人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年11月13日~15日/ラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh, 1887-1980)の活劇映画(5)

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 戦争映画『決死のビルマ戦線』'45に次いでアラン・ラッド主演の西部劇『傷だらけの勝利』'45を撮ったウォルシュは1年おいてアイダ・ルピノ主演のフィルム・ノワール『私の彼氏』'47を撮り、同年には前回ご紹介したロバート・ミッチャム主演の西部劇『追跡』、続いて今回ご紹介する『高原児』を撮ります。日本公開は『高原児』の方が先になったのも納得で、西部劇なのは同じですが『追跡』の陰気なフィルム・ノワール風の仕上がりよりも『高原児』は流れ者のギャンブラーを主人公に痛快でユーモアのセンスも富んだサスペンス仕立ての西部劇になりました。『高原児』は日本でもフォードの『荒野の決闘』'46に次ぐ西部劇の逸品と高い評価を受け、続く'48年にウォルシュは西部劇『賭博の町』と戦争映画『特攻戦闘機中隊』の2作を撮りますが、大ヴェテランの巨匠といえどもこういう時もあるものか、というほど'48年の2作は散漫な内容の失敗作になります。かと思うと翌'49年にはウォルシュは生涯の傑作に数えられる2作『白熱』『死の谷』を送り出しますので、60代にさしかかってなお堂々と失敗作も撮れば傑作も撮る若々しい可能性を秘めた、若手に互する現役感を備えた映画監督だったと言えるでしょう。キネマ旬報に紹介記録がないのであらすじを起こすために『賭博の町』と『特攻戦闘機中隊』は2回ずつ観直してあらすじをまとめましたが、説得力がなく首尾一貫しない内容のために正確に物語を要約できたか自信が持てないのです。しかし藪医者でも医者、悪人でも人間には違いないように、失敗作でも映画は映画で、無理矢理言うなら傑作と失敗作を平等に観てこそ映画から見えてくるものはあるということにして、この2作についての感想文も記しておきたいと思います。

●11月13日(月)
『高原児』Cheyenne / The Wyoming Kid (ワーナー'47)*99min, B/W; 日本公開1949年(昭和24年)3月

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(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「恋愛手帖」のデニス・モーガンと「失われた週末」のジェーン・ワイマンが「ハリウッド玉手箱」のジャニス・ペイジと共に主演する1947年作品及び「シエラ・マドレの宝」のブルース・ベネットで「いちごブロンド」「鉄腕ジム」のラオール・ウォールシュが監督したもの。原作はボール・I・ウェルマンで、アラン・ルメイテームズ・ウィリアムソンが協力脚色した。助演は、「カンサス騎兵隊」のアラン・ヘール、「栄光の都」のアーサー・ケネディ、ジョン・リッジリー、バートン・マクレーンのほか、かつての西部劇スタァ、トム・タイラー、ボブ・スティール等の面々で、撮影は「我が心の歌(1942)」のシド・ヒコックスが指揮し、音楽はマックス・スタイナーが作曲した。
