人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年8月10日~12日/「千の顔を持つ男」ロン・チェイニー(1883-1930)主演映画(4)

 (『大地震(The Shock)』'23の別題製作告知)

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 '22年度公開のロン・チェイニー出演作品は8作あり、'21年12月封切り予定が諸般の事情で'22年初頭に公開が延びたらしい『Voices of the City』(ウォーレス・ワースリー監督作)に続いて前回ご紹介した『狼の血』(5月公開)、『血と肉』(7月公開)、『暗中の光』(9月公開)があり、今回ご紹介する『オリヴァー・トゥイスト』(10月公開)、『影に怯へて』(11月公開)、が続きます。'22年は他に『Quincy Adams Sawyer』(クラレンス・バジャー監督作、4月公開)、『A Blind Bargain』(ウォーレス・ワースリー監督作、12月公開)がありますが、『Voices of the City』とこの2作はフィルム散佚作品になっています。1923年公開のチェイニー出演作は4作で、うち現存している作品は今回ご紹介する『大地震』(6月公開)、そして次回ご紹介する『ノートルダムの傴僂男』(9月公開)で、『ノートルダムの傴僂男』こそ伝説的な大ブレイク作『ミラクルマン』'19(ジョージ・ローン・タッカー監督作、製作費12万ドル・興行収入300万ドル)で特異な性格俳優の座を確立したチェイニーが、性格俳優の枠を越えて大スター俳優にのし上がった畢生の大作かつサイレント映画時代のアメリカ映画屈指の特大ヒット作(製作費125万ドル・興行収入350万ドル)になりました。'23年度以降のチェイニー作品はほとんど日本公開もされており、この年には1月公開に『怒涛の裁き』All the Brothers Were Valiant(アーウィン・ウィレット監督作)、『悪魔の哄笑』While Paris Sleeps(モーリス・トゥーヌール監督作)がありますが、その2作は散佚作品になっています。『怒涛の裁き』は1965年のフィルム倉庫火災で焼失したのが確認されており、また『悪魔の哄笑』は1920年に完成していたのが'23年1月までお蔵入りしていたものになるそうです。今回ご紹介する3作はディケンズ原作の文芸もの、チェイニー得意の犯罪メロドラマで方や中国人の賢人に扮する片田舎のミステリーもの、方やサンフランシスコのギャング社会の中の身体障害者もの、といずれも充実したもので、『オリヴァー・トゥイスト』こそ助演格ですが『影に怯へて』と『大地震』では前年'21年まででしたら若いカップルが主演のヒロイン・男性主人公に位置づけらていましたが、キャスティング上でも堂々とチェイニーの名前が配役のトップになっていて、『天罰』'20や『ハートの一』'21でも実質的にチェイニーが物語の主役ながら配役では助演ないし準主演扱いになっていたのを思うと、いよいよ本格的にチェイニーが一枚看板を張れる俳優と認知が進んできたかの感があります。またチェイニーはこれまでも『人形の家』'17、『勝利』'20、『宝島』'20など文芸もので演技力を認められていましたが(後の『ノートルダムの傴僂男』『殴られる彼奴』『オペラの怪人』に、チェイニー主演作として続いていく路線でもあります)、『オリヴァー・トゥイスト』のスリの親玉フェイギン役はとりわけ名演として名高いものです。さらに、他にさしたる著名作もない監督の作品ながら『影に怯へて』や『大地震』はチェイニーに焦点を絞ることでなかなかの佳作になっており、この間にチェイニー一世一代の勝負作『ノートルダムの傴僂男』のプリプロダクションが他ならぬチェイニー主導で進められていたのですから、'22年~'23年はチェイニーにとってはキャリアの大きな飛躍になる年だったのが実感されます。日本盤DVDが『ノートルダムの傴僂男』と『オペラの怪人』しかリリースされていないチェイニーですし、アメリカ本国でも世界的にもチェイニーの2大代表作はその2作になりますが、サイレント時代のアメリカ映画にまずグリフィスやシュトロハイムがおり、またチャップリン、ロイド、キートンの喜劇映画が上げられるとすれば、犯罪メロドラマ俳優チェイニーの映画も同等に落とせないものでしょう。今回の3作では特に『影に怯へて』の哀切なキャラクター造型の素晴らしさを一番に推したいと思います。

