木下惠介(1912-1998)の監督作品は1943年の『花咲く港』から1988年の『父』まで全49作、黒澤明(1910-1998)の監督作品は1943年の『姿三四郎』から1993年の『まあだだよ』まで全30作になります。第1作~第5作の感想文は前回の通りで、今回は第6作~第8作、第11作、1951年作品(木下17作目・黒澤12作目)、1953年作品(木下21作目・黒澤13作目)を対比してみました。単純計算で木下5;黒澤3の比率になりますから、木下は'48年でもう11作目ですが黒澤の第11作は'50年です。さらに木下は早くも'53年に21作目まで進んでいますが黒澤の21作目は'62年の『椿三十郎』で、木下の多作と黒澤の寡作は'50年代にははっきりと対照をなすようになったと言えます。木下の『二十四の瞳』、黒澤の『七人の侍』が公開されるのが'54年(昭和29年)ですから、'53年作品で一区切りつけるのは両者の初期10年の概括でもあるでしょう。
11月26日(土)木下・黒澤各第6作(敗戦後第2作)
木下惠介『わが恋せし乙女』(松竹'46)*75mins, B/W
・実子の兄(原保美)と捨て子だった妹(井川邦子)の義理の兄妹。母子ともども娘を兄の嫁にと望んでいたが、5年間の従軍中に妹は先に送還されて村役場に勤める元傷痍軍人の青年と結婚を望む相思相愛になっていた。いかにもサイレント時代のアメリカ田園映画の翻案らしく、乗馬シーンや放牧風景の美しさ、北軽井沢の牧場を舞台にした風通し良いロケ、登場人物の善良な性格設定が爽やかな佳作。松竹映画の源流がブルー・バード配給の田園ロマンス、トーマス・H・インスの人情西部劇、グリフィスの『幸福の谷』『スージーの真心』を指針とし、木下もそれに沿った作品を意識的に作ったのがわかる。題材に新しさは微塵もないが性格描写が各段に精妙になり、時代劇でもないのにこんなに馬を使って魅力的なヒロインを描いた作品はすぐには思いつかない。プロットの巧みさも抜群。珠玉の小品と言うに相応しい。
黒澤明『素晴らしき日曜日』(東宝'47)*108mins, B/W
・まだ試行錯誤中の黒澤が平凡なカップルの一日のデートを描くラヴロマンス映画で、この路線は本作きりなのが注目される。敗戦後の世相に悲しく惨めなデートでやりきれなくなる前半と、一転してメルヒェン調になりハッピーエンドに進む後半にはっきり断絶があり、どちらも本意で、黒澤のリアリストの面と感傷的な理想主義者の面がせめぎ合っているように見える。前作『わが青春に悔なし』同様失敗作で冗長だが、この迷走にも止むに止まれぬ作家性が感じられる。カップルの青年俳優は、黒澤が嫌ったというのもわかる臭い演技(女優は悪くない)。
11月27日(日)木下・黒澤各第7作
木下惠介『結婚』(松竹'47)*86mins, B/W
・原案木下惠介、脚本は新藤兼人に依頼したのは多忙な撮影スケジュールのためだろう。OLの文江(田中絹代)、帰還兵でサラリーマンの積(上原謙)は戦前から両家公認の婚約関係だが、貧しい戦後生活では結婚に踏み切れない。現在退職後の文江一家の初老の父(東野英治郎)は元部下の商社に誘われているが、一途な性格のため闇物資も扱う会社方針に納得できず勧誘を断る。だが積の母の危篤の報と生前に息子の花嫁が見たいという意向を知り、娘の結婚を承諾して商社就職の勧誘を受け、娘たちに結納を挙げさせるのだった。そろそろマナリズムの兆しが見えてきて、86分でも冗長に感じられるのはまずい。実質的な主役は東野演じる父なのだが、上原・田中のラヴシーンをたっぷり描いて水増ししてしまった。当時はともかく、後の観客にはまったくサーヴィスにはなっていない。
黒澤明『醉ひどれ天使』(東宝'48)*98mins, B/W
