人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年2月10日・11日/日本の昭和10~20年代時代劇(3)

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 この映画感想文「日本の昭和10~20年代時代劇」はその前にコスミック出版からの10枚組DVDセット『名作映画 サイレント劇場』収録作品について書いた「日本の'20年代サイレント時代劇」に続いて同じメーカーのの9枚組DVDセット『時代劇傑作集』収録作品(トーキー以後の時代劇)を年代順に観ているのですが、同セットは戦前~戦中作品4作、戦後作品5作が収められているので戦中作品を1作足すことにしました。そこで前回までの戦前~戦中作品に加えて黒澤明初の時代劇作品『虎の尾を踏む男達』'45(公開'52年)を観直してみました。これは一昨年観直してまだ記憶に新しく、同じ頃に観直してもっと印象の薄れている『續姿三四郎』'45の方を選びたかったのですが、あれは仇討ちものの決闘映画で時代劇の臭いがプンプンした作品だけれど時代背景は一応明治なのでここは統一性を鑑みて『虎の尾~』としました。今回は定評ある作品2作だけに難解さもなく安心して楽しめましたが、感想文の方はうまくいくものやら、どうなることでしょうか。

●2月10日(土)
黒澤明『虎の尾を踏む男達』(東宝砧撮影所・完成'45/8, 封切予定'45/秋, 検閲公開不許可→'52/4/24)*58mins, B/W

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監督・黒澤明/脚本・黒澤明/製作・伊藤基彦/撮影・伊藤武夫/美術・久保一雄/音楽・服部正/合唱・ヴォーカルフォア合唱団/録音・長谷部慶治/音響効果・三縄一郎/照明・平岡岩治/編集・後藤敏男/製作主任・宇佐美仁/記録・渡井八子/スチル・式田高一
出演・大河内傳次郎(弁慶)、藤田進(富樫)、榎本健一(強力)、森雅之(亀井)、志村喬(片岡)、河野秋武(伊勢)、小杉義男(駿河)、横尾泥海男(常陸坊)、仁科周芳(義経)、久松保夫(梶原の使者)、清川荘司(富樫の使者)
○解説(キネマ旬報日本映画データベースより) 昭和二十年八月、終戦直前に製作され、未封切のまま今日に至り、今回再審査の上上映許可となったもの。謡曲「安宅」より取材、黒澤明自らの脚本によって監督したもの。撮影は最近「山びこ学校」を撮っている伊藤武夫。配役は最近「修羅城秘聞 双龍の巻」に出演の大河内傳次郎をはじめ、「唐手三四郎」の藤田進、「おかる勘平」の榎本健一、近く「滝の白糸(1952)」出演の森雅之、「波」の岩井半四郎のほか、志村喬河野秋武、小杉義男、横尾泥海男、清川荘司などである。
○あらすじ(同上) 北陸道を奥州へ向かって山路をのぼる山伏姿の一行があった。しんがりに、麓の村で雇った強力が一人ついていた。その強力の、おしゃべりから、兄の鎌倉将軍源頼朝に追われた義経の一行を捕らえようと、これから先の安宅の関では、地頭富樫左衛門が一行の通過を待ちかまえている。一行が山伏姿に身をやつしていることから、その人数が七人であることまで知れているのがわかった。そして強力は、自分と一緒の一行が山伏姿でその人数も七名と気がついて、はじめてこれが義経の一行と悟りおどろきあわて、雲を霞と逃げ去って行った。関所の一つ位打ち破ってという人々を制して、一行の先頭となった弁慶は、大事の前の小事、出来る限り事なく通る工夫をしようと主張し、強力の残して行った重い笈を義経に負わせて、笠を深くかぶらせ、強力に仕立て再び山路をさしてのぼりはじめた。一旦逃げた強力は、根が義侠心に強い男、引きかえして来て再びあとに従った。安宅の関は物々しい警備ぶりで、梶原の使者も先廻りで到着していた。富樫は弁慶の堂々たる態度にそれと知りつつ一行を見逃してやり、関所から程遠からぬ見晴らし台で休憩の一行へ配肴さえとどけた。人々はようやく安堵の胸をなでおろし、したたかに酒によった。強力も酔いつぶれたが、ふと野を吹く風に眼をさますと、うたたねの自分の躰に美しい小袖がかけられ、一個の立派な印篭がのこされているばかりで、夕暮れの野末の彼方に消えてもはや一行の姿は見られなかった。

