それはさておき、'17年=13作、'18年=9作、'19年=7作、'20年=6作から'21年=3作と出演作が搾られてきたチェイニーは、'22年度には8作と再び出演ペースを上げます。'23年度は再び4作ながらチェイニー主演作としてもアメリカのサイレント時代の映画としても記録的な特大ヒットになる『ノートルダムの傴僂男』を放ったチェイニーは、'24年には2作きりながらスウェーデン映画界の巨匠ヴィクトル・シェストレム監督がハリウッドに招かれて撮った傑作『殴られる彼奴』でまたもや代表作を生み、'25年にはさらに特大ヒット作『オペラの怪人』に出演するとともに翌'26年の『黒い鳥』『マンダレイへの道』、'27年の『知られぬ人』『真夜中のロンドン』、'28年の『ザンジバルの西』、'29年の『獣人タイガ』に連なるトッド・ブラウニング監督との連作時代の幕開けとなる暗黒犯罪映画『三人』に出演します。'22年度のチェイニー作品は翌年の『ノートルダムの傴僂男』での大ブレイクの前夜で、まだ普通映画の範疇に入る犯罪メロドラマが中心ですが、この年に39歳にして喉頭ガンで逝去するまでの余命8年だったのを思うと、まるで運命のようにチェイニー以外の誰にもできないキャリアを邁進した俳優だった感が深いのです。
●8月7日(火)
『狼の心』The Trap (監=ロバート・ソーンビー、Universal Pictures'22.May.9)*60min(Original length, 60min), B/W, Silent; 日本公開年(年月日不明) : https://youtu.be/AdSw3SH1N_0
[ あらすじ ](同上) 山紫に水清きカナダの西北部に善人ガスパー(ロン・チャニー)と呼ばれた猟師は、 その所有する鉱山および総ての希望を捧げていた恋人サリー(ダマール・ゴドウスキー)を都から来たよこしまなベンスン(アラン・ヘイル)に奪われ、怨みの一念凝って復讐の鬼となり、機会の到来を待つうち早くも数年は過ぎて、遂に彼の待ちに待った復讐の時が来た。ベンスンはガスパーの策によって牢獄に打ち込まれ、サリーはベンスンとの仲に生まれた幼児(スタンリー・ゴールサルス)を残して病死する。ガスパーはその幼児を引き取って養育するうち、その純真な幼児に感化され、次第にもとの温い気持ちに返る。その後ベンスンが出獄して幼児を引き取りに来ることになったので、幼児を手離すに忍びず、我が家を罠にして狼を放ちベンスンを殺そうとしたのであるが、神の裁きか幼児がその罠に入ったので、ガスパーは命を賭してそれを救いベンスンの手に幼児を返し、去り行く2人の後姿を河岸に立っていつまでもいつまでも見送ったのである。
監督の腕も『大北の生』の落ち着いた作風と違って集中力に欠いた出来に見えますが、せっかくヨセミテ国立公園でロケしたという割りには自然の景物の美しさも出ていませんし、そもそも原作と脚本が良くないように思えます。台詞タイトルが、都会から来て勝手にチェイニーの採掘していた鉱山を自分のものに登記してしまう悪役のベンソン以外は、フランス系植民の地方のカナダというカラーを出そうとして全員訛りのある英語(南部訛りと同じ、「Th」の発音が「D」になる、「S」の発音が「Th」になるもの)で書いてあるのがまず読みづらくて仕方ないですし、効果を上げているとも思えません。映画は子供たちの人気者の「グッドマン」ガスパールを演じるチェイニーから始まりますが、チェイニーが仲買人の店に毛皮を売りに行くと都会から来たというベンソンに紹介される。こいつがいきなり居丈高でチェイニーを一喝するのですが、演じているのはアラン・ヘイル(シニア、1892-1950)です。そこへチェイニーの婚約者のサリー(訛っているので「Thalie」です)が来ると、ベンソンのデートの誘いにすぐに乗ってしまう。帰ってきたサリーはチェイニーがそろそろ結婚しようと言うのを「急がなくてもいいじゃない」とかわしながら、翌日さっさとベンソンと結婚してしまいます。そればかりかベンソンはチェイニーの鉱山を自分のものに登記してしまっている。友人の巡査(フランク・カンポー)を連れてベンソンに抗議しに乗りこんだチェイニーは文盲なので字が読めませんが、巡査は登記証書を見せられてチェイニーに説明しないわけにはいかず、絶望したチェイニーが去った後で巡査はベンソンに自分のしたことを覚えておけ、と忠告します。