人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

三好達治と菱山修三「懸崖」・田村隆一「四千の日と夜」

(三好達治<明治33年=1900年生~昭和39年=1964年没>)
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 モダニズム時代の散文詩詩人、菱山修三(1909-1967)は今日ほとんど顧みられず、坂口安吾や逸見猶吉とは交友があったそうですが、当時の詩の流派のどこにも属さなかったために一目置かれこそすれ何となく孤立していた存在だったようです。没後に全4巻の膨大な全詩集が刊行されましたが、それでも再評価の気運は起きませんでした。先ごろ『三好達治全集』を読んでいたら最終巻の第12巻に単行本未収録の雑篇をまとめた部があり、「菱山修三君と僕」という短いエッセイを見つけました。第一書房のPR誌「伴侶」に昭和5年12月に発表されたもので、長谷川巳之吉個人出版社だった第一書房は三好の師の萩原朔太郎の昭和年代の著書の版元ですし、三好の第1詩集『測量船』も同社の同月刊行です。菱山修三の第1詩集で16歳~21歳の作品を集めた『懸崖』は翌月の昭和6年1月に第一書房から刊行されますから、30歳の第1詩集刊行前から新鋭詩人中の第一人者だった三好による、まだ21歳でほぼ書き下ろしの詩集でデビューする菱山への援護が第一書房社主の長谷川から依頼されたのがエッセイ「菱山修三君と僕」だったのでしょう。

 菱山修三は初対面の三好に第一声、「君は自殺をするんぢやありますまいね?」と、「自殺」だけを外国語の単語に代えて尋ねてきたそうです。また「僕の詩なんか、誰もすつかりは理解してくれないんですよ。」「一つの詩のかげで沢山の詩が死んでゐるんです。……誰の場合にも。」と語ったといいます。三好は「彼と僕とは、同じ血縁につながる、感傷詩人である。」「しかし、実は、感傷家と詩人とは、僕らの中にあつて常に性格の矛盾した二重の存在なのだ。」と書き、「真実のために、一つの詩のかげで勿論多くの詩が死なねばならない。(なぜなら、真理もやはり無数の偶然中の一秩序にすぎないのだから。)けれども、それ故にこそ、人は君の詩を理解するでせう、菱山君。」と結んでいます。菱山修三の第1詩集『懸崖』から巻頭詩と詩集表題作を上げましょう。

「夜明け」 菱山修三

 私は遅刻する。世の中の鐘が鳴つてしまつたあとで、私は到着する。私は既に負傷してゐる。……

(詩集『懸崖』昭和6年=1931年1月刊収録)

「懸崖」 菱山修三

 私は廿一歳、私は頬に手をあてる。私は耳朶(みみたぶ)に手をあてる。私は廿一歳、私は理解してゐる、空腹は断崖だ、と。詩は空腹だ、と。

 私は十三歳ではない。あれから私は一人の画家(ゑかき)の夫人に口脣と頬とを奪はれた。そして聞き分けのよい耳を。私は十三歳ではない。過去の聖橋をとつくに踏み越へた。あの小さな、自分だけ明るくしてゐる冬の太陽を向ふにして、背(うしろ)にして。

 私は廿一歳、私は温容と従順とから一つ敷居を越して来てゐる。私は確信と先見と、少し大き過ぎる願望とで、詩を書く。世界史の一部を書く。そして、つまり、喉を締める。あの断崖の詩を、三百六十五羽の鳩と戯れながら、飢ゑながら。

(詩集『懸崖』昭和6年=1931年1月刊収録)

