キートンの主演長編映画は'20年9月公開の主演・監督・脚本デビュー作の短編「文化生活一週間」の翌月10月に『馬鹿息子』がありましたが、同作はブロードウェイのヒット舞台劇の映画化で監督も製作のメトロ映画社側のハーバート・ブラシェであり撮影・完成も「文化生活一週間」より先に済んでおり、舞台劇版に主演したダグラス・フェアバンクスがスケジュール上映画版には主演できなかったためフェアバンクスの指名でキートンが抜擢された、キートンは主演俳優を勤めただけで一般的な舞台喜劇の映画化作品と変わらないものでした。それでも'20年にはアメリカ映画は十分水準の高いものになっていたので、一般映画としては『馬鹿息子』もそつのない楽しめる仕上がりになっており、同作の世間知らずの金持ちのお坊ちゃんのキャラクターはキートンも自分が監督するようになってからの長編『海底王キートン』'24、『拳闘屋キートン』'26などで使っており、この2作はサイレント時代のキートン監督・主演作でも1位と2位になるヒット作になっています。今回ご紹介する2編はキートンがいよいよ監督・脚本作でも長編に乗り出すキートン映画としては最初の長編作品になった『滑稽恋愛三代記(キートンの恋愛三代記)』 The Three Ages (Metro'23.Sep.24)に先立つ、サイレント時代最後の'23年度の短編で、キートン自身の主演・監督・脚本を兼ねたサイレント時代の短編全19編の中では水準作といったところです。チャップリンのように短編の完成度を磨き上げたあと中編で長編に移る内容を試し、その成功のあと慎重に長編に転じたのとも、2巻の短編を作るつもりが現場で乗りに乗って2巻の予算で初の4巻の長編を作ったところ大ヒットしたので長編に転じたロイドとも違い、キートンの場合はマネジメントでプロデューサーのジョセフ・スケンクがそれそろ長編を作るべきだろう、とロイドの長編『ロイドの要心無用』'23やチャップリンの長編『偽牧師』'23の大成功にキートンも短編を切り上げて長編製作に向かわせた観があり、『滑稽恋愛三代記(キートンの恋愛三代記)』はまだ短編3編をパラレル・プロットで長編に仕上げたような内容になりました。それでもキートンはこれまでの短編で短編喜劇でできることはほぼやり尽くしていたとも言え、'23年度のサイレント短編最後の2編はこれまでのキートン作品を見てきた観客・視聴者にはやや既視感を感じさせるようなものになっているのは事実です。またサイレント時代いっぱいキートンは長編もすべて名作・傑作・秀作・佳作を送り出したと言えるので、年齢もチャップリンより4歳、ロイドより2歳年少だったキートンもちょうど長編に乗り出すタイミングだったと言えそうです。また'22年度の最終作「成功成功」がキートン短編でも最上級の傑作だったのを思えば、今回の2作はアンコール的にキートンらしいキートン短編を送り出して幕を引いたとも言え、年代順にこだわらずこの2編からキートン映画に入ったとしても満足のいく内容にはなっています。19編を通じて高い水準を保ってきただけのことはあると認められるだけの出来にはなっており、これらもまた一見の価値はある内容です。
●1月30日(水)
「キートンの空中結婚(キートンの昇天)」The Balloonatic (監督・脚本=キートン&エディ・クライン、First National'23.Jan.22)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/MphESLQ4sTc
