[ スタッフ ] 監督 : 小林正樹 / 脚本 : 木下恵介 / 製作 : 久保光三 / 撮影 : 森田俊保 / 美術 : 平高主計 / 音楽 : 木下忠司 / 録音 : 妹尾芳三郎 / 照明 : 豊島良三
[ 解説 ] さきにSP「息子の青春」でデビュした小林正樹監督のフィーチュア第一回作品。脚本は師、木下恵介のオリジナルである。「処女雪」の森田俊保、「学生社長」の木下忠司がそれぞれ撮影、音楽を担当。キャストは小林監督の従姉にあたる田中絹代の特別出演のほか、俳優座の千田是也、東山千栄子、永田靖、「ひめゆりの塔(1953)」の津島恵子、「夏子の冒険」の淡路恵子、「鳩」の石浜朗、「うず潮(1952)」の新人野添ひとみ(SKD)、「春の鼓笛」の高橋貞二、大船入社第一回の三橋達也など。
[ 配役 ] 千田是也 : 有賀有三 / 田中絹代 : 邦子 / 東山千栄子 : いち / 淡路恵子 : みどり / 石浜朗 : 弘 / 津島恵子 : 野々宮清子 / 野添ひとみ : ふみ子 / 永田靖 : ふみ子の叔父 / 高橋貞二 : 矢島敬一 / 三橋達也 : 志村透 / 須賀不二男 : 坂本八郎 / 水上令子 : アパートの小母さん / 高松栄子 : 下宿の小母さん / 藤原元二 : 弘の友人
[ あらすじ ] 有賀弘は万事潤沢な家庭にそだち、のびやかでやんちゃで遊びずき一方の少年だった。来春に迫る大学入試の準備のため、すきなラグビーを擲つことがちかごろの苦労といえば、苦労である。或る朝、有賀家と路一つへだてたアパートに、野々宮清子、ふみ子という年若い姉妹が引越してきた。――窓ごしにそのふみ子の姿を目にした瞬間、弘はなにか悩ましい、未知の感動におそわれる。胸を病む美少女ふみ子もまた、弘の面影に淡い慕情をかんじた。――クリスマスの夜。清子とその恋人志村が出かけた留守に突然、姉妹を利用しようとしつこくつきまとう悪辣な叔父が、たずねてくる。夢中で戸外に走り、やがて雪を喀血でそめ倒れ伏しているふみ子を助け起したのは、弘のラグビーの先生坂本だった。たまたまお歳暮をもってその下宿に来合せた弘は、坂本と共に自動車をよび、ぐったりしたふみ子をアパートへ運ぶ。彼女は、すでに重態に近かった。――名前もしらぬその人の療養費を父に出してもらおうとした弘は、その交換条件――入試合格のために、今迄とはうつて変る猛勉強をはじめた。一心に思いつめて粘りぬく弘の姿に、理由をしらぬ家人は驚いたり心配したりする。が、ふみ子の病勢の進度はもっと速かった。弘の試験の前日、彼女はこの世を去る。――弘は自室に閉篭って泣きじゃくった。悲しみ、絶望。彼の人生最初の試錬である。しかし彼は、同じような過去をもつ坂本先生のはげましで、それに耐えることができた。
――と、1時間35分(もう少し短くても良さそうですが)にほど良くまとまった本作は裕福な実業家一家の息子でラグビーに熱中している受験生(石浜朗)が裏庭向かいのアパートに越してきた肺患の少女(野添ひとみ)に恋したことから始まる悲恋物語です。少年の家は裕福で、実業家の父親(千田是也)、母親(田中絹代)、姉(淡路恵子)と祖母(東山千栄子)と豊かな生活をしています。 例えばこの一家の愛犬が病気になり動物病院に入院させる事件が起こりますが、一方、向かいの貧しい少女とその姉(津島恵子)は、姉妹のささやかな収入をむしり盗る強欲な叔父(永田靖)から逃げて来て辛い生活をしており、医療を受ける経済的余裕もありません。姉妹を唯一支えるのが姉の恋人(三橋達也)です。窓から顔を合わせるだけでいつしか想い合うようになる少年と少女ですが、この姉妹の部屋からは北向きの裏庭に面した少年の窓からは月も太陽も見える、しかし外出もできないほど健康を害していて手工芸の内職をしている少女は一日中陽の差さない部屋にいて、鉄道共済会の仕事に就いた姉が帰宅して月夜の晩と聞いても窓からは月すら見えない、という対照が設けられています。