映画は字幕一枚で7年後になり、村を出て行ったチェイニーが戻ってくる。チェイニーは酒場でベンソンと再会し、サリーは病床で伏せっていると聞きます。チェイニーは旧友の大男ピーターと再会し、コニャックを1本おごるからベンソンを殴ってくれと頼む。ピーターはベンソンに向かっていきますが、ベンソンはピストルを取り出してピーターを撃ってしまい、駆けつけた巡査に正当防衛だからチェイニーに訊いてくれ、と弁解する。チェイニーはほくそ笑んで、何が起こったか見ていない、と証言し、ベンソンは拘置所に入れられます。チェイニーは病床のサリーを訪ね、死相の表れたサリーから息子をお願い、と託されます。何というか、ヒロイン(ダマール・ゴドウスキー)があまりにヒロインらしからぬ尻軽女であるばかりか、アラン・ヘイルも勝手すぎますがチェイニーも同情できる主人公になっておらず、あまりに馬鹿に描かれすぎています。ピーターは一命をとりとめたのでベンソンは死刑は免れますが、懲役刑になりサリーは病をつのらせて死にます。その後、チェイニーが引き取ったサリーとベンソンの息子を育てるうちに、最初は冷たくしていたがだんだん愛情が湧いてきてしまい、やがて少年は小学校に通う歳になります。家庭の事情が事情なので、小学校の若い女教師(アイリーン・リッチ)が何くれとなくチェイニーを助けてくれるようになります。そしてついにベンソン釈放の時が来ると、チェイニーは離れの小屋に入ると自動的にドアに外からかんぬきがかかり、捕らえてきた狼が続きの小屋から入ってきて襲いかかってくる仕掛けを作ります。しかしチェイニーが待ち受けていると、ベンソンが来る前に少年が小屋に入ってしまう。チェイニーは少年を助けに入り、ベンソンが到着すると血まみれのチェイニーが少年を助け出して小屋から出てくる。本作の原題が『The Trap』で、邦題が『狼の心』であるゆえんです。チェイニーは少年を実の父親のベンソンに託すと、訪ねてきた小学校の女教師がチェイニーの善良さを讃えて励まし、チェイニーと女教師は連れ立って木立の中を歩いていきます。一応のハッピーエンドなのに全然すっきりしないのは、チェイニーがけしかけたとはいえ発砲して服役する羽目になったベンソンは自業自得ですし結局チェイニーはお人好しのまま終わってしまっただけで、強いて言えばサリーよりもこの女教師の方が明らかに主人公にとっては良妻賢母だろうというくらいです。少年役の子役俳優は『法の外』に続いて好演ですが、擬似父子を描いて子役で落とすならチャップリンの『キッド』'21やキング・ヴィダーの『涙の船唄』'20や『チャンプ』'31のように母親や仇役を絡ませないで純粋に父子の愛情だけで落とす、という高等技術まで絞りこまなくては泣けません。チェイニーは繊細な表現力に富んだ俳優ですが本作は妙に話をひねろうとして結局何をやりたいのか散漫な作品になってしまっている。クライマックスも狼との闘いをそのまま見せるのは無理なので話法的に省略したのでしょうし、チェイニーが機械的で複雑な罠の出来ばえを場面は『オペラの怪人』の罠だらけの隠れ家を連想させてサイレント映画らしい趣向ですが、本作はあれもこれもと作りこんだ結果、全体としては雑然とした映画になってしまった印象が強いのです。せめて監督がウォーレス・ワースリーかトッド・ブラウニングだったらとも思いますが、後に大プロデューサーになる若き日のサルバーグ自身も仕上がりを観てそう思ったのではないでしょうか。
●8月8日(水)
『血と肉』Flesh and Blood (監=アーヴィング・カミングス、Western Pictures Exploitation Company'22.Jul.)*73min(Original length, 60min), B/W, Silent; 日本公開年月日不明 : https://youtu.be/8ssKww6q4rs