●8月10日(金)
『オリヴァー・トウィスト』Oliver Twist (監=フランク・ロイド、First National Pictures'22.Oct.3)*74min(Original length, 74min), B/W, Silent; 日本公開大正13年(1924年) : https://youtu.be/mp9n6NIzNtE

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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より)『二都物語』『デイヴィッド・コッパーフィールド』等で有名な19世紀のイギリス文豪チャールズ・ディケンズの小説を、フランク・ロイドとハリー・ウィールが脚色し、ロイドが監督の任に当たった。主役はジャッキー・クーガンで、その他ロン・チャニー、グラディス・ブロックウェル、ライオネル・ベルモア、カール・ストックデール等の腕利きが助演する。
[ あらすじ ](同上) 養育院の孤児オリヴァー・トウィスト(ジャッキー・クーガン)は葬儀屋の徒弟にやられたが意地悪い兄弟子(ルイス・サージェント)に虐められて家出し、ロンドンに行く途中掏摸の子分に出会い貧民窟の親分ファギン(ロン・チャニー)の所に連れられる。綽名を坊主(カール・ストックデール)と呼ばれる男はオリヴァーの異母兄で、父が羅馬で死ぬ時オリヴァーが21歳まで悪事をせずに育ったら財産を彼に残すとの遺言をしたのを知り、極力オリヴァーを悪者に堕落させようとし、ファギンに頼んでオリヴァーを泥棒に仕込ませようとする。しかしオリヴァーは好紳士ブラウンロー(ライオネル・ベルモア)の家庭に引き取られたが、再び悪人にさそわれ、今度はファギンの一味なるビル・サイクス(ジョージ・シーグマン)がオリヴァーを稼ぎに連れて行って失敗し、少年は再びブラウンローの家に引き渡される。一方ビルの妻ナンシー(グラディス・ブロックウェル)はオリヴァーの身に危険の迫ったのを知って同情のあまりブラウンローに内通したので、彼女はビルに殺されたが、少年は無事で、悪人一味は破滅する。

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 チャールズ・ディケンズ(1812-1870)は日本では名のみ高く、その割りには愛読者の多くない文豪ですが、19世紀イギリス社会を波乱に富んだ物語で生き生きと描いているのがかえって読者を英語圏ローカルに留めてしまっているので、非英語圏では専門的な英文学者・イギリス文学愛好家にしか読まれないので割りを食っている小説家でしょう。しかし英語圏ではディケンズの小説は一種の型を作ったとも言えるので、長大な『オリヴァー・トゥイスト』1837-1839は読んでいなくても『小公子』と同じ話、と言えば話は早くなります。孤児の少年が貴族の富豪の跡取りだとわかるまでの話です。本作の監督は後のアカデミー賞作品賞受賞作『戦艦バウンティ号の叛乱』'35の監督、フランク・ロイド(1886-1960)で、タイトル・ロールのオリヴァー少年を演じるのはジャッキー・クーガン(1914-1984)です。クーガンはチャップリン映画の子役を数作勤めたのち、チャップリンと主演を二分する大ヒット作『キッド』'21でハリウッド映画最初の子役スターの一人となり、本作の頃にはジャッキー・クーガン・ピーナッツバター、文房具、ホイッスル、ぬいぐるみ、レコード、人形が発売されるほどの人気タレントでした。本作はトーキー以後にフィルムが散佚し、長年散佚作品と目されていましたが'70年代にユーゴスラビアでプリントが発見され、破損していた字幕がプロデューサーのソル・レッサー(1890-1980)とクーガンによって新規に復原されてニュープリントが作製されたもので、画質も良く字幕タイトルが鮮明なのもそうした経緯によるそうです。本作の価値はフランク・ロイド監督作、ジャッキー・クーガン主演である以上にロン・チェイニー極めつけの怪人演技が観られることで、再発見以後は各種の文献も本作をチェイニー映画として扱い、人気を博すようになりました。
