●2月10日(土)
黒澤明『虎の尾を踏む男達』(東宝砧撮影所・完成'45/8, 封切予定'45/秋, 検閲公開不許可→'52/4/24)*58mins, B/W
出演・大河内傳次郎(弁慶)、藤田進(富樫)、榎本健一(強力)、森雅之(亀井)、志村喬(片岡)、河野秋武(伊勢)、小杉義男(駿河)、横尾泥海男(常陸坊)、仁科周芳(義経)、久松保夫(梶原の使者)、清川荘司(富樫の使者)
○解説(キネマ旬報日本映画データベースより) 昭和二十年八月、終戦直前に製作され、未封切のまま今日に至り、今回再審査の上上映許可となったもの。謡曲「安宅」より取材、黒澤明自らの脚本によって監督したもの。撮影は最近「山びこ学校」を撮っている伊藤武夫。配役は最近「修羅城秘聞 双龍の巻」に出演の大河内傳次郎をはじめ、「唐手三四郎」の藤田進、「おかる勘平」の榎本健一、近く「滝の白糸(1952)」出演の森雅之、「波」の岩井半四郎のほか、志村喬、河野秋武、小杉義男、横尾泥海男、清川荘司などである。
○あらすじ(同上) 北陸道を奥州へ向かって山路をのぼる山伏姿の一行があった。しんがりに、麓の村で雇った強力が一人ついていた。その強力の、おしゃべりから、兄の鎌倉将軍源頼朝に追われた義経の一行を捕らえようと、これから先の安宅の関では、地頭富樫左衛門が一行の通過を待ちかまえている。一行が山伏姿に身をやつしていることから、その人数が七人であることまで知れているのがわかった。そして強力は、自分と一緒の一行が山伏姿でその人数も七名と気がついて、はじめてこれが義経の一行と悟りおどろきあわて、雲を霞と逃げ去って行った。関所の一つ位打ち破ってという人々を制して、一行の先頭となった弁慶は、大事の前の小事、出来る限り事なく通る工夫をしようと主張し、強力の残して行った重い笈を義経に負わせて、笠を深くかぶらせ、強力に仕立て再び山路をさしてのぼりはじめた。一旦逃げた強力は、根が義侠心に強い男、引きかえして来て再びあとに従った。安宅の関は物々しい警備ぶりで、梶原の使者も先廻りで到着していた。富樫は弁慶の堂々たる態度にそれと知りつつ一行を見逃してやり、関所から程遠からぬ見晴らし台で休憩の一行へ配肴さえとどけた。人々はようやく安堵の胸をなでおろし、したたかに酒によった。強力も酔いつぶれたが、ふと野を吹く風に眼をさますと、うたたねの自分の躰に美しい小袖がかけられ、一個の立派な印篭がのこされているばかりで、夕暮れの野末の彼方に消えてもはや一行の姿は見られなかった。
皇室と親しかった白樺派小説家たち(長与、志賀、武者小路、里見ら)のように昭和20年早期には日本の降伏を知り得ていたのはごく特権階級だけでしたから、本作も日本の敗戦を予期して作られたものではないでしょう。大河内傳次郎演じる弁慶の忠臣ぶりを描いて勤皇精神を説いているのが戦時下製作作品たる条件に該当しますが、結果的にはその程度しか戦時色がないから敗戦7年後の公開にも耐える映画になっています。しかも「勧進帳」映画なのでますます忠孝精神は軍事色とは別物と安心して観ていられるものになっている。視点人物はエノケン演じる貧相な雇われ強力(荷物持ち兼道案内)で、山伏に扮して弁慶一行が義経を護りながら、頼朝の命を受けた梶原の使者が藤田進演じる地頭の富樫が管轄する安宅の関の警戒網を越えようするのを案内するが、すぐに弁慶たちの正体に気づいてしまう。一行はエノケンの制止を聞かずに関所越えを決行しようとする。