[ あらすじ ](同上) 親友たる中国人リー(ノア・ビアリー)の情けある手配りでウェブスター(ロン・チャニー)は脱獄して中国街に身を潜めていた。彼は中国街を見張るドイル刑事(デヴィッド・ジェニングス)の監視をぬってヴォーンと姓を変えた妻と娘とを尋ね隠家を出て昔の住家を訪ねるとちょうど妻の葬式の日であった。彼は男泣きに泣いた。そうして彼は冤罪で牢に送らせたフレッチャー・バートン(ラルフ・ルイス)に復讐することを誓った。彼の娘(エディス・ロバーツ)は或る教会を司会して不幸な人々に天使の如く慕われていた。娘には恋人があった。運命の悪戯かバートンを訪ねて総てを白状した書面を書かせ署名をさせる。折しもバートンの息子テッド(ジャック・マルホール)と娘とはバートンの許に結婚を許してくれと嘆願に来る。事情を察したウェブスターはバートンに二人の行く末を頼んでバートンの白状書を破り棄て再び刑務所に帰って行くのであった。
前述したように本作はワースリーの『天罰』'20、ブラウニングの『法の外』'20を先例かつ参考に作られた作品であるのは間違いなく、仇敵の実業家(『法の外』ではギャングのボスから更正しようとチャイナタウンの尊師に「論語」を学んでいたラルフ・ルイス)の息子と主人公の娘(15年前に生き別れになり、父とは死別したと思っている)の恋から主人公チェイニーが復讐を断念する、という多分に偶然的すぎるプロットを持っているものの、『天罰』の真のメッセージを隠すためにあえて裏切った偽のハッピーエンドや、『法の外』ではチェイニーの位置がサブ・プロットに後退してしまっていたのを丁寧に手直ししたような出来になっています。本作のチェイニーは偽装した身体障害者ですが、15年前に別れたきりの、病床で伏せっているという妻と、別れたきり別姓を名乗っているので父のチェイニーを知らない娘を探るために、松葉杖をついたまま5階建てのアパートの急でむき出しの外階段をワンカットで一気に一階から屋上まで上がるシーンは息を呑みますし、そして屋上から隣のアパートを見下ろすと玄関から棺が運び出され、喪服姿の娘がハンカチで涙を押さえているのが字幕なしで雄弁に事態を伝えます。下町の教会で奉仕活動に励む娘(エンジェル、とニックネームで呼ばれています)に自分の身元を隠して会いに行き、教会に通ってくるのに理由はいらないのでチェイニーは父娘の名乗りを上げたいのをこらえて教会に通って娘と親しくなります。チェイニーがやはり松葉杖の少年に慕われ、少年は自分の障害原因を話してチェイニーにはおじさんは言わなくていいよ、こんな体だけれど不幸だとは思わない、と少年が微笑むのに対して、偽の障害者のチェイニーが黙って恥じいるのを、チェイニーの心情を字幕で説明などしない素晴らしいシーンがあり、それから母が好きだった曲です、と娘がその曲「A Song of Twilight」をピアノを弾き、チェイニーがヴァイオリンを奏でるのを少年が聴き入り、チャイナタウンに帰ったチェイニーが一人でヴァイオリンを弾く姿と娘が教会でピアノ独奏する姿がカットバックされ、字幕タイトル2枚でその曲「A Song of Twilight」の歌詞つき楽譜が示されますが(さすがにオーケストラ伴奏はこの曲を弾いてはおらず、既成音楽を使ったものですが)、当時のアメリカ公開ではたぶん楽士が同曲をその楽譜を見ながら演奏したのだろうと思います。実業家の息子テッドが慈善事業の求めに応じて教会に来て娘エンジェルと恋仲になり、エンジェルはテッドの父に結婚の許しを請いにいきますが、父の実業家は息子の出世の防げになる(もっと資産家の良家と縁組みさせたい)と、エンジェルを追い返します。そうしたチェイニーの出番のないシーンは客観描写で描かれますが、チェイニーがその都度娘からテッドとの交際の話を聞き、結婚を反対されて「私の父が生きていてくれたら!」と泣き崩れる娘についにラルフ・ルイスとの直接対決を決意する流れにぴったり寄り添っているので視点が分散することはありません。父に反対される、なら私が会いに行くわ、というテッドとエンジェルのやりとりが先にあるとは言え、これは男があまりに不甲斐ないと思えますが、そうしないと娘のためにチェイニーが立ち上がる展開にならないので仕方ないとしましょう。納品に来た中国人の八百屋のトラックに忍びこんで脱獄してくる冒頭もいいですが、チェイニーが仇敵と直接対決する直前からチャイナタウンのボス、リー・ファンがドイル刑事に連行されてチェイニーの行方を吐かせようと拷問に近い尋問を始めるのがカットバックされるのも、明確に刑事を暴力的な権力者に描いていて監督カミングスの気骨を示しています。