人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(17); 三好達治詩集『測量船』(iv)

 三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
 (撮影・浜谷浩)

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 詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
 第二巻、昭和5年12月20日刊(外箱)

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        書籍本体

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      三好達治揮毫色紙

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 詩集『測量船』収録詩編の半数は、前回に引用した村野四郎の解題の通り「明治大正と引きつがれてきた日本抒情詩を変革し」「古い抒情詩における没我の情緒ではなく、感触の冷たい燃え上ることのない情緒」であり「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」を「近代主知が生んだ自我意識」によって「モダニズム特有のアイロニカルな諷刺と諧謔などの主知的方法によって、新しい抒情のすがたに造形」したものと言えるでしょう。残り半数の甘美な抒情詩、機知の詩によってこの詩集はポピュラリティを獲得しており、それは巻頭詩「春の岬」の「春の岬旅のをはりの鴎どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」(なんと2行書きの、若山牧水調の短歌から『測量船』は始まるのです)、「乳母車」の「母よ――/淡くかなしきもののふるなり」「母よ 私は知つてゐる/この道は遠くはてしない道」であり、「雪」の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」であり、「甃のうへ」の「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ」や「少年」の「夕ぐれ/とある精舎の門から/美しい少年が帰つてくる」であり、この詩集巻頭の5編は大正15年(昭和元年)と昭和2年(1926年・1927年)の作で収録詩編中もっとも早い時期の作品で、三好の詩作発表は大正15年からですから初期作品中の自信作を巻頭に据えていることになります。
 さらにそれらを甘美な抒情詩の好例とすると、機知の詩には「春」の「鵞鳥。――たくさんいつしよにゐるので、自分を見失はないために啼いてゐます。/蜥蜴。――どの石の上にのぼつてみても、まだ私の腹は冷たい。」や「草の上」の「野原に出て坐つてゐると、/私はあなたを待つてゐる。/それはさうではないのだが」、「パン」の「パン、愛犬のパンザをつれて、/私は曇り日の海へ行く」「あわて者の蟹が、運河の水門から滑つて落ちた/その水音が気に入つた。――腹をたてるな、パン、あれが批評だよ」などがあります。「春」は昭和2年6月発表ですが「草の上」は昭和3年9月(1928年)、詩集巻末の「パン」は『測量船』刊行年の昭和5年8月(1930年)発表で、詩集でも最近作に属します。もっとも機知と抒情が融合して成功を収めているのは、次のような作品でしょう。

花ばかりがこの世で私に美しい。
窓に腰かけてゐる私の、ふとある時の私の純潔。

私の膝。私の手足。(飛行機が林を越える。)
――それから私の秘密

秘密の花弁につつまれたあるひと時の私の純潔。
私の上を雲が流れる。私は楽しい。私は悲しくない。

しかしまた、やがて悲しみが私に帰つてくるだらう。
私には私の悲しみを防ぐすべがない。

私の悩みには理由がない。――それを私は知つてゐる。
花ばかりがこの世で私に美しい。
 (「菊」副題「北川冬彦君に」全行・「オルフェオン」昭和5年2月)

 蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
 (「郷愁」全行・「オルフェオン」昭和5年2月)

 海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。

  約束はみんな壊れたね。

  海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。

  空には階段があるね。

 今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣(わか)れよう。床(ゆか)に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。

  僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
 (「Enfance finie」全行・詩集刊行後「詩と詩論」昭和6年4月)

 しかし詩集巻頭の見事な抒情詩5編――「春の岬」(詩集書下ろし、昭和2年3月作)、「乳母車」(大正15年6月「青空」)、「雪」(昭和2年3月「青空」)、「甃のうへ」(大正15年7月「青空」)、「少年」(大正15年8月「青空」)に続く3編「谺」(昭和2年3月「青空」)、「湖水」(発表誌不詳)、「村(鹿は角に……)」(昭和2年6月「青空」)には、初期作品ではあっても機知と抒情というのとは違う指向性が見えています。

 夕暮が四方に罩(こ)め、青い世界地図のやうな雲が地平に垂れてゐた。草の葉ばかりに風の吹いてゐる平野の中で、彼は高い声で母を呼んでゐた。

 街ではよく彼の顔が母に肖(に)てゐるといつて人々がわらつた。釣針のやうに脊なかをまげて、母はどちらの方角へ、点々と、その足跡をつづけていつたのか。夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた。

