人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第三章

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 第三章。
 登場人物・承前。ムーミンムーミンパパ。ムーミンママ。…以上核家族スノーク。フローレン。…以上兄妹。ヘムレンさん・ジャコウネズミ博士。…以上学者仲間。トフスランとビフスラン夫婦。…以上双生児夫婦。ヘムル署長。スティンキー。…以上警官と泥棒。ミムラ。ミイ。その他計35人。…以上多産系兄弟姉妹。スナフキン。…単独孤行者。ニョロニョロ。…群棲担子菌類。偽ムーミン。…影武者。図書館司書。…その情婦。ムーミン谷レストラン給仕。…ムーミン谷レストラン給仕。その他ここにいない全員。
 舞台・表題参照。
 時・夕食時。

 そうか、ようやくわかってきたぞ。正しくはこれから起こることは依然としてわからないが、これまでわれわれがやってきたことの結果がついに現前したことだけはわかった。
 どういうことですか?私にはおっしゃっていること自体がよく飲み込めませんが……私の理解力不足としてもあまりに唐突すぎるように感じますし……
 賛同の小さな拍手、ほぼ全員より。ただし今ここにいない全員を除く。
 少数派の意見だからこそ尊重するのが偽善的民主主義というものだよ。そしてわれわれから偽善を取り去ったら何が残るね?
 また興味深い見解が出た。何が残るんです?
これは逆説だよ。われわれとは特定のわれわれではなく、いわば存在そのものを指す。さて、この任意の存在から偽善を取り去るとして、偽善の排除は善の絶対的存在を保証するだろうか?つまりわれわれは先験的に善を備えた存在と言えるだろうか?
 ええと、確か有名な詩の文句があります。ムーミン谷立中学、いや高校でも教えているやつです。
 きみはその高校、または中学を出たのかね?
 もちろん出ましたよ、入りましたから。あそこは住民登録さえしていれば出入り自由ですから、ムーミン谷の住人で出たことのない者はいないはずです……もちろん入るのが先ですが。
 なるほど。……ではその詩とは、真実と善と美は等しいと古代の発掘品の古甕から啓示されたとか、そんな詩だろうな。やはりそうか。何で知っているかって、私もムーミン谷に住民登録しているからさ。ならば訊くが、われわれは古甕のように真実と善と美の一致を体現した存在かね?
 それを言えば性悪説になるしかないでしょう?
 ところがそうもならないのだ、われわれトロールは人格を持たないからな。
 わお。


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 誰だ私を呼ぶのは?
 ……ほーらおいでなさった、大体こうなることは予想していたのだ。こうなれば誰かが名乗り出ないと収拾がつかなくなるぞ。
 いったいどういう事態なんですか?ご存じならわれわれにもわかるように説明してくださいよ。
 誰だ私を呼ぶのは?
 それもいいが、誇張ではなく死ぬ時に冗談を言う馬鹿はいるかね。せいぜい言えるのは部屋が暗いぞとか馬鹿馬鹿しいとか糸瓜の水が飲みたいなとか女房の顔がハゼみたいだくらいのことだ。
 誰かが死ぬんですか?
 それは(死)の解釈にもよるな。きみは生まれてきた時の記憶はあるか?
 私はありませんが、そういう話も少しは聞いたことがありますよ。あ、何かカマかけてませんか?
 私はその気はないぞ、失敬な。だがきみはそう見えてなかなかカンが良い。棒を二本か分銅を下げて歩けば温泉が掘れるぞ。ムーミン谷は銭湯はソープランドしかないから高くつくしな。女房をソープに働きに出さねばソープに行けぬのは不合理だが、とすれば他人の女房と合法的に姦れるというムーミン谷の秩序も崩れるな?きみは秩序と欲望ならどちらが大事だ?
 そんなことよりつまりこの状況を……
(状況)
・食卓で停止しているムーミン一家
・その他全員、円形のレストランの壁際に避難
・レストラン中央に浮遊する怨霊(等身大)
・怨霊「誰だ私を呼ぶのは?」
 話を戻そう、誕生の記憶と同様に死の記憶も稀にはある現象だとすれば、誕生も死も始まりや終りではなく一種の状態の推移と考えられる。これをもって状況説明はQ.E.D.としたい。 つまりこの事態を異変ではなく状態の推移とおっしゃりたいのですか?
・沈黙する怨霊
 まぁああいう物体が出現した以上そうとしか解釈しようがなかろう。様子から察するにあやつ、誰かに召喚されたと思い込んでいるようだ。
 さっきの質問に答えます、私は欲望より秩序が大事だと思います。
 ほう、だったらきみがハーイ私が呼びましたと立候補したまえ。そうすればいちばん手っ取り早いぞ。
 私は祖国のためにしか死にません!
・音楽。シベリウスフィンランディア
・怨霊、音楽の高まりとともにかき消える
 おや!きみの冗談も大したものだな。まさか軍歌で退散する怨霊とは思わなかったよ。 
 私もアレが流れるとは思いませんでした。
 無知の勝利かね。
 食事再開。