[ あらすじ ] ワイオミングがまだアメリカ合衆国の1州となる以前のこと。ララミーの町にジム・ワイリー(デニス・モーガン)という賭博師が入り込んで荒かせぎをしていると、私立探偵のヤンシー(バートン・マクレーン)がカンサスから訪ねて来た。ワイリーに殺人の容疑があるから拘引するという。ただし、今駅馬車強盗として問題の「詩人」を生殺の如何を問わず、捕まえれば古い容疑は忘れてやり、2万ドルの賞金もやるという。その「詩人」はシャイアンの町にいる形跡があるというので彼はシャイアン行の駅馬車に乗る。相客はアン(ジェーン・ワイマン)と名乗る上品な婦人と、エミリー(ジャニス・ペイジ)という職業婦人であった。馬車は途中で強盗に遭ったが「詩人」ではなくサンダンス・キッド(アーサー・ケネディ)を頭目とする一味で、馬車に積んであった紙幣の箱は空っぽで、詩を書いた1片の紙が入っていた。ジムは多勢に1人、ララミーでかせいだ千ドルを奪われた。シャイアンの酒場ではエミリーが歌っていたが、強盗の一味を見つけ追跡して行きサンダンスに殺されるところを、アンに救われる。アンは彼が詩人で自分の夫だといったのである。そこで2人は表面夫婦を装おわねばならなくなる。さてアンは事実詩人の妻であった。詩人はエド・ランダース(ブルース・ベネット)というウェルズ・ファーゴ輸送会社社員であったのだ。サンダンス一味はジムを詩人と思い、大仕事の分け前を要求していたが、シャイアンの町を出はずれた山中のあばら屋で争いが始まり、好運に恵まれてジムはサンダンス一味をことごとく倒してしまった。シャイアンのシェリフ代理ダーキン(アラン・ヘイル)は、この報に喜んだがジムが何者かを知らず怖れる。ランダースは其奴が詩人だろうとたきつける一方、高跳びを計画してエミリーを口説き落として同行を約させる。アンは次第にジムに心をひかれランダースと離婚する気になっていた折柄、彼がエミリーを道連れにして、自分を置去る置き去るつもりであることを悟り、知らぬ顔でエミリーと同じ駅馬車に乗る。ランダースはジムをダーキンに捕えさせて安心し、単騎別行動をとり駅馬車の先まわりをする。ジムは巧みにダーキンの手を脱し、アンとエミリーの乗った駅馬車に乗るが、ダーキン等が追跡して来たので、馬車から馬に乗り移って逃げる。翌朝2人の女を乗せた駅馬車は、ランダースに襲われるがジムが現れてランダースは負傷する。折柄スレ違いに来た駅馬車に乗って来たヤンシーに「詩人」ランダースを渡したジムは、賞金2万ドルの代わりにアンから分け前を手に入れた。

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 デニス・モーガン演じる流れ者の洒落者で小粋なギャンブラーと「詩人」を名乗る悪党のエレガントな妻を演じるジェーン・ワイマンがとにかく魅力的。「詩人」に出し抜かれて頭にきている伝説的強盗サンダンス・キッド役のアーサー・ケネディ、キッドの手下のジョン・リッジリー、トム・タイラー、ボブ・スティールらの堂に入った西部劇の強盗団ぶり、探偵役バートン・マクレーンの存在感とコメディ・リリーフ的な保安官代理のアラン・ヘイルの対照、税関役人の立場を利用して覆面強盗をくり返す「詩人」を演じるブルース・ベネット、その誘惑にあっけなく騙される酒場の歌手役のジャニス・ペイジと、スター級の俳優ではなく性格俳優の名優ばかりがキャスティングされているのにこの充実感。話そのものは「ルパン三世」みたいなものですが、その軽妙さが本作をモダンな西部劇の快作にしています。前作『追跡』で試みたフィルム・ノワール風、あるいはニューロティックな(ヒッチコックの『白い恐怖』'45的と言ってもいい)新機軸の西部劇は手法とむしろ古いアイディアの因果劇が乖離して意欲的に滑っていましたが、ウォルシュ自身は主に会社企画のキャストとシナリオをこなしていくタイプの(なにしろ監督デビューから35年目です)監督ですから色々やらされるわけです。『追跡』の場合は新人ロバート・ミッチャムに大ヴェテラン監督の現場を経験させようという意図の方が大きかったかもしれません。その点、本作では格別期待がかけられた企画ではなく、配役も安く使えるワーナー映画の助演クラスの脇役陣ばかりを集めて気楽な娯楽作品をという程度の現場だったのでしょう。