映画は遊園地が舞台で、お化け屋敷の中で骸骨や幽霊の仕掛けにびっくりし、魔神像に押されて入口頭上のすべり台から落下して出てくるキートンから始まります。キートンは腰を抜かして座りこみ、次に入った太った若い女性客(ベイブ・ロンドン)がすべり台から落ちてくる下敷きになります。遊園地内を歩くキートンは美女(フィリス・ハイヴァー)に惹かれて美女が立ち往生している水たまりに上着を敷きますが、水たまりの上に車が乗りつけて美女は去っていきます。再びハイヴァーを見つけたキートンは、彼女がちょうど乗りこんだ洞窟探検列車の「愛のトンネル」の隣に座りますが、トンネルから出てきた列車のハイヴァーはムスッとして立ち去り、キートンの右目には黒い痣ができています。キートンは気球を揚げようと準備中の係員たちに通りかかり、気球の上に上がってペナント貼りを勝手に手伝い始めますが、気球は突然完成して浮かんで艫綱を解いて飛んで行ってしまい、キートンは気球の天辺からどうにか吊されたワゴンに移ります。キートンはアヒルの模型を吊してカモ猟をしようとしますが、気球に留まったカモを撃って気球に穴を空け気球ごと墜落してしまいます。キートンの落ちた先は川辺で川を気球のワゴンを改造したカヌー出で下るとハイヴァーがキャンプを張って釣りをしており、キートンも負けじと釣りを始めますが釣り棹を流され、手から釣り糸を垂らすも上手くいかず、失敗を重ねて堰を築き堰ごと崩れながらも手づかみで魚を採り、たきぎで魚を焼いているハイヴァーに倣ってカヌーの中で魚を焼こうとしますがテニスラケットを網代わりにしてラケットごと焼いてしまい、その上カヌーの船底に穴が空きキートンは穴に腰から下を突っこんで穴をふさいで川を下ります。ウサギを見つけたキートンはカヌーを履いたまま立ち上がり、まず岸に上がってカヌーを治して今度は狩りをしようとライフルで岩場のウサギに匍匐前進しますが、後ろからついてくる熊には気づきません。接近したキートンはウサギがたくさんの子連れなのを見てウサギ狩りを止めますが、ウサギの後ろから別の熊が現れます。キートンは熊をライフルの台座の一撃で叩きのめし、暴発したライフルで偶然キートンの後ろに立ち上がっていた熊も倒れます。熊を倒した勇姿を見ていたハイヴァーはキートンに喝采を送りますが、キートンはほっとして腰を下ろすと叩きのめした熊とは別の倒れた熊に座っているのに気づいて慌てて逃げ出します。キートンはハイヴァーの手を取りカヌーに一緒に乗りこみ、キートンはハイヴァーにもたれかかられながらウクレレを弾きすっかり親しくなりますが、川の行く手には大きな滝があるのに気づきません。徐々に滝に迫っていくのがカットが切り替わるたびにアップになる滝で示され、ついに滝にカヌーが乗り出した時、カヌーの上にパラシュートが開きカヌーは二人を乗せて優雅にふわりと宙を舞い、エンドマーク。
これも気球、カヌーと道具立てを揃えてキートンらしい短編であり、カットの中抜きが目立つのはいくらキートンでも気球の周りを伝ってワゴンにまで下りてくるのを撮るのは無理だった、ということでしょう。滝からカヌーが落ちかかる場面もミニチュアを使った撮影に実物大セットを編集して繋げてあり、キートンらしさは充満していますが公開順に観てくると川流れのキートン、宙吊りになるキートンと既視感が多少感興を下げます。転ぶと両足を大きく広げ、また川からずぶ濡れになって出てくると逆立ちして全身の衣類に溜まった水が真下にざーっと流れる、とキートンならではのマイム芸もチャップリンのなめらかなマイム、ロイドの素早いマイムと違ったキートンらしい荒っぽさがあり、そうしたキートンを楽しむには満足のいく短編ですし、「キートンの船出」や「キートンの白人酋長」を思い出させる漂流ギャグ、転落ギャグも完備している。筆者が記憶している限り最初に観たキートンの短編は「文化生活一週間」と本作「キートンの空中結婚」で、それぞれ長編『キートンのセブン・チャンス』と『キートンの大学生』と組み合わせた入れ替え制の上映会で立て続けに観ましたが、「キートンの空中結婚」というタイトルからどんな内容かと思いきやこの結末だったので度肝を抜かれて関心した記憶があります。しかし同じようなカップル喜劇でも観直す回数を重ねるごとにさらに凄みが伝わる「文化生活一週間」ほど本作が密度が高くないのは短編中で「愛のトンネル」編前後、気球編、釣り・狩り~カヌー編とオムニバス的にエピソードが分離しているからで、美女ハイヴァーとの出会い、漂着、意気投合と起承転結をなしてはいますがエピソード単位では異なるシチュエーションでも入れ替え可能なので、新婚夫婦が間違って建ててしまった組み立て式新居にてんてこ舞いする「文化生活一週間」のように一軒の不具合な家に焦点を当ててしかも本人たちにとってこんな切実なことはない事柄がギャグになっている同作の重みにはかないません。