人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年1月13日~15日/サイレント短編時代のバスター・キートン(1)

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 チャーリー(チャールズ)・チャップリン(1889-1977)、ハロルド・ロイド(1893-1971)と並んでサイレント時代の三大喜劇王と名高いバスター・キートン(1895-1966)は、芸人一家出身で子役時代からの舞台歴ではチャップリン同様ですが、'14年映画デビュー、同年中に主演・監督に昇進したチャップリンよりも、学生時代の'13年に映画デビューし'15年に主演・演出を任されるようになったロイドよりもデビューは年少の分遅く、'17年にチャップリンのいたキーストン映画社でスターになっていた巨漢コメディアン&監督のロスコー・"ファッティ"アーバックル(1887-1933)がキーストン社から独立してキートンの所属していたジョセフ(ジョー)・スケンクのマネジメント事務所に移ってきたため、'17年からパラマウント映画社配給のアーバックル作品の相手役として抜擢されたのが映画デビューになりました。アーバックルの短編の助演時代は'20年初頭まで14編続き、俳優として注目され共同脚本・助監督でも貢献するようになっていたキートンは、ダグラス・フェアバンクス主演のヒット舞台劇の映画化作品『馬鹿息子』('20年10月公開)でフェアバンクス自身の推挽でフェアバンクスが演じた主役の代役主演を勤めたあと、スケンクの後押しで'20年9月公開の2巻の短編「文化生活一週間」からようやく主演・脚本・監督の座をつかみます。キートンが初の自作自演の長編『滑稽恋愛三代記(キートンの恋愛三代記)』で長編に転じるまでキートンのサイレント時代の自作自演の短編は'20年~'23年に19編で、時期的にもチャップリンやロイドが中編~長編に移っていた頃にやっと主演(・脚本・監督)デビューを果たしたことになります。また'20年代チャップリンやロイドの長編は軒並み200万ドル~300万ドルのモンスター・ヒットを記録し、対してキートンは長編の最大ヒット作でも80万ドル、平均して50万ドル前後のヒット実績で、当時はチャップリンとロイドの二大スターにはだいぶ人気・興行成績ともに差のある三番手といった位置にいました。キートンの再評価ががぜん高まったのはほとんどキートン晩年とも言える'50年代以降で、資産家になってきっぱり引退できたロイドや極端な寡作ながら一作ごとに問題作を作り続けたチャップリンと異なり、離婚やメジャー会社からの契約破棄、破産で細々と小映画社の短編映画に出演し続けていたキートンは、全盛期作品の再評価からメジャー作品のゲスト出演も頻繁になり、チャップリンと匹敵する偉大な映画作家として映画史家の熱心な研究対象になりました。サイレント喜劇全体の再評価に大きな影響力を持った映画批評家ジェイムズ・エイジーは「偉大な喜劇映画が単なる喜劇以上のものでなければならないとしたら、ロイドは偉大な喜劇俳優とは言えない」とし、'20年代と戦後ではロイドとキートンの地位の逆転があったのは確かで、エイジー以降の批評家たちはエイジーの極論には反論しつつも(また、監督・脚本権を剥奪されたトーキー以降のキートン作品には落胆を新たにしながらも)、キートンが主演・監督・脚本を兼ねたサイレント時代の短編19編・長編12作の面白さ、現代性、天才的なアイディアと超人的演技には賞賛を惜しまないので、ロイドの作風がチャップリンとかぶらないよりもさらに大きく、キートン映画はキートンの映画でなければ味わえない楽しみに満ちています。短編喜劇映画ほど感想文の書きづらい映画はありませんが、チャップリン、ロイドとやってきた以上キートン(ロスコー・アーバックルの助演時代は別の機会にしますが)のサイレント時代の短編を避けるわけにはいかないでしょう。この時期のキートンの短編映画は20分ほどに長編映画ほどのアイディアと密度、観ごたえがあり、これらを子供の頃テレビで、学生の頃改めて観た時の圧倒的な驚異と感嘆を思い出しお伝えできるか心許ありませんが、なんとか書いてみたいと思います。

