人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(17); 三好達治詩集『測量船』(ix)菱山修三「懸崖」、田村隆一「四千の日と夜」

 三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
 (撮影・浜谷浩)

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 詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
 第二巻、昭和5年(1930年)12月20日刊(外箱)

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 モダニズム時代の散文詩詩人、菱山修三(1909-1967)は今日ほとんど顧みられず、坂口安吾や逸見猶吉とは交友があったそうですが、当時の詩の流派のどこにも属さなかったために一目置かれこそすれ何となく孤立していた存在だったようです。没後に全4巻の膨大な全詩集が刊行されましたが、それでも再評価の気運は起きませんでした。今回『三好達治全集』を読んでいたら最終巻の第12巻に単行本未収録の雑篇をまとめた部があり、「菱山修三君と僕」という短いエッセイを見つけました。第一書房のPR誌「伴侶」に昭和5年12月に発表されたもので、長谷川巳之吉個人出版社だった第一書房は三好の師の萩原朔太郎の昭和年代の著書の版元ですし、三好の第1詩集『測量船』も同社の同月刊行です。菱山修三の第1詩集で16歳~21歳の作品を集めた『懸崖』は翌月の昭和6年1月に第一書房から刊行されますから、30歳の第1詩集刊行前から新鋭詩人中の第一人者だった三好による、まだ21歳でほぼ書き下ろしの詩集でデビューする菱山への援護が第一書房社主の長谷川から依頼されたのがエッセイ「菱山修三君と僕」だったのでしょう。
 菱山修三は初対面の三好に第一声、「君は自殺をするんぢやありますまいね?」と、「自殺」だけを外国語の単語に代えて尋ねてきたそうです。また「僕の詩なんか、誰もすつかりは理解してくれないんですよ。」「一つの詩のかげで沢山の詩が死んでゐるんです。……誰の場合にも。」と語ったといいます。三好は「彼と僕とは、同じ血縁につながる、感傷詩人である。」「しかし、実は、感傷家と詩人とは、僕らの中にあつて常に性格の矛盾した二重の存在なのだ。」と書き、「真実のために、一つの詩のかげで勿論多くの詩が死なねばならない。(なぜなら、真理もやはり無数の偶然中の一秩序にすぎないのだから。)けれども、それ故にこそ、人は君の詩を理解するでせう、菱山君。」と結んでいます。菱山修三の第1詩集『懸崖』から巻頭詩と詩集表題作を上げましょう。


 私は遅刻する。世の中の鐘が鳴つてしまつたあとで、私は到着する。私は既に負傷してゐる。……
 (「夜明け」全行、詩集『懸崖』昭和6年=1931年1月刊収録)


 私は廿一歳、私は頬に手をあてる。私は耳朶(みみたぶ)に手をあてる。私は廿一歳、私は理解してゐる、空腹は断崖だ、と。詩は空腹だ、と。

 私は十三歳ではない。あれから私は一人の画家(ゑかき)の夫人に口脣と頬とを奪はれた。そして聞き分けのよい耳を。私は十三歳ではない。過去の聖橋をとつくに踏み越へた。あの小さな、自分だけ明るくしてゐる冬の太陽を向ふにして、背(うしろ)にして。

 私は廿一歳、私は温容と従順とから一つ敷居を越して来てゐる。私は確信と先見と、少し大き過ぎる願望とで、詩を書く。世界史の一部を書く。そして、つまり、喉を締める。あの断崖の詩を、三百六十五羽の鳩と戯れながら、飢ゑながら。
 (「懸崖」全行、同上)