本作のための特設セットや大がかりなロケもなくあり合わせの室内セットとオープン・セットで撮れるような、シナリオ段階で非常にコンパクトにまとめられた作品なのは一見して明らかです。モーガンケネディの駆け引き、誰よりも状況全体を見抜ける立場のワイマンの立ち振る舞い、悪党役のベネットとナイト・クラブ歌手役ペイジの絡ませ方が自然かつ効果的にクライマックスを盛り上げる脇筋の巧妙さ、そしてワイマンの協力でがぜん機知を働かせ事件を解決に導くモーガンと構成に隙がなく十分にゆとりもあって、日本公開当時「『荒野の決闘』に次ぐ一流西部劇」(昔は映画に一流や二流があったようです)と評判を取ったというのは作風を思い合わせると大げさですが、『荒野の決闘』に『駅馬車』の監督作品らしからぬ気取りを感じる人には『高原児』の方がずっと好ましい作品に見えてもおかしくないのではないでしょうか。『砂塵』'39や『殴り込み一家』'40のジョージ・マーシャルがもっとずっと上手い監督だったら本作の域に達したかもしれない、と思わせられもし(マーシャルはそのいまいちな感じが良いとも言えますが)、戦争映画の力作が続いた(とはいえ戦争映画ばかりではありませんが、戦争映画の大作に力を注いでいた)時期からウォルシュが戦後のもっと自在な映画作りに移る位置に本作があるのは過褒な讃辞は慎むとしても良い作品には違いなく、かえって翌'48年の2作の不出来と、'49年の緊迫感溢れる2作の傑作『白熱』『死の谷』に大きく振れる作品歴の直前に本作があるのは不思議な気もしてくるのです。

●11月14日(火)
『賭博の町』Silver River (ワーナー'48)*109min, B/W; 日本公開1950年(昭和25年)9月

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○あらすじ 南北戦争末期、給与輸送中の南軍兵士マッコーム(エロール・フリン)と戦友のピストル・ポーター(トム・ダンドレア)は北軍の襲撃に遭い、奪われるよりはと紙幣を満載した貨車を炎上させて帰還するが、マッコームは命令違反で南軍除隊を余儀なくされる。マッコームはピストル・ポーターと共にネヴァダ州シルヴァー・シティに落ち延び、ギャンブル場の権利を買い取り、鉱山の銀鉱採掘労働者を相手に商売を広げる。鉱山主の一人、ムーア(ブルース・ベネット)とその妻ジョージア(アン・シェリダン)と知りあったマッコームはムーアと事業を組み、ジョージアはマッコームの強引な事業拡大に反発しながら次第にマッコームに惹かれ始める。マッコームはアルコール依存症の落ちぶれた弁護士プラトン・ベック(トーマス・ミッチェル)を雇って銀行経営に乗り出し、ムーアへの融資の条件に鉱山の保有株のすべてを担保にして、事実上ムーアの鉱山を乗っ取ることに成功する。マッコームは大統領の訪問を受けるほどの名士に成り上がるが、ジョージアはマッコームの野心に危惧を抱く。マッコームはムーアへさらなる事業拡大を要求し、先住民の居住地であるブラック・ロック・レンジにまでムーアを差し向ける。ムーアは先住民に殺害され、プラトン・ベックはマッコームに、旧約聖書から部下の妻に懸想してその部下を死地に派遣したダヴィデ王の故事を引いて非難する。夫の死によってマッコームに頼るしかなくなったジョージアはマッコームと再婚し、マッコームは豪邸を新居に建ててパーティを開くが、スピーチの席上でプラトン・ベックは再びマッコームを責め、マッコームはシルヴァー・シティの社交界から孤立する。他の銀山所有者たちは結託して銀の相場を操作し、マッコームの銀行には預金の払い戻しが殺到して、ついに自分の鉱山を閉鎖したままマッコームは破産に追いやられる。プラトン・ベックは上院議員選挙に立候補し、町の経済の立て直しを条件にマッコームと和解するが、選挙運動中に政敵スウィーニー(バートン・マクレーン)に殺害される。暴徒化した群集がスウィーニーをリンチしようとするがマッコームは制止し、スウィーニーに公正な法の裁きを受けさせること、鉱山町の景気回復に尽力することを人々に宣言し、今度こそ本当にジョージアの愛をつかむことに成功する。