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 ではわれわれも注文を決めなければな、とスノークは言いました。なに急ぐ必要はあるまい。どうせ大半の連中はメニューを読めさえしないのだから、当てずっぽうにカブラのドンドコ煮とかトンビのパッパラ揚げなどを頼むに違いない。あれば幸い、なければ自業自得さはっはっは。
 私もお兄さまに決めてもらうわ、とフローレン。だってメニューが読めないんだもの。もっと若い娘にもわかるように写真とか載せてくれないかしら。
 フローレン、お前も誇り高きスノーク族なのだから、メニューが読めないなどと無防備に洩らすなどはしたないぞ。
 ではお兄さま教えてくださらない?このメニューの中にユッケジャンクッパはあるかしら?ブリの照り焼き丼でもいいわ。
 フローレン、ここはレストランなのだぞ、お前が修学旅行で行ったという北の家族ではないのだぞ。それに私だってこんなメニューは読めん。どこの外国語だ?架空の南米植民地語か?
 お兄さまに読めないなら私お手上げだわ。
 お手上げ。
・両手を上げる兄妹
 だからといって学識ある博士たちや無いものも出させるムーミン一家に訊くのはスノーク族の名折れだからな。私の名前が折れたらス・ノークスでス・ノーマンより間抜けだ。お前ならフ・ローレンでまだましだがな。これがお前がノンノンだったら滑稽極まりないぞ。
 昔の話は止めて、と旧名ノンノンはぴしゃりと言いました。というのはそれは彼女が売り飛ばされていた頃の源氏名で、彼女は従順かつ卑屈に強制労働に従事しましたが結局両親は遊廓の食材にされてしまったからです。当時留学中の大学生だった兄はまんまと家督を継いだので二年間で総額七万五千フランを使い果しました。
 そういう事情でフローレンは内心兄を憎悪していましたが、ムーミン族同様スノーク族も男尊女卑の長子相続制ですので、幸いムーミンとの政略結婚もムーミン谷では暗黙の了解、兄への復讐は機が熟してからでも遅くはありません。ムーミン族もスノーク族も、男は見た目通りのうすのろですが女は心底腹黒いのです。おお怖わ。
 だからさ、とスノークは妹をつゆ疑いもせず言いました。谷の連中がなにを頼むか、その様子を見て参考にしようじゃないか。私もこんな本を持ってきた、と取り出した本は、
ムーミン谷レストランの歴史
 ……どうしたんですかそんな本、万引き?