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 東宝マークよりもアヴァンに本作の背景設定(頼朝の義経追跡)についての字幕が入り、手書き文字ながらこれが略字体漢字で新かなづかいなので(昭和21年度より施行)昭和20年9月公開予定で8月には完成していたのにアメリ進駐軍の検閲で公開不許可となった本作がようやくアメリカによる占領が解けて公開される運びとなった'52年4月には少なくともタイトル字幕は差し換えがあったのがわかります。本作の公開不許可から公開実現までの間に黒澤明が世に送った作品は『わが青春に悔いなし』'46、『素晴らしき日曜日』'47、『醉ひどれ天使』'48、『静かなる決闘』'49、『野良犬』'49、『醜聞(スキャンダル)』'50、『羅生門』'50、『白痴』'51で、本作『虎の尾~』の公開された'52年には半年後には『生きる』'52が続き、その次が『七人の侍』'54ですから1時間にも満たない小品の本作がオールスター・キャストの大作あつかいのポスターまで作られて公開されたくらい当時の黒澤は昇り調子の精鋭監督だった、ということです。30代後半~40代前半の10年間に上記の作品が出揃ったばかりか基本年1作、最多でも2作とは溝口、小津クラスの巨匠待遇をすでに確立していたので、敗戦末期で7年あまりお蔵入りしていた事情があっても観客には待望の新作だったでしょう。監督デビュー作『姿三四郎』'43から数えて4作目、第2作『一番美しく』'44は軍需工場の女工たちを描いた銃後国策翼賛映画でしたし第3作『續姿三四郎』'45も『姿三四郎』をグッとチープにして戦意発揚映画の意図が露骨に表れていましたが、どちらも国策映画だから駄目という頭ごなしの見方をしないで観るとけっこう面白い作品で、黒澤という自作脚本主義の作家性の強い映画監督はいわゆる型にはまった英雄豪傑の剣豪映画の監督よりももっと本質的に理想主義的な英雄賛美の映画を作りたがっていたのが戦時下の国策映画にも実によく表れています。女性映画『一番美しく』のヒロイン(この女優と黒澤は結婚します)にしても、アンコールに応えて描かれた『續姿三四郎』の主人公にしても責務に直面した人物なのですが、『一番美しく』の女工たちは人情どころか合理的生産性すら度外視して過剰な任務を自分たちから要求するのを美徳と考えるのを理想主義としているような女性たちですし(『一番美しく』!)、『續姿三四郎』の主人公は正編『姿三四郎』の主人公がここまでお人好しになってしまうかというくらい仇討ちをしようと襲ってくる敵を助け、一時休戦の約束を交わすと敵の前ですやすや安眠してしまうので敵も毒気を抜かれて戦意を喪失する、といった塩梅です。戦時中に少年だった吉田喜重監督(1933-)は戦中に国威発揚映画『姿三四郎』を観て、戦後には同じ映画監督が左翼映画『わが青春に悔いなし』を発表したのを「映画なんていい加減なものだな」と他人事のように感じたそうですが、敗戦後の黒澤には理想主義的ヒロインは知識階級の令嬢の社会的地位を捨てて農婦となる原節子という形で発想されたためそのお膳立てとして『わが青春に悔いなし』のような社会主義者の弾圧を背景にした白々しい作品になったので、黒澤自身は政治的立場など無頓着で理想主義的主人公を描いた英雄賛美映画であればそれでいい。『羅生門』のような作品でも乱世の悲惨に直面した登場人物たちが希望を見出す話になっている。こういうタイプの人はむしろ理想主義的なあまり現実には無定見なので極端な政治主義には走らないから戦時中の国策映画でも翼賛性では微温的にとどまって当然でしょう。黒澤の露骨な報国映画というと『一番美しく』ですが木下惠介の『陸軍』'44のようにスリリングに現実と交わった作品ではありませんし、本作もそうです。
