人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年8月16日~18日/「千の顔を持つ男」ロン・チェイニー(1883-1930)主演映画(6)

  (『オペラの怪人』のテクニカラー場面)

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 ロン・チェイニー(1883-1930)の主演映画でもっとも名高いのは『ノートルダムの傴僂男』'23と『オペラの怪人』'25ですが、この2作のうち『オペラの怪人』の方が現代でも人気が高いでしょう。リメイク回数は『ノートルダム~』より多くミュージカル化もされ、1925年の映画ながら5分弱ですがテクニカラー撮影のパートがあるのも作品の価値を高めています。チェイニー映画のうちアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存作品として文化財登録されたのもまず『オペラの怪人』で(第10回、1998年登録)、同年までに選ばれた登録作品は250作ですから、膨大なアメリカ映画史上でまず選出された250作品中の1作になったのはまずまずの健闘と言えます(250作中サイレント時代の作品は2割にも満ちません)。現在までにアメリカ国立フィルム登録簿に登録されたチェイニー映画は2017年にようやく『殴られる彼奴』が入りましたが、アメリカ国立フィルム登録簿も29年目で毎年25本が新規登録されていますから2017年度で登録作品は725作を数えるほどになっており、監督シェーストレムの代表作品『風』'28は早くも第4回に登録作品になっていますからいろいろ兼ね合いもあったでしょうが、チェイニー映画の最高傑作『殴られる彼奴』はもちろん『オペラの怪人』、いまだ登録作品になっていない『ノートルダムの傴僂男』(歴史的作品とは言え身体的・知的障害者の描き方に問題があるのかもしれませんが)、それに『三人』'25以降のトッド・ブラウニング監督('25年~'29年に8作のチェイニー主演作を監督)のチェイニー映画から何か1作の4作くらいは永久保存の文化財的作品として認められていいものでしょう。ブラウニング(1880-1962)はチェイニー晩年5年間('26年~'30年)の主演作品14作中7作を監督したチェイニー主演作最多監督であり、『魔人ドラキュラ』'31、『怪物団(フリークス)』'32で現在ではカルト的な人気を誇る呪われた監督です(『魔人ドラキュラ』『怪物団(フリークス)』はいずれもアメリカ国立フィルム登録簿登録作品になっており、『魔人ドラキュラ』は別ヴァージョンのスペイン語版も別途登録作品になっている異例の評価を受けています)。その『魔人ドラキュラ』もチェイニー主演作として企画されながら'30年のチェイニーの急逝によってベラ・ルゴーシが主演に抜擢された因縁の作品でした。今回ご紹介するのもブラウニング監督作2作と、それに挟まれた『オペラ座の怪人』です。特にブラウニングの『三人』はブラウニングが作風を確立した、アメリカ怪奇犯罪映画史上の画期的作品と目されている怪作です。

●8月16日(木)
『三人』The Unholy Three (監=トッド・ブラウニング、Metro-Goldwyn-Mayer'25.Aug.16)*86min(Original length, 86min), B/W, Silent; 日本公開昭和3年(1928年)9月 : https://youtu.be/MBvTVHKZYzw (fragment)

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○あらすじ 見世物小屋で働く腹話術師のエコー(ロン・チェイニー)はガールフレンドの女スリのロージー(メエ・ブッシュ)の勧めで、怪力男ヘラクレス(ヴィクター・マクラグレン)、小人トウィードルディー(ハリー・アールズ)と組んで、店長に善人ヘクトール(マット・ムーア)を雇ってペット・ショップを開く。目的は、富裕階層に腹話術でオウムを売りつけ、相手の邸に忍び込んで財宝を盗むこと。老婆に変装したエコーは、富豪の夫人にオウムを売りつける。さっそく富豪のアーリントン(チャールズ・ウェルスリー)からオウムが喋らないと電話を受けたエコーはアーリントン邸へ赴いて、赤ん坊に変装させた小人に下調べをさせる。「呪いの三人」はクリスマスの夜に、アーリントン邸に強盗する計画を立てるが……。