 菱山修三の詩は骨格がいかにも脆く、一人称「私は」の頻用が安易で、言葉に抵抗感がないのが詩として最大の弱点なのが、前々回ご紹介した三富朽葉西脇順三郎富永太郎瀧口修造、千田光、伊東静雄、左川ちか、またこれまでに取り上げた山村暮鳥佐藤春夫金子光晴尾形亀之助、逸見猶吉、近藤東、立原道造ら萩原~三好と同時代の詩人と較べても痛感されますが、菱山と三好の対話は興味深いものです。菱山は『測量船』に収められた当時までの三好の詩を読み、切迫した自滅的衝動を真に受けていたわけで、島崎藤村が『新生』(大正7年)を発表した時に同人誌時代からの盟友、田山花袋が藤村の自殺の心配をしたという逸話を思い出させます。先に亡くなったのは花袋の方で、花袋の臨終を見舞った藤村は「花袋君、死んでいく気持はどうだい」と訊き、花袋は「辛いし苦しいよ」と答えたそうですから藤村というのも食えない人でした。
 三好の「菱山修三君と僕」も青春性を感じさせるエッセイながら、三好が後に親友になった小林秀雄を思わせるような人を見透かした文章で、三好の旧友だった梶井基次郎小林秀雄の批評が嫌いで親友の三好や北川冬彦に小林の文芸批評を批判した手紙を書いて意見を求めていましたが、例えば梶井は当時日本の小説家で最大の話題作家だった横光利一の「機械」(昭和5年9月発表)から始まる実験小説を、世評高いようなヨーロッパのモダニズム文学手法の移入ではなく「格闘ライターとして注目してゐる」と三好・北川宛ての書簡に書いています。一方、小林秀雄は文学的手法を飛び越えて横光の「機械」連作を「倫理の書」である、という結論だけ断定した批評を書く。横光の「機械」連作を格闘小説として注目した梶井の観点は千田光への賞賛とつながっていて具体的な詩的想像力の運動への関心から来ていますが、小林の断定は超越的な思考停止に読者を誘導するような批評方法です。三好は小林より先に(というより小林との交友は梶井の夭逝の後ですから当たり前ですが)梶井の親友でしたが、「菱山修三君と僕」には梶井の書簡より小林の批評を連想させるような観点が感じられます。

 菱山修三が三好に語ったという「一つの詩のかげで沢山の詩が死んでゐるんです。……誰の場合にも。」、またそれに対して三好が「真実のために、一つの詩のかげで勿論多くの詩が死なねばならない。(なぜなら、真理もやはり無数の偶然中の一秩序にすぎないのだから。)」と書いているくだりを読んで、現代詩の読者がすぐ思い出すのはモダニズム影響下から出発した戦後詩の詩人、田村隆一(1923-1998)の名高い次の詩でしょう。


 一篇の詩が生れるためには、
 われわれは殺さなければならない
 多くのものを殺さなければならない
 多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

 見よ、
 四千の日と夜の空から
 一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
 四千の夜と四千の日の逆光線を
 われわれは射殺した

 聴け、
 雨のふるあらゆる都市、熔鉱炉、
 真夏の波止場と炭坑から
 たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
 四千の日の愛と四千の日の憐みを
 われわれは暗殺した

 記憶せよ、
 われわれの眼に見えざるものを見、
 われわれの耳に聴えざるものを聴く
 一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
 四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
 われわれは毒殺した

 一篇の詩を生むためには、
 我々はいとしいものを殺さなければならない
 これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
 われわれはその道を行かなければならない
  (田村隆一「四千の日と夜」全行・昭和29年=1954年7月「詩と詩論」、詩集『四千の日と夜』昭和31年3月刊収録)


 これは名高いが空疎な詩の見本のようなもので、構成先にありきの中に文明批判的に気の利いた修辞を嵌め込んでいったような薄ら寒い作品です。頭のいい中学生の書いたような詩で、その点『測量船』から後退しているとすら言えます。この詩は類似した効果のある比喩(「小鳥のふるえる舌」「飢えた子供の涙」「野良犬の恐怖」)なら何にでも交換可能な構文から成り立つ安易さを洗練と錯覚させる手法が極めて通俗的であり、決定的な表現には決して到達しない発想の甘さがあります。内実はまるでなく、あるのはコンセプトだけです。戦後の現代詩が「四千の日と夜」のような詩から始まったとしてもすぐに三好の『測量船』による革新の延長にある抒情詩が大勢を占めるような風潮に戻ったのも、こんな詩を今読み返してみると無理もないと思われます。
 一方、晩年に向かった三好の詩がむしろモダニズム時代の『測量船』から離れていったのも詩人のあり方として興味深く思われます。『測量船』のナルシシズムが第2詩集『南窗集』で極端なフォルマリズムに走ったのは前回見た通りですが、晩年の三好の無欲恬淡さは好ましくもあり、また一面では老成への意識的な指向が不気味さを感じさせもするものです。


 こんこんこな雪ふる朝に
 梅が一りんさきました
 また水仙もさきました
 海にむかつてさきました
 海はどんどと冬のこゑ
 空より青い沖のいろ
 沖にうかんだはなれ島
 島では梅がさきました
 また水仙もさきました
 赤いつばきもさきました
 三つの花は三つのいろ
 三つの顏でさきました
 一つ小島にさきました
 一つ畑にさきました
 れんれんれんげはまだおきぬ
 たんたんたんぽぽねむつてる
 島いちばんにさきました
 ひよどり小鳥のよぶこゑに
 こんこんこな雪ふる朝に
 島いちばんにさきました
  (「こんこんこな雪ふる朝に」全行・昭和32年=1957年1月「日本經濟新聞」、『定本三好達治全詩集』昭和37年=1962年3月刊所収新作詩集「百たびののち」収録)


