人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年9月9日・10日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(5)

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 前回の2作『アタラント号』と『ミモザ館』も相当な取り合わせでしたが、今回の『舞踏会の手帖』と『ゲームの規則』も負けず劣らずどころかまったく対照的な運命を背負った2作で、本国公開翌年に日本公開された『舞踏会の手帖』は翌年日本公開された『望郷』'37と2年連続でデュヴィヴィエにキネマ旬報外国映画ベストテン第1位をもたらし、一方『ゲームの規則』は戦後に公開が持ち越されたばかりか本国公開43年を経た昭和57年にようやく日本正式公開され、この40年余の月日は欧米諸国で『ゲームの規則』がルノワールの最高傑作と再評価され、映画史上のベストテンの最上位にランクされる作品という評価が定着した40年でもあれば、デュヴィヴィエを筆頭とした'30年代の人気監督の映画への評価は相対的に下落し歴史的な貢献という評価に落ちつく40年でもありました。なお、今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月9日(日)
『舞踏会の手帖』Un carnet de bal (Productions Sigma, 1937)*129min, B/W : 1937年9月9日フランス公開
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)、主演:マリー・ベル、アリ・ボール
・未亡人となったクリスティーヌが夫の遺品を片づけていると、16歳の時の思い出の手帖を見つける。手帖には当時、彼女に思いを寄せていた男たちの名前が綴られていた。クリスティーヌは彼らに会おうと旅に出る……。

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 日本公開昭和13年(1938年)6月2日、前書きの通りこの年度公開のキネマ旬報外国映画ベストテン第1位を獲得して翌年公開の『望郷』(製作・本国公開は『望郷』の方が先)と連続2年キネマ旬報外国映画ベストテン第1位を穫り、日本でのデュヴィヴィエ人気のピークを示した作品。ただし戦局が昭和17年(1942年)には大半の外国映画同様本作も退廃的(アメリカ映画の場合は享楽的)という理由で映画統制法により上映禁止になりました。ただし『舞踏会の手帖』はデュヴィヴィエの『白き処女地』'34以来のヒロイン映画のメロドラマでかつヒロインがフランスのスター俳優扮する7人を訪ね歩く豪華な趣向の大作で、英米でも『Life Dances On』のタイトルで封切られた国際ヒット作で独自の人気があったので、戦後に再びリヴァイヴァル・ロードショーされて再ヒットした幸運な作品でした。デュヴィヴィエの映画は'30年代の他の大家、フェデーやルノワール、クレール、カルネと較べても多作なだけ器用で、一気に見せる押しの強い娯楽性の分大味な粗さも見える場合がままありますが、『舞踏会の手帖』はデュヴィヴィエの職人芸がもっとも生きた作品で、これはデュヴィヴィエ以外に適任はいなかったと納得のいく映画です。ルノワールは『大いなる幻影』のシナリオが完成後もスポンサー探しに難航してデュヴィヴィエに監督を持ちかけたそうですが、デュヴィヴィエ主導で脚本家チームがシナリオをまとめた『舞踏会の手帖』がデュヴィヴィエ自身が撮らず他の監督に持ちかけても上手くいったとは思えず、そもそもプロローグに次いで20年前の初めての舞踏会で踊った相手7人を訪ね歩き、7人それぞれとの再会がまるで違った映画のように異なるムードで描かれ、亡くなった8人目の遺児を引き取るしんみりしたエピローグで円環を描くようになっているこの構成は日本でも欧米でも東洋的な無常感に通じる感銘を与えたそうで、7人を訪ね歩く順番は手帖の記載順(10人と踊ったうち2人はすでに逝去、それ以外の8人目は所在地不明で、これがエピローグの伏線になります)なのですが、訪ねてわかったその後~現在の男たちの境遇も実にバランス良くうまい順に並んでいます。