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 本作こそが「呪われた映画監督」トッド・ブラウニング(1880-1962)がチェイニー映画に新生面を切り開いた、'17年監督デビューのブラウニングにとって転機となった作品で、『魔人ドラキュラ』'31で金字塔を打ち立て『怪物団(フリークス)』'32で監督キャリアを破滅させることになったブラウニングの猟奇怪奇犯罪映画路線は本作から始まったとされます。チェイニーを起用したブラウニング作品は本作が初めてではなく、プリシラ・ディーンをヒロインにした『気儘な女』'19と『法の外』'20がすでにありましたが、ブラウニングの作風自体も本作まではスリラー風のメロドラマの枠を出ないものでした。ブラウニングが後世に記憶される特異な作風を打ち立てたのが5年ぶりにチェイニー映画を監督することになった本作で、以降ブラウニング&チェイニーのコンビ作品は『黒い鳥』'26、『マンダレイの道』'26、『知られぬ人』'27、『真夜中のロンドン(London After Midnight、日本未公開、散佚作品)』'27、『大都会(The Big City、日本未公開、散佚作品)』'28、『ザンジバルの西』'28、『獣人タイガ』'29と、『気儘な女』から数えて長編10作と長編ではチェイニー映画最多監督になります。このうち『真夜中のロンドン』は散佚作品ながらシナリオによってほとんど全ショットのスチール写真と残存フィルムによるスライド・ショー形式の復刻がなされており、ブラウニング初の吸血鬼映画として重視されているものです。他の作品も『マンダレイの道』はフランス語字幕による33分の短縮版しか残っていませんが、『黒い鳥』『ザンジバルの西』『獣人タイガ』はレストア版DVDが単品発売されており、『知られぬ人』とスライド・ショー版『真夜中のロンドン』は2枚組で4作品とチェイニーの生涯の長編ドキュメンタリー『Lon Chaney: A Thousand Faces』を収録した『Lon Chaney Collection: TCM Archives』でDVD化されています。チェイニーにとっては晩年の意識はなかったでしょうが結果的に晩年の5年間、'26年~'30年のチェイニー出演作品長編14作のうち半数の7作がブラウニング監督作、チェイニーの遺作となった唯一のトーキー出演作もジャック・コンウェイ監督による本作『三人』のトーキー版リメイクだったのを思えば本作もまたチェイニーの転機となった作品と言えて、『ノートルダムの傴僂男』'23から『殴られる彼奴』'24、そして本作『三人』の3か月後には『オペラの怪人』が公開されるのですから40代を迎えてブレイクしたチェイニーがいかに異例な映画スターだったかが作品歴にも歴然としています。「Cripple Roll」は『ノートルダムの傴僂男』で最後、という発言もブラウニング監督作の新路線では撤回することになりますが、本作公開に際してはチェイニー自身が「社会的弱者にこそ純粋な自己犠牲的精神が見られる。『ノートルダムの傴僂男』以降の出演作品ではそれがテーマになっている」と発言しているそうで、チェイニーが怪奇映画、猟奇犯罪映画の俳優としては早くから内省的な洞察力を持って役を演じていたのを示す発言としてよく引用されることになります。サイレント時代の俳優はラジオ・インタビューの対象になることもなかったのでこれは映画会社のプレスからのものでしょうが、チェイニー自身の直接発言でなくても『天罰』'20から『殴られる彼奴』にいたるチェイニー映画のおおむね一貫した性格を鑑みてもチェイニーが社会的弱者、被害者の立場の喜怒哀楽を極端なシチュエーションで表現していたのは明らかなので、これを最大に引き出したのが北欧映画界の絶望と激情の名匠、ヴィクトル・シェーストレムだったのは偶然ではないでしょう。