 ――さらに、三好晩年の絶唱と言える名作、


 葛飾の野の臥龍
 龍うせて もも すもも
 あんずも青き實となりぬ
 何をうしじまちとせ藤
          はんなりはんなり

 ゆく春のながき花ふさ
 花のいろ揺れもうごかず
 古利根(ふるとね)の水になく鳥
 行々子啼きやまずけり

 メートルまりの花の丈
 匂ひかがよふ遅き日の
 つもりて遠き昔さへ
 何をうしじまちとせ藤
          はんなりはんなり
  (「牛島古藤歌」全行・『定本三好達治全詩集』昭和37年3月刊所収新作詩集「百たびののち」書き下ろし)


 先に引いた「こんこんこな雪ふる朝に」はまだしも詩人のまとったおどけた好々爺ぶりが見えていますが、絶品「牛島古藤歌」には言葉を失います。ここまで来るとほとんど詩人の主体というべきものが消滅しており、詩の形式主義的側面では田村隆一の「四千の日と夜」と「牛島古藤歌」は実質的に大差はないのですが、「四千~」には概念しかないのが「牛島~」には逆に具体物しかない。「はんなりはんなり」という囃子詞(はやしことば)もここでは物でしかありません。概念は動きます。が、具体物は簡単には動きません。
 もし菱山修三が言うように「一つの詩のかげで沢山の詩が死んでゐるんです。……誰の場合にも。」の通りであり、それを受けた三好が「真実のために、一つの詩のかげで勿論多くの詩が死なねばならない。(なぜなら、真理もやはり無数の偶然中の一秩序にすぎないのだから。)」とし、「一篇の詩が生れるためには、/われわれは殺さなければならない/多くのものを殺さなければならない/多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ」(「四千の日と夜」)であれば、実際にそれを体現している詩は菱山修三の「夜明け」でも田村隆一の「四千の日と夜」でもなく、三好の「牛島古藤歌」でしょう。このあまりに恬淡とした自己抛擲は民謡調の明るさをまといながら詩人自身による不吉な生前葬の趣きすらあり、三好のありあまる詩才のほとんどすべてを圧殺して「牛島~」一編が成立している凄みは「四千~」のようなコンセプトだけの詩(田村がそれだけとは言いませんが)を無限に重ねても及びもつきません。

 しかし、膨大な三好の詩集を通読すると、三好の詩業のピークは30代後半~40代前半にあり、折悪しく日本の大東亜戦争~太平洋戦争の10年間と重なったことにより外的な体裁をも考慮せざるを得ない詩集編纂がなされています。『朝菜集』(昭和18年刊)や『花筐』(昭和19年刊)のように純粋な抒情詩の詩集がある一方で戦争翼賛詩集三部作『捷報いたる』(昭和17年=1942年7月刊)、『寒拆』(昭和18年=1943年12月刊)、『千戈永言』(昭和20年=1945年6月刊)もあります。また日本敗戦以後の詩も民主化国策肯定的な時局詩が多く、単行詩集としては三好の最後の詩集で最大の大冊となった『駱駝の瘤にまたがつて』(昭和27年刊)を損ねています。以後の新詩集は「百たびののち」として昭和37年刊の『定本三好達治全詩集』所収になり、初期の詩集や『朝菜集』『花筐』、敗戦直後の『故郷の花』『砂の砦』(昭和21年刊)以来の純粋な抒情詩への回帰が見られる一方、濫作期の『駱駝の瘤にまたがつて』で生じた詩質のムラが払底されたとは言えず、『駱駝の~』(芸術院賞)、「百たび~」(『定本三好達治全詩集』読売文学賞)は評価の高い詩集ですが、長詩になるほど無理が多く、詩集としての編集基準の散漫さが気になります。
 三好達治の全般的な詩歴の評価が難しいのは、創造力のもっとも高かった時期に戦争が重なり、その外圧がかえって三好の詩に高い緊張を与えていることで、同じ理由で敗戦後の詩は時局を反映すればするほど大衆迎合的な弛緩したものになりました。『駱駝の瘤にまたがつて』の表題作や詩集中の代表作とされる「師よ 萩原朔太郎」などの長詩は三好らしくもない読者を舐めた冗漫で独りよがりなものです。際どいのは戦時下の、それこそ戦争翼賛詩、銃後詩に近い詩でした。そこでは三好は決して手を抜くことはできず、詩集のたび、極端には1編ごとに最後の作品になることを覚悟しなければなりませんでした。そうした外的要因抜きに三好の最高の詩が成立したかどうかはわかりません。しかし戦時下に書かれた数編が三好の最高の詩作品であることもまた確かなのです。


(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)