また少年の姉の恋人、少女の姉の恋人はともに婚約中ですが(少年の姉は結婚式まで進みます)、この二組のカップルも経済力の差で大きく隔てられている、とここでも対照があります。少年はラグビーの顧問の先生(須賀不二男)から先生が見かけた向かいのアパートの少女の病態が重篤であること、顧問の先生も恋人を空襲で亡くしたことを聞き、ようやく少女の病状に気づいて父に受験が叶ったらある人に援助してほしい、と頼み、実業家の父は「女か?」「それは言えません」「まあ受験に受かったら聞いてやるよ」という具合ですが、少女はついに治療も受けられず(顧問の先生から「あの様子では手遅れだろう」と聞いていましたが)、部屋で死の床に就きながらどうしてもお日様が見たいと言い出し曇り空だと姉に言われてもいう事を聞かず窓を開けてもらいます。次のカットで目が合った少年の顔が映ります。少女にとって窓から唯一見える太陽のような存在が少年で、また少年が祖母と三日月を話題にする場面からも少年にとって少女は月のような存在だったのが暗示されます。 顧問の先生に少女の死を知らされた少年が父以外が揃っている家族の前で救って欲しいのはあの人でした、と打ち明け、帰宅した父が業務が好調なので上機嫌で受験が受かったら何でも聞いてやるぞ、と少年に言い、少年は耐えきれず自室に引っこんでしまう。ぽかんとする父に母があの子は良い子です、と泣きながらすがり、翌日に受験日の前日にもかかわらず高校のグラウンドで顧問の先生とラグビーの練習をするところで映画は終わります。少年と少女は死別までついに間近で出会うことも一言も交わすこともなかった、という話で、映画の最終場面のラグビーの練習場面は映画冒頭にもありますが、少年の帰宅場面で自転車で教会の前を通り過ぎるショット、少年の家のクリスマスパーティや姉の教会での結婚式、とキリスト教を暗示した場面が目立ち、また少女が病床で手鏡を使って顔を映すシーンはベルイマンの『野いちご』'57に類似したショットがありますが、これは発想の近似から生じた偶然でしょう。映画の終わりのラグビー練習は冒頭の牧歌的な印象と対照をなすストイックな悲壮感が漂い、やはり本作はホームドラマというより少年を主人公とした青春メロドラマ悲劇映画と見るのが妥当だと思います。少年役の石浜朗も脳天気な『息子の青春』より内面的ニュアンスに富んだ好演で、石浜朗は助演の次男役ながら『この広い空のどこかに』'54ではさらに成長した良い俳優になります。ただし本作は脚本の次元で理想化された悲劇ロマンス映画とリアリズムの配分が上手く行っていないようにも見え、少女の姉とその恋人がそれほど極端に貧窮している様子はないのに少女を医療機関に診せていなかったり、逆に少年が見ず知らずの他人をと鼻にもかけられないのを恐れてか父親に頼み事の実情を話せないと妙なところでは現実的だったりし、また『武器よさらば』の結末ではあるまいし少女の死を知ると霊前にも慰問にも行かずラグビーに没頭して忘れようとする結びは映画の冒頭との照応のための効果で必ずしも心理的説得力がない、などと木下脚本らしくもない粗も見えます。本作のテーマは『三つの愛』'54で再現され『この広い空のどこかに』でようやく十分な成功を収めた観があり、また大島渚の監督第1作がブルジョワ家庭の少女と貧困家庭の少年の交情を描きながら松竹上層部に「これでは金持ちと貧乏人はわかりあえないという映画じゃないかね」「そうです」そして『鳩を撃つ少年』の題名は会社側に監督に断りもなしに『愛と希望の街』'59と改題された、という逸話と容赦ない作品内容を思いあわせると、大島が暴こうとしていた松竹ホームドラマの空ぞらしさは『まごころ』ではまだ克服しきれていないように思えます。
