今回観直す機会がなかった作品からさらに加えるなら、第11作『ゴジラ対ヘドラ』'71、第13作『ゴジラ対メガロ』'73、第14作『ゴジラ対メカゴジラ』'74がそれぞれ趣向の凝らされた異色作で、ゴジラ映画もシリーズとしてはもう末期を迎えている予感が製作者側・観客側にもある中でゴジラ以来の自然(公害)災害怪獣であるヘドラが強烈なインパクトを与えた第11作、対怪獣用ロボット・ジェットジャガー登場の第13作、沖縄の日本返還に伴いインファント島のモスラに相当する沖縄の守り神キングシーサーとゴジラが共闘してキングギドラ以来の強敵である人工怪獣メカゴジラに立ち向かう第14作など、第11作は2年ぶりのゴジラの新作であり第10作がファミリー向けファンタジー作品だった内容からの急激な方向転換を図った社会派作品であり、また第13作と第14作('73年/'74年)がオイル・ショックによる世界的なインフレーションによってほとんど消費者物価2倍に上る経済恐慌進行中の製作・公開だったのを思えば、第15作『メカゴジラの逆襲』は福田淳監督の前作の健闘を受けたゴジラ映画最大の功労者、本多猪四郎監督勇退のための花道だったようにも思えます。今回選んだ7作は東宝の正式ライセンスによるレストア=デジタル・リマスター版のアメリカ版DVDボックス(アメリカ公開版と日本オリジナル版をともに収録)『Godzilla Collection』2006(ジーニアス・エンタテインメント社)収録作だったので、購入した当初は廉価版だからか(画質音質、仕様は非常に丁寧で良好なものですが)ずいぶん変なセレクションだなと思い、順不同でばらばら観直していたのですが、さすがに今観るときついなとDVDで初めて観直した時の印象は今回かなり変わってこの7作(正確にはレイモンド・バー主演作品としてテリー・モース監督により追加撮影・再編集された第1作のアメリカ版『怪獣王ゴジラ』'56を含む8作8枚組)のセレクションの意図や妥当さも理解できるような気がしました。
●6月22日(金)
『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(東宝'69)*本多猪四郎監督, 69min, Color; 昭和44年12月20日公開
○あらすじ(同上) 三木一郎(矢崎知紀)は鍵っ子小学生、両親(佐原健二、中真千子)の帰るまでの退屈を大好きな玩具づくりで紛らわせていた。一郎は遊び相手になってくれる玩具アイディアマンの南信平(天本英世)が好きだった。彼は今"ちびっ子コンピューター"を作成していたが、一郎の興味をひくのはただ一つ、怪獣島のコンピューターだった。今日も両親は夜勤。一郎はガラクタを集めて作った手製のコンピューターを眺めているうちに、夢の怪獣島に誘われた。怪獣島、そこでは一郎の好きなミニラが悪怪獣ガバラにいじめられていた。一郎はゴジラを呼ぼうとしたが、信平に起こされてしまった。一郎はまた空ビルヘガラクタ集めに行った。が、そこに三千万円強奪犯人がひそんでおり、二人組(堺左千夫、鈴木和夫)に狙われるようになってしまった。その晩、一郎はふたたび怪獣島の夢をみた。その時、ミニラは強く生きられるようにとゴジラの特訓を受けていた。一郎が二人組に補ったのはそれから間もなく、だが、一郎は怪獣島でガバラをやっつけたミニラを思い起して発憤した。凶悪な犯人にかみつき、消化器をまきちらして大活躍。そこへ信平の通報でパトカーが到着、犯人は逮捕された。一郎はもう弱い子ではなかったのだ。
のち東映のテレビシリーズ『仮面ライダー』'71の死神博士が当たり役になる天本英世が子供好きの気のいいおじさん役なのが何だか変な感じで、本作の役柄はコメディ・リリーフなので実は今回キャスティングを念頭に置いて観直すまでまったく気がつきませんでした。佐原健二は言われなくても一発でわかりますが、これが「東宝チャンピオンまつり」第1回作品で『コント55号 宇宙大冒険』『巨人の星 ゆけゆけ飛雄馬』と3本立てだったというのも昔日の感を深くします。前書きで書いた通り第6作『怪獣大戦争』の後、ゴジラ映画は福田淳監督により『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』'66、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』'67、本多猪四郎監督に戻っても『怪獣総進撃』'68と、円谷プロのテレビシリーズ『ウルトラマン』'66の第8話「怪獣無法地帯」(昭和41年9月4日放映)と変わらない怪獣島ものになり、要するにサイレント映画時代の秘境映画『ロストワールド』'25に先祖がえりしてしまったような塩梅でした。