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 本作はもともとハンフリー・ボガート用にワーナーが雑誌連載の時点でスティーヴン・ロングストリートの原作の映画化権を買った企画で、脚本はロングストリートと専任脚本家が共同で執筆しています。企画はボガートがヒューストンの'48年の2作『黄金』『キー・ラーゴ』に出演するためエロール・フリンの主演に振り替えられますが、まずフリンのキャラクターに全然合っていない。フリンらしいのは景気良く現金輸送車を燃やして北軍を巻く冒頭のエピソードくらいでしょう。原作そのものも果たして首尾一貫したものかどうか、映画化を意識してドラマに曲折を作りすぎ主人公を始め登場人物たちの性格・言動に説得力がまるでありません。映画の仕上がりから判別しようとすればこれは理不尽な目に遭った主人公が強欲な独立新興実業家になってのし上がるがそのために孤立し、挫折を経て地域住民と和解し反省に至って因縁のあった女性の愛を得るまでをたどる物語ですが、こうして筋だけ取れば陳腐にもなりそれなりにドラマティックにもなるようなお噺です。我欲追求型の男を描いた映画は観客の共感を得るポイントが難しいため工夫も必要になりますが、だいたい「公共のための純粋な動機が権力闘争の過程で汚れて行く」「資産と権力を得た代償に孤独な嫌われ者になる」「栄華を極めるのめ束の間に足元を掬われて破滅する」などがありがちなパターンと言えますし、見事に表現されていればアイディアは陳腐でもいいのです。では本作はどうかと言うと、致命的なのは弁護士役のトーマス・ミッチェルがダヴィデ王を引き合いに出してフリンを責めるように、フリンがブルース・ベネットの妻アン・シェリダンへの恋横暴からベネットの事業を乗っ取ったようにはまったく見えないのがシナリオの次元での計算違いですし、ウォルシュの演出もフリンがシェリダンを我が物にしようとしているようには見えない。そもそも惚れているようにすら見えないので、ヘイズ・コード(1934年より施行された全米映画協会の倫理規定、'60年代に事実上自然消滅)は不倫を肯定する内容を禁じており、フィルム・ノワールの不倫はすべて破滅に終わる勧善懲悪として描かれることでヘイズ・コードに叶っていたわけですが、それなのにフリンが計画的にベネットを危険な先住民居住区の視察に向かわせたのは無理があります。さらにベネットの死後フリンとシェリダンは当然のように結婚してミッチェルは決定的にフリンと決別し、フリンはシルヴァー・シティー社交界、実業界で孤立することになりますが、そもそもフリンとシェリダンは利害関係以外の理由で再婚したようには見えないのでミッチェルの攻撃の方が理不尽に見える上に、フリンの孤立は単に新参者が町の経済界のトップに成り上がったことへの反発でしょう。よくもまあこんな原作を、新聞連載小説としてはそれなりに辻褄のあったものだったのかもしれませんが、原作者がシナリオを合作しているからには原作自体も大差ない程度のものだったと思われるので、これをハンフリー・ボガート主演作にするために映画化権を買ったワーナーの気が知れません。ヒューストンからの『黄金』『キー・ラーゴ』の企画に乗って本作の主演を辞去したボギーの判断ももっともで、ボギーにとってはヒューストンともどもウォルシュも大恩人ですが、そもそも監督も最初からウォルシュがやることになっていたかどうか。エロール・フリンもいかにも演りづらそうな気のない演技で、強いて本作の主演を買って出て説得力のあるキャラクターにするだけの個性と力量のある俳優といえば複雑な人間性を的確かつ明快に表現する芝居に長けたジェームズ・キャグニーくらいのものだったでしょう。