 助演俳優が名演で、後の大スターであるため再評価された映画も珍しくありませんが、本作はディケンズの原作をコンパクトにまとめていて19世紀前半のロンドンの雰囲気も良く出ており、結末で主人公の祖父だと判明する紳士役のライオネル・ベルモア(1867-1953、イギリスの性格俳優で、紛らわしいですが大スターのライオネル・バリモアとは別人です)を筆頭に俳優たちも存在感があって上手いキャストが揃っていますが、再発見されたらチェイニー映画として人気を博したのももっともで、街の不良の孤児たちを集めてスリの親玉に収まっている怪老人フェイギン役のチェイニーがとにかく輝いています。本作はいつもの犯罪メロドラマではないのでむしろユーモラスな役柄ですが、ボロボロのコートを着た極端な猫背で杖を突いた怪人で、シルクハットに長い山羊ひげにギョロ目で、目は笑っていないのに口元だけは弓なりに笑っている、といううさんくささ抜群の役柄を鮮やかなメイクでこなしており(チェイニーは出演映画のほとんどを自分で考案したメイクで演じました)、まあ役柄としては小悪党なのですが子供を集めたスリの親玉、という、ディケンズの原作当時にはけっこうリアリティがあったらしい設定をもっともらしくこなしているのが何とも言えない可笑しみを誘います。映画の出来そのものは少年文学ものらしい、というか、普通によく出来たファミリー映画なのですが、普通によく出来たファミリー映画だって大したものなので、クーガンやベルモア、チェイニーといった値千金の俳優たちから存分に魅力を引き出して、英語圏の白人観客なら大人は誰でも知っている、子供もクーガンの歳くらいには教えられるディケンズの古典的少年冒険成長物語を納得のいく映像化してみせるのはきちんと設定したハードルをクリアしなければできないことで、本作はチェイニー演じる怪人フェイギンというとびきりの見所を設けてもあります。チェイニーが「千の顔を持つ男」と呼ばれるようになるのはもうちょっと後になってからですし、本気のチェイニー映画は人間の業に肉薄した、鬼気迫る陰惨な内容のものが多いので本作はチェイニーの演じた役柄としては傍流ですが、こういう親しみやすく出来もなかなかのファミリー映画の中でユーモラスな小悪党を演じるチェイニー、というのもあって良かったと言う気がします。こうした出演は以後のチェイニーにはほとんどなくなっていくのです。

●8月11日(土)
『影に怯へて』Shadows (監=トム・フォーマン、Preferred Pictures Corporation'22.Nov.10)*99min(Original length, 70min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/7-FspaYGdio

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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より)「跫音」の原作者ウィルバー・ダニエル・スティールの原作で、ピクトリアル・レヴィウ誌に掲載された"Ching Ching Chinaman"をイヴ・アンセルと、ホープ・ロアリングが脚色し、「天空征服」と同じくトム・フォーマンが監督した。主役は「大地震」「法の外」等出演の性格俳優ロン・チャニーで、その他に「三銃士」「奇傑ゾロー」等出演のマーゲリット・ド・ラモット、「ふるさとの家」等出演のハリソン・フォード、「黙示録の四騎士」等出演のジョン・セント・ポリス、「血と砂」剣の輝き」等出演のウォルター・ロング等が共演している。