チェイニーがラルフ・ルイスのオフィスに踏みこみ、映画でここで初めてチェイニーの被せられた罪状(15年前の80億ドルの横領)と、チェイニーが脅して用意してあったチェイニーへの冤罪への自白供述書にサインさせるのですが、オフィスを出ると娘とテッドがチェイニーが出てくるのを待っています。君たちの結婚の許しが出たよ、とチェイニーは二人に告げ、抱き合いキスして喜ぶ姿にチェイニーはオフィスに戻り、自白供述書を破ると、頭を抱えてデスクに伏している実業家のデスクの上に破った供述書を捨て、君の息子の結婚へのプレゼントだ、君は娘たちに必要な人間だから、と言って出て行き、チェイニーの閉めたドアの磨り硝子越しに恋人たちのキスするシルエットが映ります。チェイニーが刑務所の門の中に戻っていくシルエットで映画は終わります。このラスト・カットが松葉杖をついたシルエットなのが、もう脱獄から自首してきて松葉杖をつく必要はないはずなので理屈の上ではおかしいのですが(ラルフ・ルイスとの直接対決シーンではもう松葉杖をついていません)、松葉杖のシルエットでないと印象が弱くなってしまうのでここは理屈より効果を取った、と見るべきでしょう。『天罰』の結末のロボトミー手術ほど無理矢理な決着ではないですが、本作のチェイニーは脱獄囚とは言え本来が冤罪で、また脱獄してきたからといって他に犯罪を重ねるわけでもないですし、事実上完全な被害者です。しかし法の審判と15年の歳月はチェイニーを、愛する一人娘の父親であることを明かせない事情になってしまったので、結局チェイニーは娘の幸福のために刑務所に戻ることになります。80億ドル!(Eight Thousand Million)とは国家予算並みの無茶苦茶な金額で、それほどの横領事件に冤罪が発生するとも思えませんが、この設定も目をつぶるとしましょう。『天罰』や『狼の心』同様本作も復讐ものですが、チェイニーの復讐よりも15年前に生き別れた娘への愛情の方がテーマになっていて、冤罪とはいえ脱獄囚のチェイニーは娘に自分が生きていた父だとは言い出せず、また仇敵への復讐は娘の結婚の幸福を防いでしまうために復讐も断念する結果になります。しかしこの愛のための自己犠牲が切実なので、本作は扇情的な派手さがないだけ地味ですしその分カタルシスも弱いですが、しみじみとした佳作になっています。エキセントリックな方向性にチェイニー作品が進まなかったら、本作のような路線が主流になることもあり得たと思えます。
●8月9日(木)
『暗中の光』The Light in the Dark (The Light in Faith) (監=クラレンス・ブラウン、Associated First National Pictures'22.Sep.3)*33min(Original length, 63min), B/W (Tinted), Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/F14UfSp0rhw
[ あらすじ ](同上) ベシー・マグレガー(ホープ・ハンプトン)という娘は旅館で女事務員をしていたが、自動車に衝突してその持ち主の富豪のオーリン夫人(テレサ・マックスウェル・コノヴァー)の邸へ身を寄せることになった。ベシーは夫人の弟ウァーバートン(E・K・リンカーン)と恋に落ちたが、彼に女がいるのを知ってそこを逃がれ、下宿住まいをするうちに病気となり、下宿の息子のトニー(ロン・チャニー)という不良青年に恋される。トニーは聖杯を盗み出してきたが、それはウァーバートンの手に返り、暗中に光を発して治療の効果が著しいと評判になる。トニーは再びそれを奪ってきて、ベシーの病気を癒そうとする。トニーは捕えられたが、ウァーバートンの同情で無罪となり、ベシーとウァーバートンは結ばれ、共に幸福な生活に入る。奇蹟の杯の原因は、ラジウムであったことが判明した。