技巧家としてもフェデーやカルネのように平行進行の伏線を結末に向けて収斂させるのとは違ったオムニバス映画的なやり方で、エピローグごとは15分~20分の長さですから全体的には大味で粗っぽい映画なのですが、エピソード単位は短編映画の長さのため濃密な印象が残るので、ジャン・ギャバン主演の『地の果てを行く』'35、『我等の仲間』'36、『望郷』'37などはギャバンのキャラクター造型で後世の映画に大きな影響を与えましたが悲劇的なアンチ・ヒーロー像にはどうしても時代臭がついてまわりますし、それが強引な筋立てと合わせて映画を古臭くもしていれば大らかな時代の映画然ともしていたのに対して、『舞踏会の手帖』では欠点よりも長所の方が目につきます。これは一人の女に3人の男を配したヒロイン映画『白き処女地』の無理のある平行話法よりも段違いにこなれていて、デュヴィヴィエの映画では『にんじん』'32と並んで人間性への洞察によって優れた映画になっています。公開当時のキネマ旬報近着外国映画紹介では例によって長々と、紹介文筆者の思いのたけや解釈まで踏みこんだ紹介がされています。昭和12年の感激がこもった紹介文ですから参観してみます。
[ 解説 ]「シュヴァリエの流行児」「望郷」に次ぐジュリアン・デュヴィヴィエ作品で、彼自ら脚本を書卸したものである。但し台詞は「或る映画監督の一生」のアンリ・ジャンソンがジャン・サルマン及び「女だけの都」のベルナール・ジンメルの協力を得て書いている。出演者は「外人部隊」のマリー・ベル、「巨人ゴーレム(1936)」のアリ・ボール、「生けるパスカル(1936)」のピエール・ブランシャール、「女だけの都」のルイ・ジューヴェ、「南方飛行」のピエール・リシャール・ウィルム、「ミモザ館」のフランソワーズ・ロゼー、「沐浴」のフェルナンデル、我国には初紹介の名優レイミュという素晴らしい顔触れで、助演者も「シュヴァリエの流行児」のロベール・リナン、「上から下まで」のミリー・マチス、「罪と罰(1936)」のシルヴィー、「どん底」のジェナン、「生けるパスカル(1936)」のアルコヴェー、新顔のベナール等が競演している。、キャメラは「赤ちゃん」のミシェル・ケルベがアゴスチニ、レヴァンと共に担任、装置は「リリオム」のポール・コランのデザインによってセルジュ・ピメノフ及びドゥーアルニヨンが設計した。音楽は「巴里祭」「最後の億万長者」のモーリス・ジョーベールが作曲している。
[ あらすじ ] 秋も終わろうとする11月のイタリア、コモ湖畔に立つ宏荘な古城は霧こめて憂愁であった。クリスチーヌ(マリー・ベル)は年かさの夫の野辺の送りを済ませたばかりである。非常に人の良い夫ではあったが、年齢が離れすぎていた為にクリスチーヌは夫に愛を感じないでしまった。美しい若妻をいとおしむ余りか、夫は彼女に何人との交際も許さなかった。36歳の今、クリスチーヌは過ぎた20年の結婚生活に青春の悦びを味わった事のなかった淋しさを今更の様に感じるのである。夫を失ったクリスチーヌは誰ひとりの身寄りもなく、訪ねるべき友もない。が彼女はまだ若い。もう一度人生を新しく出直そう。クリスチーヌは夫の形見をすべて召使達に与え、思い出の品を炉に投げた。その中からふと取り落とした一片の手帖。それはクリスチーヌが一人前の女として初めて舞踏会に出た折の、ダンス相手の男の名を書き記したものだ。あの時の十人の若者達は、どうしているのであろう。想い出そうとしても二十年の歳月は記憶を消してしまった。否いな、ジェラールをどうして忘れ得よう。あの時は十八歳だった。金髪で、ギリシャ神話の神の様に美しかったジェラール。十六歳のクリスチーヌが秘かに愛を感じたジェラール。彼女は目を閉じた。