キャグニーの主演だったらウォルシュの演出ももっと気合の入った、ドラマに一本芯の通った説得力のある作品になっていたかもしれません。しかしフリンには本作のようなモラルの分裂に苦しむ役はまったく不似合いで、結局俳優の表現力に頼らないでは一貫性にすら欠ける脆弱なシナリオのせいで名優トーマス・ミッチェルの力演も受けとめる相手のいない、浮いたようなキャラクターにしかなっていない始末です。せめて本作にアクション映画としての側面があればそれだけで点も稼げたかもしれませんが、監督を任されたウォルシュは本作のシナリオに最初から投げてしまったのでしょう。ウォルシュらしく、またフリンらしいのは南軍兵士除隊までの冒頭部分だけで、あとはフリンが流れ着いたシルヴァー・シティーのギャンブル場のシーン、豪邸を建てたフリンが町の名士たちを招いて有頂天で落成式を開き豪邸を披露するシーンに僅かに、映画が上手くいっていたらこれらも印象的な名シーンだったろうな、と惜しまれる要素が垣間見られる程度のものです。もしボギーが企画通り主演していたらどうだったか。シェリダンへの欲望がはっきり感じられる演技をしていたでしょう。それを思うと誰よりも主演俳優フリンにとって不運だった作品なのかもしれません。

●11月15日(水)
『特攻戦闘機中隊』Fighter Squadron (ワーナー'48)*95min, Technicolor; 日本未公開(テレビ放映・映像ソフト発売)

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○あらすじ イギリス空軍基地にアメリカ空軍兵が協力のため派兵された1943年、アメリカ空軍のエース・パイロット、ハーディン大尉(エドモンド・オブライエン)は抜群の実績と目に剰る命令・規則違反で上官の友人ブリックレー大佐(ジョン・ロドニー)はイギリス空軍のギルバート将軍(シェパード・シュトルードウィック)の寛大な処置にかえって頭を悩ませていた。やがてマクレディ将軍(ヘンリー・ハル)の要請でブリックレーは新しい部隊の指揮官に抜擢されることになり、ブリックレーは後任にハーディンを推薦する。ブリックレーの後任指揮官になったハーディンは厳密に規則を守るようになるが、ギルバート将軍による既婚者・結婚予定者は任務より外す規約を任期満了が近いハミルトン隊長(ロバート・スタック)が破って休暇中に結婚するのを黙認する。ハミルトンは最後の任務だけは果たしたいと希望し、ハーディンの説得も押し切って出撃するが、撃墜されてハーディンに務めを果たしたかった心境を通信しながら死亡する。D-Dayに連合軍の上陸を支援するために次の出撃が行われ、ハーディンは敵機撃墜記録を更新するが撃ち落とされ、仲間の戦闘機からも見えない雲間に落ちて行く。指令を果たした部隊は生死の知れないハーディンの墜落地点に向かって旋回して行く。

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 ウォルシュの全作品のデータを把握していないので断じられませんが、観ることのできた作品ではこれがもっとも年代の早いカラー作品です。現行DVDの画質はすこぶる良好で、テクニカラーのありがたみが実に眼福この上ない素晴らしい色味です。イーストマンカラーや現在のデジタル撮影でもこの極上の油彩のような深みのある色彩は出ないので、テクニカラーにしても現実の色彩を再現するものでは決してなく実在物を撮したフィルム上の虚構の色彩なのですが(B/Wフィルムによる撮影にしても同じことで、現実の陰影と同じものではあり得ません)、色彩映画がまず染色、次にテクニカラーと発達したのには歴史的必然すら感じます。