人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年1月22日~24日/サイレント短編時代のバスター・キートン(4)

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 今回の3編「キートンの船出(漂流)」「キートンの白人酋長(キートンの酋長、キートンのハッタリ酋長)」「キートンの警官騒動」はいずれも傑作です。まだ短編全部を観直し終わっておらず、前回の感想文ではキートンの短編で傑出した作品として「文化生活一週間」と「キートンの警官騒動」を上げましたが、感想文を書いた時点では前回最後の「キートンの即席百人芸」まで観て感想文をまとめたので主演短編デビュー作「文化生活一週間」は観直したばかりですからともかく、「キートンの即席百人芸」以降の短編までは昔観た記憶に頼った印象でした。チャップリン短編は1編1編がはっきりと異なるテーマ、特色、趣向を持っていますしギャグとストーリー、プロットの結びつきが強いので混乱しませんが、ロイドとなると趣向は同系統なのにストーリーやプロットの立て方は違い、しかしまるで異なる趣向の作品でも同じようなギャグが出てくるという具合に、まとめ観して感想文を書くと混同してしまいかねない。しかもロイドの場合基本テーマは全部同じです。キートンとなると趣向は多彩ですがムードはどれも似通っていて、ロイドよりもギャグは絞りこんでありますがプロットやストーリーはさらに漠然としているために、ギャグどころか映画の中でどういうことがどんな順序で起こったかもわかりづらくなっている。感想文をまとめ書きするなら観た先から片づけないと次の作品を観てしまうと記憶が上書きされてしまう度合いはチャップリン短編ではほとんどなく、ロイドではかなりあり、キートンでは予期できず油断のならない域に達していて、さすがにロイドやキートンも長編となると1作ごとにはっきりと作品ごとにカラーの異なる工夫を凝らしていますが、それを思うとデビュー2年目の監督作品から、短編であっても1作ごとに長編並みに入念な仕上げをしていたチャップリンの周到さには舌を巻きます。
 今回の「キートンの船出」はこの短編の主役と言える家庭用ヨット「The Damfinos(知るもんか)」号から国際バスター・キートン協会が名前をとったことで知られ、また「キートンの白人酋長」はインディアンと白人の抗争をインディアン側に立って描いた先駆的内容の西部劇コメディです。さらに「キートンの警官騒動」は1997年(第9回)アメリカ国立フィルム登録簿に登録された同登録簿2作目のキートン作品で、1989年に第1回が施行されたこの文化財保護法は毎年25作の発表後10年以上を経過する「文化的、歴史的、または芸術的に重要」なアメリカの映像作品を選定する法律で、キートン作品は2018年現在まで「キートンのマイホーム」'20(2008年)と「キートンの警官騒動」'22('97年、以上短編)、『キートンの探偵学入門』'24(2000年)と『キートンの大列車追跡』'27(国立フィルム登録簿第1回施行年・'89年)、『キートンの蒸気船』'28(2016年)、『キートンのカメラマン』'28(2005年、以上長編)の6作が登録されており、チャップリンアメリカ国立フィルム登録簿登録作品6編、短編「チャップリンの移民」'17と長編『キッド』'21、『黄金狂時代』'25、『街の灯』'31、『モダン・タイムス』'36(国立フィルム登録簿第1回施行年・'89年)、『独裁者』'40に並んでいます。これはロイドが代表作中の代表作『ロイドの要心無用』'23と『ロイドの人気者』'25(国立フィルム登録簿第2回施行年・'90年)の2作きりしか選出されていないのと対照をなしており、サイレント三大喜劇王とされているチャップリン、ロイド、キートンの(実際サイレント時代最高の名声を博したのはチャップリン、最大の興行収入を誇ったのはロイドで、例外的なこの二人に次ぐトップクラスの存在がキートンでした)今日の評価がここに端的に表れているとも言えます。

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●1月22日(火)