瞼に浮かぶのは美しいシャンデリヤのもと、甘いワルツの曲に乗って、白いレースの裳も軽く、踊りに酔った20年昔の舞踏会だ。亡き夫の秘書であったブレモン(ベナール)に頼んで、十人の男達の住所を調べて貰うと、その二人はすでに他界していた。そして皮肉にもジェラールだけが、住所が解らない。思い立った事だ、クリスチーヌは旅装を整えた。 先ず訪れたジョルジュ・オーディエの家で、出迎えたのは母のオーディエ夫人(フランソワーズ・ロゼー)であった。夫人は彼女と対座すると、貴女はクリスチーヌでしょう、いまはジョルジュは戻ります、是非会って、貴女の娘さんと結婚させて下さい、と言う。ジョルジュは20年前クリスチーヌの婚約を聞いた時自殺したのだ。動転した母親はその死亡通知も出さなかったので、クリスチーヌも今初めて知ったのだ。狂気の母は彼女を追い出した。 次はキャバレエの経営者となっているピエール・ヴェルディエだ。今はジョウ(ルイ・ジューヴェ)と名も変わって、夜盗団の采配を振る前科者だ。ヴェルレーヌの詩を誦した昔日の面影はすでに失せている。それでも昔話に夜の更けるのも忘れたが、踏み込んで来た官憲にジョウは曳かれて行った。 ピアニストのアラン・レニョオを訪ねると、今は神父ドミニック(アリ・ボール)であった。児童聖歌隊に讚美歌を教えている老僧も、かつてはクリスチーヌを想って死のうとした事もあった、と聞いて彼女の心はまた痛むのだ。 次にアルプスに登ってエリック・イレヴァン(ピエール・リシャール・ウィルム)に会った。詩人を志した彼はいま山案内人である。昔を語り合って、二人の心は溶け合った。彼とならば新生をともに出来ようか。しかしエリックは雪崩の警鐘を聞くと彼女を捨てて義務へ走った。 南フランス海岸の田舎町には、政治家志望だったフランソワ・パテュセ(レイミュ)が町長をしている。彼女が訪れた日、彼は女中を後妻に迎える結婚式に忙しかった。 マルセイユで医師ティェリー(ピエール・ブランシャール)を訪れたが、彼は既に反狂乱の廃疾者だった。 彼女は生まれ故郷で理髪師になっているファビアン(フェルナンデル)と、日曜の夜の舞踏会へ出て見た。それは彼女が瞼に描く舞踏会とは似もやらぬ侘びしい田舎びたものだった。 幻滅と共に帰った彼女はジェラールが湖の対岸に住むと初めて知り訪れると彼は一週間前に死んでいた。彼女はその忘れ形見ジャック(ロベール・リナン)を養子に迎えた。何か母性愛に似た愛情を抱いて。
 ――という具合で、結局ヒロインが知るのは時間の流れは人を否応なしに変え、失われた青春は戻っては来ず人はつねに現在に生きるしかない、というありふれた人生の真実なのですが、これをきちんと説得力のあり情感のあふれた映画にするのはデュヴィヴィエほどの腕前の映画監督ならではで、本作はシナリオや小説の書き方講座の類ではいちばん悪い例とされる構成を意図的に取っています。長編映画や小説はだいたい10章前後の構成で出来ていますが、因果関係のある伏線とその回収で進んでいき全体が結末に収斂する筋立てが上出来とされ、エピソードの羅列からなる構成は「串ダンゴ」と呼ばれてもっとも初心者の陥りがちな悪い構成とされます。しかし古代ギリシャ・ローマ時代の物語文学や中世の『源氏物語』『カンタベリー物語』『デカメロン』、近世でも18世紀までの物語文学はみんな串ダンゴ構成で名作を生んできたので、因果関係や伏線などは19世紀から現在までの近代思潮の合理化・効率化が生んだ方法で人生の実相には関係がないとも言えて、小説や映画の優劣は実際は創作講座で教えられているようなことはほとんど関係ないので、それは実際に優れた作品を多く知るほど理解できます。