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 万引き?失礼な。私が万引きするのは食料品だけ、しかも廉価な缶詰類だけということくらいお前も承知だろう?だいたい万引きなど問題にするのは本当の貧乏を知らぬ証拠だぞ(せせら笑う)。
 (殺意を抑えながら)そうかしら、私は本当の貧乏は知らないものだから。
 では教えよう(尊大に)真の貧乏とは、例えばこういうことだ。七万五千フランの遺産を相続してウンコにハエがたかるようにちやほやされ、気づくと預金は小銭程度しかない。友人にも女にも去られ禁治産者となり、後見人の承諾がないと何もできない。
 自業自得ですわね。
 そうだ、だがそこで初めて開けてくる世間の実相というものがある。それは金持ちと貧乏人とは違う、ということだ。つまり七万五千フランあった時の私は金持ちだった。だが使い果してしまった私はただの貧乏人なのだ。わかるか?
・馬鹿は金持ちでも貧乏でも馬鹿
 とフローレンは思いましたが、親の遺産についてはフローレンは知らないことになっています。ですのでわざととぼけて、お兄さまがそういう目にあいましたの?と訊きました。
 ん?もちろんこれはたとえばの話だ。聞けば父上と母上が市場で食肉にされていた時、お前はいかがわしい店で働いておったというではないかノンノン。
 昔の名前は止めて。
・気まずい沈黙
 お兄さま、その本について教えてくださらない?お持ちになったのは、なにか役に立つ本なのでしょう?
 おおそうだ、肝心なのはその話題だったな。これはムーミン谷図書館から拝借してきたのだ。もちろん正規の手続きをして借りたぞ。あそこの図書館司書は呼ばねば貸し出しカウンターに出てこぬが、いつ行ってもセックスの最中しぶしぶ出てきました、という様子をしておるな。
・ビクッとする偽ムーミン(アホ毛が立つ)
・変装(外出時の習慣)した図書館司書、コルトを握りしめる
 フローレンは聞き流して、お兄さまはもうお読みになりました?
 そこなのだ、この本にはまず前書きがあって愛と平和とか書いてあるようだがそれはいい。本文の始まりは、
天正二年
 とある。それから白紙が続いて巻末近くに、
・昔
 とあり、そして最後のページに、
・現在
 と、どれも見出ししか書いていないのだ。
 どういうことかしら。
 私も考えたさ、そして思いついた。この本は知らないことは読めないのだ。


  (25)

 そろそろ注文を決めねばな……だがこうしてムーミン谷の住民が一堂に会すると、とジャコウネズミ博士は言いました。われわれも今やすっかり谷の古老という感慨がひしひしと寄せてくるな、そう思わんかねヘムレンさん?
 少々の留保をつければね、とヘムレンさん。まず、われわれもムーミン谷の住民なのだから、われわれを欠いたムーミン谷一堂という表現はあり得ない。もしわれわれを抜きにしたムーミン谷一堂であれば、隠棲したヘムル署長の父君などはわれわれよりは年少だが古老の資格はあるだろう。さらにわれわれトロールは生物学的には加齢というのは恣意的な現象だから、きみも私も竹馬の友だった頃にもスナフキンスナフキンではなかったか?
 彼は例外だよ。あれはモーヌの大将や風の又三郎みたいなものだ。スナフキンについてはきみとも超トロールということで議論は一致したではないか。
 では例のモノはどうかね、あれなどわれわれトロールの次元にあるとは考えるだに苦痛だが、残飯でも食料には違いないように劣等トロールと認めないではならないではないか。
 仕方ないさ、われわれは学者だからな。
・例のモノ=ニョロニョロ(不潔で卑しい存在で、公衆の面前で話題にするのは下品で悪趣味とされる)
 ……だがアレを劣等トロールとすると、まずあれは個体が群生しているのか、群そのものがひとつの個体なのかもわからん。またアレはしきりに生えたり消えたりするが、果してそれは同じモノなのか?
 きみもこだわるな、アレは意志はないが習性はある、つまり湿って不潔な場所を好むだけで、それは意志ではなかろう?きみが問題にしたいのもそこだろ、人格なきものがトロールなら意志なく習性あるのみのアレは劣等どころか純粋トロールなのではないか。
 ……。
 きみだって素朴な進化論者ではあるまい。猿から類人猿が進化したのではない。猿と類人猿のとげた進化は別々のものだ。まあ猿のことはどうでもいいが、仮に問題のアレが現存するもっとも素朴なトロールだとして、われわれの起源がアレとは限らんぞ。
 ならば、なぜ、アレが、存在する?
そう熱くなりなさんな、それを言えばわれわれだって存在の根拠はないさ。案外アレは戒めの象徴かもしれんぞ。さあ、飲み物でも決めよう。
 オチは無しか?
 会話も終ってないさ。さあ飲み物を頼もう。