(キネマ旬報近着外国映画紹介では解説のみ)
○あらすじ ニュー・イングランド州の小さな漁村アーキー。嵐の夜、漁船が難破し、漁師の妻シンパシー(マーゲリット・デ・ラ・モット)の夫ダニエル(ウォルター・ロング)が行方不明になる。生存者はいなかったが、近隣で難破していた中国人イエン・シン(ロン・チャニー)が救助され、村で洗濯屋を始める。ちょうどその頃、新しい牧師ジョン・マルデン(ハリソン・フォード)が村に赴任してくる。マルデンは村人に迫害されていたシンを助け、シンパシーに好意を寄せ結婚する。かねてからシンパシーに思いを寄せていた村の名士スノウ(ジョン・セント・ポリス)は嫉妬のあまり、死んだはずの夫からと偽る脅迫の手紙を送り、マルデンを苦しめる。聖職者として、夫のある女性と結婚したとなれば重い罪になる。偽の脅迫状と知らずに苦しむマルデンを、敬虔なクリスチャンになりマルデンの友人になっていた病身のシンは死期の近づくまで静かに見守っていたが、死の床でマルデンとスノウを自分の住む船に呼び出し、村民の前でスノウに事件の一部始終を自白させ、和解を確かめると、皆が去った後で船の艫綱を解いて海へ旅立っていく。

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 チェイニーの中国人役ものには以前に『法の外』'20があり、同作ではチャイナタウンを襲う凶悪なギャングとそれを返り討ちにする中国人をチェイニーが二役で演じる趣向で、ギャングが悪役ですから中国人は悪を成敗する役でしたが「不気味な東洋人」といういうイメージに沿ったものに留まるものではありました。チェイニーが中国人をもっと内面に踏みこんだ性格造型によって演じるようになるのは'25年度以降の出演作とされますが、本作はその先駆をなす作品として注目できる佳作です。キャストの序列でもチェイニーがトップで、以下ヒロイン役のマーゲリット・デ・ラ・モット、ヒロインの夫になる牧師役のハリソン・フォード(後の有名俳優とは同名異人、1884-1957)、ヒロインに横恋慕し牧師に脅迫状を送る村の名士役のジョン・セント・ポリスと続きますが、前年'21年までだったらチェイニーの序列はデ・ラ・モット、フォードのカップルに続く3番目だったでしょうし、映画の内容の比重も配役順に準じたものになっていたはずです。ウィルバー・ダニエル・スティールの短編小説「Ching Ching Chinaman」をサイレント期の女性脚本家イヴ・アンセル(96本の脚本作品があるそうです)が脚色したという本作はプロット、ストーリー展開とも実に渋いもので、脅迫状(Blackmail)を道具立てにした心理サスペンス・ミステリーですが、通常これは地味すぎて実際に行われた犯罪をめぐるものでなければ映画には向かないでしょう。本作の脅迫状のゆすりは事実無根に「遭難死したはずの夫の漁師が生きていて、再婚した妻の夫である牧師に口封じの代償に事業資金(漁船の購入資金など)名目にゆすりの脅迫状を送ってくる」というのを、もともと漁師の妻に横恋慕していた村の名士が、未亡人になっていた漁師の妻が新たに赴任してきた牧師と再婚した後で逆恨みし、妻の妊娠をきっかけに牧師を追い詰めるために脅迫状を送り始める。牧師は苦悩しながら「漁船購入資金」の1,600ドルを始めにゆすりに応じ、名士は友人顔をして牧師から脅迫状の件を聞き出し親切に相談相手になるそぶりをして感謝され、ほくそ笑む、という陰湿な、ニュー・イングランドという、ピューリタン(清教徒)の地の舞台設定もあって『緋文字』を連想する牧師の苦悩譚が大筋です。ただしこの脅迫状はまったく事実無根なので、牧師が有夫の女性と姦通したという事態はあくまで脅迫者である村の名士が脅迫状によって作り上げたフィクションなのが現実の脅迫状事件ならともかく映画で描くサスペンスの点では弱く、これを映画化しようというのは現代映画でもまず通らないような企画ですし、サイレント映画時代ならなおさらこうした心理サスペンスは描くのは困難だったでしょう。