人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年1月16日~18日/サイレント短編時代のバスター・キートン(2)

イメージ 1

 家庭用映像ソフトが簡単に手に入る現在ではあ然とするほど、かつて短編時代のチャップリンやロイド、キートン作品は観られる機会が少ないものでした。'60年代にサイレント喜劇の再評価が進み、'70年代にはチャップリンの「犬の生活」以降の作品が日本でもニュープリントで連続リヴァイヴァル上映されて大ヒットし、ロイドとキートンのサイレント期の代表的長編もチャップリンには及ばぬながら好評のうちにリヴァイヴァル上映され、この時すでにロイド作品よりキートン作品の方が好評という評価の逆転がありました。この三大サイレント喜劇王の短編がテレビ放映されたのもリヴァイヴァル公開された長編が好評だったからですが、短編は一部の作品が併映作品としてリヴァイヴァル公開はされなかったので、'80年代になって商業映画館では版権切れから再上映がされなくなるとサイレント喜劇はまた細々と都市部の自主上映会などで非商業上映されるのを当たるしかなくなります。ホームヴィデオの普及も「犬の生活」以降のチャップリン作品こそ定番のロングセラーになりますが、ロイド作品とキートン作品のホームヴィデオ化は長編の代表作すらなかなか進まず、また'80年代には家庭用映像ソフトは高額商品だったので'95年に「バスター・キートン生誕100周年記念」として発売されたLD(レーザーディスク)5枚組ボックスでサイレント短編時代の19編を集めた『バスター・キートン全集』(発売=アイ・ヴィー・シー、限定3,000セット)は定価3万円でした。同じメーカーがLD・ホームヴィデオと同じ'90年代の原盤を使って2010年に発売した、ロスコー・アーバックル作品の助演作品2作を足した短編21編と長編12作を収録した14枚組DVDボックス『バスター・キートン The Great Stone Face DVD-BOX』は19,600円で発売されましたし、短編についてはそれより21世紀になってからの最新レストアと欠落場面修復で最良のプリントになった、アーバックル作品の助演時代の14編中散佚作品1編以外の13編・キートン自身のサイレント短編全19編を収めた4枚組DVDボックス『バスター・キートン短篇全集1917-1923』(発売=パイオニアLDC)が2003年に発売されています。こちらは正式ライセンスのレストア版であるためアイ・ヴィー・シーの14枚組に較べると4枚組で11,800円と割高ですが、国際的な標準ではこのレストア版がキートン短編の決定版と認められています。
 惜しむらくはパイオニアLDC盤は限定生産・廃盤のため中古市場では倍額以上のプレミアがついていることで、入手しやすく長編も揃えられる『The Great Stone Face DVD-BOX』も手を伸ばさざるを得ません。しかしパブリック・ドメインの上映用プリントに日本語字幕こそあれ何のレストア作業もしていない劣化画質の『The Great Stone Box』は単に既発LD・ホームヴィデオを起こしただけで、サイレント時代の全集のはずなのにトーキー第1作『キートンのエキストラ』'30が入っている、なのに傑作2作『キートンの西部成金』'25と『キートンの大列車追跡(キートン将軍)』'27が抜けている、という具合で、アイ・ヴィー・シーはMGMでのトーキー時代の長編全集の8枚組DVDボックス『バスター・キートン Talking KEATON DVD-BOX』を2012年に続編で発売しましたが(14,000円)、MGMでの全トーキー長編7作(『キートンのエキストラ』が前ボックスと重複)にボーナス収録で『キートンの大列車追跡』を加えたはいいものの、書店売りメーカーのコスミック出版の10枚組1,880円ボックス『爆笑コメディ傑作集』収録の105分の全長版にマスターの質量ともに劣る80分版です。これは同作公開当時の不評から平行して出回っていた短縮版という由緒はありますが、'50年代の再評価以降はキートン長編の最高傑作と定評ある作品を今さら短縮版を採用する見識には疑問が持たれ、さらに傑作『キートンの西部成金』は台湾のメーカーによる日本輸入用台湾盤のリリースはありますが、いまだに日本盤未DVD化のままです。サイレント時代のキートン短編は、今日では輸入盤DVDと日本盤DVDを集めれば(また、観るだけならサイト上でも)容易に触れられるとはいえ、自作の保存・管理をしっかりしていたチャップリンやロイドとは違い玉石混淆のプリントをマスターにしていてマスターごとの当たり外れが大きい難があり、魅力を感じられた方はぜひ米KINO盤や日パイオニアLDC盤などの良いマスターでご覧いただきたいものです。