これも何かの縁でさあ、と義経贔屓で義理堅いエノケンは強力を申し出て、笠を深く被った義経を強力に仕立て(関所越えのクライマックスの後で初めて義経が笠を取り顔を見せるのも心憎い趣向です)、弁慶がスポークスマンになって山伏で押し切って関所を無事通れるかが後半です。エノケン、大河内傳次郎の弁慶が圧倒的な千両役者ぶりで、『姿三四郎』の藤田進が演じる富樫も好演ですが演技の質的な差が面白い効果を上げており、エノケンは当然非常に誇張された表情豊かなコメディ演技でエノケン映画の最高傑作を争う山本嘉次郎監督作品『エノケンのちゃっきり金太』'37、斎藤寅次郎監督作品『エノケンの法界坊』'38に準じる名演ですが一方大河内傳次郎の弁慶はクライマックス後の義経との対話まで眉ひとつ動かさない様式的演技で、傳次郎というと滑舌に難があるイメージですが(それも魅力ですが)、本作の達者な朗吟など聞くと実は滑舌の良し悪しもコントロールできる声の演技も底知れない名優ぶりに息を飲みます。藤田進は現代劇のような誇張のないスマートな好演で、三者三様に映画の中で異なる次元のリアリティを体現しており、通常のドラマ映画では不統一を避けるためこうした異質な演技の混交は行われません。ましてやこれは時代劇ですからムードの統一はより意識されるのが普通です。それが本作では不自然ではなくむしろ効用を上げているのは本作が時代劇である以上にコメディでありサスペンス映画なので、そうした映画では異質な存在感の人物の交錯が十分に意味を持ってきます。弁慶以外の義経の家臣たちも一筆描きながら良く描き出され、強硬派の梶原の使者を制して地頭の富樫が事情を見抜いて弁慶の風格に敬意を払う経緯も爽やかに描かれており、占領直後のアメリカ軍部は進駐後の占領政策もまだ方針が明確ではなかったから本作をたぶん敗戦直前完成の時代劇即好戦的とろくに観もせず公開不許可としたのでしょうが、もし本作のスケジュールがもっと早く完成され敗戦前に公開される手筈だったとしたら逆に日本の軍部から国威発揚要素の乏しい現実逃避的娯楽映画として難癖をつけられる栄誉を授かっていたかもしれません。一人きり残されたエノケンが立ちすくみ、歩き出すラストシーンの空は明らかに書き割りですが、それも映画全体を胡蝶の夢のように見せていて見事です。しかし映画の時代感覚として、敗戦のまさに当月完成された作品がこれでいいのかという空々しさをまったく感じないかといえば、あまりに超然としすぎているようにも思えるのです。
●2月11日(日)
丸根賛太郎『狐の呉れた赤ん坊』(大映京都'45/11/8)*85min, B/W
出演・阪東妻三郎(寅八)、橘公子(おとき)、羅門光三郎(辰)、寺島貢(六助)、谷讓二(太平)、光岡龍三郎(丑五郎)、見明凡太郎(蜂左衛門)、阿部九洲男(賀太野山)、藤川準(甚兵衛)、水野浩(久右衛門)、原健作(松屋容齋)、阪東太郎(笹井正庵)、荒木忍(鎌田大学)、津島慶一郎(齋田金十郎)、原聖四郎(勝谷英之進)、原タケシ(三歳の善太)、沢村マサヒコ(七歳の善太)
○解説(キネマ旬報日本映画データベースより)「花婿太閤記」に次ぐ丸根賛太郎演出作品。