 それを思うとトッド・ブラウニングが本作で始めた怪奇犯罪路線はいかにもアメリカ的にあざといもので、『ノートルダム~』の時にプロデューサーのアーヴィング・サルバーグ(1899-1936)が第2候補の監督に目していたという通りサルバーグはブラウニングを高く買っており、本作の監督指名と企画もサルバーグでありノンクレジットでプロデュースとフィルム編集に関わっていて(クレジット上はブラウニングの単独プロデュース、フィルム編集名義)、サルバーグは『怪物団(フリークス)』が悪評三昧の大赤字になるまでブラウニング作品のプロデュースをノンクレジットで手がけますが(サルバーグは「プロデューサーは名前を出さずに口だけ出す」主義で、ブラウニング作品に限らずプロデュース作品に自分のプロデュース・クレジットをつけない方針を貫きました。少壮映画人だったからかもしれません)、老婆に変装するチェイニー、赤ん坊に変装する小人、腹話術でオウムを売りつけクレーム電話で自宅を訪ねる詐欺と強盗の下調べの手口、と趣向自体があくどい趣味のもので、見世物小屋の芸人三人が「俺たちは"呪われた三人"だ!」とこういうせこい悪事に乗り出すのもわかりやすく荒唐無稽で、この後は作品ごとに舞台はロンドンだったりマドリッドだったりしますがブラウニング&チェイニー映画は基本的に時代背景は現代、本作の場合は現代アメリカです。サルバーグはかつてチェイニー映画『狼の心』'22の原案を手がけているくらいですし『ノートルダム~』の仕掛け人でもありますから、ブラウニング&チェイニー映画の仕切り直しの第1作である本作にはさぞかし口を出したろうと思われ、その結果がこのあざとい作風なのですから、ブラウニングやチェイニーよりも20歳近く若いサルバーグの意向がここには相当強く働いているのではないかと思えるのです。'22年までのチェイニーの映画にはまだ製作スタッフの素朴なリアリズムの意識が見えましたが、'23年の『ノートルダム~』は異国歴史ロマンス大作でしたし、'24年の『殴られる彼奴』はヨーロッパから招かれた監督によるリアリズムを突き抜けた激烈な作品でした。コメディの『魔人』は置いといて、本作では当時のダイム・ノヴェルや後のコミック、現代日本で言えばラノベやアニメの次元の程度の低い荒唐無稽さを臆面もなく映画化している塩梅です。いわばブラウニング&チェイニー映画は現実とは別次元の作り物になったので、現実を変容させてしまう強烈なシェーストレムの監督としての力量には生粋のアメリカ人スタッフでは及びもつかないとなれば最初から荒唐無稽な作り物に狙いを定めるのはひとつの手で、これでこちたきリアリティとは別種の映画が作れるというのが『三人』で考案されたチェイニー映画の新しい方向性でした。ブラウニング&チェイニー作品はこの後も感想文が続きますから『三人』の内容にはそこで具体的に触れますが、ブラウニング監督作以外のチェイニー映画はともかく、ブラウニング監督作のチェイニーは映画の怪奇性やエキセントリックさに貢献こそすれ、力量の一端を抑制しているように見えるのも確かなのです。

●8月17日(金)
『オペラの怪人』The Phantom of the Opera (監=ルパート・ジュリアン、Universal Pictures'25.Nov.25)*107min(Original length, 107min), B/W (Part Technicolor), Silent; 日本公開大正14年(125年)9月 : https://youtu.be/aI0tWZc8gP4

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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より) 仏国探偵小説家ガストン・ルルウ氏の同名の小説からエリオット・クロースン氏が脚色し「メアリー・ゴー・ラウンド」「愛国の喇叺」等と同じくルパート・ジュリアン氏が監督し、ギブスン映画で御馴染みの監督エドワード・セジウィック氏が特に補助監督をして製作された1925年度ユニバーサル社超特作映画である。主役は「ノートルダムのせむし男」に主演したロン・チャニー氏で「メアリー・ゴー・ラウンド」「五番街のモデル」等に共演したメアリー・フィルビン嬢とノーマン・ケリー氏とが主要な役を演じ、その他ギブスン・ガウランド氏、ヴァージニア・ペアソン嬢、アーサー・エドモンド・カリュー氏等が出演している。なお劇中劇「フアウスト」はテクニカラーで撮影した。