 皇室と親しかった白樺派小説家たち(長与、志賀、武者小路、里見ら)のように昭和20年早期には日本の降伏を知り得ていたのはごく特権階級だけでしたから、本作も日本の敗戦を予期して作られたものではないでしょう。大河内傳次郎演じる弁慶の忠臣ぶりを描いて勤皇精神を説いているのが戦時下製作作品たる条件に該当しますが、結果的にはその程度しか戦時色がないから敗戦7年後の公開にも耐える映画になっています。しかも「勧進帳」映画なのでますます忠孝精神は軍事色とは別物と安心して観ていられるものになっている。視点人物はエノケン演じる貧相な雇われ強力(荷物持ち兼道案内)で、山伏に扮して弁慶一行が義経を護りながら、頼朝の命を受けた梶原の使者が藤田進演じる地頭の富樫が管轄する安宅の関の警戒網を越えようするのを案内するが、すぐに弁慶たちの正体に気づいてしまう。一行はエノケンの制止を聞かずに関所越えを決行しようとする。これも何かの縁でさあ、と義経贔屓で義理堅いエノケンは強力を申し出て、笠を深く被った義経を強力に仕立て(関所越えのクライマックスの後で初めて義経が笠を取り顔を見せるのも心憎い趣向です)、弁慶がスポークスマンになって山伏で押し切って関所を無事通れるかが後半です。エノケン大河内傳次郎の弁慶が圧倒的な千両役者ぶりで、『姿三四郎』の藤田進が演じる富樫も好演ですが演技の質的な差が面白い効果を上げており、エノケンは当然非常に誇張された表情豊かなコメディ演技でエノケン映画の最高傑作を争う山本嘉次郎監督作品『エノケンのちゃっきり金太』'37、斎藤寅次郎監督作品『エノケンの法界坊』'38に準じる名演ですが一方大河内傳次郎の弁慶はクライマックス後の義経との対話まで眉ひとつ動かさない様式的演技で、傳次郎というと滑舌に難があるイメージですが(それも魅力ですが)、本作の達者な朗吟など聞くと実は滑舌の良し悪しもコントロールできる声の演技も底知れない名優ぶりに息を飲みます。藤田進は現代劇のような誇張のないスマートな好演で、三者三様に映画の中で異なる次元のリアリティを体現しており、通常のドラマ映画では不統一を避けるためこうした異質な演技の混交は行われません。ましてやこれは時代劇ですからムードの統一はより意識されるのが普通です。それが本作では不自然ではなくむしろ効用を上げているのは本作が時代劇である以上にコメディでありサスペンス映画なので、そうした映画では異質な存在感の人物の交錯が十分に意味を持ってきます。弁慶以外の義経の家臣たちも一筆描きながら良く描き出され、強硬派の梶原の使者を制して地頭の富樫が事情を見抜いて弁慶の風格に敬意を払う経緯も爽やかに描かれており、占領直後のアメリカ軍部は進駐後の占領政策もまだ方針が明確ではなかったから本作をたぶん敗戦直前完成の時代劇即好戦的とろくに観もせず公開不許可としたのでしょうが、もし本作のスケジュールがもっと早く完成され敗戦前に公開される手筈だったとしたら逆に日本の軍部から国威発揚要素の乏しい現実逃避的娯楽映画として難癖をつけられる栄誉を授かっていたかもしれません。一人きり残されたエノケンが立ちすくみ、歩き出すラストシーンの空は明らかに書き割りですが、それも映画全体を胡蝶の夢のように見せていて見事です。しかし映画の時代感覚として、敗戦のまさに当月完成された作品がこれでいいのかという空々しさをまったく感じないかといえば、あまりに超然としすぎているようにも思えるのです。

●2月11日(日)
丸根賛太郎『狐の呉れた赤ん坊』(大映京都'45/11/8)*85min, B/W

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演出・丸根賛太郎/脚本・丸根賛太郎原作・谷口善太郎、丸根賛太郎/製作・清水龍之介/撮影・石本秀雄
出演・阪東妻三郎(寅八)、橘公子(おとき)、羅門光三郎(辰)、寺島貢(六助)、谷讓二(太平)、光岡龍三郎(丑五郎)、見明凡太郎(蜂左衛門)、阿部九洲男(賀太野山)、藤川準(甚兵衛)、水野浩(久右衛門)、原健作(松屋容齋)、阪東太郎(笹井正庵)、荒木忍(鎌田大学)、津島慶一郎(齋田金十郎)、原聖四郎(勝谷英之進)、原タケシ(三歳の善太)、沢村マサヒコ(七歳の善太)