本作も実は串ダンゴに見えて7人への訪問への順序と各エピソードの内容は巧みな緩急がついていて、実はヒロインが会いに行った相手は早逝していて息子の自殺を信じられない老母(フランソワーズ・ロゼー)に応対されるうちに徐々にこの母が狂っているのがわかる1人目、昔はヴェルレーヌの詩を教えてくれた文学青年がギャングの親玉(ルイ・ジューヴェ)になっていた2人目、ピアニストだった男が今は教会の聖歌隊指導者の神父(アリ・ボール)になっていた3人目、アルプスで山岳ガイドになっている今も若々しい元詩人(ピエール・リシャール・ウィルム)でヒロインにこれから二人で第二の人生を歩もうと申し出るも緊急の遭難の報に駆けつけていく4人目、世慣れた田舎町長(レイミュ)になって町長再選とともに長年勤めた所帯じみた女中と再婚しようとしている5人目、波止場街のスラムで違法堕胎医(ピエール・ブランシャール)をしている隻眼眼帯の麻薬中毒者でヒロインが立ち去った後に錯乱して情婦を殺害する6人目、町の人気美容師で妻と子と円満な家庭を営んでいる7人目と実に巧妙にまるで別々の人生模様が描かれ、この人気喜劇役者フェルナンデル演じる美容師が「きみと結婚していたら今の幸福はなかったなあ」と心から妻子を愛し今の人生を楽しんでいて、妻は得意でないから一緒じゃないけど毎週一人で踊りに行くよという男で、そこでヒロインは20年ぶりにこの美容師と町の舞踏会に行き16歳の初舞踏会にときめく少女と会い自分の時も16歳の初舞踏会という魔法だったのだ、と感慨を深くします。帰ったヒロインは秘書から8人目の男の消息を知りますが、訪ねていくとつい先週亡くなったばかりで、両親に先立たれた10代半ばの少年(『にんじん』'32のロベール・リナン)が無人の館で明日には借財で館も地所も人手に渡ると途方に暮れています。ヒロインは20年前の青年そっくりのその少年を引き取り、ラストシーンはヒロインが少年を初めての舞踏会に送り出して終わります。キネマ旬報はこれを「彼女はその忘れ形見ジャックを養子に迎えた。何か母性愛に似た愛情を抱いて」とご丁寧に解釈までしていますが、7人目で幸福な妻子持ちの美容師のと20年ぶりの舞踏会で初舞踏会にときめいている少女と出会うのがエピローグというべき遺児の少年ジャックを引き取り若い世代を見守るヒロインの心の動きに自然につながっており、訪ねていく7人はヒロインのマリー・ベルがいちばん格下なくらい全員当時のフランス映画界の名優で短い出演場面だけで鮮やかに人生の年輪を感じさせてくれる見事なキャスティングです。元文学青年で、今やキャバレー経営者でギャングの親玉のルイ・ジューヴェが永井荷風の『珊瑚集』でも知られる「道行(寂しい会話)」の第1連「寒く寂しき古庭に/二人の恋人通りけり」を手下からヒロインに伝言され、これはジューヴェがヒロインに教えた詩なのですが警察の手が伸びているジューヴェはヒロインに面会するまで思い出せず、「何のつもりだ!?」とギャングの隠語と勘違いするなど描写も細かく、かつジューヴェの人生変転もこれだけで伝わってくる。息子の自殺を信じじられず20年前で時間が止まりヒロインをヒロインの母と思いこんで面会する狂母のロゼーから訪問が始まるのも異常なエピソードですが、エピソード完結型の串ダンゴのようでいてきちんと累積的な効果があり、充実したオムニバス構成と観終えた後で映画の全体像が中年にさしかかった世間知らずの未亡人ヒロインの人生認識過程を描いた映画として迫ってくる。デュヴィヴィエ作品としては例外的な作品かもしれませんが'30年代フランスのオールスター映画としてこれは見事な成果で、広く人生への洞察を映画の焦点にした結果異例の構成が成功した映画です。『にんじん』や本作について言えば、ペシミスティックな「詩的リアリズム」映画ではなく人生への暖かい眼差し(酷薄な要素もありますが)が映画を潤いのあるものにしているのではないでしょうか。

●9月10日(月)
ゲームの規則』La Regle du jeu (Nouvelle Edition Francaise, 1939)*106min, B/W : 1939年7月7日フランス公開
監督:ジャン・ルノワール(1894-1979)、主演:マルセル・ダリオ、ノラ・グレゴール
・狩りに集まった人々のインモラルな男女関係を風刺した群集劇風のラブ・コメディ。フランスの上流階級の恋のかけひきと、その召使達の恋のかけひきを描いている。監督自身も狂言回として出演している。