それを見事に映画化した本作は脚本の功績も大きいですが、もともとの原作のアイディアらしい、こうした田舎の漁村の陰湿な心理サスペンスを偶然村に漂着して住みついていた、異邦人である中国人の視点から描く、という、思いついたらそれもありでしょうが普通はなかなか思いつかない、思いついてもどう描いたらいいのかなかなか方向性のつかめないアイディアを出発点として、チェイニー演じる中国人イェン・シンの説得力のある性格設定にたどり着いたのが成功の鍵になった映画です。監督のトム・フォアマン(1893-1926)はチェイニー主演という逸材を前提としてもこの難しい題材をよくこなしきったと言ってよく、フォアマンはJ・L・ラスキー(後のパラマウント社長)のプロダクションから1913年に俳優として映画界入りして監督昇進の'20年までに47本の短編・長編に出演し(のちさらに4作)、'20年から沒年の'26年までに27作の長編を監督しましたが、'26年11月にコロンビアからの第28作『The Wreck』撮影初日の11月8日の前日、7日の夜にピストル自殺したという人です。享年33歳。10作目の監督作に当たる本作は29歳の作品ですから、日本公開作は本作以外ないようですが、映像感覚の鋭さ、人間洞察の深さと把握力、確かで的確な演出力は同時代のドイツやフランスの芸術派映画の水準を抜いたものと言ってよく、芸術的な衒いがない分はるかに大人の映画になっています。本作はチェイニーの佳作である以上に埋もれた映画監督フォアマンの名作で、犯罪の起こらない犯罪メロドラマ(実際は偽名脅迫は犯罪ですが、被害者側も隠蔽しているため事件化していない、というシチュエーションです)、犯罪を予防する解決が行われるサスペンス・ミステリーとしても珍しく、古典的であるためにかえって古びない要素を持った作品です。
 チェイニーの演じる中国人イェン・シンは、主人公でありながら映画の結末20分まで客観的な観察者として描かれます。遭難して村にたどり着いたチェイニーは最初村民から迫害されますが、牧師がチェイニーを等しくキリストに救われた者同士なのだ、と村民をいさめ、チェイニーは牧師を慕うようになります。また洗濯屋を開いたチェイニーは最初なかなか村民が寄りつきませんが、洗濯物に石を投げる子供たちにナツメの実をプレゼントし、がき大将(バディ・メッシンジャー)を始めとしてチェイニーと仲良くなります。牧師や純真な子供たちが真っ先にチェイニーと親しくなる、という様子を描いて純朴で敬虔な中国人イェン・シンの人柄を示す美しい描写です。牧師や子供たちの信頼を通してイェン・シンが村民に受け入れられ、皆がシンの洗濯屋の贔屓になっていく様子も巧みに描かれています。一方、牧師は未亡人のヒロインと相思相愛になり村のダンスパーティーの日に婚約を発表して、挙式の日、シンは新婚夫婦に結婚祝いに手のひらサイズの3匹の猿の人形をプレゼントします。「見ざる・言わざる・聞かざる」の人形ですが、人形の映像に「See No Evil/Speak No Evil/Listen No Evil」の文字が重なります。やがてヒロインは妊娠し、出張伝道の予定があった牧師はヒロインの体を心配しながら出張して、出張先で初めての脅迫状を受け取ることになりますが、帰ってきてから様子のおかしい牧師を牧師を慕うシンは気づかい、注意するようになり、牧師が脅迫状を次々と送られ送金のゆすりにあっていることに気づき、それが牧師の妻に横恋慕する教会信徒の中の名士の偽手紙であることも気づきます。名士が牧師から悩みを聞き出して、友人面をしている様子もシンは見通します。やがて牧師は脅迫による経済苦から、女の子を出産した妻にも打ち明けざるを得なくなり、夫婦は苦しみます。シンはついに、自分の病状の悪化を機に事態の解決を決意します。病気の見舞いにやってきたがき大将の少年に頼んで自分が死の床にあり、牧師と名士に来てほしい、と伝言を頼みます。教会では名士を司会に祈祷会中で、名士だけでなく集まっていた村民全員がシンの住む船に駆けつけます。自宅にいた牧師は遅れて着きます。自宅が臨終の告解をする前にまず名士に告解を聞きたい、というシンに名士は昔友人と賭けをして踏み倒した、などととぼけますが、牧師は死の床のシンに「他人の妻を妻に迎えました」と脅迫状の一部始終を話し、村民は仰天します。