン・デ・ウォルト・レイノルズ)がアイルランドから訪ねて来る。「アヴェ・マリア」の合唱が感激をもって唄われる。オマリイは他の貧乏教会に行くことになり、オドードがフィッツギボン牧師の新しい助手となり、ジェニー・リンデンは彼女の巡業公演に出発するのであった。

イメージ 6

 第二次世界大戦末期とはいえまだ戦中に、ほとんど戦時色を反映させずに(登場人物の一人が出征するが事故で怪我してすぐ戻ってくる。マッケリーはこうでなきゃいけません)作り上げたオリジナル企画の作品でアカデミー賞主要部門を総ナメにした大ヒット作。本来は続編『聖メリーの鐘』'45(クロスビーが別の教会に赴任する話。原作マッケリー、脚本ダドリー・ニコルズ、尼僧役のヒロインにはイングリッド・バーグマンアカデミー賞主要8部門ノミネート、録音賞のみ受賞)の企画が先行していたそうですが、キャスティングその他の事情から『我が道を往く』が先になったそうで、フレッド・アステアとのミュージカル映画ボブ・ホープとの「珍道中」シリーズで一流歌手ではあるけれど俳優としては大根と見られていたクロスビーが一躍一流俳優としても実力を認められた大出世作ですが、主演といってもミュージカル映画ではアステア、「珍道中」映画ではボブ・ホープの引き立て役だったように『聖メリーの鐘』ではバーグマンの尼僧の方がクロスビーを喰っていたのと同様、『我が道を往く』も主演のクロスビーより老牧師を演じるバリー・フィッツジェラルドの存在感が圧倒的で、本作は下町の教会をめぐる庶民の群像劇ですからクロスビーは多くの登場人物をつなぐ狂言廻しなのでクロスビー自身がドラマの主役ではなく教会に関わる人々のドラマの立会人やお助け人になる程度ですし(リーゼ・スティーヴンス演じるジュヌヴィエーヴとの再会もロマンスになりそうで結局なりませんし)、ドラマの枠組みも老境を迎えたフィッツギボン師が本部から新任牧師の派遣とともに引退を検討されているのが判明し、結局まだまだやれると判断されて新たな助役牧師と教会運営を続ける、とバリー・フィッツジェラルドの進退問題が一番の本筋なので、アカデミー賞主演男優賞がクロスビーとフィッツジェラルド助演男優賞フィッツジェラルドとバリー・フィッツジェラルドが同一作品で主演と助演でW受賞しているという珍しい事態になっています。マッケリーにはスクリューボール・コメディ路線と平行して『人生は四十二から』'35、『明日は来らず』'37などの人情ドラマ路線があり、コメディ作品と違ってこれらの作品には社会的関心から理想主義的な方向に進んだ、『オペラハット』'36からのフランク・キャプラと共通した志向がありました。これらは批評家受けは良く日本では人情ドラマの名作としてヒット作になりましたが、アメリカ本国で圧倒的に好評で大ヒットしたのはスクリューボール・コメディ作品の『結婚道中記』だったわけです。『結婚道中記』の良い意味で焼き直し的な『ママのご帰還』をレオ・マッケリー・プロ作品で送り出しながら監督はガーソン・ケニンに任せたのはマッケリー自身がスクリューボール・コメディ路線に飽き足らなくなってきたからかもしれません(それでも製作したのは一種のファンサーヴィスでしょう)。時局の要請で製作した『恋の情報網』はジンジャー・ロジャースケイリー・グラントという組み合わせで反ナチ・スクリューボール・コメディという面白くできそうな企画で、何よりマッケリーはマルクス兄弟軍事独裁スラップスティック・コメディ『我輩はカモである』という金字塔がありますから、あまりに戦争をおちょくった映画はコケてしまう、と痛い目を見てきています。『恋の情報網』は焦点の定まらないいまいちの作品になりましたが、全力でナチをおちょくったルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』は『我輩はカモである』にも劣らない傑作になりました。『我が道を往く』が'30年代マッケリーの人情ドラマ路線を継いで狙いを変えたのは、理想主義的メッセージを表立ったテーマにしない、スクリューボール・コメディに近い無思想的な楽天性でリアルな背景を持つ人情ドラマをおとぎ話にしてみせたことです。