[ あらすじ ](同上) 1880年のこと、パリオペラ座には恐ろしい幽霊が現われるという評判が立ち、舞姫たちや道具方は恐怖に襲われた折も折、道具方の一人が縊死したのでこれも幽霊のしわざだとますます人々は恐れた。オペラ座の支配人引退興行の夜のこと、プリマドンナのカルロッタ()が突然の病気のため無名の歌手クリスティーヌ・ダーエ(メアリー・フィルビン)が「ファウスト」のマルグリットを演じ大成功を博した。シャニーの子爵ラウール(ノーマン・ケリー)は彼女に思いを寄せ、彼女の仕度部屋を訪れると、不思議や部屋の中には何者とも知れぬ男の声がし、クリスティーヌの哀訴の声が聞えたので、ラウールは嫉妬に堪えられなかった。実はクリスティーヌは、正体の分からぬその声に歌の指導を受けていた。新しい支配人は幽霊なんかと冷笑し、怪人を名乗る者からカルロッタを降板せよとの脅迫状が届くが、それを無視してカルロッタを舞台に立たせる。すると大天井のシャンデリアが墜ちて多くの人々が死傷した。その夜、クリスティーヌの元に怪人が現れる。その怪人こそ生来の恐ろしい顔を持つエリック(ロン・チャニー)であった。エリックはクリスティーヌを愛していたが、クリスティーヌは彼の恐ろしい姿に怯え、ラウールに怪人というのはオペラ座の地下の湖に棲むエリックであることを告げる。逐にある晩の開演中エリックはクリスティーヌを連れ去る。ラウールは愛人を助けに、一人のペルシャ人の案内のもと地下の湖に出かける。ラウールは果して愛人を救うことができるだろうか。かくして戦慄すべきクライマックスがいよいよ展開される。

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 ユニヴァーサル'23年の特大ヒット超大作『ノートルダムの傴僂男』は若手独立プロデューサーのアーヴィング・サルバーグがユニヴァーサル社長カール・レムリに持ちかけてサルバーグとレムリが共同プロデュースした作品で、サルバーグはノンクレジットでしたが実質的なプロデュースはサルバーグによるものでした。また、『ノートルダム~』自体がチェイニー自身がまったく別の独立プロで製作に着手していたもので、いわばチェイニー自身の企画をサルバーグがもっと大きな映画会社に持って行ったものでもありました。その点『オペラの怪人』はカール・レムリの企画・製作なのがはっきりしていて、'22年のヴァカンスをパリで過ごしたレムリが映画会社で原作者のガストン・ルルーを紹介され、映画原作を探していたレムリはルルーの小説『オペラ座の怪人』'10を一晩で読み上げ即座にチェイニーの主演映画用に映画化権を買ったそうで、パリから美術スタッフを招いて'24年まで秘密裏にプリプロダクションが進行しました。一般公開は1925年9月ですが、最初の関係者試写は'25年1月に7日と25日の2回行われたそうです。この試写ヴァージョンはルパート・ジュリアン監督で製作されたものですが、ジュリアンの演出は非常に大雑把だったためチェイニーを始め出演者の大半が不満を漏らし、チェイニーは特殊メイクを始めかなりの部分でジュリアンに替わって演出を勤めたといいます。試写ヴァージョンは怪奇映画要素とメロドラマ要素の不調和でヒット性に欠けた大変不評なもので、チェイニーを筆頭にスタッフとキャストの大半が撮り直しを要求し、ジュリアンは監督を降板することになりました。再撮影はキートン映画の脚本家出身で後に『キートンのカメラマン』'28以降のキートンのMGM時代の作品の監督になるエドワード・セジウィックが監督になり、レムリの指揮で順次撮り直し箇所が指示されるとともにセジウィックが脚本家チームに改訂・追加撮影部分の脚本を書かせる、という具合に進んで行き、'25年4月26日に第2ヴァージョンの試写が行われましたが、これも不評で、最終ヴァージョンになったのはジュリアン(一部チェイニー演出)版とセジウィック版をミックス編集した版になりました。セジウィック版でジュリアン版と完全に異なるのは結末で、原作小説の、怪人エリックが地下の秘密の部屋でオルガンの鍵盤に倒れて孤独に死んでいく、という結末を暴徒となった群集のリンチにあって殺され地下水路に投げこまれて沈んでいく、と変えたのはセジウィックのアイディアになるそうです。本作の製作費は発表されていませんが200万ドルの興行収入を上げる大ヒット作になり、ヒロインが初めて怪人エリックの仮面を剥いで特殊メイクのチェイニーの顔が映る場面では当時の観客は悲鳴を上げ、失神する観客すら続出したと言われます。特殊メイクのあまりのおぞましさにカメラのピントが合っていないカットすらあるとされ(日本盤のパブリック・ドメイン版の画質では確認できませんが)、また本作も'25年の最終オリジナル・ヴァージョンは'30年代の民生用16mmプリントでしか残っていません。