○解説(キネマ旬報日本映画データベースより)「花婿太閤記」に次ぐ丸根賛太郎演出作品。
○あらすじ(同上) 東海道名代の大井川金谷の宿に、酒と喧嘩では人におくれを取ったことがないという川越人足、張子の寅八、彼の好敵手は馬方の頭分丑五郎であった。場所は美しい看板娘おときのいる居酒屋浪華家と定まっていた。その寅さんが、ひょんなことから赤ン坊を背負い込んだ。話というのは街道筋に悪狐が出没するというので武勇自慢の寅八が勢い込んで出馬したが、間もなく、すやすや、と寝ている赤ン坊を抱えて来たのである。「なあに狐が化けていやがるんだ、今正体を現すから見ておれ」というので一晩中赤ン坊を監視したが、結局正真正銘の赤ン坊であった。寅八にとって赤ン坊は思いがけない厄介者だが、といって捨てるに捨てられず、丑五郎との意地づくから「育ててみせる」と言い切る破目になった。それからの寅八は善太と名づけた子供のために、酒も喧嘩もやめてしまった。善太が大病で町医者に見放された時は数里の道を走り通して京の名医松屋容齋を迎えようやく一命を取りとめた程の子煩悩になっていた。善太はやがて七つになった。彼は自然と備わる品と威厳で近所の餓鬼大将になった。ところが大名行列の先を突っ切ったため本陣に連れて行かれてしまった。これを聞いた寅八は一時は気も顛倒したが、一大決心をすると大名の宿泊する本陣に駆け込み子供の身代わりになることを懇願した。それが「武士にも劣らぬ覚悟」と、いうので、善太も寅八も許されて帰って来た。その夜祝いの酒の席で、寅八は「善坊はさる大名の落胤だ」と座興に言った。その翌日それが本当になって、なにくれと善太のことに気をつかって巡業の旅ごとに玩具や金を持ってくる関取賀太野山からその真相が語られた。寅八は美しい着物を着た善太の周囲にいる腰元や威儀を正した武士達を淋しげに眺めた。彼は悲しかった。七年の間、父となり子となり今は善太と切り離した生活などを考えることすら出来ないのだ。「お前はいつぞや本陣に乗り込んだ時死んでる筈だ、善太のためにもう一度死ねよ」という質屋の親爺の一言に翻然悟った寅八は「善太、ちゃんはもう一度死ぬぜ」と泣いた。かくて善太は江戸表の父君に対面すべく大井川を渡ることになり、川岸には彼のために美々しい蓮台が用意されたが、善太は寅八の肩で渡って行った。「善太、おめえは宿場のみんなに優しくしていたが、殿様になってもみんなに優しくしてやるんだぜ」寅八の手がしっかと善太の脚を握りしめていた。

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 丸根賛太郎(1914-1994、大正3年~平成6年)は、本名・赤祖父富雄は山口県生まれの時代劇映画監督。「四騎の会」('69年設立)の監督たち、黒澤明(1910-1998)、木下惠介(1912-1998)、市川崑(1915-2008)、小林 正樹(1916-1996)らと同世代になります。旧制富山高等学校時代に映画研究会を設立し、機関誌『モンタージュ』を発行。数々の研究論文とともに、後年日活京都で映画化される『仇討交響楽』の原案シナリオもすでに発表しています(『モンタージュ』発行は富雄2年生の昭和7年、『仇討交響楽』の映画化は監督昇進後の昭和15年)。この頃から「丸根賛太郎」の名前を使い始めており、由来はマレーネ・ディートリッヒマルセル・カルネ、当時のベストセラー、阿部次郎の『三太郎の日記』と言われています。京都帝国大学入学の翌昭和11年夏、大学を中退し22歳で日活京都に正式入社、助監督となり、監督昇進は24歳、第1作は原作・脚本も丸根自作の『春秋一刀流』'39(昭和14年)でした。戦前・戦中に15本を撮り、敗戦の昭和20年に代表作『狐の呉れた赤ん坊』'45を発表。チャップリンの『キッド』をヒントにした、大井川の川越人足(阪東妻三郎)と殿様のご落胤(澤村アキヒコ。