人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(17); 三好達治詩集『測量船』(iii)

 三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
 (撮影・浜谷浩)

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 詩集『測量船』を読み返すに先立って、三好達治の年譜から簡略にこの第一詩集までの歩みをたどってみます。明治33年(1900年)大阪の印刷業者の家の長男に生まれた三好は、6歳の時に祖父母の家の養子になりましたが(これは家督相続制の厳しかった当時ではよくあることでした)家計の事情から小学校を2年で中退して陸軍幼年学校に編入しました。大正9年(1920年)に陸軍士官学校に進学しましたが2か月で退学し、大正11年(1922年)に親戚の経済的援助で京都の第三高等学校・文科丙類に入学し、桑原武夫丸山薫貝塚茂樹、吉村正一郎らと同級になり親交を結びます。この頃から文学に打ちこみ、国木田独歩若山牧水島崎藤村に心酔し、またニーチェトルストイドストエフスキーを耽読し、もっとも愛読したのはツルゲーネフ(特に『ルージン』)でした。そして旧制高校在学中に刊行された萩原朔太郎の『月に吠える(再版)』『青猫』によって三好の志向は一挙に詩に向かいます。大正14年(1925年)に第三高等学校を卒業して東京帝国大学文学部仏文科に入学した頃に刊行された堀口大學訳詩集『月下の一群』も三好の詩作に強い影響を与えました。大学では小林秀雄中島健蔵今日出海らが級友になりましたが、特に深い親交を結んだのは第三高等学校で上級生だった梶井基次郎(1901-1932)で、三好は梶井と丸山薫らが大正14年から始めた同人誌「青空」に大正15年(1926年・昭和元年)4月から参加し、作品を発表するようになります。同年の詩作から詩集『測量船』の収録作品が始まります。満州から上京してきたばかりですでに2冊の詩集を上梓した新進詩人、北川冬彦(1900-1990)も三好と同時に「青空」に参加、大学でも級友になり、梶井・北川・三好はかわるがわるに下宿を相部屋にするほどの間柄になります。
 三好の初期作品は中堅詩人で信望の篤かった百田宗治に認められ、百田が同年10月に始めた詩誌「椎の木」にも創刊同人になり、新進詩人の春山行夫伊藤整、阪本越郎らと知りあいます。梶井は結核の悪化で大正15年12月(同月昭和改元)から湯が島に長期の転地療養をすることになり、翌昭和2年3月に梶井を見舞った折に湯が島滞在中の川端康成の知遇を得ます。同年6月「青空」廃刊に伴い北川と安西冬衛が創刊した詩誌「亞」に参加、翌月に梶井を見舞った際に湯が島滞在中の宇野千代広津和郎の知遇を得るとともに初めて萩原朔太郎と面知、帰郷後すぐ萩原の近所への転居を勧められ、それから約2年の間は萩原に師事、師の求めで事実上の秘書を勤めるほどになりました。

 昭和3年(1928年)3月にヴェルレーヌ詩集『智恵』の研究論文で大学を卒業した三好はボードレール散文詩集『巴里の憂鬱』の翻訳に着手し(昭和4年12月刊)、9月に春山行夫によって創刊されたモダニズムの詩誌「詩と詩論」の第一期同人(他に北川、安西、竹中郁、近藤東など)11名に名を連ねます。昭和4年は「詩と詩論」に拠りましたが、昭和5年(1930年)4月~7月には帰郷するとともに、春山の審美的路線に距離を置いて詩誌「時間」を起こしていた北川冬彦が6月に創刊した「詩・現實」に飯島正、神原泰らと参加し「詩と詩論」同人から脱退しました。そして同年12月に萩原の懇意だった第一書房の「今日の詩人叢書」の一冊として刊行されたのがこの詩集『測量船』です。
「詩と詩論」と並ぶモダニズムの詩誌「旗魚」の詩人だった村野四郎(1901-1975)は「名著復刻全集 近代文学館」(日本近代文学館刊、昭和44年)に収録された別冊の「作品解題」で「この詩集一巻によって、新しい抒情詩人としての三好達治の名声は決定的になった」と書いています。村野の第一詩集『罠』は大正15年10月刊、「詩と詩論」休刊後に春山行夫と近藤東が起こした「新領土」の創刊同人となり北園克衛による装丁・構成で第二詩集『體操詩集』を刊行したのが昭和14年(1939年)12月ですから、同年4月には第四詩集までの全詩集『春の岬』、7月には第五詩集『艸千里』を刊行していた三好は1歳年長という以上に一家を成した詩人と見ていたように思われます。