●2月4日(月)『壁あつき部屋』(新鋭プロ=松竹'56)*110min, B/W・完成試写昭和28年('53年、公開延期)、昭和31年10月31日公開
[ スタッフ ] 監督 : 小林正樹 / 脚本 : 安部公房 / 原作 : BC級戦犯の手記より / 製作 : 小倉武志 / 撮影 : 楠田浩之 / 美術 : 中村公彦 / 音楽 : 木下忠司 / 録音 : 大野久男 / 照明 : 豊島良三
[ 解説 ] 巣鴨拘置所に服役中のBC級戦犯の手記「壁あつき部屋」の映画化で、新鋭プロ第一回作品。脚色には芥川賞受賞作家阿部公房が当り、「まごころ」の小林正樹が監督している。撮影は「日本の悲劇」の楠田浩之、音楽は「青空大名」木下忠司。出演者は「沖縄健児隊」の三島耕、「早稲田大学」の小沢栄、信欣三、「君の名は」の岸恵子、小林トシ子ほか俳優座、文学座、民芸などの新劇人である。
[ 配役 ] 浜田寅彦 : 山下 / 三島耕 : 横田 / 下元勉 : 木村 / 信欣三 : 川西 / 三井弘次 : 西村 / 伊藤雄之助 : 許(朝鮮人) / 内田良平 : 横田の弟 / 林トシ子 : 山下の妹 / 北龍二 : 隠亡燒 / 岸恵子 : 娘ヨシ子 / 小沢栄 : 浜田 / 望月優子 : 浜田の妻 / 小林幹 A級戦犯 / 永井智雄 : 戦犯 / 大木実 : 戦犯 / 横山運平 : M爺さん / 戸川美子 : 特飲街の女
[ あらすじ ] 巣鴨拘置所――そこには文明と平和の名に於いて裁かれた戦犯達が服役している。その一人山下は、戦時中南方で上官浜田の命令で一人の原住民を殺したのだが、その浜田の密告で重労働終身刑の判決を受けた。また横田は戦時中米俘虜収容所の通訳だっただけで巣鴨に入れられた。しかも戦時中、横田がたった一人人間らしい少女だと思つた優しいヨシ子は、今では渋谷の特飲街に働く女である。朝鮮人の許も、神経質な山下もこうして戦犯の刻印をおされた犠牲者の一人にすぎなかった。脱出に失敗した山下はその直後母の死を知った。時限をきめて出所を許された山下は、浜田が女手の山下の家を今迄迫害し続けていた事を知ると一切の怒りがムラムラとこみあげてきた。しかし恐怖に歪んだ浜田の表情を見た山下は、殺す気もしなくなった。たった一人の妹は、「これからどうする?」という山下の問いに、「生きて行くわ」とポツリと答えた。再び横田達に迎えられて、拘置所の門をくぐる山下、そしてそこには、再びあつい壁だけが待っていた。
――先のご紹介では本作は画期的な傑作であるかのような印象を抱かせてしまうかもしれませんが、例えばフラッシュバック形式を多用したフィルム・ノワールの名作佳作の数々や黒澤明の『羅生門』'50、小林の師の木下惠介の『日本の悲劇』と較べて、またより徹底したベルイマンの『野いちご』やアラン・レネの『二十四時間の情事』'59に較べると、本作は映画としての陶酔感に欠ける観は否めません。非常に生真面目に戦争責任や戦勝国と敗戦国の間の理不尽を追及・告発しており、左翼系の映画監督らの映画よりは内面的な思索性や現実の不条理性の認識において柔軟ですが、原作戯曲自体も映画演出自体もあまりにユーモアに欠けていて、こうした題材は悲壮で切迫したものになりがちですが、それを救うとしたらユーモアによる客観性や美的洗練の追求による陶酔感になるのが一般的に映画に観客が求める感覚と思われます。収容所内の強制重労働によって岩石が一定のテンポで砕かれる音がオープニングから響き渡り、獄中のB級・C級戦犯である囚人たち('53年の巣鴨プリズンが観られるだけでも跡地である現在の池袋サンシャインシティしか知らない私たちには歴史的価値があります)の包まれた異様な精神状態が伝わってくる。