 しづかに彼の耳に聞えてきたのは、それは谺(こだま)になつた彼の叫声であつたのか、または遠くで、母がその母を呼んでゐる叫声であつたのか。

 夕暮が四方に罩め、青い雲が地平に垂れてゐた。
 (「谺」全行)

この湖水で人が死んだのだ
それであんなにたくさん舟が出てゐるのだ

葦(あし)と藻草(もぐさ)の どこに死骸はかくれてしまつたのか
それを見出した合図(あひづ)の笛はまだ鳴らない

風が吹いて 水を切る艪(ろ)の音櫂(かい)の音
風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする

ああ誰かがそれを知つてゐるのか
この湖水で夜明けに人が死んだのだと

誰かがほんとに知つてゐるのか
もうこんなに夜が来てしまつたのに
 (「湖水」全行)

鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。

そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。
  (「村」全行)

 これらの詩編には大正14年4月の東京帝国大学入学時から親友となり、三好と出会った頃にはのち短編集『檸檬』(昭和6年5月刊)収録作品のうち最初期の成立になる「城のある町にて」「檸檬」を完成していた梶井基次郎(1901-1932)と、三好が梶井や丸山薫(1899-1974)の主宰する同人誌「青空」に参加した大正15年春に満州から上京して同窓となり、「青空」同人となるとともに梶井・三好と下宿を往復する仲となった北川冬彦(1900-1990)からの影響が見られます。北川は大正15年秋にはすでに2冊の詩集『三半規管喪失』(大正14年1月刊)、『検温器と花』(大正15年10月刊)の詩人であり、昭和4年刊の第3詩集『戦争』では芥川龍之介没後の日本の小説家中もっとも注目され、盟友の川端康成とともに文学界を牽引していた横光利一(1898-1947)の序文が寄せられています。梶井は生涯に完成作品が短編20編、歿年の前年に刊行された短編集『檸檬』の収録作品が18編と大変な寡作家でしたが、歿後発見された習作・未発表の未完成作品、書簡、日記の文学的価値も高く完成作品20編に劣らない重要性があるため数次に渡って全集が刊行されています。『檸檬』は収録作品の成立時期からも三好の『測量船』と好対一をなすもので、『測量船』中の短編小説的な散文詩は梶井からの感化が見られ、「谺」は短いものですが梶井の詩的短編小説の断篇を見るようです。また北川冬彦の詩からは、

 沼には溺死体が呻吟してゐる

 水際に陽はかゞやきわたり
 白い脛が たまらなく羞恥してゐる

 群集の中に しやれ女が
 いくども 化粧をしなほして来てゐる

 蛙の眼にも焦燥が宿つたのに
 検視人は まだ情婦と戯れ続けてゐる

 沼には溺死体が呻吟してゐる
  (「溺死女」全行・詩集『三半規管喪失』より)

 寝台の上で少女が微笑してゐる

 右手の指は蒼白い胸に突刺さり

 差述べられた左手には蟷螂がのせてある。
  (「楽園」全行・詩集『検温器と花』より)

 ――などを見ると、三好の「湖水」は北川の「溺死女」の本掛取りとも言えそうですし、また三好の「村」は前半は梶井の散文断篇、後半は北川の「楽園」に代表されるようなスナップショット的な手法で、「青空」廃刊後に三好も参加した同人誌「亞」を北川とともに主宰した安西冬衛(1898-1965)も三好に影響を与えた詩人でしょう。

 鏡が肢をうつしてゐる

 ――しつこいひと

 梨の花を舐(ねぶ)る犬。
  (「首夏」全行・詩集『軍艦茉莉』昭和4年4月刊より)

 歪な太陽が屋根屋根の向ふへ又堕ちた。
 乾いた屋根裏の床の上に、マニラ・ロープに縛られて、少女が監禁されてゐた。夜毎に支那人が来て、土足乍らに少女を犯していつた。さういふ蹂躙の下で彼女は、汪洋とした河を屋根屋根の向ふに想像して、黒い慰の中に、纔(わづか)にかぼそい胸を堪へてゐた――

 河は実際、さういふ屋根の向ふを汪洋と流れてゐた。
  (「河口」全行・詩集『軍艦茉莉』より)