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●1月13日(日)
「文化生活一週間(キートンのマイホーム)」One Week (監督・脚本=バスター・キートン&エディ・クライン、Metro'20.Sep.7)*20min, B/W, Silent : https://youtu.be/Ts6UTAF1cxc

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 本作公開に先立ってキートンはヒット舞台劇の長編映画化作品『馬鹿息子』The Saphead (監督=ハーバート・ブラシェ、Metro'20.Oct.18)に舞台劇での主演だったダグラス・フェアバンクスの推挽で主演して撮影完了しており、またキートン自身の短編も先に「キートンのハード・ラック(悪運)」が完成していましたが、キートン自身の最初の主演・監督・脚本作品としては内容が弱いと同作は'21年3月の第6作として陽の眼を見るまでお蔵入りにされます。ロスコー・アーバックルの助演時代にもキートンは共同脚本・助監督としてほとんどアーバックルと折半する貢献をするようになり、事務所社長のジョー・スケンクにアーバックルの助演から独立した主演俳優として再出発しましたが、短編時代は19編中16編がエディ・クラインとの共同監督・脚本、2編がマル・セント・クレアとの共同監督・脚本名義になっており、キートン単独名義なのは19編の最終作「捨小舟」だけです。クラインやセント・クレアの役割ははっきりせず、ロイドのようにプロデューサーのローチと盟友関係にありスタッフのチーム性を重視した場合と違い、またチャップリン映画のような独裁性を避けるために、多忙で現場に顔を出せる余裕のないスケンクに代わってクラインやセント・クレアはプロデューサー補として現場についていたと思われ、長編に移行して共同監督が毎回変わるようなことになってもキートン映画はいつもキートン映画だったので、共同監督・脚本名義者がいてもサイレント時代のキートン作品はキートンが監督・脚本を兼ねていた(サイレント時代最後のMGM移籍後の2長編はMGM側の監督・脚本家の意向が強く、またバスター・キートン・プロダクションでの長編10作もスケンク企画の舞台劇原作が含まれますが)と見ていいので、特に原作ものを含まない短編時代はチャップリンのようにキーストン社時代、ロイドのように「ロンサム・リューク」シリーズ時代や眼鏡キャラクター確立期までに膨大な作品なしにチャップリンのエッサネイ社~ミューチュアル社時代の作品、ロイドの'20年~'21年度の作品のレベルに一足飛びに追いついてスタートしたのが初主演短編「文化生活一週間」からの19編と見なせます。助演時代が足かけ4年と長かったにせよ、助演短編14編、雇われ仕事に近い主演長編1作で(最初に作った「キートンのハード・ラック」はお蔵入りにしたにせよ)本格的な主演デビュー短編第1作でこれだけ際立った個性を打ち出し、早くも最高傑作の一つと言える作品を送り出した当時弱冠25歳のキートンの天才には舌を巻きます。もっとも奇想、若さ、反射神経、運動能力といったアスリート的な特性を三大喜劇王の中でも最大に生かしていたのがキートンなのも(それゆえ青年~壮年期を過ぎたキートンの凋落ははなはだしいものでした)早くも本作では感じさせますが、それはそれでしょう。
 この「文化生活一週間」は9日・月曜日の結婚式から15日・日曜日の結末までの一週間の若夫婦の新婚生活を結婚祝いに親族から届けられた組み立て式「ポータブル・ハウス」をめぐるてんまつを中心に描いたもので、新婚夫婦は新居建築予定地の99番地に向かいますがここで花嫁(シビル・シーリー)に振られた男(ジョー・ロバーツ)から併走する車に花婿(キートン)は花嫁を横取りされそうになります。小競り合いはキートンの勝利に終わりますが、ロバーツは家の組み立て図面に見入っている夫婦の隙をついて組み立て式ハウス・キットの組み立て番号をチョークで書き変えてしまいます。