[ 八木重吉(1898-1927)大正13年=1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳 ]
八木重吉は遺稿の多さ、詩の多作さに反して概括的な詩論はおろかまったく自作解説を残さなかった詩人で、八木がもっとも傾倒した北村透谷は詩よりも批評が多作でしたし、実作上での影響がもっとも強い山村暮鳥も詩作に対応する詩論やエッセイを多く残しました。八木とほぼ同世代の早逝詩人でむしろ寡作だった尾形亀之助や富永太郎ですら作品の背景をうかがうに足るエッセイや文学観を伝える書簡・手記を残していますし、八木と同世代、またはやや後輩で八木と近い読まれ方で早逝の沒後に盛名を博した詩人には宮澤賢治と中原中也が上げられますが、中原の文学観は生前発表のエッセイ類にも遺稿にも横溢していますし、八木同様同時代の文学にはコメントしなかった宮澤の膨大な遺稿は独自の文学的指向性を伝えるもので、芸術原論として書かれた手記もあります。
八木の遺稿も膨大なものですが八木の詩の解明になるような文学論の類はほぼ皆無と言ってよく、生前発表したエッセイは教育機関誌に書いた「読書の勧め」の題目で聖書精読を薦めたものと、詩の同人誌の求めで書かれた近況報告だけであり、沒後も英文学者の詩人・安藤一郎氏が重吉遺族から拝借して要約抜粋紹介したキーツ研究ノート(八木は英語教師でした)の概要(その後原本散佚)と、原稿用紙2枚ほどのブレイクやポーに言及した詩論の断片しか残されていません。他は婚約中からの夫人への書簡、知友への書簡でも、詩稿ノートへの書きつけでも一切詩や文学については語らず、わずかに大正13年1月付けのノートには所蔵・購入予定と思われる32人・約80冊の明治大正詩人の詩集リストが記載されており、現在では忘れられた詩人も多く、また学生時代に未亡人に面会に行くほど傾倒した北村透谷はすでに読みこんでいたからか記載がなく、村山塊多、大手拓次、三富朽葉ら重要な詩人もこの時点では詩集が未刊だったため抜けていますが、ほぼ満遍なく大正13年時点に明治大正の主要詩人と見なされていた詩人を網羅しています。萩原朔太郎の『月に吠える』『青猫』、室生犀星の『愛の詩集』『星より来れる者』、佐藤春夫『殉情詩集』『我が一九二二年』と並んで金子光晴の『こがね虫』'23(大正12年7月刊)まで拾い上げていますが宮澤賢治の『春と修羅』は大正13年4月刊なのでこのリストには間に合わなかったようです。32人・約80冊の劈頭が山村暮鳥の既刊詩集全巻なのが注目される以外は大正当時の著名詩人を満遍なく上げたもので、八木ならではの嗜好や選択眼をうかがわせる側面は暮鳥の重視以外ほとんど見られないので、八木が大正10年からの詩作を小詩集に整理し始めて詩集公刊を考え始めたのが大正13年であることを思うと、自分が乗り出そうとしている当時の日本の詩の趨勢をひと通り踏まえておこうという意図があったでしょう。八木は熱心な無教会派クリスチャンでしたから、北村透谷と同じく伝道師の詩人だった山村暮鳥には信仰の面でも関心があったはずです。八木の第1詩集『秋の瞳』(大正14年8月刊)編纂中に暮鳥が逝去し、逝去翌月に遺稿詩集『雲』(大正14年1月刊)が発売されるとすぐ購入した、と証言もあります。しかし八木自身は暮鳥についても何も書き残しておらず、『秋の瞳』刊行後初めて同人詩誌に勧誘されて参加しても詩作の発表や手紙のやり取りだけでいわゆる詩人づきあいはなく、文学論を交わすというのがまったくなかった人だったようです。
八木の詩に対して「近代的な詩意識というものがなかった」というような批判も、もし八木がそれなりの自作解説や詩論を作品相応に発表した詩人だったなら断定的には言われなかったはずで、八木が批評的な文言を一切残さなかったのは詩にすべてを言い尽くした、という強力な自持があったからこそでしょう。これほど膨大な遺稿が陽の目を見ながら、遺稿の全貌が明らかになるほど詩作品以外には黙して語らなかったと判明した詩人はいないので、そのストイシズムの強さは異例と言っていいほどです。その性質は第1詩集『秋の瞳』と、ほぼ回復の見込みのない晩年の病床で遺稿詩集になるのを予期して編まれたと思われる第2詩集『貧しき信徒』ではどう変わったか、同じものだったか。今回はそこまでにとどめ、生前発表詩のうち『貧しき信徒』には未収録になった補遺詩編を再度ご紹介します。これらの大半は『貧しき信徒』に収録された詩編と見劣りしないものだけに、八木の『貧しき信徒』の編纂方針には基準がよくわからない面があるのです。