 本作は'30年2月にチェイニー以外の出演者の大半を入れ替えてサウンド・トーキー映画にリメイクされ、チェイニーはMGM専属になっていたので(その上、喉頭ガンの末期でした)チェイニーの出演部分はノンクレジットの代役俳優が最小限の台詞をダビングして公開され、これも数百万ドルの興行収入を上げる大ヒットになりました。このサウンド・リメイク版はレコードにサウンドトラックが残っているだけで散佚作品になっていますが、'50年代にユニヴァーサル社に残っていてフィルム会社のイーストマン・ハウスが購入した35mmネガフィルム版『オペラの怪人』が流通している16mm版マスターをしのぐ本作の最上の画質のプリントとされています。この35mm版もアメリカ本国では16mm版とカップリングしてDVD/Blu-ray化されていますが、どうも現存する35mm版は'30年のサウンド版公開時にさらに再編集され、部分的には最終ヴァージョン以前の試写ヴァージョン、セジウィック版、サウンド・リメイク版のカットが混じっているらしく、家庭用16mmプリントの原盤であるオリジナル'25年版ですら名義上の監督ルパート・ジュリアン単独監督ではなくチェイニー自身の監督部分が混在し、リテイクと追加撮影をしたエドワード・セジウィックの監督パートとミックスされている上に、最上画質の35mmプリントではさらにややこしいことになっているのが判明したので、結局'25年のオリジナル版『オペラの怪人』は16mmプリント版マスターでしか観ることができないわけです。そのオリジナル版も前述したようにプロデューサーのカール・レムリを頂点にスタッフが寄ってたかって引っ掻き回したもので、「映画監督に著作権はない」とはアメリカ時代のキャリアを振り返ったフリッツ・ラングへのロング・インタヴュー本のタイトルですが、アメリカ映画のヒット作の多くは大プロダクションの集団製作なので本作のような複雑な製作過程を経たものは珍しくなく、そうした製作環境の中で自分の主演映画のブランドを確立してみせたチェイニーのような存在は'20年代のサイレント時代の俳優では類例がなくて、自作のプロデューサー兼監督だったチャップリン、プロデューサーを兼ねたロイド、監督を兼ねたキートンのようにトップクラスの喜劇俳優だけがまだ'10年代後半のようなワンマン的な映画づくりを続けていられた状態でした(また最大のワンマン監督だったグリフィス、シュトロハイムは映画監督のキャリアを絶たれることになりました)。それだけにロイド、キートンが'30年代にサウンド・トーキー化してさらにマス・プロダクション化した映画界から引退を余儀なくされ、チャップリンが5年に1作、10年に1作と極端に寡作を強いられたようにはチェイニーの場合はならず、叩き上げの職業俳優としてトーキー時代にも活躍する可能性はあったと思われます。ぜんぜん本作『オペラの怪人』の感想文になっておらず調べたことを書いているだけになってしまいましたが、キートンの『セブン・チャンス』'25の初老の好人物の弁護士役のスニッツ・エドワーズが意外にもこんなところでオペラ座の裏方役でコメディ・ロール役で出番が多く、またやはり裏方の兄弟の弟役で秘密を知った兄を怪人に殺され、クライマックスで暴徒を煽動してチェイニーをリンチ虐殺する裏方シモン役をシュトロハイムがユニヴァーサルを追放されてMGMで撮ったオリジナル版8時間の大作『グリード』'24(公開版130分ヴァージョンしか現存せず)の主演俳優ギブソン・ゴーランドがこれまた結構目立っているのが、今回観直して嬉しい発見でした。本作のような文化遺産は多言無用、いまではあんまり怖くない怪奇映画の古典的名作として気軽に楽しむのがいちばんです。もし他にチェイニー映画を観る機会があれば、チェイニー映画の中心テーマの「社会的弱者」の「報われない愛」が本作にもしっかり芯を通しているのがわかる仕組みです。

●8月18日(土)『黒い鳥』The Blackbird (監=トッド・ブラウニング、Metro-Goldwyn-Mayer'26.Jan.11)*86min(Original length, 77min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/HKANgAAHNFU (fragment)

