秋の花と言っても悪の華(というのは誤解した解釈で、豪奢なイメージの「華」ではなく単に植物の「花」だそうだ)ではない。ボードレールの詩集でもマウンテン(!フェリックス・パパラルディ!レスリー「悪の豚」・ウェスト!コーキー・レイング!)のアルバムでもない。本当に道々を歩いていて住宅街の垣根に咲いているのを見つけただけのことだ。
たぶんこれらの花は毎年手入れをしているわけではない。最初に植えて、根を張って初めての開花を迎えた後は毎年勝手に咲いて種子を撒き、世代交代はあったかもしれないが植えられた場所で毎年秋に咲く。春には春の、夏には夏の花が同じ敷地で咲くのかもしれないが、そういう風に冬以外は季節ごとに譲り渡すようにして何かしらの花が咲いているのだろう。
もしもあの世に持っていける記憶があるとしたら、と詩人の西脇順三郎のエッセイに含蓄深い文章がある。なんということはない草原や草花の記憶くらいのものだろう、と西脇氏は書いている。これは故人が40代から88歳の大往生まで持ち続けた人生観だった。70代以降の西脇氏は余生短い老人の悲哀ほど悲しいものはない、とも書いている。西脇氏は古代ギリシャ語の悲嘆を表す感嘆詞を使って「ポポーイ」「ババーイ」と悲しみを表現している。
秋の花は寂しい。春の花、夏の花と違って秋の花は衰亡の季節の予兆だからかもしれない。レスリー・ウェスト一世一代の名演のマウンテン「想像されたウェスタンのテーマ」を聴きたくなる。ジャック・ブルースの名曲のカヴァーで、ブルース本人やコロシアムのヴァージョンより良いと思う。当時体重120kgを越えていたウェストはダイエットして今では半分の痩身に変身してしまった。そんなこともどことはなしに秋を思わせるエピソードだったりする。