イメージ 2

●1月16日(水)
キートンの隣同士」Neighbors (監督・脚本=キートン&エディ・クライン、Metro'20.Dec.22)*18min, B/W, Silent : https://youtu.be/aeWQzIWMxQA

イメージ 3

 キートンの短編は「文化生活一週間」や「キートンの警官騒動」'22のように際立ったものもありますが、際立っていない作品の場合どうかというとキートンの個性はいつも燦然と輝いているのに内容はとりとめがないのでチャップリンやロイドのように出来の良し悪しとはちょっと違う、もちろんチャップリンやロイドもチャップリンの魅力、ロイドの魅力で惹きつける映画なのですが、その魅力は芸と知恵の努力によってキャラクターを演じきったところにあるのが確かな手ごたえとして伝わってきます。キートンはというと、キートンのキャラクターももちろん芸と知恵の結晶なのですが、映画自体のつかみどころのなさがキートンの天然性と見え、それに較べればチャップリンやロイドは自分自身を作り上げた人というか、どこか創作の痕跡が見えてしまう。本作からの16編中11編にヒロインとして起用されたヴァージニア・フォックス(1902-1982)はマック・セネットのキーストン映画社の撮影所を訪ねてキートンの目にとまり、キートン作品のあとはルイス・マイルストンのコメディ長編『The Caveman』'26年のヒロインくらいしか代表作はなく、'24年にはハリウッド黄金時代の大プロデューサーになるダリル・F・ザナック(1902-1979)と結婚し生涯をともにしているので、女優としてよりもザナック夫人となったことで名を残した人です。本作はヴァージニア・フォックスとキートンが板塀の小窓越しにラヴレターを交わしている場面から始まります。キートンの父(ジョー・キートン)とフォックスの父(ジョー・ロバーツ)はいがみあっており、両家は真ん中に板塀で区切られた庭を面したキートン家が画面下手(左)、フォックス家が画面上手(右)の隣同士なのですが、キートンとフォックスはそれぞれの父に引き離されて小言を食ってしまいます。当然交際には猛反対されており、キートンがあの手この手でフォックスと会おうとしては上手くいったりしくじったりというのが前半です。なぜか両家は洗濯物の干し紐については協定を結んでおり、どちらも同じ3階建ての窓から中庭の板塀を越えてキートン家とフォックス家の3階同士に洗濯物の干し紐がループ状に結んであって、3階の窓から洗濯物を吊して紐を引くと次々と洗濯物が干せる・取りこめるようにしています。妙なところで協力的だったり、中庭も板塀で区切ってあるだけで、家の作りもまったく左右対象なことから、観客は漠然と両家は仲の悪い親族なのかなと推測もできますが、途中で遂に両家が民事訴訟を起こしキートン家がフォックス家を娘のヴァージニアを虐待している、と難癖をつけてキートン家が判決までヴァージニアを預かることになっても両家の姻戚関係ははっきり描かれませんが、成り行きからしても垢の他人の隣家ではないのでしょう。