本職は歌手であり映画出演はミュージカルかコメディ専門、しかも「受け」の役ばかりだったビング・クロスビーの肉体性が稀薄で中性的なキャラクター(クロスビー自身は気難しい性格だったそうですが)はおとぎ話の主人公にはうってつけで、オマリー牧師(フィッツギボン師を始めとして登場人物の多くが『ロイドの牛乳屋』同様アイルランド系の名前なのに注意。マッケリー自身もアイルランド系の名字です)は教区の庶民に献身的に尽くして古い教会を活性化させるのですが、その役割は指導者的というよりも妖精のようにそれまで人々の形にならなかった願いが実現していくような働きです。教会の運営の決定権を握る本部の司教が牧師同士の会話にしか登場せず映画には最後まで姿を現さないのもおとぎ話だからですし、クロスビー演じるオマリー牧師はハサウェイの西部劇『丘の羊飼い』'41に集約されていたようなトーマス・H・インスのウィリアム・S・ハート西部劇やジャック・フォード名義時代のジョン・フォードハリー・ケリー西部劇のような、西部劇がアクション映画化する前の人情劇時代の流れ者・渡り鳥西部劇の主人公のニューヨークの下町版(しかもアイルランド系移民区画)ということになるでしょう。この映画は一部始終が描かれない断片的なエピソードも多く長編劇映画としては構成が緩いですし、その最たるものは絶妙のタイミングで起こる原因不明の出火による教会全焼で、何の伏線もなければ出火原因や状況も不明なままです。老牧師の進退問題にも関わる映画一番の一大事ですが、フィッツギボン師の留任が決定したことの方が大切で、教会が再建できるまでは隣の教区の教会を借りて礼拝を続けよう、で済まされてしまいます。マッケリーのスクリューボール・コメディは社会的関心を最小限に抑えることで悪役も悪人も出てこない世界を描いて過不足なく充足した現実のユートピア化であり、やはりおとぎ話ですが映画のリアリティとは現実原則とは次元が違いますからマッケリーのコメディはそれで良かったわけです。しかし同じコメディでもルビッチやホークスには社会の不条理や人間の邪悪さ、冷酷さ込みで世界を笑い飛ばせるセンスがありました。いわゆる清濁合わせ呑んだというやつで、マッケリーは『我輩はカモである』を出発点とすればルビッチやホークスの域に迫れる可能性があったのです。実際は『カモ』の興行的失敗からマッケリーは『カモ』をそれまでの破壊的コメディの到達点と見切って作風の転換を図ります(主演者のマルクス兄弟も同様でした)。『恋の情報網』はマッケリーのスクリューボール・コメディ手法の限界を示した作品となり、そこで考案されたのがスクリューボール・コメディのような誇張したシチュエーションではなく市井の人情ドラマにスクリューボール・コメディで成功した現実の抽象化、現実のおとぎ話化になったのが相変わらず悪人不在の世界が描かれる『我が道を往く』『聖メリーの鐘』の二部作でした。これが第二次世界大戦最後の2年に連続して発表されて、本作の公開は敗戦の翌年の10月ですから敗戦してから14か月目という早さです。当時外国映画の上映検閲は駐留アメリカ軍(GHQ)が行っていましたから(~昭和27年=1952年まで続く)『怒りの葡萄』や『オール・ザ・キングスメン』などアメリカ社会の暗黒面を描いた映画はアメリカ駐留軍部によって日本公開が禁じられたので、『我が道を往く』の日本公開の異例の早さは軍部公認であり、アメリカ駐留軍が考える「日本人に観せたいアメリカ映画」の典型だったわけです。そして戦後のアメリカ社会はますますマッケリーにとって映画にならない現実に突入していきます。マッケリーの凋落はマッケリーより1歳年下のイギリス出身監督ヒッチコックの全盛期の始まりでもありました。キャプラやマッケリーといった人はアメリカ映画の監督の中でも時代に殉じた印象が強く、『我が道を往く』は本当に素晴らしい映画ですが同年の『君去りし後』(ジョン・クロムウェルアカデミー賞主要9部門ノミネート、作曲賞受賞)とともに1944年という時代と交差して際どく成り立った記念碑でもあり、翌年の『聖メリーの鐘』と併せてピークの後はもう下り坂しかなかった運命的な作品です。かつては玄人を唸らせるとともに抜群の大衆性で一世を風靡したものが、半世紀ほどのうちに急速に風化してしまったのは作品に非があるからとは言えません。マッケリーの方法は小津安二郎が完璧に換骨奪胎し、小津の現在の世界的再評価は言うまでもないでしょう。にもかかわらずマッケリーが小津ほど再評価される日が来るとはどうしても思えないのです。