三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
(撮影・浜谷浩)
詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
第二巻、昭和5年(1930年)12月20日刊(外箱)
詩集『南窗集』椎の木社・昭和7年8月1日刊
八木重吉詩集『秋の瞳』を読み始めたばかりですが読み返したばかりの本から三好達治に関して追補したい文献があったのでご紹介します。三好の第1詩集『測量船』については三好達治の初期作品~晩年に至る詩業全般、また『測量船』に先立つモダニスム傾向の詩と『測量船』と同時代のモダニスム詩と読み較べてきました。三好が初期に依った百田宗治主宰の詩誌「椎の木」は百田自身が民衆詩派出身で特に流派を特定しない面倒見の良い親分肌の詩人だったため、百田を慕って集まった若い詩人たちの多くが時代柄モダニスムに傾倒していたためモダニスム色が強くなっていったのですが、「椎の木」から出て「詩と詩論」に進んだ詩人たち、また「詩と持論」から「詩・現実」に分かれた詩人たち、さらに無数の衛星誌にはモダニスム色をさらに強めた詩誌もあれば抒情詩へ回帰する傾向の詩誌もあり、穏健派から急進派まで傾向は幅広いものでした。「椎の木」と「マダム・ブランシュ」「詩法」に依った詩人、江間章子(1913-2005)による長編回想記『埋もれ詩の焔(ほむ)ら』(昭和60年・講談社)は「マダム・ブランシュ」で親友だった詩人、左川ちか(1911-1936)の全詩集刊行を期に同人誌に連載した回想記を前半に、また左川ちか同様「カイエ」寄稿者で「椎の木」から出て「20世紀」を主宰し「詩法」同人も兼ねた詩人、饒正太郎(1912-1941)と「マダム・ブランシュ」で江間の友人となり「20世紀」「詩法」同人に進んだ詩人、伊東昌子(推定1912-1941)についての作品紹介と回想を後半に、50年を経て昭和10年前後の東京の若い詩人たちの交友関係を描いた著作で、江間章子自身がその詩人たちのひとりですからまとまった当事者の証言として大変貴重なものです。饒正太郎は台湾の豪商家の子息に生まれ英才教育のため東京で育てられた青年詩人で「20世紀」で知り合った伊東昌子と結婚、2児を設けましたが若くして病没し、夫人の昌子は2児を連れて台湾の饒家に身を寄せるも饒家当主の怒りを買い饒家にて処刑されたと戦後に台湾と縁のある詩歌人づてに著者が知ったことも書かれています。
回想記『埋もれ詩の焔(ほむ)ら』は当時(今日も、ただし左川ちかの詩はかなり読者を広げましたが)容易に読むことのできない左川ちか、饒正太郎、伊東昌子の同人誌発表詩をふんだんに紹介してくれていますが、批評もよく発表した伊東昌子の代表的な批評もそれぞれ全文(同人誌発表ですから短いものですが)が紹介されています。そこに、『埋もれ詩の焔(ほむ)ら』以外では再録どころか言及した例すらないのではないかと思われる(三好達治文献一覧類にも上げられていない)、三好の身内以外からの三好達治論としてはもっとも早い時期の本格的な批判があるのです。モダニスム側からの三好批判としては当然しかるべきもので、ここで「智性」「感性」と対比されているものはあまり実体のない、モダニスムのリーダー的存在だった「詩と詩論」主宰者の春山行夫の論法の延長上にあるものですが、第1詩集『測量船』とその後の詩作の断絶を昭和10年の時点で指摘した論点は結果的には正鵠を得ていたことになります。しかし『測量船』の中にすでに頽廃への指向があり、それが裏腹の形で表れたのがその断絶を生んだとこのブログの筆者は考えているので、伊東昌子の指摘は三好の抱えた矛盾への追究にはまだおよんでいないように思われます。また春山流の昭和初期流行の衒学的文体の古び方は三好の詩よりもずっと古びているのでせっかくの着目が生きておらず、同人誌詩人の限界を感じさせます。それらマイナス点を差し引いても歴史的価値の高い証言となっている短評には違いなく、ご紹介する次第です。三好の第2詩集『南窗集』についてはこの連載の(viii)で触れてあります。よければ併せてご覧ください。
江間章子『埋もれ詩の焔(ほむ)ら』
講談社・昭和60年10月21日刊
三 好 達 治 の グ ラ フ
伊 東 昌 子