キートンは洗濯物の干し紐を伝ってフォックス家に忍びこんだり、板塀の戸口に開閉すると跳ね板が回転して通ろうとする者を背中から突き飛ばす回転板を仕掛けて両家の両親を巻いたり、友だち2人の協力(キートンの舞台仲間のアクロバット師たち「フライング・エスカレンツ」が客演)で一人目の肩に二人目が立ち、二人目の肩にキートンが立つのをキートン家の壁で組み立ててそのまま中庭をよぎり板塀はまたぎ越し、フォックス家3階のヴァージニアの部屋に忍ぼうとするが見つかりまたキートン家まで三人肩立ちですたすた戻る、というのをカットを割らずに撮影しており、チャップリンやロイドも作品によってはすごい体技を見せましたし、キートンの曲芸部分を芸風にいただいたサイレント喜劇人もレッド・スケルトンほか数人思い浮かびますが、スラップスティック版『ロミオとジュリエット』の本作で唐突に出てくる三人男の肩立ち曲芸ギャグは、普通考えられるプロットを構成するためのギャグとかギャグによってストーリーが推進する域を超えていて、実は今回ご紹介するキートン短編第4作~第6作の3編はどれもそんな調子なのです。
 判決はキートンがヴァージニアと結婚する要求が可決されることで決まり、フォックス家の父はもちろん判決に不服でカンカン、キートンの父も結婚は不承不承ですがフォックス家の鼻をあかしてやったのでご機嫌です。結婚式、花嫁花婿姿で挙式に望んだキートンはベルトをし忘れたのに気づき、落ちそうになるズボンをごまかしながら牧師のベルトをすり取って装着し、牧師のズボンはずり落ちてしまいます。その隙にキートンの父が用意していた結婚指輪がスーパーの特売品だと発見して騒ぎ出したフォックス家の父が乱闘を始め、逃げ出したキートンとヴァージニアは通りかかった小路裏に隠れようとして、そこの家の地下の石炭室に落ちてしまい、どうもそこは鍛冶屋だったようで鍛冶師のおじいちゃんが落ちてきたカップルにびっくりして、ぽかんとしたキートンとヴァージニアの姿で、エンドマーク。実は今回の3編に限らず、「文化生活一週間」や「キートンの警官騒動」のように高い完成度のものは例外的で、第2作「キートンの囚人13号」は傑作でしたがあれも夢オチでギャグのためにプロットもストーリーがあるのかギャグがプロットとストーリーを形成しているのかギリギリだったように、「キートンの囚人13号」や本作のような解説やあらすじで語っても仕方ないようなとりとめのない短編がほとんどです。古臭い呼び方をすればナンセンス作品と呼ぶのが適当で、それを言えば傑作「文化生活一週間」や「キートンの警官騒動」も同じなのですがその2編には奇跡的な集中力と首尾一貫性があってたまたま抜きん出て完成度を達成したもので、キートンの曲芸部分を借りたようなフォロワーとも、ましてやチャップリンやロイドのようにまず映画にキャラクターとプロット、ストーリーを設定する正統的な喜劇映画でもない。しかし正統的というのはそれが劇映画の主流というだけで、キートンの映画は同時代の異端的なマイナー作家、フランツ・カフカ(1883-1924)やアントナン・アルトー(1896-1948)が描いていた、歪んでとりとめのない悪夢のような世界と同質の感覚があり、そうして描かれた映画もまたまぎれもないリアリティを備えている点でチャップリンやロイドに拮抗し得るものです。しかもこれが実験的なインディー映画ではなく、大手メトロ配給の大衆娯楽喜劇として作られていたというのはこの時期のキートンの幸運を感じます。