翌日キートンが図面番号とおりに組み立て終えると出来上がったのは二階に玄関、一階にバルコニーがある掲載スチール写真の通りの家で、一階には出入り口がないので二階の玄関に梯子をかけて出入りする、という滑稽なことになります。そこにアップライト・ピアノを肩に担いだピアノ運送屋がピアノを運んできて、受けとろうとしたキートンはピアノの下敷きになります。ピアノを入れる入口がないのでキートンはノコギリで壁をくり抜き、花嫁がピアノに縄をかけ、キートンは天井の電灯のフックを支点に体重をかけて家に入れるためにピアノを引きますが、天井が弓なりに下がってしまい、キートンがひっくり返った拍子に二階に潜んでいたロバーツは床の反動で弾き跳ばされて屋根から頭が突き抜けます。キートンは金梃で頭を抜いてやろうとしますが金梃が曲がってしまうだけなので、こりゃ駄目だと放り投げた金梃が当たってロバーツの頭は室内に引っこみます。晩、花嫁はやれやれと入浴中にバスタブの外に石鹸を落とし、花嫁が石鹸を取ろうと身を乗り出すとカメラの前を手がふさぎ、手がどくと花嫁はバスタブに戻ったあと、というメタ映画的なギャグが入ります。家の組み立て場面には自分の座った方の梁をノコギリで切って二階の高さから真下に転落するキートン、はめ込んだ壁が倒れてきて窓の位置に立っていたのでポカンとするキートン、梯子をかけようとして梯子が直立してしまい一回転して反対側に移るキートン、と長編時代のキートン映画でも生かされるギャグ(壁が倒れるが窓の位置だったので助かるギャグはアーバックル作品「初舞台(Back Stage)」'19でキートンが提供し初披露したギャグの再利用)が次々と出てきます。
 何だかんだでどうにか内装も済ませ、新居で結婚披露パーティーを開くキートン夫妻。しかしパーティーの最中に家は竜巻に巻きこまれ、家の中央を中心点にものすごい勢いで回転し始めます。キートンは何事かと外を調べようとし、家の周りをぐるっと併走して一階のバルコニーを伝って飛び越えようやく家の中に戻ります。ようやく竜巻が通りすぎ、滅茶苦茶になった飾りつけやパーティー料理まみれになって服装もボロボロになった客たちはへたりこみ、親戚のおじさんがキートンをつかまえて「今度はメリーゴーランド式じゃないパーティーで頼むよ」と苦笑します。一晩明けてよれよれになり外から崩れかかった新居を見てがっくりしている夫婦に、訪ねてきた管理人が道路標識の「99」をひっくり返して「ここは66だよ。99番地は線路の向こうだ」。そして一週間目の15日・日曜日、夫婦はロープで家を車で引いて移動させようとしますがロープは家を引けず切れてしまい、キートンは車のバックシートから家に直接五寸釘を打ちつけて家を運び始めますが、車はまず車体だけ走り出してしまい、修理して家を移動させ始めるもほどなくエンコしてしまいます。汽笛の音にはっと家が線路の真上にあるのに気づいた夫婦はハッと車から降りて家を押し引きしますが間に合わず、汽車の通過に抱きあって背を向けた夫婦は汽車が隣の車線を通過していったのでホッとしますが、その時逆方向から来た汽車が家を粉々にして通過していきます。夫婦は手を取りあって立ち上がり、キートンはくるっと「House For Sale」と立て札を返して夫婦は歩いていき、エンドマーク。本作はニューヨーク・タイムズ紙で「トリック趣向の喜劇映画の最高峰を塗り替えた作品」と賞賛され評判を呼びました。こうしたトリック趣向の喜劇映画といえばチャップリンの「チャップリンの替玉」'16のエスカレーターとエレベーターの追っかけから本作の直前の'20年7月公開のロイドの高層ホテルの庇渡り喜劇「眼が廻る」まで数々あり、キートンよりあとのローレル&ハーディーは破壊ギャグ専門のコメディ・コンビになるのですが、大道具を突拍子もない発想で使って奇想どころか一種の不条理コメディにまでなっているのはキートンならではの持ち味で、チャップリン映画には情感の高揚ゆえに時折あり、日常的現実のギャグ化に長けたロイド映画が現実への回収への巧みさゆえに稀薄なのは、この現実が悪夢に変容していくイメージです。のち萩原朔太郎も「キートンに似ている」と呼ばれるとご機嫌になり、シュルレアリスムの詩人・作家たちから称揚されたのもキートンならではの現実離れした感覚であり、キーストン社流儀のキャラクター強化で愛嬌ある巨漢キャラクターの喜劇を作っていたアーバックル映画の助演では隠し味程度にしか生かせなかった資質でした。しかしそれは「その他」の喜劇俳優ではキートンを抜きん出たトップの存在にしても、長編時代に最高の達成を見せた時すらチャップリンとロイドの人気には膝の上程度にしか届かなかったのです。