キートンの船出(漂流)」The Boat (監督・脚本=キートン&エディ・クライン、First National'21.Nov.10)*25min, B/W, Silent : https://youtu.be/mRJW4MFZLzk

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 この短編は冒頭の船工作、船出シーンと遭難した時の沿岸警備隊のオペレーターとの交信のカットバック、そして結末以外はキートン一家の小型船の船内のみで展開されるコメディです。家族は妻(第3作「キートンの案山子」以来のシビル・シーリー)と子どもの幼い兄弟だけの4人で、子どもたちは動物や荷物(ただし貴重品)のようなものですから、キートンとシーリーの夫妻だけで展開される海洋活劇ホームドラマでもあるコメディで、夢オチで終わる「キートンの即席百人芸」前半のような一人百役のトリック撮影芝居ではない、ミニマムながら非常に密度の高い作品で、夫婦だけのコメディという点では「文化生活一週間」以来なので同作で新婚妻を演じたシーリーが再起用されたとすれば、「文化生活一週間」でさんざんな新婚一週間を送った宿縁の夫婦が男児二人の親となって海洋旅行に乗り出したてんまつを描いた続編とも見られるので、このあと「キートンの白人酋長」、さらには「キートンの警官騒動」とさらなる傑作が送り出されますが(完成順は必ずしも公開順とは限りませんが)、この第10作目の短編は主演・監督・脚本デビュー作「文化生活一週間」以来の傑作と言ってよく、第2作「キートンの囚人13号」の不条理コメディ路線のムードも引き継ぎつつかつてないほど完成度の高い1編になっていて、キートンのいつもの作品が調子っぱずれな感覚でチャップリンやロイドは作ろうとしないような種類のものだったとすれば、「文化生活一週間」や本作はチャップリンやロイドには思いつかないような発想で大家の先輩喜劇王二人に匹敵し、キートンでなければなし得ない作品を極めつけの出来ばえで作り上げてみせたもので、前書きにアメリカ国立フィルム登録簿に短編2編、長編4作ものキートン作品が永久保存作品登録されているのは触れましたが、6作中4作が21世紀になってから追加登録とキートンの評価は高まる一方なので、あと数編の短編と数作の長編が追加認定されていくとすれば古典的傑作の格がある抜群の完成度の本作は今後国立フィルム登録簿追加登録される位置にもっとも近い短編と言えるでしょう。ロイドは中短編より長編で名作を出した人でテーマ面のヴァリエーションが狭いため代表作で済まされてしまうきらいがあり、またやはりチャップリンは寡作ながら連綿と続く長編に最高のポピュリティーと達成があるとすれば長編が一通り表栄されれば中短編時代は長編の業績に包括されてしまうところがある。その点、キート短編は短編喜劇のサイズでなければできない独自の性格があるのです。というのは今回チャップリン、ロイド、キートンと中短編時代の作品を続けざまに観直してきてようやく気づいた発見で、なだらかに、しかし飛躍的に長編で決定的作品を作り出すようになったチャップリンやロイドにとって中短編時代は模索と作風確立時代でしたが、キートンは短編時代に短編喜劇ならではの完成を示していてしかも優れたり長編に進みながら短編時代と長編時代では方向性に断絶がある。ガキの頃から観てきてじじいになってようやく気づくとは筆者も悟りが遅いですが、そういう風にサイレント時代でもキートンは短編時代と長編時代では異なる味、指向があり、あえて言えば観客層を広げた長編時代よりもよりエッセンスのみが凝縮された短編時代に大きな再評価の可能性を感じます。これは短編を1編1編、すでに定評ある長編を1作1作、機会があるごとに散発的に観ていた学生時代には気づかなかったことです。
 本作は家の作りつけ倉庫の中で、幼い男の子二人兄弟の子どもたちが遊び場にするので払いのけながら、小型船建造の日曜大工をしているキートンの姿から始まります。男の子たちもキートンと同じ平帽子(ポークパイ・ハット)をかぶっています。いよいよ船が完成し、キートンは妻子たちを車に乗せてロープでつないだ小型船を倉庫から引っ張り出しますが、小型船は倉庫の出口より大きかったので船が引きずり出るととともに壁が崩れ、家は全壊してしまいます。キートンは家の残骸に戻り、船からはがれた「Damnfino(知るもんか)」号のプレートを拾い上げて船の甲板に放りあげます。この「ダムフィーノ(知るもんか)」号というキートン映画らしい投げやりな船名がのちに災いをもたらすのです。