○あらすじ(同上) 東海道名代の大井川金谷の宿に、酒と喧嘩では人におくれを取ったことがないという川越人足、張子の寅八、彼の好敵手は馬方の頭分丑五郎であった。場所は美しい看板娘おときのいる居酒屋浪華家と定まっていた。その寅さんが、ひょんなことから赤ン坊を背負い込んだ。話というのは街道筋に悪狐が出没するというので武勇自慢の寅八が勢い込んで出馬したが、間もなく、すやすや、と寝ている赤ン坊を抱えて来たのである。「なあに狐が化けていやがるんだ、今正体を現すから見ておれ」というので一晩中赤ン坊を監視したが、結局正真正銘の赤ン坊であった。寅八にとって赤ン坊は思いがけない厄介者だが、といって捨てるに捨てられず、丑五郎との意地づくから「育ててみせる」と言い切る破目になった。それからの寅八は善太と名づけた子供のために、酒も喧嘩もやめてしまった。善太が大病で町医者に見放された時は数里の道を走り通して京の名医松屋容齋を迎えようやく一命を取りとめた程の子煩悩になっていた。善太はやがて七つになった。彼は自然と備わる品と威厳で近所の餓鬼大将になった。ところが大名行列の先を突っ切ったため本陣に連れて行かれてしまった。これを聞いた寅八は一時は気も顛倒したが、一大決心をすると大名の宿泊する本陣に駆け込み子供の身代わりになることを懇願した。それが「武士にも劣らぬ覚悟」と、いうので、善太も寅八も許されて帰って来た。その夜祝いの酒の席で、寅八は「善坊はさる大名の落胤だ」と座興に言った。その翌日それが本当になって、なにくれと善太のことに気をつかって巡業の旅ごとに玩具や金を持ってくる関取賀太野山からその真相が語られた。寅八は美しい着物を着た善太の周囲にいる腰元や威儀を正した武士達を淋しげに眺めた。彼は悲しかった。七年の間、父となり子となり今は善太と切り離した生活などを考えることすら出来ないのだ。「お前はいつぞや本陣に乗り込んだ時死んでる筈だ、善太のためにもう一度死ねよ」という質屋の親爺の一言に翻然悟った寅八は「善太、ちゃんはもう一度死ぬぜ」と泣いた。かくて善太は江戸表の父君に対面すべく大井川を渡ることになり、川岸には彼のために美々しい蓮台が用意されたが、善太は寅八の肩で渡って行った。「善太、おめえは宿場のみんなに優しくしていたが、殿様になってもみんなに優しくしてやるんだぜ」寅八の手がしっかと善太の脚を握りしめていた。
丸根の監督作全58作中フィルム残存作品は40作はあるらしいですが、前記の理由で本作公開の昭和20年度の日本映画は8月15日の敗戦までの新作は戦前作品になり敗戦後しばらく上映保留(事実上禁止)、8月15日以降公開予定だった新作は基本的に上映保留の上に(世情も映画どころではなかったでしょう)進駐軍、つまりアメリカ駐留軍総司令部=GHQの映画検閲が輸入映画・日本国産映画に行われるようになってようやく検閲を通過公開された本作が11月8日公開とされますが、日本映画データベースによると昭和20年度の日本映画の新作は8月15日以前公開23本、本作公開までには8月に3本、9月に1本、10月に3本、本作を始めに11月に3本、12月に4本で公開月日不明が2本あり確実な戦後公開作は14作、他に敗戦前(月日不明)の満州製作公開作品が6作あり、総計は38作+満州作品6作です。また敗戦後に昭和20年度に公開された外国映画は戦前検閲済みの2作だけでした(アメリカ映画『ユーコンの叫び』'38、イギリス映画『ウェヤ殺人事件』'38、ともに12月公開)から、キネマ旬報のベストテンも昭和21年にならないと再開しなかったわけです。翌昭和21年('46年)には日本公開新作映画61本(日本映画22本、外国映画39本)になり、キネマ旬報年間映画ベストテン外国映画第1位は『わが道を往く』'44(レオ・マッケリー)、日本映画は『大曾根家の朝』(木下惠介)でした。