●1月14日(月)
キートンの囚人13号(ゴルフ狂の夢)」Convict 13 (監・脚=キートン&エディ・クライン、Metro'20.Oct.27)*19min, B/W, Silent : https://youtu.be/kTv7imVb4YY

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 昨年12月に短編時代のチャップリンの作品の感想文を書いた時には毎回3編で前書き併せて7,000~8,000字でまとめていたのですが、新年になって短編時代のロイドの作品の感想文ではいきなり毎回倍近い14,000文字に迫る感想文になってしまって、今回短編時代のキートン作品はすでにここまでで6000文字近い分量になっています。それはチャップリン映画に較べるとロイド映画やキートン映画はそれほど広く親しまれていないから、と親切心で詳細解説しているからというよりも初期短編('15年~'17年)時代のチャップリン映画は時代相応にシンプルというのもありますし、続けてロイドの'19年~'21年の中短編を観て痛感しましたが、チャップリン映画は骨格が太くテーマも1編1編が明快で、ギャグは細やかで豊富ですがきちっとテーマに結びついている。逆に言えばプロットとストーリーを書けばどんなギャグが盛りこまれているか浮かんでくるような意外性の欠如はありますが、演出と絶妙な演技で流れるように将棋倒しのギャグが堪能できます。ロイドとなるとチャップリンの短編からそう大きく飛躍しているのではないのですが、プロットとストーリーがシンプルな割にギャグの過多のせいでかえって未整理で小骨が多い映画に見え、完成度は低いのに紹介の難易度はぐっと高くなり、テーマらしいテーマはギャグの中に埋没してしまっていて、長編化寸前の数作でようやくロイドは自己のテーマにたどり着いた観があります。こんな前置きを書いたのはこれがキートンとなるとプロット、ストーリー、テーマを本作「キートンの囚人13号(ゴルフ狂の夢)」のあらすじから読みとっていただきたいからで、映画はいかにも下手の横好き風にキートンがゴルフ仲間とゴルフに興じている場面から始まります。キートンは散々打ち損じて仲間の失笑を買ったあと、池の中にボールを打ってしまい池に浮かぶボールを打とうとしますが、魚がボールを食べてしまいます。魚にボールを吐き出させて続きを打ったキートンは今度は犬にボールを咥え去られ、追いかけてボールを取り戻します。一方脱走してゴルフ場に逃げこんできた囚人服の囚人が警官に追われる姿がカットバックされます。倉庫の裏にボールを見つけたキートンはボールを据えて今度こそはと構えますが、黒人のおばさんキャディが昼休みをとりに去ってしまい、受けとったゴルフ用具を後ろに置いて向き直りますがその拍子にボールを踏んでキートンは転倒して気絶してしまいます。そこに逃走中の囚人が現れてキートンの服を剥いで着て、気絶したままのキートンに囚人服を着せてうつ伏せにします。囚人が去ったあと目覚めたキートンは囚人服を着ているのに気づかすゴルフを続行しようとして警官に捕まりそうになり、なぜ警官がゴルフの邪魔をとやっと囚人服姿に気づいたキートンは一目散に逃げ出し、通り過ぎた車に乗るとそれは囚人護送車でそのまま刑務所の中に入ってしまいます。独房から所長への面会に移される途中、廊下でキートンは刑務所長の娘でゴルフ仲間のガールフレンド(シビル・シーリー)に顔を会わせ、シーリーは「そんな格好までして私に会いに来たの(笑)?」とからかいますが、顔を出した所長は「囚人13号か?今日死刑執行だ」とキートンの背番号を見て刑務官はそのままキートンを絞首刑場に連れて行きます。キートンはじたばたした挙げ句一巻の終わりと覚悟しますが、隙をついてシーリーがロープをゴム縄に換えておいたので助かり、数回飛び跳ねた反動で死刑執行人(エディ・クライン)を弾き飛ばして逃げ出します。