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 日本公開昭和57年(1982年)9月25日、2年前にまとめてルノワール作品を観なおした時はこう書きました。「結婚していようが独身だろうが二股三股は当たり前の'30年代のパリ上流階級、館勤めの召使いたちも主人と同様。犠牲者になるのは恋愛ゲームをわきまえずひたむきになる中産上流階級。登場人物全員が発情しているような喜劇は時に残酷になり、事件が事件を生み、やがて思いもかけず陰惨な結末を迎えるのに何事もなかったかのように終わる。ルノワールのオリジナル脚本で監督自身がほぼ主演格の視点人物を演じる。悪夢のような魔術的コメディで公開当時大コケしたのもうなずける破天荒な作品だが、『素晴らしき放浪者』や『どん底』からの順当かつ飛躍的な発展とも言える。ルノワールでは長年『大いなる幻影』と『ゲームの規則』が2大傑作とされてきたが、かつては『大いなる幻影』、近年は『ゲームの規則』が重視されるのもわかる気がする。ルノワールの出演は本作きりなのがもったいないくらいのはまり役(『コルドリエ博士の遺言』冒頭に本人役で少し出るが)。ルノワール作品でもっとも真価が発揮された最高傑作、かつ抜群に面白くとんでもない発想の作品は本作で、『黄金の馬車』『フレンチ・カンカン』『恋多き女』はすべて本作のヴァリエーションといえるもの」的はずれな短評ではありませんが、とてもこれだけで済まされるような映画ではありません。欧米の評価では'60年代以来映画史上のベストテンではトップ3~5級の大傑作と不動の位置を占め、もちろんフランス映画としては最高の評価で、『ゲームの規則』に次ぐのがジャン・ヴィゴの『アタラント号』'34なのは両作品ともに公開当時の不評が20年以上を経て大逆転の再評価を勝ち得たもので、これほどの劇的な再発見劇はないでしょう。たまたま先日本作の主演女優ノラ・グレゴール(1901-1947)の出演作でカール・Th・ドライヤー監督作『ミカエル』'24を観直したばかりで、グレゴールは旧オーストリア=ハンガリー帝国出身で舞台出演の比重が大きくサイレント作品では『ミカエル』、トーキー以降には本作が代表作になり、皇族夫人となりましたが夫の政治的失脚とグレゴールの出自(両親ともにユダヤ系でした)からフランス経由で亡命者になり(そのフランス在住中の出演が本作です)、さらに南米に亡命してチリで亡くなりました。状況が不明のため自殺とも宿痾による自然死とも伝えられています。『ミカエル』でも伯爵夫人役でしたが『ゲームの規則』での侯爵夫人役が板についているのも道理で、亡命中とはいえ本物のオーストリアの皇族夫人ですから侯爵夫人どころではなく、ルノワールは父上がオーギュスト・ルノワールですから物心ついた頃には上流階級の名士たちの社交界から庶民階級まで幅広い社会を見て育ってきた人ですが、そうして培われた観察力や人間性への洞察が集大成された観があるのが『ゲームの規則』で、デュヴィヴィエの『舞踏会の手帖』も人生模様のパノラマ的作品ですが『ゲームの規則』にあるような階級社会への観点はあえて映画からは外して個人個人の悲喜こもごもの人生を強調しています。ルノワールはそこに階級的視点を持ちこんだので、『ゲームの規則』は同時代には描かれているどの階級の観客にとっても不愉快な作品になったと考えられ、E・M・フォースターの'20世紀イギリス文学の古典『ハワーズ・エンド』'10をジェーン・オースティンに始まりドストエフスキーで終わる、とうまく評した日本の作家がいましたが『ゲームの規則』もオクターヴ・マリヴォーで始まりドストエフスキーで終わるような唖然とするような悪魔的映画です。