丸根の新作は昭和22年に飛んで本作と同じく阪東妻三郎主演の『月の出の決闘』ですが映画批評家の注目は集めず、監督デビュー作『春秋一刀流』は山中貞雄の作風と比較され賞賛されたと伝えられますし(丸根自身も伊藤大輔=大河内傳次郎映画への熱中から映画監督を志した人でしたから、伊藤から一歩を進めた山中には意識的に注目していたと思われます)、『土俵祭』'44では黒澤明から脚本を提供されていますが、本作『狐の~』だけが阪東妻三郎の剣戟映画以外の代表作として『無法松の一生』'43(稲垣浩)と並び、また敗戦直後の日本映画の第1声としての歴史的意義から日本映画史に言及されるに止まります。戦時企画らしい痕跡はいつの間にか近所の子供たちの大将になっている拾い子の善太を阪妻演じる主人公の張り子の寅が親馬鹿で「気品と威厳があるのは高貴な方のご落胤だからでえ」と吹聴し、すると本当にそうだったというあたり程度ですが、阪妻に嫌みがないので本作の割と臭みのある人情噺がほとんど気になりませんし、人情時代劇として稲垣浩、山中貞雄の系譜を継ぐアメリカ映画のドライで暖かみのあるコメディのセンスの巧みな消化を時代劇に生かし、ユーモラスな字幕の処理(冒頭の字幕が茶碗の割れる音で崩れ落ち、川越人足の張り子の寅と馬方の親分、丑五郎との毎度毎度らしい大喧嘩が始まります)、カメラの巧みなトラヴェリング、パン、フィックスショットからのピント送り、多彩なアングル、適切なカットバックやフラッシュバックなど内容と不即不離の技巧的な完成度は見事なものです。敗戦末期~直後によくここまで充実した映画を製作できたと感心するばかりでセットやエキストラにも十分予算をかけた映画です(『虎の尾を踏む男達』がセットひとつ、登場人物限定という縛りを設けた低予算企画だったのとは対照的です)。企画段階や製作の中途ではこれは切迫した世情に夢を与えるための映画だったでしょう。敗戦を過ぎるとこの夢はもっと切実で、映画の内容は変わらないのに観客が受ける感動の焦点はよりいっそう寅と善太の別れに集中するようになったのではないかと思います。川越人足と馬方一派の喧嘩友達的腐れ縁、拾い子を育てるならかかあが必要だろうと周囲が働きかけて寅とめあわせられる慎み深い女房のおとき、表向き寅が嫌いながら真剣な相談ではいつも頼りにする質屋の親爺など、主人公の寅をめぐる庶民のコミュニティーが自然に描かれていますが山中の『人情紙風船』の希望のない暗さではない大らかな明るさと肯定性があります。赤ん坊の孤児・善太をめぐるコメディとしても本作の世界は『人情紙風船』ではなく『丹下左膳餘話 百萬両の壺』に近いので、もとより敗戦末期に『人情~』のようなペシミスティックな作品は製作不可能だったとしても丸根が、また阪東妻三郎が本心で人間の善性を映画にしようとして成功したのが本作で、阪妻も戦中の剣戟映画のヒット作『伊賀の水月』、戦後の剣戟ヒット作『魔像』などよりはるかに人間味があり魅力的で、阪妻の演技で製作時の戦時色や『キッド』の翻案とまで言わずとも換骨奪胎にとどまらない立派なオリジナル作品になっています。丸根は'71年のリメイク版についての批評で主人公の台詞から「武家も人足も同じ人間」と訴える箇所が割愛されている、と指摘しているそうですが、それが戦後の完成時に追加された台詞にせよ、一方主人公が「気品と威厳がある、高貴な方のご落胤だからでえ」と善太を自慢する台詞と矛盾しているにせよ、張り子の寅のキャラクターにすべてが包括され説得力があるならば欠点にはなりません。DVD化すら3作程度しかない丸根賛太郎作品ですが、今後監督作品の全容、晩年30年あまりもの沈黙について批評的・伝記的な解明がなされる日は来るのでしょうか。昔の映画監督として忘れられていくばかりなのでしょうか。