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 みなさんチラホラ注文を決め始めたみたいですぜ、とスティンキー。あっしらも食事の前の一杯くらい決めましょうや。レストランって名乗るなら景気づけの酒くらいあるでしょう?
 それもいいが、私はまだ勤務中なんでね、とヘムル署長。早く勤務が明ければいいのだが、なにせこれだ、とヘムル署長は左腕を上げました。釣られてスティンキーの右腕も上がります。スティンキーはへつら笑いを浮かべました。
 ねぇ署長、せっかくのめでたい会食ですぜ。この際野暮は止めにして、警官と泥棒である前にムーミン谷の住民どうしとして愉快にやりませんかね?
 私だってそうしたいさ、きみにはムーミン谷警察署は財政面でも支えてもらっている恩義がある。きみの組織はムーミン谷の就職難を解消し、盗難活動によって谷の景気を活性化させる重要な経済機関でもある。だからきみの配下のコソ泥たちは自由に泳がせてあるではないか。
 署長の話はあっしみたいな学のない野郎には何が何やらですわ。だってムーミン谷の法とはヘムル署長次第なんでしょう?だったら今夜の勤務終了も、この手錠を外すのも署長次第じゃないですか?
・苦悩するヘムル署長
 ところがそう簡単にはいかんのだ。私の話が回りくどいのは申しわけない、なにしろヘムル族はヘムレン族と本家分家なのでね。
 はあ、それは存じています…でもなぜ手錠を?
 きみと手錠で仲良しこよしになるのは年がら年中のことだが、恩赦する時には部下に手錠の鍵を取りに行かせているだろ?
 ええ、電子ロックのカードキーでしたな。
 あれ以外の方法で無理矢理手錠を外すと、手錠から信号が発信されるのだ。
 なんの信号です?
 ムーミン谷中央広場地下のN2地雷起爆スイッチ。
 署長、冗談は死ぬ時だけにしてくださいよ!
 冗談ではないのだ。だからいくら私が法でも、この手錠を外さなければ勤務は終らないのだ。おたがい運が悪かったな。だが取り調べ中でも食事はできる。カツ丼にするかい?
 もっと縁起のいいものにしますよ。逃げ足の速くなりそうなやつ。
 じゃ私はダイエット中だからカロリー控え目で行く。ウェイター、頼む。ホッピー二杯、味噌汁とライスも二つ、私はカブラのズンドコ煮。きみは?
 トンビのパッパラ揚げにします。……ところで手錠のカードキーはどこに?
聞いても無駄だよ、ムーミンママのハンドバッグの中さ。


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 (喧騒)んにゃむにゃくにゃへにゃほにゃふにゃはにゃわにゃぺちゃくちゃわちゃはちゃわらわらわら……
・シャラップ!
 とミムラ姉さんがテーブルを一打しました。全員いちどにしゃべるんじゃないの!うちは35人もいるんだから、あんたたちだって自分がなにを言っているかわからないでしょ?
 だってミムラ姉さん…
 そこ!発言する時はちゃんと番号を名乗る!
 弟14号です、名前は…
 名前を聞いても意味ないから番号だけでよろしい!で弟14号、発言は却下。
 なんでです、まだ何も言ってませんよ!
 真っ先に発言しようとしたから却下!だいたい35人もいると最初の意見に付和雷同するのがいちばん簡単だからね。だから最初の意見は潰しておく!
 そんなのって!
 (付和雷同)ほにゃふにゃはにゃわにゃぺちゃくちゃ…
・ぐぎゃん!
 と弟14号の頭部がテーブル板にめり込みました。まるで超常現象のようですが、実際はミムラ姉さんが素早く不肖の弟の背後に回って張り倒し、素早く自分の席へと戻っただけです。ミムラ自身は格別並外れた身体能力を持っていませんが、35人兄妹の総領ともなると相対的には他を制圧する能力もあるもので、ときおり発動させるこの力にミムラ族の兄弟姉妹は震え上がりました。つまり彼らにとってミムラ姉さんは、
サイコキネシス
 所有者であり、
サイコメトラー
 と、
・テレポーター
 の能力も兼ね備えているかのように見えるのです。しかし欺かれる観客なしには魔術は魔術でないように、彼女の能力もいわばミムラ空間あってこそで、その空間とは総勢35人のミムラ族の兄弟姉妹たちでした。それに気づいているのは、ミムラ本人以外には、ミムラ族中もっとも矮小な体躯から単にミーと蔑称されている、ひがみっぽくキーキーうるさい妹だけで、兄妹たちの中でも例外的存在ゆえにミーだけはミムラ空間にありながらも姉の幻術にはかからなかったのです。兄妹たちがわらわらぺちゃくちゃやっていても、ミーの金切り声は決して喧騒に調和しないのでした。
 家庭では孤立しているために社会では外向的という性格はよくあるものです。ミーもそうでした。
 あたし、他のテーブルに行こうかな、とミー。
 ミー、とミムラはうろたえました。あなたも私たちの兄妹なのよ。このひと言がミーを増長させました。