港まで船を引っ張ってきて、キートンは妻子を車から下ろし、車で船を船尾からロープで引き着水させようと妻に加減を見てもらいながら車を進めるも、車は港の岸に半分乗り出して傾いてしまい、車から下りたキートンはちょっと思案してハサミでロープを切り、車は港に転落・沈没します。港のスロープ面に船尾を海に向けて進水式を始めた一家は、妻子が見守る中、船首に直立したキートンを乗せて海に滑りだし、キートンは船首に直立不動のまま船はずるずると完全に海に沈みます。字幕「優れた船は沈んでも浮かぶ」、キートン一家の船は港を進み、キートンは橋や電線を通過するたび手動式の帆を傾けて通り抜けますが、船尾に旗を飾ろうとしている時に橋に当たって傾いた帆柱に突き飛ばされて海に落ちます。海洋に出て、船内生活するキートン一家は何とか波でぐらぐら揺れて傾く船内で食事し、棚式の二段ベッドの寝床を整えますが、外洋まで乗り出した深夜に嵐に見まわれます。船は滅茶苦茶に揺れ、傾き、回転し、キートンは電信機で必死にSOSを打電し、沿岸警備隊のオペレーター(エディ・クライン)が受信しますが「船の名は?」「ダムフィーノ(知るもんか)!」「俺も知るもんか!」と冗談通報と思われて切られてしまいます。キートンはそれでも必死で打電を続けますが船の状態に打電どころではなくなり、壁から一筋床の一点に向いて浸水しているのを見つけたキートンは壁の穴をふさごうとしますが手に負えず、降り注いでいる部分の床に錐で穴を空け水を抜こうとしますが当然空けた穴からも海水が噴出してきます。にっちもさっちもいかなくなったキートン一家はバスタブをボート代わりに妻のシーリーと男の子二人を乗せ、キートンは船とともに沈んでいき帽子だけが浮かびシーリーは息子たちを抱いて悲嘆に暮れますが、キートンはそのまま帽子の位置からむくっと立ってバスタブのボートに一緒に乗ります。子どもが喉が乾いたとせがみキートンは帽子で海水をくんで息子に飲ませますが、息子は小首を傾げてバスタブの床から手に水をすくいます。慌ててキートン夫婦は手で水を掻きだしますが、いつの間にか暴風雨は止み、夜明け近くなっていて、バスタブのボートは浅瀬に止まります。一家はバスタブから出てどことも知れないジャングルに面した海辺に上がり、妻シーリーは(字幕)「Where We are ?」キートンはシーリーに向かって横顔で返答し(つまり「ダムフィーノ(知るもんか)!」)、進んでいく一家の姿で、エンドマーク。これは有閑階級のお坊ちゃんキートンが求婚相手のお嬢さまキャサリン・マクガイアと無人の巨大巡洋艦で漂流生活を送るはめになる、長編第4作の傑作『海底王キートン』'24に直接つながる先駆作です。セットとはいえかなり大きい家一軒を数ショットのギャグのために用意して壊す、車を海に落とす、「優れた船は沈んでも浮かぶ」といっても進水式で沈むシーンのために作った船はそのあと出てくる手動式帆柱の船とは別でしょうし、港や海洋で外観から映したショットは併走船、または船上からカメラを据えて撮り、さすがに船内生活はスタジオ撮影、嵐の中の船の外観はミニチュアでしょうが、嵐に見まわれた船内はスタジオ撮影とはいえあちこちから水が吹き出してくる仕掛けで水びたしだったでしょうし、撮影所内のプールを使ったとしても結末の脱出劇は俳優全員水びたしです。オペレーターに船名を訊かれたら、チャップリンだったらとっさに機転を利かせて船の特徴や金持ちが乗っていて大至急だなどと報せるでしょうし、ロイドならダムフィーノ、と言いかけて別の船名を告げて必死に嵐の船外で新しいプレートをつけにいって一苦労、となるでしょうが、男らしく言い訳はしないどころか事態すら気づかず打電どころではなくなるまで打電を続けるのがキートンで、本作が純粋にキートン的な傑作たるゆえんです。しかも本作の高いレベルはこのあとのほとんどの短編で維持されるのです。

●1月23日(水)
キートンの白人酋長(キートンの酋長、キートンのハッタリ酋長)」The Paleface (監・脚=キートン&エディ・クライン、First National'22.Jan.)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/WM9gbrtkQoE