死刑は翌日に延期されますが、キートンはブロック塀を外して刑務官の制服と鍵を盗んで刑務官たちに紛れこみ勤務のふりをして脱走の機会をうかがいます。翌日刑務所の主を自称する凶暴な囚人(ジョー・ロバーツ)が中庭で労働中に大暴れし、駆けつけてくる刑務官たちを次々とノックアウトしてしまいます。脱獄の機会と遅れて着いたキートンはロバーツに刑務官と目をつけられ、キートンはロバーツを鉄格子に閉じこめるもロバーツは怪力で鉄格子を押し広げてキートンを襲い、キートンはすったもんだの挙げ句ゴム縄でロバーツの拘束に成功し、シーリーの父の所長から副所長の地位に任命されます。その直後、囚人全員が3時決行に示し合わせていた暴動が始まります。大混乱に陥った刑務所で拘束から逃れたロバーツはキートンを叩きのめしシーリーを誘拐して人質にとり、囚人たちが刑務官を制圧した中庭に逃げます。キートンは起き出して中庭に向かい、パンチボールを結びつけたゴム縄を振り回して見事に囚人たちをなぎ倒して快哉を叫びますが、その拍子に自分の頭もぶつけて昏倒してしまいます。倒れたキートンの姿にゴルフ服のキートンの頭を膝に乗せて介抱するシーリーがオーヴァーラップしてキートンが気絶したゴルフ場倉庫裏に場面が戻り、つまりは夢オチでエンドマーク。
 本作はゴルフ仲間にキートンの妹のルイーズ・キートン、暴動の合図をする囚人にキートンの父ジョー・キートンが出演していますが、そこは芸人一家ですし本作は「文化生活一週間」ほどの大道具はなく、刑務所の内装や絞首刑場のセット、小道具も明らかに作り物のゴルフボールを飲みこんだ魚、ゴム縄くらいのものでしょう。「文化生活一週間」が予算をかけた傑作とすれば本作は低予算・アイディア勝負の傑作で、今傑作と書いてしまいましたが、あらすじを起こせるからにはこの短編にはストーリーというのは一応あるわけです。しかしプロットとなると「ゴルフ中に転倒して気絶したキートンは脱走囚の身替わりになる悪夢を見るが、恋人の介抱で目が醒める」の中に「囚人に間違えられて死刑にされそうになったキートンは恋人の機転で難を逃れ、刑務官に変装するが逃げるどころか手柄を上げ、さらに大手柄を上げたところで自分の振り回していた武器で気絶する」という悪夢のプロットがはめ込まれ、結局この映画のテーマはとなるとはなはだ漠然としていて、焦点は「絞首刑執行されるがゴム縄だったので助かる」と喜劇としても冗談にすぎる不謹慎な死刑ギャグなのがもっとも強く印象に残ります。脱走誤認死刑囚キートンを顔も確認せずさっさと処刑場に送るのも刑務官の服を盗んで着れば疑われず刑務官で通ってしまうのも喜劇映画だからですが、そもそも喜劇映画ほど悪夢に似ているものはないので、それは映画の中にしばしば夢の場面を入れて夢と現実の区別がつかない状態を演じているのでもチャップリンやロイドもまた喜劇と悪夢の類似性には自覚的だったのがわかります。しかしキートン映画の悪夢感は天性のもので、キートン自身が主演映画の監督を任されていた頃の短編・長編はことごとく悪夢の映像化の観を呈しています。プロデューサーのスケンク企画のヒット舞台劇の映画化『キートンのセブン・チャンス』'24や『キートンの拳闘(ラスト・ラウンド)』'25さえもキートンはこの2作に挟まれたキートン原案・脚本の『キートンの西部成金』'25と同質の悪夢喜劇に変えてしまうので、キートンがついにトーキー化による分業化から監督権も脚本権も奪われて主演俳優専任になってしまう『キートンのエキストラ』'30以降はキートン的悪夢は余興的に挿入された即興的なキートンの一人芝居の場面にしかなくなってしまう。トーキー以降の作品もキートンが主演しているだけでもそれなりに面白いのですが、キートン主演でなければ見所など無きに等しい作品ばかりになります。またキートン映画の人気がついに1作たりともチャップリンやロイドに及ばなかったのもこうした作風の偏向にあり、悪夢をメロドラマやラヴ・ロマンスに巧みに回収して広い観客に喜ばれる映画に仕立てる感覚がキートンには(型だけのハッピーエンドにはするにしても情感にまで高めるには)ばっさり欠けていました。今日評価されないトーキー以降の、キートンは主演専業で監督も脚本も会社方針通りの平坦な長編喜劇の方が興行収入ではキートン監督・脚本時代を上回り、嫌になったキートンはアル中になって出演拒否をくり返してメジャーのMGMを解雇されるのです。