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 ムーミン谷のなかでもとりわけ謙虚な存在といえば、誰もが思い出せないほど影の薄い双子夫婦のトフスランとビフスランでした。双子夫婦とは比喩表現ではなく、実際に双子であり夫婦なのです。
 夫婦というからには一方が雄の特性、一方が雌の特性を備えるはずですが、それは一般のトロールが生物学的に残した痕跡というべきで、トフスランとビフスランの夫婦を見る限りどちらが夫でどちらが妻かもわからない。これは遺伝子交換による繁殖を種族の形態とした雌雄同体で生物学的には低次ですが、トロールとしてはより高次の発達をとげたとも考えられるので、トフスランとビフスランの双子夫婦は近親婚とは見倣されず、ムーミン谷の人びともこの夫婦の存在は黙殺しておりました。
 そこで彼らはいちばんひっそりとした席で、読めないメニューを広げながら単純に注文を決めました。
・単純な注文
コース料理にしてもらえば食前酒とメインディッシュだけ決めればいいよね、と双子は以心伝心にウェイターを呼ぶと白ワインと海老フライ、赤ワインとハンバーグを頼みます。
 スープはお選びになれますが、それとサラダのドレッシングも、とウェイター。ライスとブレッドもご指定ください。食後のお飲物も各種ございます。
 受け承りました、では繰り返します、とウェイター。白ワインと赤ワインがお一つ、海老フライとハンバーグがお一つ、ブレッドとライスがお一つ、(中略)食後にアイスミルクティーとアイスコーヒーがお一つ、以上でご注文は……
 違うな、と夫婦は顔を見合せ、白ワインと海老フライ一つ、赤ワインとハンバーグ一つ。コンソメスープとフレンチドレッシングのサラダが一つ、(中略)食後はアイスミルクティーが一つとアイスコーヒーが一つ。
 はあ、では、とウェイターは機械的に反復し、数回目でようやく納得のいく注文を取りつけました。もちろん注文自体は同じで順序が違うだけです。単純なだけに融通がきかないのもこの夫婦で、双子となればなおさらのことでした。