しかもこの内容ならテレビ番組と変わらずスペシャル版程度でしかない。観客が家族で映画でも観ようかという時にゴジラとコント55号と『巨人の星』というのはレジャー施設の暇つぶし上映を観るようなもので、限りなく低い期待値しか持たない観客に一応映画を観た満足感を与えるとは、かなり割り切った心得で臨むプログラム・ピクチャーの監督でも取りつくしまがないような条件で、本多猪四郎監督による前作『怪獣総進撃』もゴジラ以外に10怪獣登場と隙あらば怪獣の作りでしたが、本作では本気で映画を観てくれる観客に、つまり子供の観客だけに観られることだけに純粋に絞りこんだ内容の作品になっていると言えます。そうした意味では本作を子供向けというのは製作意図通りですし、ミニラが主人公の一郎少年と日本語で会話するのも少年の願望の生んだ夢想の中ですから不自然なことは何もないと言えます。子供向け映画になったゴジラ映画は今では地球の危機を幼稚園児が救うクレヨンしんちゃん映画やポケモン映画に蘇っているので、子供向け映画を最初から子供映画の意匠で作って大人も楽しめる場合は讃える声も起こるが全年齢向け映画が子供向け映画化すると大人が馬鹿にする気配を子供までが察して離れてしまう、そういう不幸な現象が起こったのが'60年代後半からのゴジラ映画で、そこで本作ははっきりと大人の観客にもこれは子供向けゴジラ映画なのだ、と結果的にメタ映画の枠組みを採用して子供の夢の存在としてのゴジラ映画を作ったので、本作のゴジラの描き方と言えば怪獣島のゴジラはエビラを倒し、ゴジラ退治に現れる爆撃機の一隊を全滅させますが、子供の夢ですからエビラを倒すのも人間の攻撃部隊を全滅させるのも同じ次元で描かれるという夢の論理が一貫しています。ここまで来ればさすがにゴジラ映画企画も一旦は行き詰まったようで翌'70年のゴジラ映画の新作はありませんが、これは'70年に大阪の国際万国博覧会が開催されたため'64年の東京オリンピック開催時の映画界の惨敗が教訓となって大バジェットの新作映画の企画を回避したのと、田中友幸プロデューサーが万国博覧会のための映像企画でゴジラ映画の新作まで手が回らなかった、その両方が理由と考えられます。そして'71年の次作『ゴジラ対ヘドラ』は同作きりを手がけた坂野義光監督の意欲作でしたが、坂野監督自身が後に「子供の純粋な心を無碍にするような作品にすべきではなかった」と語るような、グロテスクな映像や残虐描写に特色があるような映画になりました。ただし興行的には同作でゴジラ映画は持ち直しを見せたので、続く3作は福田淳監督が手堅いゴジラ対侵略者路線を維持し、第14作『ゴジラ対メカゴジラ』'74まで健闘します。そして本多猪四郎監督のオリジナル・ゴジラ作品最終作『メカゴジラの逆襲』にいたる、となるのです。
●6月23日(土)
『メカゴジラの逆襲』(東宝'75)*本多猪四郎監督, 83min, Color; 昭和50年3月15日公開
○あらすじ(同上) 海に沈んだメカゴジラの残骸を捜索中の潜水艇・あかつき号が行方不明になった。調査に乗り出した海洋研究所の一之瀬(佐々木勝彦)は、10年前に「恐竜は実在する」と発表して世間を追われた真船博士(平田昭彦)が事件に関係があるとにらんだ。一方、その真船博士は、人知れぬ地下の実験室で一人娘・桂(藍とも子)を助手にして、世間へ復讐するために研究に没頭していた。真船博士の復讐心は地球征服を企む宇宙人に利用された。怪獣チタノザウルスを使ってあかつき号を破壊したのは、大宇宙ブラックホール第三惑星の隊長ムガール(睦五郎)で、彼は博士の手を借り、メカゴジラを復元修理しようとする計画だった。一之瀬は海底調査をするに当って桂に協力を求めたが、断わられた。桂はムガールの手下・津田(伊吹徹)によってサイボーグに改造されていたのだ。あかつき2号に突然、チタノザウルスが襲いかかった。だが、あかつき2号の発信する超音波によって苦しみ悶えだした。チタノザウルスは超音波に弱いのだ。逃げたチタノザウルスは二日後、横須賀港に出現した。その時、突如、海中からゴジラが現われた。壮絶な戦いは勝負がつかないまま、引き分けに終った。ムガールは桂の頭にメカゴジラの作動装置を結びつけ、東京大破壊が開始された。その頃、真船家を探っていた一之瀬がムガールに掴まった。ムガールは、一之瀬を救出しようと飛び込んで来た国際警察の村越(内田勝正)をしりめに、最後のスイッチを押した。メカゴジラとチタノザウルスは狂ったように街を破壊していった。だが、再び出現したゴジラによって、宇宙人の野望もくずれさるのだった。