のちの津川雅彦)の人情噺で戦時中に企画が立てられ、戦中・戦後をまたいで製作され、時代劇なので公開時の占領軍の検閲がなかなか許可されず、丸根自ら軍令部に乗り込み「きわめて人道的な作品である」と力説して20年11月に占領軍許可第1号作品として公開されました。他に代表作は『月の出の決闘』'47(昭和22年・阪東妻三郎主演)、『天狗飛脚』'49(昭和24年・市川右太衛門主演)、『極楽剣法』'56(『前篇・地獄剣の挑戦』『後編・月明の対決』共に昭和31年、明智十三郎主演)などが上げられます。最後の監督作は'59年(昭和34年、丸根45歳)の『高丸菊丸・疾風編』(歌舞伎座映画)、最後の映画脚本は2年後の'61年(昭和36年)に書かれた『無法者の虎』(深田金之助監督・ニュー東映)、以降テレビ脚本で「鉄人28号」などを手がけるも日本テレビ『狐がくれた赤ん坊』'64(ハナ肇主演、昭和39年。丸根50歳)以降の脚本提供は確認できず、三隅研次監督による大映リメイク版『狐がくれた赤ん坊』'71(昭和46年)についての新聞寄稿もありましたが、東京の事務所を畳んだ'75年(昭和50年)頃からは実質的引退とされ、1994年(平成6年)没、享年80歳が定説ですが翌平成7年没とも言われるほど映画界とは疎遠になっていたようです。監督作は第1作『春秋一刀流』'39~監督最終作『高丸菊丸・疾風編』'59までに全58作。山中貞雄の逝去翌年に監督デビューし将来を嘱望された人でしたが、川島雄三(1916-1963、監督デビュー'44年~遺作'63年、全51作)のように着実な再評価もされず、川島の師の渋谷実(1908-1980)のように生前十分に華やかだったり、川島の下から出発した中平康(1926-1978)のように生前に評価が揺れても没後全体像が見えて再評価されつつあったりとはまるで言えず、先に上げた「四騎の会」の巨匠たちと同世代とは思えないほどです。丸根賛太郎ウィキペディアにも項目がなく、くり返しリメイクされ生涯の代表作と言える『狐の呉れた赤ん坊』の項目もありません。20年ほど前にはわずかに本作によって再評価の兆しがありました。マニアックな映画関連書出版社のワイズ出版(大和屋竺生前に映画論集とシナリオ集の著作2冊を刊行した版元です)から発売された研究書「日本カルト映画全集」('95年~'96年刊)全10巻の第9巻に本作『狐の呉れた赤ん坊』が選ばれたのです。ちなみに他の9巻は、第1巻『恐怖奇形人間 : 江戸川乱歩全集』、第2巻『十七人の忍者』、第3巻『夢野久作の少女地獄』、第4巻『天使の欲望』、第5巻『沓掛時次郎 遊侠一匹』、第6巻『女地獄・森は濡れた』、第7巻『盲獣』、第8巻『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』と続き、第9巻が本作で、第10巻『暴行切り裂きジャック』でした。いかにもなセレクトの中で、何だか本作だけ唐突な感じがします。
 丸根の監督作全58作中フィルム残存作品は40作はあるらしいですが、前記の理由で本作公開の昭和20年度の日本映画は8月15日の敗戦までの新作は戦前作品になり敗戦後しばらく上映保留(事実上禁止)、8月15日以降公開予定だった新作は基本的に上映保留の上に(世情も映画どころではなかったでしょう)進駐軍、つまりアメリカ駐留軍総司令部=GHQの映画検閲が輸入映画・日本国産映画に行われるようになってようやく検閲を通過公開された本作が11月8日公開とされますが、日本映画データベースによると昭和20年度の日本映画の新作は8月15日以前公開23本、本作公開までには8月に3本、9月に1本、10月に3本、本作を始めに11月に3本、12月に4本で公開月日不明が2本あり確実な戦後公開作は14作、他に敗戦前(月日不明)の満州製作公開作品が6作あり、総計は38作+満州作品6作です。また敗戦後に昭和20年度に公開された外国映画は戦前検閲済みの2作だけでした(アメリカ映画『ユーコンの叫び』'38、イギリス映画『ウェヤ殺人事件』'38、ともに12月公開)から、キネマ旬報のベストテンも昭和21年にならないと再開しなかったわけです。