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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より)「マンダレイの道」「三人」「知られぬ人」と同じくロン・チャニー氏主演、トッド・ブラウニング氏監督というチェニー、ブラウニングの組合せに成った映画である。原作はブラウニング氏が自身書卸したもので、それをウォルデマー・ヤング氏が脚色した。主役チェニー氏を助けて「ミスター・ウー」「ミシガン小僧」のルネ・アドレー嬢と「マンダレイの道」のオーエン・ムーア氏とが出演するほか、「生娘二人入用」のドリス・ロイド嬢、アンディ・マクレナン氏、エリック・メイン氏、等も顔を見せている。
[ あらすじ ](同上) その名、世にも隠れもないロンドンはライムハウスに、仲間の通り名をブラックバード(ロン・チャニー)という1人の男がいた。彼は悪事を働いていたが、いつもその痕跡を巧みに晦ましていたので未だに縛につかないのである。その頃彼の兄と自称する足の不自由な牧師がいて、ライムハウスの教会堂で貧民たちの渇仰の的となっていたが、この牧師こそ実は何を隠そうブラックバードが世を忍ぶ仮の姿であったとは誰一人として知らなかったのである。ある夜、金持たちからなる貧民視察団が唄い女フィフィ(ルネ・アドレー)の出ている寄席を見物に来た時、ブラックバードはフィフィの歓心を買うため、一行中の女から首飾を盗もうとした。が、その視察団に入込んでいたこれも腕利きのウェストエンド・エディ(オーエン・ムーア)はブラックバードを出し抜いてその首飾を盗みフィフィに与えその心を捕えた。出し抜かれたブラックバードは怒ってエディの部屋に忍び入り首飾を盗み出したが、その時は既にエディが女の愛をかち得、結婚するために牧師の許を訪れた後であった。牧師になっていたブラックバードはエディの正体をあばき、彼を警察の手に渡そうとしたが、首飾盗難事件は警察の出勤を見、エディの部屋は警察に包囲された。その警官の一人はこの部屋に潜伏していたブラックバードによって倒された。やがて捕らえられた悪党の一味ゴースト(アンディ・マクレナン)の自白によって警官はブラックバードの逮捕に向った。警官が踏み込んだ時は恰度彼が昔の情婦ポリー(ドリス・ロイド)に諭されている時であった。彼は警官が来たので急いで牧師に変装しようとして脚を折り、終生の障害者となったが、これが計らずも彼をして善心に立帰らしめる楔となったのであった。

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 日本公開されている記録があるのに『三人』はキネマ旬報の近着外国映画紹介から落ちていましたが、アメリカ本国'26年公開の第1作目になる本作はちゃんと近着外国映画紹介のデータが残っています。'25年のチェイニー映画は『魔人』『三人』『オペラの怪人』『故郷の土』の4作で、うち『故郷の土』は再びシェーストレム監督作品でノーマ・シアーズが共演するヒロインですが、残念なことに散佚作品になっているのは前回書いた通りです。'26年のチェイニー映画は『黒い鳥』『マンダレイの道』『英雄時代』の3作で、『英雄時代』だけトッド・ブラウニング監督作ではありませんが、これも今回見送りましたが、チェイニー黄金時代の作品としてDVDが単品リリースされています。ブラウニング監督作『マンダレイの道』がフランス語版の33分短縮版しか残っていないのは前述の通りです。ブラウニング監督作『三人』について補足しておくと、クリスマスの晩に強盗計画を立てたのはいいのですが何も知らない善人の雇われ店長が女スリのロージーにクリスマスにかこつけてプロポーズしてしまい、ロージーも店長の純愛にほだされてしまったのでプロポーズを受けてしまい、店長は店に居残ってしまいます。チェイニーたちはクリスマスの晩に店にいたというアリバイが必要なので、怪力男と小人を待たせて老婆に変装したチェイニーが店長を何とか家に帰らせようとする。しびれをきらせた怪力男と小人は2人で強盗に出かけ、富豪のアーリントン一家を殺害して宝石を盗んできます。「ピストルは要らないと言ったろ!殺しはするなという意味だったのに!」とチェイニーは激怒しますが、大人は怪力男が、子供は小人が絞め殺した、と2人はにやにやしています。試写ヴァージョンやスチール写真には小人が子供を絞め殺すカットがあったそうです。