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 本作からキートン映画は'22年度作品に入ります。さて、キートン映画はメカニカルな仕掛けが多いので前作「キートンの船出」のような海洋サスペンス・ホームドラマ・コメディ(笑)でも船内シーンの方が実質的には長く、そうした場面は当然本物の船の中ではなくて船内シーンのためのセットです。その点でも本作「キートンの白人酋長」は冒頭と中盤に白人の石油採掘会社の事務所の小屋が出てくる以外はほとんどが屋外のインディアン部落が舞台で、屋外と言っても撮影所内のオープン・セットで厳密にはロケーション撮影とは違いますが、次作「キートンの警官騒動」がニューヨークとおぼしき大都会の街頭の屋外で全編がくり広げられる(これもハリウッドのオープン・セットの街頭であって実際のロケーションではありませんが)と立て続けに屋外コメディ作品、かたやインディアン部落、かたや大都会と対照的な舞台ですが、そのどちらも傑作になっているのはキートンの充実を語ってあまりあります。その次の「キートン半殺し(キートンの猛妻一族、キートンの飴ン棒、キートン華麗なる一族)」が大家族の女性と結婚して入り婿状態になったキートン受難のホームドラマの結婚コメディで、したがって室内セットの映画になりますから、キートンも'20年~'21年前半に較べると各段に作品ごとの狙いが定まってきた。しかもデビュー作以来の悪夢的感覚はますます冴えてきています。本作はキートン短編としては初の西部劇で、このあとには北極西部劇(!)の「キートンの北極無宿」がありますがパロディ的作品ですし、「キートンのハイ・サイン」も西部劇ムードはありましたが明確な西部劇設定ではなかったので、はっきりと西部劇コメディと言えるのは本作につきます。しかも悪い白人の陰謀をインディアン酋長になったキートンがくじき、敵対するインディアン部族から自分の部族を護る、というインディアンの立場に立った内容です(もっともインディアン西部劇の多くは古くから白人を侵略者として描いた映画の方が主流で、むしろ第2次大戦後の方がインディアン討伐を正当化した映画が増えています)。社会的弱者(特に貧窮移民)への共感が強いチャップリン、小市民層の生活感(や富裕層への憧憬)に密着したロイドと較べてもかなり異なった異民族への共感がキートンにはあり、本作はハントという白人事業者が社長の石油採掘会社「オイルシャーク」社がインディアン部族の居住地から石油発掘との報を受けて居住地隣に事務所の小屋を建て、部族の使者との交渉に向かわせた用心棒が帰ってきたのを迎える場面から始まります。「1ドルで買収契約を取りつけました」と用心棒が土地の権利書を社長に差し出す用心棒に、用心棒が小屋の裏で使者をナイフで刺殺するショットがフラッシュバック。よし、これで24時間以内にインディアンたちの居住地から全員立ち退き通告が通った、と石油採掘会社社長。一方インディアン部落では、酋長が「送った使者が戻らない。殺されたに違いない。入ってくる最初の白人を見せしめに殺せ!」と戦士たちを集めて板張りの正門内で待ち受けます。やがて門を開いて、きょろきょろしながら入ってきたのがいつもの服装のキートンで、でかい虫取り網を構えて採集かごを提げています。キートンはインディアンたちに気も留めず蝶を追いかけ(この蝶がいかにも作り物で吊り糸でぴょんぴょんキートンから逃げるのがかえって滑稽な効果を生んでいます)、ついに蝶を捕まえたと思ったら蜂だったので指先を刺されて手首をぶんぶん回しキートンを囲むインディアン戦士たちに参ったよと指先を見せてまわりますが、ふと自分のいる状況に気づきインディアンが追いかけ始めるより先に逃げ出します。居住地の中を逃げ回り、衝突した戦士のケープを拝借してインディアンに化け追跡を避けようとしたキートンは見抜かれついに崖に追い詰められて落下しますが、ケープをパラシュート代わりにして、さらに真下に別のインディアンがいたのでインディアンの頭上に落下して気絶させ自分は下敷きになったインディアンがクッションになったので助かり、崖下の木こり小屋に潜りこむと不燃布(アスベスト)の反物を見つけて急いで不燃布でスーツを作ります。キートンはインディアンたちに見つかって火刑場に担いでいかれ、途中で家の窓からキートンを心配そうに見るインディアンの娘(ヴァージニア・フォックス)と見つめあいます。