翌昭和21年('46年)には日本公開新作映画61本(日本映画22本、外国映画39本)になり、キネマ旬報年間映画ベストテン外国映画第1位は『わが道を往く』'44(レオ・マッケリー)、日本映画は『大曾根家の朝』(木下惠介)でした。丸根の新作は昭和22年に飛んで本作と同じく阪東妻三郎主演の『月の出の決闘』ですが映画批評家の注目は集めず、監督デビュー作『春秋一刀流』は山中貞雄の作風と比較され賞賛されたと伝えられますし(丸根自身も伊藤大輔大河内傳次郎映画への熱中から映画監督を志した人でしたから、伊藤から一歩を進めた山中には意識的に注目していたと思われます)、『土俵祭』'44では黒澤明から脚本を提供されていますが、本作『狐の~』だけが阪東妻三郎の剣戟映画以外の代表作として『無法松の一生』'43(稲垣浩)と並び、また敗戦直後の日本映画の第1声としての歴史的意義から日本映画史に言及されるに止まります。戦時企画らしい痕跡はいつの間にか近所の子供たちの大将になっている拾い子の善太を阪妻演じる主人公の張り子の寅が親馬鹿で「気品と威厳があるのは高貴な方のご落胤だからでえ」と吹聴し、すると本当にそうだったというあたり程度ですが、阪妻に嫌みがないので本作の割と臭みのある人情噺がほとんど気になりませんし、人情時代劇として稲垣浩山中貞雄の系譜を継ぐアメリカ映画のドライで暖かみのあるコメディのセンスの巧みな消化を時代劇に生かし、ユーモラスな字幕の処理(冒頭の字幕が茶碗の割れる音で崩れ落ち、川越人足の張り子の寅と馬方の親分、丑五郎との毎度毎度らしい大喧嘩が始まります)、カメラの巧みなトラヴェリング、パン、フィックスショットからのピント送り、多彩なアングル、適切なカットバックやフラッシュバックなど内容と不即不離の技巧的な完成度は見事なものです。敗戦末期~直後によくここまで充実した映画を製作できたと感心するばかりでセットやエキストラにも十分予算をかけた映画です(『虎の尾を踏む男達』がセットひとつ、登場人物限定という縛りを設けた低予算企画だったのとは対照的です)。企画段階や製作の中途ではこれは切迫した世情に夢を与えるための映画だったでしょう。敗戦を過ぎるとこの夢はもっと切実で、映画の内容は変わらないのに観客が受ける感動の焦点はよりいっそう寅と善太の別れに集中するようになったのではないかと思います。川越人足と馬方一派の喧嘩友達的腐れ縁、拾い子を育てるならかかあが必要だろうと周囲が働きかけて寅とめあわせられる慎み深い女房のおとき、表向き寅が嫌いながら真剣な相談ではいつも頼りにする質屋の親爺など、主人公の寅をめぐる庶民のコミュニティーが自然に描かれていますが山中の『人情紙風船』の希望のない暗さではない大らかな明るさと肯定性があります。赤ん坊の孤児・善太をめぐるコメディとしても本作の世界は『人情紙風船』ではなく『丹下左膳餘話 百萬両の壺』に近いので、もとより敗戦末期に『人情~』のようなペシミスティックな作品は製作不可能だったとしても丸根が、また阪東妻三郎が本心で人間の善性を映画にしようとして成功したのが本作で、阪妻も戦中の剣戟映画のヒット作『伊賀の水月』、戦後の剣戟ヒット作『魔像』などよりはるかに人間味があり魅力的で、阪妻の演技で製作時の戦時色や『キッド』の翻案とまで言わずとも換骨奪胎にとどまらない立派なオリジナル作品になっています。丸根は'71年のリメイク版についての批評で主人公の台詞から「武家も人足も同じ人間」と訴える箇所が割愛されている、と指摘しているそうですが、それが戦後の完成時に追加された台詞にせよ、一方主人公が「気品と威厳がある、高貴な方のご落胤だからでえ」と善太を自慢する台詞と矛盾しているにせよ、張り子の寅のキャラクターにすべてが包括され説得力があるならば欠点にはなりません。DVD化すら3作程度しかない丸根賛太郎作品ですが、今後監督作品の全容、晩年30年あまりもの沈黙について批評的・伝記的な解明がなされる日は来るのでしょうか。昔の映画監督として忘れられていくばかりなのでしょうか。