・つい先日観直したばかりだが何度観ても飽きない。ついに自分のテーマをつかんだ確信が力強く全編にみなぎる黒澤映画のビッグバン。闇医者の志村喬、青年ヤクザ三船敏郎の決定的名演、笠置シズ子の「ジャングル・ブギ」、一触即発の緊迫感あふれる画面構成。上手く行く時にはどんな偶然も上手く行ってしまうので、シナリオの意図を超えて登場人物の実在感が躍動し、勧善懲悪の図式を超えてしまった。女優の使い方もいきなり鋭くなった。本作の路線が'49年の第9作『野良犬』に引き継がれる。ただし黒澤の急成長は同時代では木下より下位に置かれたままだった、というのが信じられないが、ジャーナリズム評価の事実だったらしい。
11月28日(月)木下・黒澤各第8作
木下惠介『不死鳥』(松竹'47)*82mins, B/W
・4歳の息子の誕生日の朝。八坂家は子供のお祝いを控えて誰もが喜び、母の小夜子(田中絹代)も今が一番幸せと思う。小夜子は女学生の時に一校生の八坂真一(佐田啓二)と知り合い、真一の父の反対を押し切りながら交際してきた。真一の入営が決まり、真一の父から最後通牒を渡された直後に小夜子の父の急死、弟の危篤が降りかかり、真一の父は小夜子の弟の死の床で小夜子と真一の結婚を認める。結婚生活1週間で出兵した真一は戦死し、一人息子だけが残ったが、小夜子は真一未亡人として今や八坂家を支える主婦になった。全編を枠物語(回想形式)にして現在と過去の対照を狙っているが、効果は疑問。田中が女学生から若妻、一家の女主人に至るまで見事に演じているが、溝口健二なら精神的変貌まで描き出すのを木下の本作はまったく精神的成長も変化もないので現在と過去の対照には話法の技巧しかない。技術が形骸化しつつあるのは松竹の多作路線の弊害かもしれず、前作『結婚』よりは物語に奥行きがあるが、木下の人物造型に停滞が見える。
黒澤明『静かなる決闘』(東宝'49)*95mins, B/W
・南洋戦線で従軍医だった青年医師(三船敏郎)が戦傷兵士の手術中に創傷から梅毒に感染してしまう。戦後、医院を開業した青年医師の前に梅毒潜伏者の帰還兵が現れるが、裏社会で羽振りの良い男は梅毒感染を認めず治療を頑として拒み、やがて男の妻は梅毒感染の事実を知らず臨月を迎えるが……と、まだ抗生剤治療が薬品不足のため困難だった時代背景がある。青年医師自身が薬品不足から完治できず常にゴム手袋をはめて感染を防ぎながら医療し、婚約者にも打ち明けられず結婚を先延ばしにしている。本作の強迫妄想路線は'50年の第10作『醜聞』に繋がり、さらに'55年の第15作『生きものの記録』で頂点に達する。戦後第3作の前作『醉ひどれ天使』で芽生えた社会の荒廃を描く意志が本作、次の『野良犬』、その次の『醜聞』と一貫している。木下贔屓に見ても『結婚』『不死鳥』で映像的(文体的)に統一感がない弱みを露呈してしまった木下と開きがついてきた。
11月29日(火)木下・黒澤各第11作(現代文学作品原作)
木下惠介『破戒』(松竹'48)*99mins, B/W
・第8作の翌年にはもう11作目。島崎藤村の同名小説(明治39年=1906年)の映画化。池部良主演。時代は原作通りの明治20年代か。被差別部落出身の秘密を抱えた小学校の青年教師の苦悩。恋人(桂木洋子)と旅立つ結末は原作の唐突な渡米から上京へ変えてある。まだ鉄道網はないので川下りの舟で東京へ立つんだな。30年近く前テレビの深夜放映で観てえらく古臭く感じたが、トーキー以降の日本映画に馴れると製作年代で日本語のディクテーション(アクセント)の変化がわかるので、'43年の『花咲く港』に較べれば何ということはない。その点一番すごかったのが松竹では小津安次郎で、人工的なまでに明瞭な台詞演出をして超時代的な現代日本語を発明してしまった。島崎藤村の原作は現代文学クラシックといえども明治期の作品、それを違和感なく現代語の台詞回しに演出したのが本作の成果で、テンポも快適。ウィリアム・ワイラー的なそつなさと賞賛しても失礼には当たるまい。小説原作の抒情的拡大の面では『二十四の瞳』の先駆的作品でもある。
黒澤明『羅生門』(大映'50)*88mins, B/W