地面に立てた柱に後ろ手で拘束されたキートンはインディアンたちが炊き木を集めている最中に柱が地面から抜けたのに気づき、足元に盛られた炊き木からインディアンたちが離れたすきに移動し、インディアンたちが炊き木を置き直してまた集めにいく間に移動、とくり返し、一人だけで炊き木を運び直そうとして後ろを向いたインディアンをお辞儀の格好で柱で気絶させ、ぺたんと座って柱の拘束から逃れますが、結局捕まって火あぶりの踊りの輪の中で火刑にされますが、炊き木が全部燃えつきてスーツが黒こげになっても不燃布のスーツを内側に着ていたキートンは無事で、インディアンたちは酋長を始め一変して輪になったままキートンに土下座をします。キートンは燃えている上着の端で煙草に火をつけて悠然とくゆらせ、畏れいった酋長が近づくと得意顔でどうだとばかりに自分の吸いかけの煙草を与えます。かくしてキートンはこの部族「ペイルフェイス」の新しい酋長「リトル・チーフ・ペイルフェイス」になります。
 ここまでが前半で、このあとキートンは前酋長で副酋長の訴えで土地を騙し盗ろうとしている白人の石油採掘会社との対決に出ることになり、キートンは抜けだそうと藪に隠れた別方向に向いた馬に乗ると、実際乗ってしまったのはインディアンたちと同じ方向に向いた馬で、そのまま石油採掘会社の事務所に到着し、権利書を返せと迫り事務所の中でインディアンたちを踊らせて翻弄し、キートンは白人たちの髪を剃って(またはかつらを奪って)副酋長を納得させます。用心棒との乱闘にも勝ちますが社長のハントは逃げ、追ったキートンはハントに返り討ちにあい、ハントはキートンと服を取り替えて逃走します。キートンはハントと間違われて自分の部族から矢をびゅんびゅん射られ、矢が山高帽を貫いたのできょとんとし、逃走すると今度はライバル部族の居住地との境に踏みこんで大ロングの砂の大斜面を左から右へと数百メートル滑り落ち(このショットはのちの長編『キートンのセブン・チャンス』'25の逃走シーンを連想させます)、斜面の端の崖と崖の間にロープ2本、板は数枚四つん這いになる程度にしかかかっていない吊り橋を渡る先から板を後ろから前に持ってきて渡るはめになり、後ろにはライバル部族、渡る先にはまたもやキートンをハントと誤認している自分の部族に攻撃されそうになりますが、ようやく板を渡して近づいたところで「リトル・チーフだ」と気づかれ助けられることになり、ハントの上着を脱いだキートンは内ポケットに土地の権利書を見つけ、前酋長に大手柄を褒められます。なんでも褒美を、という前酋長にキートンは「あの娘」とヴァージニア・フォックスが出てきた家の窓の前に駆け寄ってフォックスを抱きとめキスし、字幕「2年後(Two Years Later)」服装も姿勢も同じままでキスしたままのキートンとフォックス、エンドマーク。何とも洒脱な締めくくりで、これも謎の無人島(?)に一家が消えて行く前作、キートンのポークパイ・ハットをかぶせた墓石がエンドマークの次作と並んで冴えまくっています。ちなみに本作もジョセフ・スケンクのプロデュースで、サイレント短編時代のキートン作品のほとんどがそうだった前作同様キートンとエディ・クラインの共同監督・脚本名義ですが、レストア版以前の前作「キートンの船出」と本作「キートンの白人酋長」のホームヴィデオ~旧版マスターのプリントを使ったDVDでは「Buster Keaton Company(Production) Presents」とタイトルが出て、「Written and Directed by Buster Keaton」とキートン単独監督・脚本名義のクレジットがあり、さらに本作は字幕タイトルの飾り枠下中央に「B.K.」と長編『キートンの大列車追跡』と同様に、字幕タイトル飾り枠下中央に「D.G」とイニシャルを入れたD・W・グリフィスを踏襲したパロディがありますが、このキートン・プロダクション(カンパニー)名義やキートン単独監督・脚本扱い、「B.K.」のイニシャル入り飾り枠の字幕タイトルはキートンが長編時代、それもメトロ作品ではなくキートン・プロダクション名義になってからの'24年の長編以来に再上映のために改変されたクレジットやタイトル・カードとおぼしく、すぐに再上映されなくなって行方不明になり'80年代末まで散佚作品になった「キートンのハード・ラック」とは対照的に前作や本作は長編時代になってもニュープリントが作られ長い人気を誇った証拠でもあり、長編時代の人気絶頂期にも上映の需要が多く他のキートン短編、または新作長編と併せて再上映がくり返された好評の作品だったことを示しています。「キートンの船出」にも増して本作がチャップリンやロイドのキャラクターでは作れない、キートンならではの領域なのはあらすじだけでも一目瞭然でしょう。そして短編第12作、'22年度2作目の次作「キートンの警官騒動」はデビュー作「文化生活一週間」と並ぶ、キートンのサイレント短編時代屈指の傑作になるのです。