 この「河口」は安西の作品中でも傑出した作品で、北川の一行詩「馬」(詩集「戦争」より)の「軍港を内臓してゐる。」(これはタイトルと併せて「馬――軍港を内臓してゐる。」と読むべきですが)と並んで評判になった一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」(「春」、詩集『軍艦茉莉』より)に匹敵するものですが、三好が梶井の夭逝以降同人誌「四季」を主宰した時に創刊同人に誘ったのは芥川龍之介萩原朔太郎に私淑した小説家の堀辰雄(1904-1953)と、「青空」以来の盟友・丸山薫でした。丸山の第一詩集『帆・ランプ・鴎』(昭和7年12月刊)から2編を引きましょう。「河口」は詩集巻頭詩、「砲塁」は同人誌発表当時に梶井が絶賛し、初期詩編中の代表作になった作品です。詩集では行間を詰めていますが、ここでは同人誌発表時の行空けに従います。

 船が錨をおろす。
 船乗の心も錨をおろす。

 鴎が淡水(まみづ)から、軋る帆索(ほづな)に挨拶する。
 魚がビンジの孔に寄つてくる。

 船長は潮風に染まつた服を着換えて上陸する。
 夜がきても街から帰らなくなる。
 もう船腹に牡蠣殻がいくつふえたらう?

 夕暮が濃くなるたびに
 息子の水夫がひとりで舳(へさき)に青いランプを灯す。
 私に見えない闇の遠くで私を瞶(みつ)めてゐる鴎が啼いた。
  (「河口」全行)

 破片は一つに寄り添はうとしていた。

 亀裂はまた微笑まうとしてゐた。

 砲身は起き上つて、ふたたび砲架に坐らうとしてゐた。

 みんな儚(はかな)い原型を夢みてゐた。

 ひと風ごとに、砂に埋れて行つた。

 見えない海――候鳥(こうてう)の閃き。
  (「砲塁」全行)

 丸山の詩は密度においていささか物足りない観がするものですが、あえて佶屈な行文を避けて静謐な抒情を醸しているので、これも村野四郎の『測量船』解題にある「古い抒情詩における没我の情緒ではなく、感触の冷たい燃え上ることのない情緒」であり、「近代主知が生んだ自我意識」による方法のひとつです。梶井基次郎北川冬彦からの縁で丸山薫安西冬衛を含めると、「乳母車」や「甃のうへ」に見られる萩原朔太郎室生犀星ら先達詩人の影響から出発して三好がよりモダンな作風に移行するには、自分と同世代で三好よりひと足早く独自の作風を築いていた盟友たちからの感化が不可欠だったのがわかります。三好は友人たちの優れた面から自分に合う部分を学び咀嚼し、吸収するのが実に速やかで巧みであり、それを自然に行える詩人でした。そして詩集中の最近作で昭和5年度の「菊」「郷愁」「Enfance finie」になると三好の作風も独自の完成を示しており、梶井や丸山、北川や安西にはない三好ならではの個性が横溢しています。
 しかし三好が食えない詩人なのは『測量船』の代表詩でもあるこの系列の作品が『測量船』以降の詩集にはなく、また『測量船』には「湖水」「村」の延長線上にもっと陰惨でマゾヒスティックな感覚の作品の主に散文詩、「鴉」や「庭」「夜」「鳥語」があることです。特に「鴉」と「鳥語」の印象は強烈で、村野四郎の指摘にある「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」はこれらの散文詩を詩集の中心に置いた見方と言えるでしょう。三好は萩原に私淑するとともに学生時代にニーチェを愛読し、ボードレール散文詩集『巴里の憂鬱』の初の日本全訳者でもあり、また戦乱時代の中国の古典漢詩人にも親しんでいたので「詩人は迫害された存在である」という発想が根強くあり、語感では犀星の柔軟な文体に学びながら萩原に就いたのは、犀星には詩人をネガティヴな存在とする発想はまったくなかった(それが犀星をユニークな大詩人にしているのですが)からでしょう。三好は晩年まで詩人の孤独を抱え続けますが、第一詩集『測量船』ほど極端に陰惨な詩を含む詩集はなく、もっと暗喩的に控えた表現方法を採るようになりますので、『測量船』のそれらの詩は三好にとっては極めつきに自己言及的な作品とすることができるでしょう。だとすれば、三好と親近性のある『測量船』当時の盟友たちよりも、三好とは結びつかない同世代の詩人たちや、また大学生時代を秘書の立場で私淑までしながら離反することになった師の萩原の、三好が批判者の立場に回ってからの晩年の散文詩と照らしてみる必要があります。次回はそれをテーマとすることにします。

(引用詩の用字は略字体に改め、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)