映画の最後までこの2人は改心しませんが、後のジョン・フォード作品『男の敵』'35の名優ヴィクター・マクラグレンがこの怪力男役なのもいかしたキャスティングで、それを言えば女スリ役のメエ・ブッシュもシュトロハイムの『愚なる妻』'22のヒロインです。館への訪問者を洗ってペット・ショップに捜査の手を伸ばした警察は変装したチェイニーたちに欺かれますが、小人の策略で盗品が店長の所持品から見つかり店長は逮捕、「呪われた三人」はロージーを連れて人里離れた山中の隠れ家へ潜伏します。店長の公判が始まりますが、アリバイを証明してくれるロージーとその伯母(店長が老婆だと騙されているチェイニー)が行方不明で、変装を解いて傍聴しているチェイニーは苦しみます。いよいよ結審の日が近づき、ロージーから店長への愛を訴えられたチェイニーは救ってみせる、と約束します。チェイニーは店長の知っている老婆の筆跡で「証言台に立って」というメッセージを被告の店長に投げ、証言台に店長が立つと腹話術で真相を告げます。騒然とした法廷内でチェイニーは立ち上がり、一部始終を証言します。一方隠れ家では怪力男がロージーとふたりだけで逃げようと迫り、聞きつけた小人が怪力男とロージーが逃げられないよう部屋の鍵をかけて閉じこめますが、ちょうど突き止めた警察の車が到着します。法廷に戻って字幕「……すべてが証言で明らかになり、彼らは釈放された」、チェイニーからの「再び会うことはあるまい。ロージーと幸せに」という手紙を読んで荷物をまとめる店長。チェイニーは映画冒頭の見世物小屋にいて、腹話術の人形でロージーに別れを告げると、見世物小屋の芸に戻ります。映画はロージーと店長が抱き合って、エンドマーク。けっこうあくどい話なのに「主役のチェイニーは実行犯にも殺人首謀者にもならない」「チェイニーは失恋するが女性への純愛のために改心する」「少なくとも詐欺と強盗首謀者で未遂とはいえ仲間を教唆しているのに無罪放免」とシビアなところは作り話の方便で逃げていて、そういう市民道徳と折り合いをつけるちゃっかりしたところはプロデューサーのサルバーグの厳命でもあったのでしょう。チェイニーの復讐もの・犯罪者ものはこの感想文で取り上げてきた作品でも犯罪者役のものは『仮面の男』'19、『勝利』'19、『法の外』'20、『ハートの一』'21、『暗中の光』'22、『オリヴァー・トウィスト』'22、『大地震』'23、『三人』'25、『オペラの怪人』'25、復讐ものは『狼の心』'22、『殴られる彼奴』'24、犯罪者ものと復讐ものの両方なのが『天罰』'20、『血と肉』'22ですが、犯罪者はいずれも倒されるか自滅するか改心するかで、復讐者も復讐は果たされず改心するかがほとんどで、唯一改心もしなければ復讐も果たして死んでゆく『殴られる彼奴』が破格のハリウッド映画になったゆえんです。また『影に怯へて』'22、『ノートルダムの傴僂男』'23は一方はアメリカの片田舎に住む中国人、一方は身体・知的障害者に「疎外された孤独な主人公」を仮構した作品で、チェイニーが「社会的弱者」と呼んだのはまさに疎外された孤独な人間のことなので、ストーリーはハリウッド映画の表向きの倫理コードに従っても疎外された人間としてのチェイニーのキャラクターをきっちり押さえている『天罰』『ハートの一』『血と肉』などは『殴られる彼奴』や『影に怯へて』に匹敵する佳作になっています(『大地震』のように貧弱な表現に止まる場合もありましたが)。『三人』から始まるブラウニング&チェイニー映画が、夢の組み合わせですしチェイニー黄金時代ではあるけれど、どこか趣向に凝ったのはいいが因果応報譚に話を持っていきはしないかという感じがするのも設定や展開があざといからで、シェーストレムとまではいかなくても『天罰』や『ハートの一』でウォーレス・ワースリー、『血と肉』でアーヴィング・カミングス、『影に怯へて』でトム・フォアマンがチェイニーに与えたような疎外された人間ならではの孤独と内省性がブラウニング作品ではあまりに作り物めいた残酷劇になっているように思えます。