また滝を落ちるスリルをクライマックスに持ってくるのは長編『荒武者キートン』'23で(D・W・グリフィスの『東への道』'21の本歌取りではありますが)本作のようなファンタジー風ではなく強烈な体技によるアクションを奇跡的に見せる、とより充実した発展を見せており、本作の場合はこのファンタジー風の趣向が本作ならではの味なのですが、気づくと気球の天辺という中盤の強いイメージと相殺しあっている観がある。キートンの短編として当然高い水準をクリアしていながらもキートン短編にあっては標準的な出来、と見なす理由はそこにあり、本作と次作のサイレント短編最終作「捨小舟」にはトリック撮影やミニチュア・セットとのモンタージュが目立つのもそうした小手先にあまり頼らないキートンらしからぬ点になっています。キートン作品には熱烈なファン層がありますし、筆者も可能な限りキートン作品を観てきてサイレント時代の短編・長編はくり返し観てきましたが、どうも本作と次作は積極的に支持する気持にはなれないのです。
●1月31日(木)
「捨小舟」The Love Nest (監督・脚本=バスター・キートン、First National'23.Mar.)*20min, B/W, Silent : https://youtu.be/Iy8rs9qSYO0
字幕タイトル「恋人からの別れの言葉はどんな美しい夕焼けさえも色あせるほど悲しい」。逆光気味にキートンがヴァージニア・フォックスに別れを告げられる港のショットで、ヒロイン役としてのフォックスはこのあとの本編ではまったく出番がありません。キートンは絶望して小舟の「キューピッド」号で船出することにし、手紙のアップ「君からの婚約破棄で君との結婚は諦め、旅に出ます」と書いた手紙を封筒に入れて涙で封筒を糊づけし、艀の梯子の男に恋人に届けてくれ、と渡して小舟に座ります。字幕タイトル「Later--(それから……)」髭で顔の下半分が真っ黒のキートン。字幕タイトル「捕鯨船"ラヴ・ネスト"(愛の巣)号の船長は癇癪持ちだった」船長(ジョー・ロバーツ)は甲板からヘマをしたらしい船員を海に投げ捨て、キートンの小舟はちょうどそこに通りかかります。縄梯子で小舟ごと引き揚げられたキートンは船長にキャビンの船員に欠員が出たから乗組員にならないか、とキートンを雇い、船長室の壁の船員リストの一人に横棒を引くとリストの一番下に「Buster」と書きこみます。事あるごとに船員を海に投げ捨てる恐怖支配で船を陣取る船長のもと、捕鯨船は航海を進め、ついに発見した鯨に打った銛のロープに引っ張られて海の藻屑と消えたかと思われたキートンは平然と船の側面階段から上がってきて船長にロープの端を渡すと、船長は鯨に曳かれて海へ飛び出して行きます。船員たちは大喜びし、今日から僕が船長だ、と宣言するキートンの背後から船の側面階段を上がって船長が戻ってきます。キートン始め船員たちは散りぢりに逃げ出し、船長室に追い詰められたキートンは壁の船員リストの自分の名に横棒をサッと引き、船底まで逃げこむと船底の壁を斧でぶち破って船を沈めにかかり、船員たちは救命ボートにへしあい、キートンは捕鯨船が沈むのと一緒に自分の乗ってきた小舟ごと浮かび上がります。ボートを漕ぎ出したキートンは巨大看板に小舟を繋いで釣りを始めますが、キートンが小舟を繋いだ側とは逆の看板の正面には大きく「3」と書かれ、海軍が同じような巨大看板の「1」「2」を順に砲撃演習しているのに気づかず、砲撃された巨大看板は粉々に爆破されます。キートンが再び裏側にまわったために気づかず「次、3!」と海軍士官は指示し、キートンは看板が砲撃された爆発で茫然として宙に浮きます。字幕タイトル「Later--(それから……)」ハッと目覚めたキートンは顔の下半分が真っ黒の髭面で小舟の中で目覚め、食糧がない、もう水もないと絶望しますが、 キートンが身を起こして ふと見るとすぐ近くで別れた恋人のフォックスが遊泳しており、引いたショットで小舟は実は艀に繋がれたままだったのが映り、エンドマーク。