本作は製作され本来公開されるはずだった1953年時点を現在時制にしており、囚人たちも「俺の8年間は……」と戦犯たちにとって戦争体験は戦犯となって収監された敗戦後の8年間も続き、今なお続いていることを訴えています。これは被害者意識ではなく厳然たる事実で、映画のメッセージを拡大すれば市井にいて映画など観ている観客もこの映画の作り手たちもみな戦犯たちを生贄にして責任から逃れている卑小な国民にすぎない、ということも映画は語っています。本作はフラッシュバックで描かれる戦時中のシーンを始め苦悩の末に自殺する在日朝鮮人戦犯の許(伊藤雄之助)が白い部屋の中に閉じこめられて銃声が響くたびに壁に次々と拳大の穴が空き自分を責め苛む声を聴く、というシュルレアリスム風のシークエンス、またA級戦犯たちによる戦犯救済会の演説者が「我々A級戦犯が政治犯であれば皆さんBC級戦犯の方々は刑事犯であって……」とぬけぬけと述べ会場中のブーイングを食らう場面、さらに進駐軍の占領解放後は戦犯たちの拘置を引き継いだのは日本の刑務官であるという指摘されないと気づかれないような実態まで興味深く、また脱走失敗者の山下(浜田寅彦)を実例に悲惨な獄中生活手記を友人の雑誌記者に渡した獄中記の雑誌発表で問題視され、手記の筆者のインテリ戦犯がかえって憎悪の的になる流れから山下が主人公になり、母親の死によって1泊だけの釈放・帰郷を許され、俘虜処刑を「上官の命令は天皇の命令である」と行わせながら山下の裁判で部下の独断と戦犯証言をして自分は罪を免れたかつての同郷の上官・浜田(小沢栄)を殺しに訪ねるが……というサスペンス展開などエンタテインメント的展開に収斂していく運びは観客を引きこむ力がありますし、結末も本作はこれでいいかと説得力のあるものです。その一面、こうした映画としては陳腐に聞こえるような台詞や演出もちらほらあり、作劇上そうした類型的な部分が煩雑になりかねない場面の省略法として働いているから仕方ないのですが、それが全体として興を削ぎかねない粗さになっているのはのちの小林正樹作品にも見られるので、誠実で生真面目な作風で一貫した丁寧な映画作りですが感覚的な陶酔感に乏しい感じにつながる。仲代達矢を得て仲代氏自身も『醉ひどれ天使』'43での黒澤明と三船敏郎との出会いになぞらえる『黒い河』'57も、黒澤&三船のコンビは『赤ひげ』'65で最後になりますが小林作品では遺作『食卓のない家』'85にいたるまで続いたので、30年あまり続いた監督&主演コンビも稀有なことですが、『黒い河』も後味の良い映画ではなく小林作品は自然な流露感に乏しい印象につながります。重厚で生真面目で社会派で反体制と今どきの観客からは敬遠される特徴で小林作品は『黒い河』から一貫することになり、本作のお蔵入りからまた小林作品は松竹の路線に沿ったホームドラマとメロドラマにしばらく戻ることになりますが、本作の最大の美点は力を尽くしてこの時点で最大の野心作をやり切った全人的な発露にあり、軍人ものですから男ばかりの映画ですし全人的といっても本作ならではの枠組みの中ではありますが、本作の公開延期から『三つの愛』『この広い空の下に』『美しき歳月』『泉』とメロドラマ路線を迂回することになるのが本作を機に一足飛びに社会派映画に専心するより表現の幅を広げる結果を生み、本作についてはついに念願の企画を実現した第2の処女作と見なせる達成感がしみじみとしたやるせない余韻を残す結びの作品にしている。その意味では本作はこうむった運命は不運だったとは言え、作られる運命を背負って作られた映画ならではのみずみずしい青春性があります。