●1月15日(火)
キートンの案山子(スケアクロウ)」The Scarecrow (監・脚=キートン&エディ・クライン、Metro'20.Nov.17)*19min, B/W, Silent : https://youtu.be/bR32Ths4WX0

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 先の「文化生活一週間」「キートンの囚人13号(ゴルフ狂の夢)」で前書きを併せればキートン映画については語り尽くした感もありますが、個別の作品の面白さとなるとまた話は別で、本作は傑作2編のあとでは少し勢いの落ちるキートン、ただしこれもまた正真正銘のキートンという腹八分目の満足感のいく短編になっています。サイレント時代のキートン短編は2巻短編ばかりで、この時期には機械式映写機が商業映画館では常設されていましたから長くて23、4分、短くて17、8分(1巻=10分前後が目安)なのがサイレント時代のキートン短編で、こういうLPレコードの片面相当の長さの短編を3年間で19編作っていたのですからのちのポピュラー歌手になぞらえればシングル盤発売のように発表していたのが短編時代の自作自演喜劇俳優たちで、長編化はLPアルバム時代に入ったようなものとも言えます。順序は逆でアメリカのポピュラー文化では短編映画~長編映画の転換期が'20年代初頭にあり、シングル・レコード~LPレコードの転換期が'50年代~'60年代にあったのですが、ポピュラー楽曲のようにアルバム市場でも楽曲単位の需要が維持しているようには映画の場合はいかず、ドキュメント映画や教育映画、PR映画の需要はあっても商業映画としての短編映画の時代が回帰することはなく、テレビ放映の連続ドラマ(やアニメ)に役割は解消されているということでしょう。サイレント映画自体もサウンド映画が標準に定着した以上は作為的な実験性を帯びざるを得ないので、日常言語で文語文、歴史的かな使いで生まれ育っていないのに文語体や歴史的かな使いで文章を書く人のようなわざとらしさや統一性のない間違い(歴史的かな使い自体も近代の発明でもともと統一性はありませんが、文化的規範に基づいたローカルな系統的統一性はあります)をしでかすのと一緒です。またトーキー以降に確立された映像技法からサイレント時代の映画技法を幼稚と見るのもおかしく、複数人の視点の一致や遠近法などサイレント時代にはトーキー以降とは異なる映像感覚があったというだけで、これは数多く入念に観ることで会得できる。少なくとも20世紀ではサイレント時代までに青年期までを送った映画人の方がトーキー以降でも強力な映像掌握力を持った映画を作っていたので、古典に互する映画を作ることは厳しくなるばかりでしょう。前置きがだらだら長いのは本作は腹八分目で満足のいく出来ながら傑作の前2編と較べれば佳作とまでもいかず、ギャグは満載ですが構成や演出にはムラがあり集中力を欠いた出来だからで、映画は「一部屋ですべてが足りる家」と農夫のキートンと相棒のジョー・ロバーツが同居している一間だけの一軒家の室内劇が前半です。この家には壁収納のベッドはもちろん食器一式壁収納の食卓(残飯は自動的に裏庭の飼豚の餌箱に流れ、壁ごと食器を洗い流すと水は雨樋を伝って家鴨の池に流れます)があり、洗面台を裏返すとガスレンジとガスオーヴンで、紐を引くと天井から塩・胡椒・砂糖・ソース・ケチャップ・タバスコその他多すぎるほどの調味料の瓶が吊り下がり、食事が済んで紐を引けばまた天井に上がります。この仕掛けだらけの料理食卓は、長編第4作の傑作『海底王キートン』'24で、漂流してしまった巨大巡洋艦で二人きりの生活をせざるを得なくなった金持ちのお坊ちゃんのキートンとお嬢さまのキャサリン・マクガイヤが、料理などしたことがない挙げ句船の道具で作り上げた全自動式キッチンに生かされており、ただし『海底王キートン』では曲がりなりにもカップルの自作全自動式キッチンなのに対して、本作ではキートンとロバーツが野良仕事に出かけると「女手要らずの家」と看板がかかっており、キートンとロバーツは最初からそういう仕掛けの家を借りていた(または建ててもらった)、というのが暗示されています。