ルノワール自身がヒロインの幼なじみの重要なブルジョワオクターヴ(もちろん劇作家マリヴォーの名前に由来します)の役で出演しているのもまさにルノワールの自作脚本・監督の本作ではルノワール自身がそれと知らずに作中人物たちを右へ左へと動かす無意識的な悪魔の役割なので、この映画の一見成り行き任せで予想もつかないのにこれしかない、という残忍な結末に完璧にすべてが収まる発想と構成は悪魔的というのが誤解を招くなら魔術的で、本作は手法的にはリアリズム映画というよりは寓話的、もっと言えば壮大な茶番劇なのですが、小説『ハワーズ・エンド』と本作は作中でもっとも善良で純真な脇役人物の偶然のような悲惨な死が導かれて終わることでも共通点があります。本作は戦中作品のため本国公開当時日本公開されなかったばかりか、多くの戦中作品が戦後の外国映画に飢えた観客の期待に応えて昭和20年代中には公開された中で本国での不評から日本公開も先送りにされているうちにみるみる欧米諸国では再評価が高まり映画史上のベストテン上位に上げられる作品になって、ようやく本国公開から40年以上経った'82年に日本初公開されたもので、キネマ旬報の新作公開映画紹介も昭和57年ともなると戦前の熱っぽい近着外国映画紹介とは違ってあっさりしたものです。また、公開された映画の内容を記録し、一度観た映画の内容を確かめるにはこの程度で十分とも言えます。
[ 解説 ] 狩りに集まった上流階級の恋愛遊戯を描く社会風刺劇。ミュッセの戯曲『マリアンヌの気まぐれ』に想を得て、ジャン・ルノワール監督自身が脚本を執筆している。撮影はルノワール映画常連のジャン・バシュレ、音楽はロジェ・デゾルミエール、美術はのちに米英で監督になるユージーン・ローリー、衣裳はココ・シャネルが担当。出演はマルセル・ダリオ、ノラ・グレゴール、ローラン・トゥータン、ジャン・ルノワール、ガストン・モドなど。
[ あらすじ ] ブールジェ飛行場に到着した飛行家アンドレ・ジュリユー(ローラン・トゥータン)は、熱狂した群衆に迎えられた。彼は大西洋を23時間で横断したのだ。しかし、彼は差し出されたマイクに「自分がこの冒険に挑んだのはある女性のためだったが、その彼女が出迎えに来ていない」と不満を表明した。その女性、ラ・シェネイ候爵夫人クリスチーヌ(ノラ・グレゴール)は、パリの邸で小間使いのリゼット(ポーレット・デュボー)に着替えを手伝わせながら、そのラジオ放送を聞いていた。夫のロベール(マルセル・ダリオ)を含め、二人の仲は社交界で周知の事実なのだ。ロベールもまた、愛人ジュヌビエーブ(ミラ・パレリー)と秘かに関係を続けていた。アンドレの親友であり、クリスチーヌの相談相手でもあるオクターブ(ジャン・ルノワール)は、クリスチーヌに働きかけ、ラ・シュネイ家の領地コリニエールで催される狩猟の集いにアンドレを招待させる。コリニエールの密猟監視人シュマシェール(ガストン・モド)は妻のリゼツトと別居しているのが不満の種だが、ある日、密猟人のマルソー(ジュリアン・カレット)をつかまえる。そこに通りかかったロベールは、マルソーが気に入り使用人としてやとうことにした。狩猟の日、ジュヌビエーブと別れることにしたロベールは彼女と別れのキスを交す。それを偶然に目撃したクリスチーヌの目には、密会のようにうつった。翌日、クリスチーヌは彼女に愛を打ち明けるサン=オーバン(ピエール・ナイ)と姿を消し、アンドレはサン=オーバンを殴る。台所ではマルソーがリゼットを口説いているのをみて、シュマシェールが追いかけまわす。候爵はクリスチーヌとアンドレが抱き合っているのを見つけ、アンドレを殴り倒した。大混乱のあと、平静を取りもどしたロベールはアンドレと和解し、騒ぎをおこしたシュマシェールとマルソーを解雇した。解雇された二人が庭で話しあっていると、ベランダにオクターブとリゼットの姿が見えた。実はそれはリゼットのマントをはおったクリスチーヌだった。クリスチーヌはオクターブに、自分が本当に愛しているのは貴方だと打ちあけた。二人は一緒に逃げる約束をし、オクターブはコートを取りにもどる。しかし、リゼットにたしなめられ、アンドレに出くわしたオクターブはコートを彼に渡した。嫉妬にかられたシュマシェールの銃が火を吹き、アンドレはその場で息絶えた。ロベールは、この事件を、仕事熱心な密猟監視人が職務に忠実なあまり起した事故として処埋。お客も何事もなかったかのように、それぞれの部屋に引き返すのだった。