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 スナフキンが着いたのは、夜も更けてからのことでした。谷は深い雪の中に横たわっていました。谷の両側にそびえるはずの山はまったく見えず、霧と夜の闇に包まれていました。街の中心地を示すかすかな灯りさえなく、スナフキンは長いあいだ国道から谷に通じる木の橋の上に立ちすくみ、ぼーっとなにもない空間を見上げていました。
 やがてスナフキンは泊まる場所をさがしに出かけました。宿屋はまだ開いていました。空いた部屋はありませんでしたが、宿屋の主人は突然の深夜の客に驚き、面食らって、酒場の床でよければゴザでも敷いて寝かせてあげよう、と申し出ました。それで結構、とスナフキン。農夫が数人まだビールを飲んでいましたが、スナフキンは誰とも口をきく気がしないので、屋根裏部屋から自分でゴザを下ろしてきて、ストーヴの近くに横になりました。暖かいな、とスナフキンは思いました。農夫たちは静かでした。スナフキンは疲れた目でしばらく彼らの様子をうかがっていましたが、やがて眠り込みました。
 ところが、うとうとしたかと思うとすぐにまた起されました。都会的な服装で、俳優にでも向きそうな顔立ちの、目の細い、眉の濃い若い男が、宿屋の主人と並んでスナフキンのすぐそばに立っていました。農夫たちもまだ店にいて、椅子をこちらに向け、成り行きを見守っている様子です。
 若い男はスナフキンを起したことを丁重にわびて、領主の執事の息子だと自己紹介したのち、告げました。この宿は、谷の領土です。ここに住む者や宿泊する者はすでに谷の中に住むか、または泊まるも同然です。それには公的入谷許可証が必ず要ります。ですがあなたは、その許可証をお持ちでない。というのが失礼になるなら、その許可証をご提示にならない。
 スナフキンは上半身を起こし、帽子をかぶり直すと、若い男と宿屋の主人を見上げて、どういうことでしょうか、と訊きました。
 申し上げた通りです、と簡潔に、若い男。
 それで、宿泊の許可が要るというのですか?とスナフキンは先ほどからのやり取りが夢ではないかと確かめるように言いました。
 そうです、この谷では、と若い男。そして、宿屋の主人や農夫に向かってあからさまにスナフキンを嘲る仕草をしました。
 この宿も谷だとおっしゃのですか?
 若い男はゆっくりと、もちろんです、と答えました。ここはムーミン谷という谷です。


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ムーミン谷の二人の長老賢者の対話
(ヘムレンさん)
 この谷の法律は誰もが知ることはできない。それはわれわれを支配する少数の議会の秘密で、それらが確実に守られているのは疑えない。とは言え知りもしない法律に支配されているのは何ともいえない苦しみだ。この谷の法律は実に古いので、その解釈には数世紀の歳月が捧げられ、解釈自体がすでに法律とも言える。議会が法律の解釈に当って個人的な利害からわれわれに不利益をもたらすいわれはない。法律はそもそもの始めから議会のために定められたもので、議会は法律の外にいる。だからこそ法律はもっぱら議会の手中に委ねられているのだ。
(ジャコウネズミ博士)
 言うまでもなく法律の中には知恵が含まれている--誰が古い法律の知恵を疑うだろう。だがそこにはわれわれの苦しみもある。これは法律の性質上避けがたいことかもしれない。
(ヘムレンさん)
 ……ともあれ、これらの法律らしきものは実は単に仮装かもしれない。法律が存在し、議会だけの秘密として委ねられているのは伝統だが、古い伝統、古いが故にもっともらしい伝統以上ではなく、また、そうであるはずもない。それはこの法律が秘密を条件にしていることからもわかる。
(ジャコウネズミ博士)
 けれどもわれわれが祖先の代まで遡り、議会の歴史と共に十分に研究して過去と未来に備えようとすれば、この場合、法律の全ては不確かとなり、おそらく理性の遊びに過ぎなくなるだろう。だがわれわれがここで検討するこれらの法律など存在しないかもしれないのだ。本当にこうした見解をとる小さな政党がある。この政党は、もしある法律が存立するとすれば、それは議会の行うことが法律なのだ、と証明しようとし、民衆の伝統を拒否する。実を言えば、この間の事情は次のような逆説でのみ表現できるのだ。
・法律への信仰と共に議会をも排斥するような政党があれば、たちまちに全国民の支持を獲得できる。だが議会を排斥する勇気は誰も持ちあわせていないのだから、そのような政党は発生し得ない
(ヘムレンさん)
 その刃の上に私たちは生活している。ある作家はこれを総括して言っている。
・われわれの上に課せられている唯一であり、目に見える、疑う余地のない法律は議会である。われわれはわれわれの持つこの唯一の法律を失おうとしてはいけないのだろうか?
 第三章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第一部・初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)