 村野による『測量船』解題はまず的確に同詩集の一般的な位置づけを押さえており、一見平凡な見解ながら同世代の詩人ならではの機微に触れたものなのでここに引用しておきます。「昭和五年に出されたこの処女詩集『測量船』は、前述のように昭和新詩の記念的な名詩集とされているが、その歴史的意義は、明治大正と引きつがれてきた日本抒情詩を変革したところにある。この詩集の初期作品、たとえば『乳母車』でも『甃のうへ』を見ても、すでに抒情性の質的変化を明瞭にうかがうことができる。」
「そこにあるのは、古い抒情詩における没我の情緒ではなく、感触の冷たい燃え上ることのない情緒であって、それこそ近代主知が生んだ自我意識の所産であった。それが自然の諷詠にしろ、甘美な回顧にしろ、つねにその情緒の底に沈んでいるのは、不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑であった。そしてそれがモダニズム特有のアイロニカルな諷刺と諧謔などの主知的方法によって、新しい抒情のすがたに造形されているのであった。こうした新しい詩的情緒は、藤村にも独歩にも、また有明にも白秋にも、絶対に見出すことはできない性質のものである。当時この詩集は、幾人かの批評家によって、或いは蕉風の俳諧に通ずるものがあるとか、少しく古典的に谷川の水のように澄み渡っているとか、いずれもとんちんかんに賞讃されたけれど、後年、阪本越郎が<ニヒリズムの中に転々としているようだ>といい、吉田精一が<それは一種の虚妄の美しさ、或は美しい虚妄というものの創造であり、それが伝統的な自然や環境にすがって趣致をととのえている>と評したのは、さすがに鋭くて正しい見方というべきである。」「かくして、三好が堀辰雄丸山薫とともに昭和抒情詩の新しい牙城『四季』を創刊したのは、その後四年目の昭和九年十月のことであった。」

 しかし村野の指摘を踏まえた上で、『測量船』にはもっと意図的なまがまがしさと、逆に作者の狙いとは外れたところに結実してしまった脆さ、効果と引き換えにした弱点があるようにも思えます。三好は後進詩人では主宰する「四季」にも寄稿を依頼した中原中也伊東静雄らには公平を期して機会を与えただけで否定的で、師の萩原の『氷島』に対する、感情的とさえ見える批判も中原や伊東への否定的評価と通じるものでした。中原や伊東よりも生粋の「四季」同人の若手詩人、津村信夫立原道造を高く買っていました。また萩原と並んで室生犀星を尊敬しましたが、萩原と犀星の共通の師である北原白秋、また萩原・犀星と並ぶ存在だった山村暮鳥大手拓次に対しても中原や伊東について抱いていたような反感を隠しませんでした。白秋、暮鳥、拓次、中原、伊東といった三好が否定的だった詩人たちにあるものが――というより、三好が自分の詩から排除しようとしたものが上記の詩人たちにとっては本質をなしており、それは村野四郎の指摘するような「古い抒情詩における没我の情緒」ではないでしょう。
 今回は三好達治の第一詩集までの歩みを年譜から拾い出しましたので、『測量船』と「測量船拾遺」の収録詩編の発表誌初出を改めて一覧にしました。序文・跋文がない詩集は当時でも異例のものでした。大正15年(1926年)6月から始まる以下の詩編は、
(1)初期抒情詩・プレモダニズム期=大正15年~昭和2年(1927年)
(2)モダニズム期=昭和3年(1928年)~昭和4年
(3)ポストモダニズム・抒情詩回帰期=昭和5年(1930年、詩集編纂時)
 ――と大ざっぱに3期に分けられ、前後の(1)(3)に挟まれた(2)の時期も、また(1)(3)の時期も第一詩集特有のさまざまな試行が入り組んでいると見るべきでしょう。村野は実作者として三好の達成を好意的に評価していますが、創作には「近代主知が生んだ自我意識」をいかに志向しても、より直感的で作者の肉体性を反映した淀みが入り込んできます。第二詩集以降三好の作風はよりマニエリスム的に純化されたものになりますが、『測量船』に関しては内容と表現の乖離がしばしば見受けられ、これが今なお読むに足る詩集であるならばむしろその綻びにこそ注目すべきではないか、と思えます。

 詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
 第二巻、昭和5年12月20日刊(外箱)

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        書籍本体

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      三好達治揮毫色紙

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●「測量船拾遺」昭和22年1月・南北書園版『測量船』所収
「玻璃盤の胎児」(大正15年6月「青空」)
「祖母」(大正15年6月「青空」)
「短唱」(大正15年6月「青空」)
「魚」(大正15年6月「青空」)
「王に別るる伶人のうた」(大正15年7月「青空」)
「夕ぐれ」(大正15年7月「青空」)
「ニーナ」(大正15年8月「青空」)
「物語」(大正15年8月「青空」)
「夜(太郎/夜ふけて……)」(大正15年8月「青空」)
「私の猫」(大正15年10月「青空」)
「失題」(大正15年9月「青空」)
「黒い旗」(大正15年12月「青空」)
「梢の話」(大正15年11月「青空」)
「昨日はどこにもありません」(昭和4年3月「詩と詩論」)
「水のほとり」(昭和4年3月「詩と詩論」)
●『測量船』昭和5年12月20日第一書房
「春の岬」(詩集書下ろし、昭和2年3月作)
「乳母車」(大正15年6月「青空」)
「雪」(昭和2年3月「青空」)
「甃のうへ」(大正15年7月「青空」)
「少年」(大正15年8月「青空」)
「谺」(昭和2年3月「青空」)
「湖水」(発表誌不詳)
「村(鹿は角に……)」(昭和2年6月「青空」)
「春」(昭和2年6月「青空」)
「村(恐怖に澄んだ……)」(昭和4年12月「詩と詩論」、原題「林」)
「落葉」(昭和4年12月「詩と詩論」、原題「村」)
「峠」(昭和5年5月「詩神」)
「街」(昭和2年5月「青空」)
「秋夜弄筆」(昭和2年12月「亞」)
「落葉やんで」(昭和3年3月「信天翁」)
「池に向へる朝餉」(昭和3年2月「信天翁」、昭和5年7月「詩神」)
「冬の日」(昭和3年3月「信天翁」)
「鴉」(昭和4年12月「詩と詩論」)
「庭(太陽はまだ……)」(昭和4年12月「文學」)
「夜(柝の音は……)」(昭和4年12月「文學」)
「庭(夕暮とともに……)」(昭和2年9月「亞」、昭和4年12月「文學」)
「庭(槐の蔭の……)」(発表誌不詳)
「鳥語」(昭和4年11月「詩神」)
「草の上」(昭和3年9月「詩と詩論」、昭和4年3月「詩と詩論」)
「僕は」(昭和4年5月「文藝レビュー」、昭和4年12月「詩と詩論」)
「燕」(昭和3年9月「詩と詩論」)
「鹿」(昭和4年3月「詩と詩論」)
「昼」(昭和4年3月「詩と詩論」)
「MEMOIRE」(発表誌不詳)
「Enfance finie」(昭和6年4月「詩と詩論」)
アヴェ・マリア」(昭和4年9月「詩と詩論」)
「雉」(昭和4年12月「詩と詩論」)
「菊」(昭和5年2月「オルフェオン」)
「十一月の視野に於て」(昭和4年12月「文學(第一書房版)」)
「私と雪と」(昭和5年1月「文學」)
「郷愁」(昭和5年2月「オルフェオン」)
「獅子」(昭和5年6月「詩・現實」)
「パン」(昭和5年8月「作品」)

(以下次回)