・『野良犬』『醜聞』を挟んで一見芥川龍之介原作の文芸映画に転換したと見せかけて、戦後世相の寓意的犯罪時代劇なのは明らか。ベルイマンやアラン・レネが拡大解釈して影響を受けたようには、実際の本作(また芥川の原作)にはトリッキーな視点の多重化による現実把握の重層化はあっても、多義性、不確定性はない。これを現代もので試みなかったことに躊躇が感じられる(後に『白痴』『生きる』で達成するが)。原作通りの時代ものから離れられなかったことで『醉ひどれ天使』以降の尖鋭化からは一歩後退してしまった観がある。ただしヴェネチア映画祭、アカデミー賞、米伊仏国際公開など西欧圏にアピールするには時代ものは有利なコスチュームだったと言える。大映の名カメラマンで溝口作品の常連・宮川一夫の素晴らしい撮影による実験的映像美と大映のスター女優・京マチ子の妖艶な名演による例外的魅力を大映出向によって獲た強運はさすが。
11月30日(水)'51年度の木下・黒澤
木下惠介『カルメン故郷に歸る』(松竹'51)*86mins, Fujicolor
・第11作『破戒』から3年でもう17作目。日本映画初のオールカラー長編映画。いきなり北軽井沢の郷里に帰ってきた家出娘の陽気な自称"芸術家"ストリッパー(下着までだが)、リリー・カルメン(高峰秀子)とその友人マヤ朱美(小林トシ子)が牧歌的な農村に巻き起こす大騒動。野外ロケ中心でロケ地が同じでもあり『わが恋せし乙女』と共通する開放感も。でも泥臭い喜劇だなーと思って観ていると、高峰秀子と小林トシ子のステージ・シーンは映画全体とは関係なく美しかったりする。笠智衆の校長先生のバカ演技が可笑しい。カラー映画ならハリウッド映画の場合ミュージカルに相当する題材、という勘の良さが生んだ小品佳作。
黒澤明『白痴』(松竹'51)*166mins, B/W
・『羅生門』に続く第12作。東宝専属の黒澤が『羅生門』の大映、本作の松竹と他社に出向したかは、当時東宝が組合ストライキ中だったのによる。ホームドラマの松竹でドストエフスキー原作の翻案ものを前後編4時間半に作ってしまった強引さ、さらに2時間46分に短縮され構成が崩れた上、なおさら難解になって公開された不遇さから黒澤作品中随一の「呪われた映画」とされる。主演の森雅之、原節子、三船敏郎の三角関係は日本映画の常套的恋愛図式に収まらない特異なもの。前作『羅生門』の意図的な多重構造より本作の意図しない破調(短縮によってなおさら強まった)に映画のマジックがある。森雅之のイノセンス、原節子のファム・ファタールぶりも日本映画では特異極まりない。
11月31日(木)
12月1日(木)木下の「母」と黒澤の「父」
木下惠介『日本の悲劇』(松竹'53)*116mins, B/W
・第17作『カルメン故郷に歸る』から2年でもう第21作。敗戦後のドキュメンタリー映像を取り混ぜながら、戦没者未亡人(望月優子)が娘と息子に見捨てられるまでを描く母子家庭の崩壊劇。息子は養家に入って実母を捨て、娘は好きでもない妻子持ちの男と駆け落ちする。落ちぶれたパトロンとの関係にも行き詰まった未亡人は……と一片の救いもない話を複雑な過去・現在の断片的カットバックで進めていく。あまりに唐突なカットバックで時制・意味が不明になっている箇所もある(時制不明なヒロインの水商売エピソード、娘=桂木洋子がレイプされた過去の暗示らしきカットなど)。意図せずして意図的に黒澤の『白痴』に似た破調の破滅ドラマを描き、戦後世相の荒廃の総決算を図ったが、善人しか出てこない戦後作品『わが恋せし乙女』『結婚』『不死鳥』の裏返しで利己的な人間しか出てこない映画であり、その根拠を外的状況に求めた点で戦中作品『陸軍』からも後退している。渾身の力作が限界に突き当たったことから翌年には『二十四の瞳』に活路を拓いた(社会批判作『女の園』もあるが)とも見える。
黒澤明『生きる』(東宝'52)*143mins, B/W