前書きで書き落としましたが、円谷英二特技監督は第7作『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』'66を最後にゴジラ映画を降りて円谷プロの活動に専念、第8作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』'67と第9作『怪獣総進撃』'68は特技監督は有川貞昌が勤めました。第10作『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』'69では本多監督自身が特技監督も勤めています。第11作『ゴジラ対ヘドラ』'71以降はこの『メカゴジラの逆襲』まで中野昭慶が特技監督を勤めています。本作のクレジット・タイトルは前作『ゴジラ対メカゴジラ』の戦闘シーンのダイジェスト映像ですが、同作が福田淳監督作品であっても特撮シーンについては中野昭慶監督によるものなので流用に問題はないとも言えますし、また「東宝チャンピオンまつり」内の目玉作品であっても80分強の尺で冒頭から観客をつかむには、ホームヴィデオなどない頃ですから前作のダイジェスト映像はサービス精神の表れと見るべきでしょう。本作は「メカゴジラ・シリーズ第2弾」というのがキャッチコピーなので、やられてもやられても作り直せばいいロボット怪獣メカゴジラの特性を生かしたシリーズ化でもありますし、それを言えば『ゴジラ対メガロ』'73で登場させた対侵略怪獣ロボット・ジェットジャガーはどうなったとも言えますが、残念ながらコスト高だった割にゴジラ登場までの場つなぎ程度の貢献しかせず、正義の心と根性で巨大化するというロボットにあるまじき活躍ぶりがさすがに子供にまで失笑を買ってしまい、早い話が生産中止の憂き目に遭ったのでしょう。またジェットジャガー対メカゴジラではロボット対決であまりにゴジラ映画らしくなくなってしまうのも問題があったと思いますが、メカゴジラというインパクトの強い敵役ロボット怪獣を出そうと発案された時点で誰もジェットジャガーなど覚えていなかった、むしろ忘れたかったと身も蓋もない事情が想像されます。本作はコンペティション形式で脚本家・映画監督の高山由紀子(1945-)の脚本家デビュー作となり、田中友幸プロデューサーの意向で本多監督には怪獣による破壊描写のリアリティと人間ドラマに重点を置いた作風が求められました。本編(人間ドラマ部分)と特撮部分が同一カメラマンで撮影されたのも本作が初になったそうです。人間ドラマとしてはマッドサイエンティスト役の平田昭彦の娘役でサイボーグ少女にされ、頭脳をメカゴジラの外部プログラムにされる桂(当時『ウルトラマンレオ』の女性隊員役の藍とも子)の苦悩がそうした面でもあり、ゴジラの登場までにチタノザウルスとメカゴジラによる市街地破壊シーンが長すぎる印象もあります。ゴジラが子供たちが踏みつぶされそうになっているのを助ける場面もあって人間の味方を強調しており、これはリアリティと両立せず苦しいところですが、ゴジラによる市街地破壊シーンを描かないために悪役怪獣があらかじめ戦場を更地にしておく必要があったとも取れます。また海外版では削除されたそうですが、サイボーグ少女・桂の改造シーンで作り物ながら乳房が映り、ゴジラ映画唯一の女性ヌードでもあればメカゴジラの外部プログラム改造後の桂は銀色のボディスーツ姿というリアリティと結びついたサービスもあり、'70年代半ばの日本映画が一般映画でもエロティシズムを匂わせる傾向にあったのを思い起こさせます。本作のヒロインの設定は後のガメラ映画の『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』'99を思わせるものですが、この『メカゴジラの逆襲』は観客動員数97万人とシリーズ中もっとも低い成績に終わり、これは『ゴジラ』'54の観客動員数970万人の1/10という人気凋落で東宝を落胆させ、一旦ゴジラ映画のシリーズを終わらせる結果になりました。60代半ばになっていた本多猪四郎監督は以降晩年まで戦前からの盟友・黒澤明に誘われ黒澤監督の監督補佐として映画人生活をまっとうします。田中友幸プロデューサーは晩年の平成ゴジラ作品にいたるまでゴジラ映画のプロデューサーを勤めました。本作は興行成績では黒星作品に終わりましたが、20年あまり、15作のゴジラ映画に区切りをつけた最終作としては精一杯の意欲作であり、紆余曲折あれいつ終わるかと思われたゴジラ映画が平田昭彦の科学者と本多猪四郎の監督作品に帰って終わったことでも一巡を終えた感じがします。以て瞑すべし、という感慨すら湧いてくるようではありませんか。