●1月24日(木)
キートンの警官騒動」Cops (監・脚=キートン&エディ・クライン、First National'22.Mar.)*18min, B/W, Silent : https://youtu.be/bMxMuoMAuXQ

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 本作はキートンが恋する令嬢(ヴァージニア・フォックス)の家を訪ねて戸口で「大物にでもなったらね」とすげなく振られる場面から始まります。歩き出したキートンはすぐに高級タクシーに乗りこんだ金持ちが乗りぎわに路上に落とした札束の詰まった財布を拾いますが、タクシーに乗った金持ちが引き返してきて財布を奪い、金持ちは札束はキートンが財布から取り出していて財布だけ取り返したのに気づいて引き返して来ますが、キートンは降りてきた金持ちと逆側のタクシーのドアから入って去ります。一方通りに引っ越しのために家具一式を運び出し終えようとしている家族が映り、引っ越し屋がそろそろ来る頃だと家具の山を築いて出入りしています。キートンはタクシーから降り、むき出しの札束から無造作に一枚渡してタクシーを去らせますが、その様子を見ていた路上の男(スティーヴ・マーフィー)がキートンを呼び止め、家を追い出されて無一文で妻子も飢え死にさせてしまう、と大げさな芝居でキートンに他人の一家の家具全部を売りつけようとします。いいよ、ぼくは大物だからと札束を取り出したキートンから男は札束の半分を取って釣りを返し、詐欺にあったとも知らずキートンは向かいの路上の馬車に5ドルの立て札を見ると馬車の前に座って休んでいた男に5ドルを渡して馬車を曳いていきます。男はぽかんとし、馬車が去った背後に紳士服の上着の見本と5ドルの看板を見てまあいいかという様子で上着見本を着て立ち去ります。キートンは馬車を家具の山に寄せますが、さてどう積もうかとしていると一家の主人や夫人、子どもたちが引っ越し屋と思いこんで次々と積んでくれるので、家具の全部が積み終わるまで待ち、一家の主人はキートンと握手して引っ越し先の住所のメモを渡しますが、馬車を動かし始めたキートンは何これ?と捨ててしまいます。キートンは馬車を進めますが、ちょうど街では年に一回恒例の警官隊のパレードがはじまっており、貴賓席では市長の隣に市長の娘のフォックスも見に来ています。一方引っ越しの家族は転居先に回って、まだ着かないのかと待ち受けています。キートンは最初は順調に進んでいた馬が次第にへたってきたので馬の様子を見ると涎を垂らしているので、伝染病医院の看板を見つけて馬を曳いていき、馬を連れて中に入ります。すぐに出てきた馬は興奮状態で元気いっぱいで、通りを歩いていた浮浪者(エディ・クライン)を跳ねとばさんばかりの勢いで進んでいきます。やがて家具を満載したキートンの馬車は警官隊のパレードの中にまぎれこんでしまい立ち往生します。そこへテロリストが爆弾を投げこみ、馬車の御者台に転がります。煙草に火をつけようとしていたキートンは爆弾の導火線の火に気づくと、導火線の火で煙草に火をつけてポイッと馬車の外に放り出します。爆弾は爆発し、警官隊はぼろぼろの制服になって大混乱に陥ります。爆弾を投げたキートンをテロリストと見なした警官隊は馬車を追跡し、馬車は家具をぼろぼろ落としながら消火栓や標識をなぎ倒して疾走します。遅過ぎる、と引っ越し一家は、ひょっとしたらうちの家具に何かあったんじゃないかと不審がっています。キートンはやがて転覆した馬車から降りて逃げ回り、キートン映画のレギュラー敵役俳優ジョー・ロバーツの扮する警官を先頭に何百人もの警官が路上の大混乱と格闘しながらキートンを追います。キートンは追いに追われたあげくの果てに警察署に逃げこみ、警官たちが全員警察署に押し入ったあとでこっそり一人だけドアから出てきますが、通りかかったフォックスを呼び止めるもそっぽを向かれ、うなだれて警察署のドアを開けて自分から入っていきます。キートンの帽子を乗せた墓石のイラストのエンドマークで映画は終わります。エンドマーク自体が結末であり、サゲ(オチ)になっている、という見事な趣向です。