●1月17日(木)
キートンの化物屋敷 (監・脚=キートン&エディ・クライン、The Haunted House (Metro'21.Feb.10)*21min, B/W, Silent : https://youtu.be/NLh6nwgP1Qs

イメージ 4

 20分ほどのキートンのサイレント短編を観続けているといったいこんな映画があっていいのだろうか(現にほぼ100年前にあったのですが)と人類史4,000年あまりの文化が目の前で崩れていくような、プラトンモンテーニュハイデガーらが延々と築いてきた知性の歴史が霧散していくような光景に、音楽ならばまるでアルバート・アイラーのデビュー作『Something Different !』'62のような眩暈を感じますが、本作も細かいギャグは後回しにしてまず筋だけ追ってみますと、贋札偽造団のボスが内通者の銀行員(ジョー・ロバーツ)とアジトで悪だくみをしていて、贋札団ボスはアジトには化物屋敷の仕掛けがしてあるから誰も近寄るまい、と哄笑します。一方キートンはロバーツと同僚で、贋札団の企みなどつゆ知らず繁盛する銀行で出納係をしています。キートンは贋札を両替にきた贋札団の一味に札束を出そうとして慌ててデスクの接着剤の缶に手を突っこんでしまい、紙幣も強力接着剤まみれになれば床に散った紙幣を集めようとして贋札団たちも床に足や手、尻を接着されてしまう、という大混乱に陥ります。開き直って強盗に転じた贋札団からキートンは拳銃を奪い贋札団をホールド・アップさせたキートンは、娘(ヴァージニア・フォックス)を連れた頭取が現れて叱責を受けたので頭取にピストルを渡し、銀行から一目散に逃げ出します。場面変わって劇場で『ファウスト』のクライマックス、大道具をひっくり返して舞台を滅茶苦茶にしたファウスト俳優たちは舞台監督に追いかけられて舞台衣装のまま劇場から逃げ出します。キートンが逃げこんだのが贋札団のアジトの化物屋敷なのは言うまでもなく、しかも逃げてきた劇場俳優たちもこの家に逃げてきて隠れていて、俳優たちは贋札団の仕組んだお化けに、贋札団のお化けは俳優たちに、キートンはその両方におびやかされてすったもんだになります。キートンはようやくメフィスト役の俳優をただの俳優と知り、お化けに化けた贋札団の一味の背後に隠れたロバーツに狙われます。ロバーツはキートンをぶちのめして逃走します。キートンは大きな階段のふもとにいる二人の天使に起こされ、天国へと続く階段を上がります。キートンは聖ペテロに天国入りを願いますが、否決されて階段は滑り台になり螺旋の筒を落ちて受付の悪魔が窯焚きをしている地獄に堕ちます。地獄の業火に焼かれそうになったキートンは、気絶して倒れたストーヴに尻を焼かれてズボンを焦がし、化物屋敷の床でフォックスに介抱されて目を覚まします。
 本作も夢オチですが、キートンが贋札団転じて強盗団を制圧するも銀行内を滅茶苦茶にしたので頭取に後始末を押しつけて偶然贋札団のアジトに逃げてきたまでは現実なのか、一応頭取の娘フォックスの介抱でアジトの床で目覚めるのですからキートンが銀行員でフォックスが頭取の娘という設定が結末に続いている以上銀行での騒動は起こったことなのでしょうが、贋札団のアジトが化物屋敷に偽造されていたかどうかや『ファウスト』の上演失敗した一座の俳優たちが紛れこんでの化物屋敷シークエンスは全部キートンの夢だったのか、設定上は途中までが化物屋敷のどたばたがあって途中でキートンが転倒してストーヴを倒して気絶し、化物屋敷騒動の収拾がついた頃やってきたフォックスがキートンを見つけ介抱して起こしたのか、夢の境目が明確ではないのです。