イーストマンカラーがテクニカラーに先行していたらコストの点では有利でしたでしょうが、カラー映画の需要や発達そのものが大きく異なっていたでしょう。このままテクニカラー談義だけで済ませてしまいたいくらいなのは、本作がテクニカラー映画であること以外はせいぜい派手な空中戦映画という程度しか取り柄がない、いったいどうしたらこんなどうでもいいような映画が出来るのか途方に暮れるようなできばえだからです。映画の冒頭には字幕タイトルで「1943年から1944年、アメリカ空軍はイギリス空軍に迎えられ共同して軍事に当たった。実際の基地と軍用機の撮影、記録映像の使用を許可してくれたイギリス空軍に感謝する」と出るのがこの映画の意図を表しているのでしょう。本作は1948年度作品、つまり戦勝記念映画ですから戦中作品のような国策発揚目的もなければ緊張感にも欠けるのはむしろ当然になるわけです。さて映画本編は、親友であり上官である戦友の転属に当たって後任の重責に指名される主人公のエース・パイロットが指揮官としての働きでも優秀な上官ぶりを発揮しながらも次々と部下を失い、最重要な決戦に際して自らが犠牲的な出撃を行う、というプロットがトーキー初の空中戦映画『暁の偵察』'30とまったく同じなのには首をひねります。『暁の偵察』は第一次世界大戦、本作は第二次世界大戦というのは焼き直しの理由になりません。しかも本作は『暁の偵察』にあったようなキャラクターの一貫性がまるで欠けており、主人公に一匹狼的性格を与えて序盤に派手な活躍の場を設けたために、上官兼親友の転属に伴い指揮官になってからがまるで別人になってしまいます。「優秀なパイロットは命令を守るパイロットじゃない、敵機(「ジャップ」と言っています)を一機でも多く墜とすパイロットだ」とうそぶいていた人物が中間管理職になるや否や「軍規は絶対だ。任務に従え」と言う人物に豹変し、部下に反問されるとそれが前任者の方針でありこの基地の方針だから、と映画序盤のお前は何だったんだよ、と舌を抜きたくなるような変わり身ぶりです。かと思うと所帯持ちは地上勤務か除隊、という方針がこの基地にはあり、出撃のローテーションをあと1回に残して休暇中に結婚してきてしまう元同僚で部下がいるのですが、除隊前にどうしてもこれだけはやっておきたいから、と直訴されて出撃を黙認し、案の定撃墜されてしまいますが「あいつも覚悟の上だったんだから」で済ませてしまう。そして次の出撃で人手不足が出たため指揮官自らが出撃部隊に加わり、仲間と協調せず自分一人で敵機を全機撃墜するも攻撃の的にもなって友軍機の見守る中で雲の中に落下していく。「翼をやられた。爆発はしていないようだ。錐揉みで落ちた。確かめに行こう」と仲間の戦闘機が向かっていく所で「勇敢な彼らを讃えよう」と主要人物のパイロットたち一人ずつのカット・バック映像が重なって功績がナレーションされ、主人公の生死不明のままで映画は終わります。冒頭の字幕タイトル通りとすると派手な空中戦を機内から撮影したカットは記録映像をモンタージュしてあり、見所と言えば見所ですがそれ以前に映画の出来が学芸会以下ではイギリス空軍基地ロケだろうと実物の軍用機を飛ばそうとどうしようもないではありませんか。あらすじを起こすために今回は2回続けて観たのですが、『賭博の町』と本作はウォルシュ作品のどん底で良い所を探すのに本当に苦労しました。それでも何とか2回連続して観ることができたのは、筋などどうでもよくて映像の力強さだけを観ようと思えばそれなりに引き込まれたからです。それに『賭博の町』本作、と観れば次は'49年の2大傑作『白熱』と『死の谷』が控えているからです。しかし『賭博の町』『特攻戦闘機中隊』の2作については、あえて無理して観るまでもない作品と積極的にはお勧めしません。ウォルシュ作品未見の方ならなおのこと、いっそ知らずに済ませる方が精神衛生上には良いかもしれません。