 この映画は後半はまた後半の前半、後半の後半に分かれて人物描写や背景がはしょりすぎなのですが、農作業のうちに犬(リューク・ザ・ドッグ。キートンの元師匠ロスコー・アーバックルの愛犬で、良くなつき演技上手なのでハリウッドの名物犬だったそうです)に追いかけられて逃げ回り、ついに追いつめられると犬は甘えてきて「友だちになりたかったの?」というほのぼのギャグや(これも「Friendless」が役名のキートンがカウボーイになり、友だちのいない雌牛のブラウニー・アイズと心を通わせる雌牛がヒロインの名作『キートンの西部成金』を思い出させます)、またキートンは乾し草の山に飛びこんで精製機からずたずたの格好で放り出され、案山子に化けてロバーツとの喧嘩から逃げた時の案山子の服を拝借して着替えますが、ちょうどキートンが靴紐を結びにかがみこんだ時に隣の農家の娘のシビル・シーリーが目の前にいて、キートンにプロポーズされたと思ったシーリーは結婚を承諾し、父に断ってくるわと父の農夫のジョー・キートンに話しに行きますが、父親はロバーツに娘と結婚させてやると話をつけています。この短編の構成がまずいのはロバーツと喧嘩→犬乱入→キートン逃走(エディ・クライン運転の車に轢き逃げされたり、案山子に化けたり、乾し草精製機でボロボロになったり)→シーリー登場→犬と友だち、とそしてシーリーの父親とロバーツに追われながらバイクを運転している牧師(アル・セント・ジョン)を見つけてシーリーとともにバイクに飛び乗り追跡から逃走、という流れが混乱を招くので、キートンは本作と次作「キートンの隣同士」をほぼ同時に作っていて、「隣同士」も本作や前作同様に第1作「文化生活一週間」からジョー・ロバーツがレギュラー敵役でしたがヒロインはヴァージニア・フォックスに代わります。本作と「隣同士」は地域によって公開年月日が違っており、先行公開されたのは'20年11月21日に都市部で封切られた本作ですが地域によっては本作と「隣同士」が'20年12月21日に同時上映されたり、本作が'20年12月21日公開で「隣同士」が'21年1月21日公開とまちまちだったようで、「隣同士」からの16編中ヒロインはヴァージニア・フォックスが11編、途中シーリー復帰1編、ほか1編限りのヒロインが3編となるのですが、前2編でキートンにはシーリーがヒロインでロバーツが恋敵、という設定に観客が慣れているといる前提(なので人間関係や描写を省く)という手抜かりをやってしまっています。同居しているキートンとロバーツが何で喧嘩になったのかわからないのに犬まで乱入し、シーリーをめぐる恋敵関係だったとはっきりするのはシーリーの父親とロバーツからキートンとシーリーが逃げ出すクライマックスになってからです。しかもロバーツとの喧嘩も犬乱入でロバーツからなのか犬からなのか(両方ですが、それもまずい)畑の中の逃走になってしまい、しかも犬との意外な友情オチを印象的に描いてしまったため(キートンは人より動物が相手の方が安らいで見えるのです)シーリーとの唐突なラヴ・ロマンス成立が浮いてしまった。もっとも追ってくる父親とロバーツを名犬リュークが妨害する、という趣向はありますが。さて疾走するバイクの上で結婚式が行われ、指輪(とりあえずバイクからナット拝借)、牧師が結婚の盟約を宣誓したところでキートン、シーリー、牧師を乗せたバイクは川に突っこみます。キートンらしい豪快なエンディングですが、本当に本作は後半の前半の喧嘩逃走編でロバーツと犬にキートンが追われることでロバーツと犬に焦点がぼけ、後半の後半のロマンス編でシーリーと名犬リュークに情感の焦点がぼける、というチャップリンならまずない、ロイドなら焦点がぼけるというより盛りだくさんでごちゃごちゃしてくる('21年作品では欠点を払底しますが)のが、キートンでは悪夢の既視感、複数条件の同時進行感でこういう混乱を呈すのか、と惜しまれ、またこの混乱もあるいはキートンらしいのかな、と思わせられるのです。