「測量船」「南窗集(なんそうしゆう)」「日まはり」と三好達治の画いたグラフを考へたとき、詩人の肢(あし)と云つたものが考へられて大変面白く思つた。つまり三好達治の曲線は蝸虫(かたつむり)の貝殻のやうで、螺旋形に段々とポエジイの世界が狭められて、現在はその肢さへ見失つてしまふ座標の極点から、八糎程手前にある。そしてこれからも氏の運動はその間隔を狭める事も広める事もせず、依然として何度かの角度を保ちながら、グルグル廻りをする事であらうと思はれる。最近の著「日まはり」を見るに及んで此の感を深くした。最早や三好達治は、過去に於てこそ語らるべきで、現在は語るべきなにものもないのである。
「日まはり」は短歌集とことわつてあるが、之は最近「行動」等に発表した詩篇と比べて、形式に長短こそあるにしても、イマアジユの扱ひ方などには何等の差異を認めないから、ポエムとして見る事が出来ると思ふ。
「日まはり」は信州の温泉で生れたやうに極めて温泉的なものである。過去に於てあやしいまでに張りきつた感性の張力が水をはらんで、自らの安易性の中に堕してしまつた。そしてそれには日常生活のコクと云つたものと、明らかにそれは狙つたものとも思はれるが心境的な安らかさと云つたものに溢れてゐて、一面そのよさは認められるとしても、ポエジイの世界としては、既に三歩の転落である。感性型の詩人三好達治が当然堕ちるべきところに進んだのは当然のこととしても、その消極性が狭い意味の東洋趣味にまで堕ちたことは大いに責むべき責任がある。一体に文学の世界でそれが小説であると詩であるとに拘はらず、この国の人たちは年齢的にこの狭い意味の東洋趣味に走らうとする通有性を持つてゐる。この様な態度を私達は飽くまで排撃しなくてはならない。
殊にポエジイの世界に於て、一時たりともそのアクテイビテイが失はれることは、完全に詩壇からの没落である。
進歩から変化へ、変化から進歩へ、ポエジイは常に行動の声であり、常に間断なき思考の前進を必要とするのである。而して前進のためには闘ひは米の様なものであり、詩人は常に戦士として楯を取ることに於てのみそのレエゾンデエトルがあると云はねばならぬ。斯のやうに詩の世界は極めて峻厳なものであつて、一歩の許容をも許さないのであるから、斯のやうな見地から眼鏡をとれば、三好達治の曲線は完全に零に等しくなるのである。
私達が見るグラフの上で、最も興味のあるのは常にこの一点に他ならない。そして詩人の肢とは即ちこの曲線に他ならなくて、詩人は一生、このグラフを背負ふべき運命を以て生れてゐる。そしてその曲線こそ、常に詩人の運動の方向を指し示す精巧な秤にも比すべきものである。
今三好達治の曲線の過程を探つて先ず第一に感じる事はポエジイの非常な狭さである。
それが一面に於ては優れた純粋性を保たしめた故でもあるが、この狭さこそ氏の曲線の肢や頭を失はしめた致命的な原因の一つであつた。そしてそれはつまり対象の飛躍が非常に極限的であつた事でもあつた。
「測量船」はsentieの世界として見たときそれは秀れてゐる、「測量船」の純粋性はその様な世界に於てであつた。それは水晶のやうに透明なものではあるが、大切に玉手箱に入れられてしまつたことに氏の不幸がある。
「測量船」の美しさは、青と黒の色調をもとにして著者の感性が綾のやうに縫いつゞけられたことである。そしてその美しさが極限に於て感性と智性の縫目を一つにしたところに氏のポエジイの分岐点があるのである。
更に「南窗集」に於ては、いくらか聴覚的な美しさを増しはしたのであるが、感性の把握が弱々しく、智性の綾糸は既に縫目を失つてしまつた。この様に「南窗集」に於て早くも転落を示したことは、一に氏の智性の弱々しさによるのは勿論であるが、思考の行動性と云ふものに全然一顧をも与へなかつたと云ふ重大な誤謬があつたことである。
故に私達が「南窗集」や「日まはり」に於ける安易性を嫌ふのは、つまりそれが思考の平易ではなくして、感性の平易であるに過ぎないからなのである。
三好達治は「測量船」に乗つて処女航海に出た。そしてその航海の歴史は、出発点に於てのみ、すぐれた記録を示したのであるが、段々船が進むに従つて、「南窗集」「日まはり」と遂に航海半ばにして、智性の指針を失ひ感性の過剰で沈没してしまつた事は、氏の為にかへすがへすも残念なことである。
(発表・昭和10年=1935年2月「20世紀」)