 菱山修三の詩は骨格がいかにも脆く、何より一人称「私は」の頻用が安易で、言葉に抵抗感がないのが詩として最大の弱点なっていることは、これまでご紹介した北村透谷、中西梅花、蒲原有明、伊良子清白、横瀬夜雨、高村光太郎石川啄木三富朽葉西脇順三郎八木重吉富永太郎瀧口修造、祝算之助、鮎川信夫ら明治・大正・昭和の詩人、また山村暮鳥佐藤春夫金子光晴尾形亀之助、逸見猶吉ら萩原~三好と同時代の詩人と較べても痛感されますが、菱山と三好の対話は興味深いものです。菱山は『測量船』に収められた当時までの三好の詩を読み、切迫した自滅的衝動を真に受けていたわけで、島崎藤村が自伝的長編小説『新生』(大正7年)を発表した時に同人誌時代からの盟友、田山花袋が藤村の自殺の心配をしたという逸話を思い出させます。先に亡くなったのは花袋の方で、花袋の臨終を見舞った藤村は「花袋君、死んでいく気持はどうだい」と訊き、花袋は「辛いし苦しいよ」と答えたそうですから藤村というのも食えない人でした。

 三好の「菱山修三君と僕」も青春性を感じさせるエッセイながら、三好が後に親友になった小林秀雄を思わせるような人を見透かした文章で、三好とシェアハウスするほどの親友だった梶井基次郎(1901-1932)は小林秀雄の批評が嫌いで親友の三好や北川冬彦(やはり時期を別に梶井とシェアハウスする仲でした)に小林の文芸批評を批判した手紙を書いて意見を求めていましたが、例えば梶井は当時日本の小説家で最大の話題作家だった横光利一の「機械」(昭和5年9月発表)から始まる実験小説を、世評高いようなヨーロッパのモダニズム文学手法の移入ではなく「格闘ライターとして注目してゐる」と三好・北川宛ての書簡に書いています。一方、小林秀雄は文学的手法を飛び越えて横光の「機械」連作を「倫理の書」である、という結論だけ断定した批評を書いています。横光の「機械」連作を格闘小説として注目した梶井の観点は北川主宰の同人誌の新人だった千田光(1908-1935)の散文詩への賞賛とつながっていて、具体的な詩的想像力の運動への関心から来ていますが、小林の断定は超越的な思考停止に読者を誘導するような批評方法です。三好は小林より先に(というより小林との交友は梶井の夭逝の後ですから当たり前ですが)梶井の親友でしたが、「菱山修三君と僕」には梶井の詩友への書簡より小林の批評を連想させるような観点が感じられます。

 菱山修三が三好に語ったという「一つの詩のかげで沢山の詩が死んでゐるんです。……誰の場合にも。」、またそれに対して三好が「真実のために、一つの詩のかげで勿論多くの詩が死なねばならない。(なぜなら、真理もやはり無数の偶然中の一秩序にすぎないのだから。)」と書いているくだりを読んで、現代詩の読者がすぐ思い出すのは、鮎川信夫とともにモダニズム影響下から出発した同人誌「荒地」を代表した戦後詩の詩人、田村隆一(1923-1998)の名高い次の詩でしょう。

「四千の日と夜」 田村隆一

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した

聴け、
雨のふるあらゆる都市、熔鉱炉、
真夏の波止場と炭坑から
たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の日の憐みを
われわれは暗殺した

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

一篇の詩を生むためには、
我々はいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

(昭和29年=1954年7月「詩と詩論」、詩集『四千の日と夜』昭和31年3月刊収録)

 これは名高いながら空疎な詩の見本のようなもので、構成先にありきの中に文明批判的に気の利いた修辞を嵌め込んでいったような薄ら寒い作品です。頭のいい中学生の書いたような詩で、その点『測量船』から後退しているとすら言えます。この詩は類似した効果のある比喩(「小鳥のふるえる舌」「飢えた子供の涙」「野良犬の恐怖」)なら何にでも交換可能な構文から成り立つ安易さを洗練と錯覚させる手法が極めて通俗的であり、決定的な表現には決して到達しない発想の甘さがあります。内実はなく、あるのはコンセプトだけです。戦後の現代詩が鮎川信夫の「繋船ホテルの朝の歌」のような充実した詩とともに、鮎川と同じ同人誌「荒地」の代表詩人だった田村の「四千の日と夜」のような詩から始まったとしても、すぐに詩の世界が三好の『測量船』による革新の延長にある抒情詩が大勢を占めるような風潮に戻ってしまったのは、こんな詩を今読み返してみると無理もないと思われます。

(旧稿を改題・手直ししました)