 ――本作はプレミア公開の時点で批評家と観客の両方から不評で、ルノワールは113分のオリジナル版を85分に短縮して一般公開しましたがそれでも不評で、戦後長いこと85分版でしか再上映されていなかったのですが、ルノワール全作品への再評価が高まった'56年にヴェネツィア国際映画祭でようやく現在観ることができる短縮前のオリジナル版に近い版が復原公開され、その版が'59年に一般公開されて、以降ルノワール最高の作品と見なされるようになったそうです。現行版もオリジナルの113分版までは復原できなかったわけですが、このややこしいドタバタ社交界喜劇が公開時に30分近く短縮された85分版にされたというのが本作の不遇を物語っていて、250万フランの大作級の予算を組んでさらに50万フラン以上予算を超過した自信作作だったため本作の興行的・批評的失敗はルノワールに大きな打撃を与え(ルノワール自身が「『ゲームの規則』のあと、私は進退極まってしまい……」と語っています)、翌'40年にルノワールは再婚相手となる秘書とともにアメリカに渡り、『ゲームの規則』の次作はハリウッド作品『スワンプ・ウォーター』'41で、その後10年ルノワールはフランスに戻りませんでした。本作の復原版が公開された時に批評家や観客を驚嘆させたのは階級崩壊というテーマの先見性とともに、ようやく評価が定着しつつあったオーソン・ウェルズの『市民ケーン』'41で撮影監督のグレッグ・トーランドによる画期的な撮影手法と見られた焦点深度の深いパン・フォーカス技法がすでにルノワール作品のカメラマン、ジャン・バシュレによって『ゲームの規則』に先取りされていたことで、これはやはり後からウィリアム・ワイラーの『嵐が丘』'39や溝口健二の『残菊物語』'39でも行われていたのが再発見されるのですが、特にルノワールと溝口はカットを割らない長いショットのシークエンスでもパン・フォーカスを試みて成功させている点でも感嘆されました。『大いなる幻影』'37と『獣人』'38が興行的にも批評的にも大成功を収めたためルノワールは本作の構想に取りかかり、先にフランス革命の史劇『ラ・マルセイエーズ』'38を仕上げて、当初ルノワールは本作の主要キャストに『獣人』のキャストを予定したのですが、ジャン・ギャバンが飛行士アンドレ役を一旦引き受けるもマルセル・カルネの『陽は昇る』'39の主役に誘われて降り、シモーヌ・シモンはエージェントの指示で本作の予算の1/3近い80万フランを出演料に要求してきたのでこれも無理となり、結局諸事情で『獣人』キャストの起用は全員流れてしまい、またオクターヴ役には専門俳優だったルノワールの兄、ピエールを考えていたそうです。『巴里の屋根の下』で悪党役だったガストン・モドが演じた森番シュマシェール役には『獣人』のフェルナン・ルドゥーを予定していたといい、つまりルノワールには『ゲームの規則』は『獣人』の庶民姦通悲劇を上流階級喜劇に置き換えたもの、というイメージがあったようです。そういう背景を知るとなるほど『獣人』の人間関係を背景を変えて悲劇から喜劇に反転させると『ゲームの規則』か、と頷けるのですが、『ゲームの規則』はヒロインにシモーヌ・シモンは出演料の面で無理で、人づてにノラ・グレゴールという本物の貴族夫人をヒロインに迎えることになってからキャスト全体が見直されたので、結果的に最終的なキャスティングは監督自身の出演も含めて他の俳優では考えられないほど見事なものになり、もしシモンとギャバンを起用していたら『獣人』の上流階級喜劇版にとどまってしまって『ゲームの規則』ではない映画になっていたでしょう。『獣人』と本作を観て、もし本作のヒロインがシモーヌ・シモンで飛行士アンドレ役がギャバンだったらと思うとゾッとするので、『獣人』もルノワールの傑作ですが『獣人』キャストによる本作など想像もつきません。ノラ・グレゴールたまたまこの年亡命してフランスにいたわけで、こんな所にも本作の成り立ちには不思議な因縁が働いていたような感じがします。