八木重吉詩集『貧しき信徒』
昭和3年(1928年)2月20日・野菊社刊
[『貧しき信徒』未収録生前発表詩29編 ]
●大正14年7月17日「読売新聞」4編
いきどほり
わたしの
いきどほりを
殺したくなつた
かけす
かけす が
とんだ、
わりに
ちひさな もんだ
かけすは
くぬ木ばやしが すきなのか、な
路
消ゆるものの
よろしさよ
桐の 疏林に きゆるひとすぢに
ゆるぎもせぬこのみち
丘
ぬくい 丘で
かへるがなくのを きいてる
いくらかんがへても
かなしいことがない
●大正14年8月「文章倶楽部」9編
椿
つばきの花が
ぢべたへおちてる、
あんまり
おほきい木ではないが
だいぶ まだ 紅いものがのこつてる
じつにいい木だ
こんな木はすきだ
心
死のうかと おもふ
そのかんがへが
ひよいと のくと
じつに
もつたいない こころが
そこのところにすわつてた
筍
もうさう藪の
たけのこは
すこし くろくて
うんこのやうだ
ちつちやくて
生きてるやうだ
春
ふきでてきた
と いひたいな
あをいものが
あつちにも
こつちにもではじめた
なにか かう
まごまごしてゐてはならぬ
といふふうな かんがへになる
顔
悲しみを
しきものにして
しじゆう 坐つてると
かなしみのないやうな
いいかほになつてくる
わたしのかほが
絶望
絶望のうへへすわつて
うそをいつたり
憎くらしくおもうたりしてると
嘘や
にくらしさが
むくむくと うごきだして
ひかつたやうなかほをしてくる
雲
いちばんいい
わたしの かんがへと
あの 雲と
おんなじくらゐすきだ
断章
ときたま
そんなら
なにが いいんだ
とかんがへてみな
たいていは
もつたいなくなつてくるよ
春
あつさりと
うまく
春のけしきを描きたいな
ひよい ひよい と
ふでを
かるくながして
しまひに
きたない童(コドモ)を
まんなかへたたせるんだ
●大正14年9月「文章倶楽部」2編
原つぱ
ずゐぶん
ひろい 原つぱだ
いつぽんのみちを
むしやうに あるいてゆくと
こころが
うつくしくなつて
ひとりごとをいふのがうれしくなる
松林
ほそい
松が たんとはえた
ぬくい まつばやしをゆくと
きもちが
きれいになつてしまつて
よろよろとよろけてみたりして
すこし
ひとりでふざけたくなつた
●大正14年11月「詩之家」3編
栗
あかるい、日のなかにすわつて
栗の木をみてゐると
栗の実でももいで
もつてゐたいやうな気がしてくる
よい日
よい日
あかるい日
こゝろをてのひらへもち
こゝろをみてゐたい
山
あかるい日
山をみてゐると
こゝろが かがやいてきて
なにかものをもつて
じつと立つてゐたいやうな気がしてくる
●大正14年12月「近代詩歌」2編
竹を切る
こどものころは
ものを切るのがおもしろい
よく ひかげにすわつて
竹をきりこまざいてゐた
とんぼ
ゆふぐれ
岡稲(おかぼ)はふさぶさとしげつてゐる
とんぼがひかつてる
おかぼのうへにうかんでる
●大正15年3月「詩之家」7編
冬
あすこの松林のとこに
お婆さんがねんねこ袢襦を着て
くもつて寒い寒いのに
赤い頭布の赤ん坊を負ぶつてゐるのがうすく見える
ほら 始終ゆすつてゐるだらう
あれにひき込まれそうにわくわく耐らなくなつてきた
朝
門松の古いのを庭隅へほつておいたら
雀がたくさんはいりこんでゐる
ひどい霜で奴等弱つてゐるな
冬
真つ赤な子供が
どこかで素裸で哭いてゐる
そつと哭いてゐるがとても寄りつけない
冬
外へ出てゐたが
明るいのがさびしくなり
家へはいつて来た
冬
朝から昼
それから晩と
うつつてゆく冬の気持ちは
つい気づかずにしまふ位かすかではあるが
一度親しみをもつと忘れられない
冬
しづかな日に
ぼんやり庭先きの葉のない桜などみてゐたら
なんだかうつすらした凄い気持ちになつた
冬
桃子とふざけながら
たのしい気持でゐても
ときたま赤いような寂しさをみたとおもふ
●大正15年9月「詩之家」1編
暗い心
ものを考へると
暗いこころに
夢のようなものがとぼり
花のようなものがとぼり
かんがへのすえは輝いてしまう
●昭和2年5月「生誕」1編
無題
藪田君が今日見舞に来てくれてうれしかつた
(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)