シンは牧師から相談されていた名士はどうなのか、と追究し、名士は遂に自分が脅迫状の送り主だと自白します。牧師は名士に、自分も苦しんだがあなたも苦しんだ末に打ち明けてくれた、主はあなたを許しました、と告げます。あなたは許すのか、とシンは驚嘆し、牧師は名士と握手します。憤然と名士が船を出て行くと、シンはこれで思い残すことはなくなりました、と皆に別れを告げます。船から村人たちが去り、牧師と少年も去るとシンはよろけながら船尾に出て船の艫綱をナイフで切ろうとし、力が入らずようやく艫綱を解きます。少年がその様子に気づき、シンに呼びかけ、村民たちも岸に引き返してきます。流され始める船から、シンは少年に「中国に帰るよ」と言い残して、船は夜の沖へ消えて行き、映画は深い余韻を残して終わります。本作は新聞雑誌でも非常に評判が良く、顔つきまで中国人になりきったチェイニーの演技と映画全体のドラマ性と悲劇的なムードに高い評価が集まったそうです。いかにもな労働者風の中国服と極端な猫背は当時のアメリカ映画に登場する中国人の典型で、グリフィスの『散り行く花』'19は19世紀末のロンドンが設定ですが、挫折した道教の伝道師という役柄のリチャード・バーセルメスも猫背ですし、またチェイニー出演作でも『血と肉』'22で脱獄囚チェイニーをかくまうチャイナタウンのボス役のノア・ビアリーは西洋風のスーツで背筋もピンと伸びていましたし、『散り行く花』では貧しく父親に虐待されているヒロインのリリアン・ギッシュも猫背でしたから、猫背は中国人というより貧しさの方にかかっているのかもしれません。抑圧された立場の役ではチェイニーは猫背や松葉杖の演技が多いのもありますが、本作の主人公シン役の性格造型はエキセントリックな方向性の表現ではなく、映画全体のドラマを見守り続ける静かな賢者というもので、最後に初めて事態の解決に乗り出して決着を見届けると旅立っていく、一種の象徴的存在で、こうした人物像は西部劇や股旅ものにもありますし、また本作のドラマ構成は推理小説仕立てでもありますが、謎解きが興味ではなくて、ひょんなことから白人社会に入りこんだ中国人が悲劇に発展しそうな事態をいかに解決するかに焦点があるのが特異な点になっています。本作がチェイニーの演技の内省的な側面をもっとも見事に映し撮った作品であるゆえんです。

●8月12日(日)
『大地震』The Shock (監=ランバートヒルヤー、Universal Pictures'23.Jun.4)*64min(Original length, 64min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明): https://youtu.be/pX1nbH4kFzA

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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より)「狼の血」を完成してからロン・チャニー氏がユ社の為に作ったジウエル映画で、監督は永くウィリアム・エス・ハート氏の作品を監督していたランバートヒルヤー氏である。相手役して「嵐」以来お馴染のヴァージニア・ヴァリ嬢が出演する。1906年の桑港大地震を取り入れた暗黒街の物語である。
[ あらすじ ](同上) 桑港暗黒街の女王として羽振りを利かせているアン(クリスティン・メイヨ)の手下にウィルス・ディリング(ロン・チャニー)という足の不自由な男がいた。アンはかつて自分を弄んだハドリー(ウィリアム・ウェルチ)という男に復讐をする為、ウィルスをハドリーが今銀行の頭取をしているフォールブルックの街へ遣わしたが、彼はハドリーの娘ガートルード(ヴァージニア・ヴァリ)の純真さに感化されて正しい道を歩まんと決心するに至り、ハドリーの難を救い、又桑港で中国街に誘拐されたガートルードを救おうとしたが、力及ばず、彼女に教えられた神に祈りを捧げた時、天も感応ましましけん、天地を覆す大地震は突如起こって、悪人一味は全滅し、ウィルスは傷ける身体をガートルードの温かき看護に癒し、風清き金門湾頭2人は終生の誓いを交わした。