キートンがフォックスに起こされたあとの様子を観ると屋敷ではキートンの転倒・気絶以外何も起こらなかった、つまり化物屋敷騒動はまるごとキートンの夢だったような印象を受けます。すると映画文法の常識上、客観描写で描かれた冒頭の贋札団のボスの「アジトに化物屋敷騒動の細工がしてある」というのや、『ファウスト』上演の失敗と俳優たちが屋敷に隠れようと逃げこんでくるのは客観描写ではなくキートン気絶以前から夢の描写が始まっていたことになり、映画文法の常識を逆手にとった映画の話法のトリックは'40年代の『市民ケーン』'41始めフィルム・ノワールの『深夜の告白』'44や『ローラ殺人事件』'43、『深夜の銃声~偽りの結婚(ミルドレッド・ピアース)』'45や戦後監督たちの『三人の妻への手紙』'49や『サンセット大通り』'50、『イヴの総て』'50(そして大御所フリッツ・ラングヒッチコック作品)で現代映画の技法になりますが、キートンの本作は偶然の産物と見なしてよく、たぶんキートンに訊いても「どっちでもいい」という回答しか返ってこなかったでしょう。本作は金庫をめぐるギャグが効いており、営業時間9時~午後3時のこの銀行の金庫は始業時間前にどうしても早くと美人客(ドロシー・キャッシル)にせがまれたキートンが椅子を足台にして金庫上の時計の針を8時半から9時に進めるとすーっと開きますし、女性客の対応にてんてこまいの女性窓口係(ナタリー・タルマッジ、のちキートンの第2長編『荒武者キートン』'21のヒロインをへてキートンと結婚)に代わってちょうど3時に金庫に出納し出ようとしたキートン上着とズボンを挟んで金庫の扉はぴったり閉まってしまいます。また化物屋敷のシークエンスでは一階広間から二階への広い中央階段が上ろうとすると閉まって滑り台になり、下りようとしても閉まって滑り台になり、逃げ回る最中これは好都合と二階から下りようとすると今度は滑り台にならない、と気まぐれに滑り台に変形する階段で、結末部で天国への階段が滑り台になって地下の地獄の螺旋滑り台まで真っ逆さまというのは化物屋敷の階段の反復ギャグで、反復ギャグを好むチャップリンやロイドに較べてキートン映画、ことに短編には反復ギャグは少なく、ギャグは豊富で多彩ながら一つ一つのギャグはあっさり流すのがキートンの流儀なので、接着剤ギャグが紙幣と贋札団だけでなくキートンがべたべたの手で触れてしまった頭取のズボンが後ろの客(エディ・クライン)と尻をぶつけた拍子にズボンとズボンがくっつき離れず、キートンがハサミでばっさりズボンを切るのはキートンらしいギャグですが、接着剤だけでギャグのヴァリエーションを連続させるのはやはりキートンには珍しいくどさがあります。そのあたり、夢オチのキートンらしさはともかく(また本作の反復ギャグや接着剤ギャグも面白いのですが)、本作のくどさから一変してあれよあれよと設定らしい設定もなくとりとめもなく1編が出来あがっている次作「キートンのハード・ラック」の方がよりキートンらしい、とも言えるような悪夢感があります。化物屋敷ものはロイドも「ロイドの化物屋敷」'20で出来はいまいちでしたが、お化けを怖がる南部人のムードはよく出ていました。キートンの本作は銀行騒動の前半、化物屋敷の後半でまったく別の映画になっていて、キートンの場合それでもいいような、しかしやっぱり破綻が過ぎるような印象も残ります。