・ようやく東宝に戻った第13作。翌'53年をまるまる費やして第14作『七人の侍』を'54年に公開し、'55年の第15作『生きものの記録』で『生きる』や『七人の侍』の肯定性をひっくり返してしまうので、木下の『日本の悲劇』に相当するのは『生きる』より『生きものの記録』かもしれない。黒澤の場合は、ことに三船敏郎か志村喬を得て以来、主人公自身が常に強力なエゴイストであるのが本質的な説得力になっている。余命宣告された老公務員を志村が演じる『生きる』は前半は家庭生活も職務も空虚な主人公を視点人物に、後半をディスカッション形式の複合視点から描いて、直線的な物語形式では追い切れない叙述技法の新機軸を成功させた(ただし一回性の技法ではある)。『日本の悲劇』は前年の『生きる』にすでに抜かれたものとも、女性映画では『生きる』は成り立たないという観点から作られたものとも思える。
11月26日(土)木下・黒澤各第6作(敗戦後第2作)
木下惠介『わが恋せし乙女』(松竹'46)*75mins, B/W
・実子の兄(原保美)と捨て子だった妹(井川邦子)の義理の兄妹。母子ともども娘を兄の嫁にと望んでいたが、5年間の従軍中に妹は先に送還されて村役場に勤める元傷痍軍人の青年と結婚を望む相思相愛になっていた。いかにもサイレント時代のアメリカ田園映画の翻案らしく、乗馬シーンや放牧風景の美しさ、北軽井沢の牧場を舞台にした風通し良いロケ、登場人物の善良な性格設定が爽やかな佳作。松竹映画の源流がブルー・バード配給の田園ロマンス、トーマス・H・インスの人情西部劇、グリフィスの『幸福の谷』『スージーの真心』を指針とし、木下もそれに沿った作品を意識的に作ったのがわかる。題材に新しさは微塵もないが性格描写が各段に精妙になり、時代劇でもないのにこんなに馬を使って魅力的なヒロインを描いた作品はすぐには思いつかない。プロットの巧みさも抜群。珠玉の小品と言うに相応しい。
黒澤明『素晴らしき日曜日』(東宝'47)*108mins, B/W
・まだ試行錯誤中の黒澤が平凡なカップルの一日のデートを描くラヴロマンス映画で、この路線は本作きりなのが注目される。敗戦後の世相に悲しく惨めなデートでやりきれなくなる前半と、一転してメルヒェン調になりハッピーエンドに進む後半にはっきり断絶があり、どちらも本意で、黒澤のリアリストの面と感傷的な理想主義者の面がせめぎ合っているように見える。前作『わが青春に悔なし』同様失敗作で冗長だが、この迷走にも止むに止まれぬ作家性が感じられる。カップルの青年俳優は、黒澤が嫌ったというのもわかる臭い演技(女優は悪くない)。
11月27日(日)木下・黒澤各第7作
木下惠介『結婚』(松竹'47)*86mins, B/W
・原案木下惠介、脚本は新藤兼人に依頼したのは多忙な撮影スケジュールのためだろう。OLの文江(田中絹代)、帰還兵でサラリーマンの積(上原謙)は戦前から両家公認の婚約関係だが、貧しい戦後生活では結婚に踏み切れない。現在退職後の文江一家の初老の父(東野英治郎)は元部下の商社に誘われているが、一途な性格のため闇物資も扱う会社方針に納得できず勧誘を断る。だが積の母の危篤の報と生前に息子の花嫁が見たいという意向を知り、娘の結婚を承諾して商社就職の勧誘を受け、娘たちに結納を挙げさせるのだった。そろそろマナリズムの兆しが見えてきて、86分でも冗長に感じられるのはまずい。実質的な主役は東野演じる父なのだが、上原・田中のラヴシーンをたっぷり描いて水増ししてしまった。当時はともかく、後の観客にはまったくサーヴィスにはなっていない。
黒澤明『醉ひどれ天使』(東宝'48)*98mins, B/W
・つい先日観直したばかりだが何度観ても飽きない。ついに自分のテーマをつかんだ確信が力強く全編にみなぎる黒澤映画のビッグバン。闇医者の志村喬、青年ヤクザ三船敏郎の決定的名演、笠置シズ子の「ジャングル・ブギ」、一触即発の緊迫感あふれる画面構成。上手く行く時にはどんな偶然も上手く行ってしまうので、シナリオの意図を超えて登場人物の実在感が躍動し、勧善懲悪の図式を超えてしまった。女優の使い方もいきなり鋭くなった。本作の路線が'49年の第9作『野良犬』に引き継がれる。ただし黒澤の急成長は同時代では木下より下位に置かれたままだった、というのが信じられないが、ジャーナリズム評価の事実だったらしい。
11月28日(月)木下・黒澤各第8作
木下惠介『不死鳥』(松竹'47)*82mins, B/W