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 本作の次作である同年9月公開作『ノートルダムの傴僂男』もユニヴァーサル作品ですから、ユニヴァーサルでのチェイニー作品は'22年5月公開の『狼の血』、'23年6月公開の本作、9月の『ノートルダムの傴僂男』と続いて、'25年11月公開の『オペラの怪人』が最後のユニヴァーサル作品出演作になります。またパラマウント社作品の出演も散佚作『The Next Corner』'24が最後になっていて、'24年公開のチェイニー作品は2作きりでもう1作は傑作『殴られる彼奴』であり、同作以降チェイニーは沒年までMGM専属になりますから、晩年の名作傑作連発時代である充実したMGM専属に移る過渡期にユニヴァーサルへの契約満了を期して残した『ノートルダムの傴僂男』『オペラの怪人』が突出した代表作になっているのが、本流が『殴られる彼奴』からのMGM作品にあると見るべきチェイニー絶頂期を見誤りやすくしているとも言えますが、『傴僂男』と『オペラ』の2作もチェイニーの本質を純粋に表現しきった名作には違いないので、2大大ヒット作であるその2作がチェイニーの代表作に先に名前が上がるのも的外れではないのですが、その2作の大衆性は多分に異国フランスを舞台にしたゴシック・ロマンス性にあり、観客が安心して楽しめるフィクション性が行き届いている面が大きいと思われるのです。チェイニーがもっと生な姿でチェイニーならではのキャラクターを演じているのは『天罰』や『血と肉』、『影に怯へて』、さらに本作であり、『殴られる彼奴』以降のMGMでの作品群といった現代アメリカものなので、それらは現代アメリカを舞台にしている分映画の見かけと本当のテーマに二重性があったり、描写やテーマへの踏みこみにアンバランスが生じたりすることが多いのですが、『ノートルダムの傴僂男』直前の本作は実際にあった1906年のサンフランシスコ大震災をクライマックスに描いてドラマティックな効果を狙った作品で、チェイニー得意の身体障害者のギャング役ながら今ひとつの出来にとどまっています。『影に怯へて』はすでにアメリカに紹介されていたドイツ表現主義映画を参考にしたと思われる陰影に富んだ照明効果を、自然なセットに生かして監督フォアマンの映像感覚の鋭敏さがうかがわれ、スモール・タウンものの映画としてはサイレント時代では長尺な90分の長さを精緻な描写でサスペンスを持続させる腕前の冴えが光っていました。本作の監督ランバート・ヒリヤー(1893-1969)はウィリアム・S・ハート西部劇の監督出身、つまりトーマス・H・インス門下生でハート西部劇の代表作『開拓者』'19の監督であり、40年代いっぱいまで監督作のある長いキャリアを誇ることになる監督ですが、映画の作りにその後トーキー以降にはもう通用しなくなるような、サイレント時代の映画だからこそ許されたような大雑把さがあります。本作の場合はチェイニー演じる主人公と他の登場人物の関係が十分に納得させるだけの背景が描かれないまま映画が始終してしまいますし、チェイニーの運命にも関わる重要な登場人物が結局どうなったか描かれないままエピローグに当たる結末の締めくくりが済まされてしまう、という具合で、都合の良いように観客の想像に任せてしまう描き方ですが、それが結局映画全体を都合の良い偶然任せのような組み立てに見せてしまっているため本作のような省略法は映画にマイナスに働いているだけになっています。今度『開拓者』を観直す機会があったらその辺を気をつけて観ようと思いますが、トーマス・H・インスやインス系の監督の映画作りにはそうしたサイレント時代の映画の良い意味ではない大雑把さがあるように思えます。ただし本作がインス系監督の作品なのも理由があるので、ハート西部劇の典型例のように本作はチェイニーがハート西部劇のような「Good Bad Man」を演じる映画です。ハート西部劇では西部の列車・銀行強盗や牛馬泥棒団のハートが悪漢だけれど善人で、ヒロインを含む知りあった善良な人々のために一肌脱ぐのがパターンになっていますが、本作の松葉杖のギャングの三下チェイニーもそういう役柄です。