●1月18日(金)
キートンのハード・ラック(悪運)」Hard Luck (監・脚=キートン&エディ・クライン、Metro'21.Mar.16)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/IgNUHvoRbJ0 : https://en.wikipedia.org/wiki/File%3AHard_Luck_%281921%29.webm

イメージ 5

 本作は1987年に旧チェコスロバキアで発見されるまで幻の作品となっていて、キートンが長編時代に入った'23年にはすでに廃棄処分されていたらしく戦前の日本公開もなかった不遇の短編で、'89年に修復されましたが結末5分が欠落しており、字幕とスチール写真で結末が補われていました。リンク一つ目がそれで、'90年代になってロシアで欠落混じりながら結末5分のうち2分を補う映像が修復されて、3分ほどの欠落はありますが字幕とスチール写真の補填ではないほぼ完全版が復原されています。リンクの二つ目がそれで、この結末は本来あと3分長くて何らかのギャグがあったらしく、キートン自身が生前に幻の作品になっていた本作に触れて結末のギャグは最高だったのに、と語っているそうですからストーリーの完結だけでオチになっている復原までにとどまったのが惜しまれますが、70年近く行方不明だった幻の短編が過去20~30年で発見され、ほぼ完全版にまで復原されたのですから今後の完全版発見・復原だって可能性はかなり低い(旧チェコやロシアまで精査されたあとですから)とはいえ皆無とは言えないでしょう。またほぼ完全版の復原版でも本作は全体像は十分堪能できるので、これも細かいギャグは後回しにして筋を追うと、キートンが失恋した上に、街頭で上司から告げられ職を失った絶望で自殺を決めた場面から始まります。キートンは自殺しようとしてあの手この手がことごとくしくじり、通りに窓が面した酒場のバーテンが自分の隠し飲み用に「毒(POISON)」とラベルを貼ったストレート・ウイスキーを見つけて覚悟して飲みますが、ボトルを飲み干すと上機嫌で歩き出します。この動物園にはアルマジロがおらん、と園長命令で結成されたアルマジロ捕獲探検隊の集合地でアルマジロ捕獲隊員に勧誘されたキートンは上機嫌で参加し、「災い(バッド・ラック)転じて福(グッド・ラック)と化す」ことになったキートンアルマジロ捕獲探検隊員として釣りやキツネ狩り、乗馬などさまざまな冒険を体験しすっかり自信をつけます。しかしキートンは地元のボスのリザード・リップ・リューク(ジョー・で)に誘拐される危機から救った女性(ヴァージニア・フォックス)に求婚するも、フォックスに夫(ブル・モンタナ)がいるのを知り再び絶望、花を一輪摘んでフォックスに餞別に渡すと無謀なプールの高飛びこみに挑戦し、プールサイドの女性たちが駆け寄るとキートンはプールから逸れてプールサイドに大穴が空いています。「数年後」、中国服を着たキートンは、乾いて荒れ果てたプールサイドの穴から出てきて、中国人の妻と2人の幼い子どもたちを穴から抱き上げて並んで、エンドマーク。
 たぶんこの中国人の妻子を連れて帰還、という場面で帰還しただけのショットで終わらず大爆笑のギャグがあったのでしょうが、それは現在スチール写真1枚だけで推定3分分のフィルムと資料が失われているので想像するしかありません。しかしこの筋書きだけであらすじというのもおこがましい、どこへ転がっていくのかわからないようなとりとめのない構成と内容は察していただけるのではないでしょうか。まずキートンが自殺を志願するまでがまったく描かれていない「失恋して職も失い自殺しようとする男」と字幕一枚で済まされているのも大胆ですが、突進してくる市街電車の線路に寝ればキートンの手前の分岐点で逸れて行ってしまう、大木で首吊りをしようとすると大木がしなって足がついてしまう、ロープを外すと反動で警官を巻きこみ警官に追われると逃げまわる(自殺志願者が警官に捕まるのは逃げる、というギャグ)ととりとめもなく、それから「毒」のラベルつきの瓶を見つけてウイスキーと気づかず飲んで上機嫌はいいとして、アルマジロ捕獲探検隊員に入隊とはどこからそんな発想が出てきたものやら途方に暮れます。ちなみに続く魚釣り、キツネ狩り、乗馬はアルマジロ捕獲探検隊員としての個人トレーニングということなのでしょうがアルマジロアルマジロ探しどころか話にも出てきません。釣りをすると最初フナ程度の小魚が釣れ、それを餌にすると鮎ほどの魚が釣れ、さらに鯉ほどの大魚が釣れ、とのちの長編『キートンのセブン・チャンス(キートンの栃麺棒)』'25冒頭の、ガールフレンドに告白できずデートするたびにガールフレンドの愛犬が仔犬から成犬に育っている、というギャグの先駆も出てきます。キツネ狩り、乗馬はカントリー・クラブに入会してからですがこのあたりですでにアルマジロ捕獲探検隊員という設定はどこかへ行ってしまっていて、そこで同じクラブの会員(ヴァージニア・フォックス)に一目惚れして彼女の危機を救う、という方に話は行ってしまい、失恋からまたプールへの飛びこみ自殺決行、と一見辻褄があっているだけにアルマジロ捕獲という話は何だったんだ、とますます煙に巻かれます。また筋書きではプールサイドと書きましたが、穴の空いたのは水のないプールとも見え、飛びこみ前には水のあるプールが映りますから、気づかずに水を張っていない隣のプールの飛びこみ台に登って飛びこんだ、とも取れます。キートンの映画には釣りや狩り、乗馬、ボートを始めスポーツを生かしたギャグがのちに増え、その集大成が長編『キートンの大学生』'27の運動オンチの優等生キートンが恋人の危機一髪を万能のスポーツ能力で救出する趣向にあり、短編では本作が小ぶりながらその嚆矢となったもの、とも言えます。本作はタイトル通り作品自体がハード・ラック(不運)な目にあってしまった短編ですが、人を食った発想、展開、結末までチャップリンやロイドでは考えられないような珍品で、珍品ながらキートンの作風では珍しくないという、それならキートンの映画とはいったいどういう性格のものか深く考えさせられる小品です。その場ででっち上げたには入念すぎ、入念ならばこんなとりとめのないものにはならないはすが、キートン映画ではその矛盾が両立しています。そうした面をよく表した作品です。