・4歳の息子の誕生日の朝。八坂家は子供のお祝いを控えて誰もが喜び、母の小夜子(田中絹代)も今が一番幸せと思う。小夜子は女学生の時に一校生の八坂真一(佐田啓二)と知り合い、真一の父の反対を押し切りながら交際してきた。真一の入営が決まり、真一の父から最後通牒を渡された直後に小夜子の父の急死、弟の危篤が降りかかり、真一の父は小夜子の弟の死の床で小夜子と真一の結婚を認める。結婚生活1週間で出兵した真一は戦死し、一人息子だけが残ったが、小夜子は真一未亡人として今や八坂家を支える主婦になった。全編を枠物語(回想形式)にして現在と過去の対照を狙っているが、効果は疑問。田中が女学生から若妻、一家の女主人に至るまで見事に演じているが、溝口健二なら精神的変貌まで描き出すのを木下の本作はまったく精神的成長も変化もないので現在と過去の対照には話法の技巧しかない。技術が形骸化しつつあるのは松竹の多作路線の弊害かもしれず、前作『結婚』よりは物語に奥行きがあるが、木下の人物造型に停滞が見える。
黒澤明『静かなる決闘』(東宝'49)*95mins, B/W
・南洋戦線で従軍医だった青年医師(三船敏郎)が戦傷兵士の手術中に創傷から梅毒に感染してしまう。戦後、医院を開業した青年医師の前に梅毒潜伏者の帰還兵が現れるが、裏社会で羽振りの良い男は梅毒感染を認めず治療を頑として拒み、やがて男の妻は梅毒感染の事実を知らず臨月を迎えるが……と、まだ抗生剤治療が薬品不足のため困難だった時代背景がある。青年医師自身が薬品不足から完治できず常にゴム手袋をはめて感染を防ぎながら医療し、婚約者にも打ち明けられず結婚を先延ばしにしている。本作の強迫妄想路線は'50年の第10作『醜聞』に繋がり、さらに'55年の第15作『生きものの記録』で頂点に達する。戦後第3作の前作『醉ひどれ天使』で芽生えた社会の荒廃を描く意志が本作、次の『野良犬』、その次の『醜聞』と一貫している。木下贔屓に見ても『結婚』『不死鳥』で映像的(文体的)に統一感がない弱みを露呈してしまった木下と開きがついてきた。
11月29日(火)木下・黒澤各第11作(現代文学作品原作)
木下惠介『破戒』(松竹'48)*99mins, B/W
・第8作の翌年にはもう11作目。島崎藤村の同名小説(明治39年=1906年)の映画化。池部良主演。時代は原作通りの明治20年代か。被差別部落出身の秘密を抱えた小学校の青年教師の苦悩。恋人(桂木洋子)と旅立つ結末は原作の唐突な渡米から上京へ変えてある。まだ鉄道網はないので川下りの舟で東京へ立つんだな。30年近く前テレビの深夜放映で観てえらく古臭く感じたが、トーキー以降の日本映画に馴れると製作年代で日本語のディクテーション(アクセント)の変化がわかるので、'43年の『花咲く港』に較べれば何ということはない。その点一番すごかったのが松竹では小津安次郎で、人工的なまでに明瞭な台詞演出をして超時代的な現代日本語を発明してしまった。島崎藤村の原作は現代文学クラシックといえども明治期の作品、それを違和感なく現代語の台詞回しに演出したのが本作の成果で、テンポも快適。ウィリアム・ワイラー的なそつなさと賞賛しても失礼には当たるまい。小説原作の抒情的拡大の面では『二十四の瞳』の先駆的作品でもある。
黒澤明『羅生門』(大映'50)*88mins, B/W
・『野良犬』『醜聞』を挟んで一見芥川龍之介原作の文芸映画に転換したと見せかけて、戦後世相の寓意的犯罪時代劇なのは明らか。ベルイマンやアラン・レネが拡大解釈して影響を受けたようには、実際の本作(また芥川の原作)にはトリッキーな視点の多重化による現実把握の重層化はあっても、多義性、不確定性はない。これを現代もので試みなかったことに躊躇が感じられる(後に『白痴』『生きる』で達成するが)。原作通りの時代ものから離れられなかったことで『醉ひどれ天使』以降の尖鋭化からは一歩後退してしまった観がある。ただしヴェネチア映画祭、アカデミー賞、米伊仏国際公開など西欧圏にアピールするには時代ものは有利なコスチュームだったと言える。大映の名カメラマンで溝口作品の常連・宮川一夫の素晴らしい撮影による実験的映像美と大映のスター女優・京マチ子の妖艶な名演による例外的魅力を大映出向によって獲た強運はさすが。