 ただしブラウニングは、本作では原作も書き下ろしているように一種の実験的な作劇法を編み出したとも言えるので、一人二役でロンドンの場末のギャングが実は兄と偽って片足不具の松葉杖の牧師を演じて堂々と世間を騙し(情報収集と変装による身元隠しのため。顔が似ているのは兄弟だからで済ませられます)、さらに自分のシマに上流階級の紳士に化けて他のシマの実力者ウェスト・エンド・エディが荒らしにくる。キネマ旬報近着外国映画紹介では「イングランド・エディ」となっていましたが実際の映画通り直しました。ちなみに本作のあらすじは大筋は合っていますが所々実際の映画とは違っていて、どうやら試写以前にアメリカのMGM本社から届いたプレス・キットからあらすじを訳したようです。「出し抜かれたブラックバードは怒ってエディの部屋に忍び入り首飾を盗み出したが」は実際はエディの正体を暴きに面会を申し込んで悪党同士の仁義を交わし、コイントスで勝負して首飾りを勝ち取りますし、「エディの部屋は警察に包囲された。その警官の一人はこの部屋に潜伏していたブラックバードによって倒された」はフフィと婚約したエディを陥れようとチェイニーが首飾りの盗難をエディと密告したのはあらすじ通りですが、エディの逃走と警官狙撃(暖炉の中からチェイニーが撃った)はずっと後まで伏せられていて、エディは首飾り泥棒よりも警官狙撃によって追い詰められます。「警官が踏み込んだ時は……彼は警官が来たので急いで牧師に変装しようとして脚を折り、終生の障害者となったが」は前後関係が転倒していて、よれよれになって牧師館に逃走してきたチェイニーはドアに鍵をかけ、ブラックバードの服装から牧師服に着替えながら一人二役で兄のビショップを襲うブラックバード、ブラックバードを諭し抵抗するビショップ、というアクションを家具を倒しながら演じてドアの外に聞かせ、牧師服に着替え終えて窓を叩き割りブラックバードの逃走を演出して松葉杖でドアにもたれかかりますが、警官隊の強行突入で床に叩きつけられます。大丈夫ですか、もうブラックバードは逃げましたからあなたは安全です、と警官に介抱されるもチェイニーは倒れた衝撃で背骨が折れ、苦痛でもがき苦しみます。すぐ医者を呼びます、という警官に「No Doctor!」とチェイニー。別れた妻のポリーが入ってきます。警官はポリーに介抱を任せて去り、チェイニーは部屋の隅に丸めたブラックバードの服に気づきポリーに服を暖炉にくべてくれ、と頼みます。ポリーは初めて牧師が別れた夫ブラックバード一人二役だったのに気づき愕然とします。今やおれは松葉杖すら突けない完全な不具者だ、だが医者に診られたら元から足が不自由でなかったことがバレてしまう…痛い、痛い!医者に診せないでくれ、と脊柱骨折したチェイニーは喘ぎ(腹部まで痙攣させ続けるすごい全身演技です)、チェイニーの重態を悟ったポリーはチェイニーを許して変装服を隠し、医者が来る前に眠るのよ、とチェイニーに話しかけます。眠くなってきた、もう痛くない、とチェイニーの苦痛の表情は和らぎ、眠りの顔になります。医者が到着します。ポリーはもう大丈夫です、静かに眠っていますから、と医者を帰します。もう大丈夫、医者は帰ったわよ、とポリーはチェイニーの寝顔に話しかけますが、チェイニーはすでに安らかな表情のままで息を引き取っています。映画はハネムーンに出かけようと支度を終え抱擁しあうエディとフィフィの姿で終わります。キネマ旬報のあらすじでは更正して新生活を始めるみたいに読めますが、これもMGMのプレス資料由来でしょう。『ノートルダム~』で終わりだと言っていたのにまた出た松葉杖チェイニー、という感じもしますが本作の趣向は健常者と身体障害者一人二役変装犯罪映画という点にあり、クライマックスのチェイニーの鬼気迫る臨終演技だけでも本作は胸に迫る秀作になっていますが、『三人』同様脇役カップルの抱擁シーンで終わらせるのが大衆性で売るMGM映画の限界でもあります。『殴られる彼奴』はサーカスの一座の舞台上のカップルだったので気にならなかったのですが、『三人』や本作などはチェイニーを映したままのエンドマークだったらどんなに感動的だったか。それを思うとユニヴァーサル社長直々のプロデュース作品ながら怪人のリンチ死体が地下水路に投げこまれて水面の泡のボコボコで終わってしまう『オペラの怪人』は容赦なかったので、ブラウニングの本作(ちなみにロンドンといえば霧、ということか、路上や街角シーンはしっかり霧が焚いてあります)も悪党同士の丁々発止などなかなか柄の悪いセンスを見せ、早くにサンフランシスコの暗黒街映画『法の外』'20を撮っていただけはあります。ただしブラウニングの柄の悪さはえぐいキャラクターは描けても人間性そのものの洞察に届いているとは言えない面があり、本作もそうした弱点をチェイニー渾身の演技が補ってこその作品と思えなくもありません。