本作はキートンのサイレント時代の短編19編のうち当初からキートン単独監督・脚本クレジットの唯一の作品ですが(プリントの重版以降単独監督・脚本クレジットに差し替えられた作品は多数)、作風・演出ともエディ・クラインとの共同監督・脚本名義の16編、マル・セント・クレアとの共同監督・脚本名義の2編とも違いはありません。実質的なキートン主導(単独)監督・脚本説が有力ななのはMGMでトーキー作品以降完全に演出権を奪われてからの急激な内容的凋落ゆえですが、本作ならではのカラーはあり、とぼけた字幕にしろ小舟や捕鯨船のネーミングにしろキートンらしい皮肉はたっぷり効いており、またキートン短編の夢オチは「キートンの囚人13号」「キートンの化物屋敷」「キートンの即席百人芸(の前半)」「キートンの北極無宿」と本作で5編ありますが、他の短編もあいまいだったり唐突だったりする急転直下の結末から記憶の中で夢オチと混同してしまうような短編もかなりの比率を占めていて、前作「キートンの空中結婚」なども全編がキートンの夢であるかのような印象があります。エディ・クラインやマル・セント・クレアが貢献したとすればクレジット上共同監督・脚本の相手がいるだけキートンも張り切ったという効果があったのではないか、というのがどこかスケールやギャグの密度に物足りなさが残る本作の出来で、海洋コメディならば「キートンの船出」という傑作がありましたが「キートンの船出」は「文化生活一週間」の夫婦が二児をもうけて自家用小型船の船旅に出た悪夢の物語になっていて、「文化生活一週間」の組み立て式新居が自家用小型船に替わったホームドラマとして切実な悲劇がそのまま喜劇になる仕組みがキートン短編の頂点と呼べる出来を示していました。実際の製作順は公開順とは異なる可能性もありますが、「キートンの空中結婚」よりは本作は連続性のあるプロットとも言えますし、独りきりの小舟キューピッド号での海難生活も船長が恐怖支配する捕鯨船ラヴ・ネスト号での体験も不完全燃焼に終わったまま海軍砲撃演習の的に移ってしまうのが一つひとつのシチュエーションでのエピソードを十分発展する前に次のシチュエーションに移ってしまう、という荒っぽさを感じます。キートンの映画は荒っぽさが効果的になっている成功例ともっと丁寧に見せてほしいと荒っぽさが単に荒っぽさに終わっている例がありますが、サイレント短編時代足かけ4年のうち前半でもっとも荒っぽい第6作「キートンのハード・ラック」がとりとめのなさゆえに悪夢的印象では成功していたとすれば、とりとめがないわけではなくそれなりにかっちり作られた本作は夢オチでようやくつじつまを合わせているところがあり、これまでの夢オチ4編「キートンの囚人13号」「キートンの化物屋敷」「キートンの即席百人芸(の前半)」「キートンの北極無宿」では夢オチ自体が意外な、または人を食った結末になっているのに較べて、本作では主人公を救出し物語を収拾するための機能的な夢オチになってしまっているのがどうも面白くありません。公開順と製作順が一致しているのであれば、9作目の「キートンの即席百人芸」以来ファースト・ナショナル映画社にキートン作品の配給を委託してきたジョセフ・スケンク・プロダクションは長編『滑稽恋愛三代記』以降また短編8作目までの配給会社だったメトロ映画社に配給会社を変えるので、「キートンの空中結婚」と「捨小舟」は手抜きの作品ではなく長編化前のチャップリンやロイドの短編よりも大道具・小道具や特殊撮影・特殊効果に凝っている分予算をかけて作られたのではないかと思われますが、逆にそうした仕掛けに依存して成り立っている部分が目立つ作品でもあります。短編時代の最後に短編の最高の達成を見せたチャップリン、ロイドと違いキートン短編は「成功成功(キートンの白昼夢)」が最後だったら良かったと思えますが「キートンの空中結婚」「捨小舟」も捨てがたい魅力はちゃんとあるので、これも製作順はどうあれ先に今回の2編があり、短編時代の最後を「成功成功」が締めたらもっと印象が良かったろうに、というだけのことです。