 本作はヒロインがヴァージニア・ヴァリ(1895-1968)なのも一興で、トーキー初期に引退したヴァリはアルフレッド・ヒッチコックの監督デビュー作『快楽の園』'25の主演女優として映画史に名を残す女優で、ヒッチコックの最初の2作『快楽の園』と『山鷲』'26(フィルム散佚作品)はイギリス・フランス合作で撮影所はドイツ、主演はハリウッド女優(『山鷲』はニタ・ナルディ!)という企画だったのでイギリス人監督のヒッチコックが雇われ監督になったという作品ですが、ヴァリの出演作で今日でも観られているのは1に『快楽の園』、2に本作しかないでしょう。ヴァリがどういうタイプのヒロインを演じるのが通例だったかは資料でしかわかりませんが、本作ではチェイニーが慕う天使のような女性として描かれています。チェイニーは自分が服従する、チャイナタウンを根城にするギャングの女ボスのアンの命令で、アンが過去に振られて身を落とすきっかけになり逆恨みしているヴァリの父の経営する銀行強盗計画に加わることになり、さらにヴァリはサンフランシスコ最大の百貨店の社長の息子と婚約しているので苦悶するのですが、ギャング団を裏切ってヴァリの父の銀行強盗を阻止した結果、今度はヴァリを人質にすると脅されて銀行強盗の実行犯にならなければならなくなる、という具合に事態は悪化していき、ヴァリの婚約者に協力を願ってヴァリ誘拐を阻止しようとするもバレてしまいヴァリの婚約者もヴァリも人質に取られてしまう、と最悪の事態になります。チェイニーはチャイナタウンのアジトに戻ってギャングたちに囲まれながら膝をつき、天に祈るのですが、チェイニーの祈りとともにサンフランシスコ大震災が起こります。この唐突なクライマックスは映像は凝っていて、これが見せ場と張り切って作ってあり、後の天災もののパニック映画の先駆となるようなシーンで、実際のセットと実写フィルムを組み合わせ、地面が割れて陥没し、水道管が破裂し、建物が倒壊しあちこちで引火して爆発や火災が起こり、人々が押しつぶされたり落下したり、となかなか健闘しています。本作は撮影順では'22年5月末に撮影を終えた『オリヴァー・トウィスト』に次いで'22年6月に撮影されたそうで、公開順では同作から8か月後、7作後になりますから、この時期チェイニー出演作はほとんど毎月のように新作が封切られていたことになります。結末では海を見渡す景観地の保養所にいるチェイニーをヒロインが訪ねてきて、車椅子を押してあげるから景色を観ましょう、というヒロインにチェイニーが日陰で涼んでいるから観ておいで、とヒロインをうながし、ヒロインが立って景色に見とれているとチェイニーがおぼつかないながら立ち上がってヒロインの横に並ぶ、ヒロインはチェイニーが歩けるようになった奇蹟を喜んでチェイニーを抱擁して映画は終わりますが、大地震でギャング一味は滅んだということでもヒロインの父や婚約者はどうなった、というのは描かれないのでちょっと省略しすぎです。本作はチェイニーがヒロインと結ばれる数少ない作品のひとつとされますし、実際そういう結末ですがちょっと都合良すぎる方に観客の解釈を任せる作品になっていて、『大北の生』や『狼の血』のハッピーエンドよりも都合が良すぎる。脚が治った奇蹟もそうですし、にっちもさっちもいかない危機一髪に大地震が起きるという作品の要自体がそうで、映画の中で起こる偶然や奇蹟も説得力があるかどうかは描き方次第でしょうが、リアリズム映画でなくても描かれる出来事のリアリティには説得力が必要でしょう。チェイニー映画の多くが荒唐無稽でも成功作にはそうした説得力があり、本作は基本的な語り口自体に安易さがあるために的を外した作品で、シーン単位で観るなら面白い要素もあるだけに映画全体の一貫性に欠けるのは残念ですが、サイレント時代の映画に限らずこうしたご都合主義は現代映画にも数多くあり、チェイニー出演作も多くあれば数作に1作くらいはこういう作品もある、ということでしょうか。