11月30日(水)'51年度の木下・黒澤
木下惠介『カルメン故郷に歸る』(松竹'51)*86mins, Fujicolor
・第11作『破戒』から3年でもう17作目。日本映画初のオールカラー長編映画。いきなり北軽井沢の郷里に帰ってきた家出娘の陽気な自称"芸術家"ストリッパー(下着までだが)、リリー・カルメン(高峰秀子)とその友人マヤ朱美(小林トシ子)が牧歌的な農村に巻き起こす大騒動。野外ロケ中心でロケ地が同じでもあり『わが恋せし乙女』と共通する開放感も。でも泥臭い喜劇だなーと思って観ていると、高峰秀子と小林トシ子のステージ・シーンは映画全体とは関係なく美しかったりする。笠智衆の校長先生のバカ演技が可笑しい。カラー映画ならハリウッド映画の場合ミュージカルに相当する題材、という勘の良さが生んだ小品佳作。
黒澤明『白痴』(松竹'51)*166mins, B/W
・『羅生門』に続く第12作。東宝専属の黒澤が『羅生門』の大映、本作の松竹と他社に出向したかは、当時東宝が組合ストライキ中だったのによる。ホームドラマの松竹でドストエフスキー原作の翻案ものを前後編4時間半に作ってしまった強引さ、さらに2時間46分に短縮され構成が崩れた上、なおさら難解になって公開された不遇さから黒澤作品中随一の「呪われた映画」とされる。主演の森雅之、原節子、三船敏郎の三角関係は日本映画の常套的恋愛図式に収まらない特異なもの。前作『羅生門』の意図的な多重構造より本作の意図しない破調(短縮によってなおさら強まった)に映画のマジックがある。森雅之のイノセンス、原節子のファム・ファタールぶりも日本映画では特異極まりない。
12月1日(木)木下の「母」と黒澤の「父」
木下惠介『日本の悲劇』(松竹'53)*116mins, B/W
・第17作『カルメン故郷に歸る』から2年でもう第21作。敗戦後のドキュメンタリー映像を取り混ぜながら、戦没者未亡人(望月優子)が娘と息子に見捨てられるまでを描く母子家庭の崩壊劇。息子は養家に入って実母を捨て、娘は好きでもない妻子持ちの男と駆け落ちする。落ちぶれたパトロンとの関係にも行き詰まった未亡人は……と一片の救いもない話を複雑な過去・現在の断片的カットバックで進めていく。あまりに唐突なカットバックで時制・意味が不明になっている箇所もある(時制不明なヒロインの水商売エピソード、娘=桂木洋子がレイプされた過去の暗示らしきカットなど)。意図せずして意図的に黒澤の『白痴』に似た破調の破滅ドラマを描き、戦後世相の荒廃の総決算を図ったが、善人しか出てこない戦後作品『わが恋せし乙女』『結婚』『不死鳥』の裏返しで利己的な人間しか出てこない映画であり、その根拠を外的状況に求めた点で戦中作品『陸軍』からも後退している。渾身の力作が限界に突き当たったことから翌年には『二十四の瞳』に活路を拓いた(社会批判作『女の園』もあるが)とも見える。
黒澤明『生きる』(東宝'52)*143mins, B/W
・ようやく東宝に戻った第13作。翌'53年をまるまる費やして第14作『七人の侍』を'54年に公開し、'55年の第15作『生きものの記録』で『生きる』や『七人の侍』の肯定性をひっくり返してしまうので、木下の『日本の悲劇』に相当するのは『生きる』より『生きものの記録』かもしれない。黒澤の場合は、ことに三船敏郎か志村喬を得て以来、主人公自身が常に強力なエゴイストであるのが本質的な説得力になっている。余命宣告された老公務員を志村が演じる『生きる』は前半は家庭生活も職務も空虚な主人公を視点人物に、後半をディスカッション形式の複合視点から描いて、直線的な物語形式では追い切れない叙述技法の新機軸を成功させた(ただし一回性の技法ではある)。『日本の悲劇』は前年の『生きる』にすでに抜かれたものとも、女性映画では『生きる』は成り立たないという観点から作られたものとも思える。