 警官の大群をギャグにしたのは水着美女の大盤振る舞いと並んで'12年発足の喜劇映画会社、キーストン社の総帥マック・セネットの2大発明ですが、キーストン喜劇ですら本作ほど徹底して、しかも数百人もの警官役エキストラを使った例はなく、セネットの発明をキートンが途方もない規模で決定版に仕上げてしまったのがこの作品です。警官の大群に追われる、という趣向は花嫁の大群に追われる長編『キートンのセブン・チャンス』、牛の大群に追われる(というより引き連れて疾走する)『キートンの西部成金』'25に再現され、またエンドマークがサゲでありオチになっているのはキートンとヒロインが結ばれ、子どもたちに囲まれ、老夫婦になり、二つならんだら墓石で終わる『キートンの大学生』'27によりシニカルな拡大がなされます。本作がいかに高い評価を受けているかはアメリカ国立フィルム登録簿の施工1回目(1年目)の'89年にアメリカ映画の最重要作品25作に長編『キートンの大列車追跡』が選出されて以来、第9回目の'97年に選ばれたキートン作品では2作目の作品がこの「キートンの警官騒動」であることでも屈指のキートン作品とされている評価がうかがわれ、登録年順で言えば2000年に長編『キートンの探偵学入門』'24、2005年に長編『キートンのカメラマン』'28、2008年に短編「文化生活一週間」'20、2016年に長編『キートンの蒸気船』'28が現時点でアメリカ国立フィルム登録簿に選出されているキートン作品6作ですが、チャップリンと同数、ロイドが長編2作に留まるのと比較しても現役時代の人気とは別に映画作品としての芸術的評価がいかに高まったかを示します。キートンは'21年5月にナタリー・タルマッジと結婚し、同月公開の短編第8作「キートンの強盗騒動」がメトロ映画社配給の最後の短編で(長編時代に再び戻りますが)、マネジメント&プロデューサーのジョセフ・スケンクがさらに高利益な契約で配給をファースト・ナショナル映画社と結んだ第1作が'21年10月公開の「キートンの即席百人芸」でしたが、これは「キートン電気屋敷」撮影中の怪我のためアクションの少ないトリック撮影中心の作品が作られたそうで、同作は公開順では'22年10月公開の第16作ですから、第9作「キートンの即席百人芸」から「キートン電気屋敷」まで、おそらく残りのサイレント時代の短編は公開順とは不同で一気に1年先公開の分まで作られていたことになります。本作の「カフカ的」とまで評される悪夢感は、キートンが'17年~'20年までに14編の助演・助監督・脚本協力で師事した同じスケンク・プロダクションの先輩コメディアンで、チャップリンより1年早くセネットのキーストン社からデビューしていたロスコー・"ファッティ"・アーバックル(1887-1933)のスキャンダル裁判が影響しているとされ、'21年9月5日の労働記念日にアーバックル家で映画人を招いたパーティーのあと、パーティーに参加していた新人女優が9日に子宮破裂で変死する事件があり、強姦致死の罪状で起訴されたアーバックルは証拠不十分で無罪になりましたが34歳で喜劇スターのキャリアを断たれたアーバックルは以降アーバックル名義での活動はできなくなり、ノンクレジットや変名で映画界の裏方仕事をするしかなく(キートンは長編『キートンの探偵学入門』でアーバックルに共同監督を匿名依頼しました)、40代の若さで亡くなりました。偶然ですがアーバックルが逝去した'33年はキートンがメジャー映画会社MGMを馘首され、マイナー映画社を転々とすることになったのと同年でした。たびたびひきあいに出して恐縮ですが、チャップリンやロイド作品にほとんどなくてキートンの映画に際立って漂っているのが本作に集約されるようなブラックでシニカルな、不吉さすら感じさせる感覚で、通常喜劇映画とは相反する感覚が平然とギャグやユーモアに転じているのがキートンの映画です。サイレント喜劇の標準は基準とするならチャップリンやロイドに置く方が真っ当な見方でしょうが、キートン自身は案外そう主流離れした荒唐無稽な作品を作っていた意識はなかったかもしれず、1編1編流して観るには観客の側もキートンの特異さを見過ごしていたのかもしれません。