脚本由来からか、短縮編集のためかわかりませんが、「トニーは再びそれを奪ってきて」というのが結構荒っぽく、チェイニー演じるトニーは堂々とウォーバートン邸を訪ねていき、召使いが「不審な様子の男が訪ねてきています」と取り次ぐと、ウォーバートンはピストルをガウンのポケットに入れて面会します。お前の恋人が病気なんだ、と言うチェイニーに、ウォーバートンは「エレインから頼まれてきたのか?」と問い返します。その女は関係ない、とチェイニーは無理矢理聖杯を奪ってきて、ヒロインのベッシーの部屋を訪ねて聖杯を渡します。ベッシーはためらいますが、本物の聖杯なんだ、と部屋の窓のカーテンを引くと聖杯は光り始めます。チェイニーは聖杯に触れるようにベッシーに請い、ベッシーはついに聖杯に触れます。字幕タイトル「翌朝」下宿のおかみが朝食のトレイを持ってベッシーの部屋に入ると、一夜にして健康を回復して身なりを整え、髪も顔色もつやつやになった健康そのもののベッシーを見て驚き、トレイを取り落として床に皿が砕けます。「その晩、法廷では」と字幕タイトルが続き、脅迫と強盗で逮捕されたチェイニーが出廷する場面になり、当初原告のウォーバートンがチェイニーの脅迫と強盗について証言しますが、次いで聖杯の真偽について確認するため法廷の灯りが消されると、聖杯が光り、窓から一条の光が差しこみます。聖杯の奇蹟の光に法廷中が騒然となり、再度盗みに入られたのはこの聖杯で、強盗はこの男だったか、と裁判官と検事が尋ねると、ウォーバートンはためらった末に証言を撤回し、どんな男か確かめられるほど見ていなかった、と証言し直し、チェイニーは証拠不十分で無罪になります。ヒロインがウォーバートンに礼を言いに向きあい、言葉を交わす間にチェイニーは法廷のドアから出て行きます。このラスト・カットは右手(上手)手前にヒロイン、左手(下手)手前にウォーバートンが向きあう左右対象の構図の中央に法廷のドアがあり、ヒロインと恋敵ウォーバートンの間からチェイニーが去っていく、というなかなかのものですが、何しろヒロインと本来の主人公ウォーバートンのなれそめから、実はウォーバートン にはエレインという別の女がいて、傷心のヒロインは……という前半がごっそり削られているのがオリジナルの半分の長さの現行版「The Light in Faith」なので、前半が削られた結果「The Light in Faith」はチェイニーが出てくる中盤以降から始まる作品になったため、チェイニーの失恋話というまとまりはできたがヒロインが本来の主人公である別の男とくっつくのも、その男と一度は別れるきっかけになったエレインという女の役割も名前だけしか出てこないのでよくわからない。実は短縮編集前のオリジナルでもエレイン役の女優はキャストになく、会話に名前が出てくるだけらしいのです。ヒロイン役のホープ・ハンプトン(1897-1982)はモーリス・トゥーヌールの『ウーマン』'18をデビュー作にサイレント時代に18作、トーキー以後は'38年に1作、カメオ出演で'61年に1作が出演作の全部らしい女優で、E・K・リンカーン(1884-1958)は俳優兼監督で65作の出演作があり、'15年から自分のスタジオを所有してサイレント時代にはフォックス社に貸し出ししたり、俳優を引退した'26年以降はスタジオ経営者専業になりトーキー以後はハリウッド映画のイタリア語版やポーランド語版の製作スタジオになり、リンカーン没後の'60年代に取り壊されるまで50年近く使われていた、個人所有スタジオとしては歴史的な由緒のあるスタジオだったそうですが、ハンプトン、リンカーンともに代表作の筆頭に上がるのが本作だそうですから、何をか言わんやといった感じです。本作は'22年になってもまだチェイニーがこうした役を受けていたという程度のもので、チェイニー出演作としてはまだ助演時代だった'19年度の作品を観るようですが、意外にも公開当時はたいへん評判は良かったようで、光る聖杯と凝った照明がフィルム彩色(Tinted)の良さもあって、学校や教会の民間上映作品として人気を博すのにつながったようです。不審な男が訪ねてきました、と聞いただけで主人公がピストルをガウンに忍ばせるのも、『狼の心』の酒場の発砲シーン同様'20年代初頭のアメリカの安易で野蛮な銃刀意識のわかる描写です。クラレンス・ブラウンの映画ですらそうなのですから、しかも本作は舞台設定通りに当時珍しい全編ニューヨーク撮影だそうですから、一家に家族の人数分、または部屋ごとにピストルがあるような当時のアメリカ社会の物騒さが、当時のアメリカではごく普通に観られていたということも、サイレント時代のアメリカ映画の背景を物語るようです。