人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年4月25~27日/ フセヴォロド・プドフキン(1893-1953)の「革命三部作」

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 ロシア革命(1917年)以前のロシア映画も演劇文化の蓄積を生かして短編時代から長編映画への転換期だった1913~16年には十分な発展をとげ、イヴァン・モジューヒンやナタリー・リセンコ、アラ・ナジモヴァら舞台出身で映画製作者も兼ねていた国際的大スターを送り出していたのですが、革命前後にモジューヒンやリセンコは多数のスタッフとともにフランス、ナジモヴァはアメリカに亡命して亡命後にさらに活躍したので、一般的にはサイレント時代のロシア映画というとソヴィエト連邦建国(1922年)後のソヴィエト映画を指します。その革命後のソヴィエト映画を築いた映画監督としてセルゲイ・エイゼンシュテイン(『戦艦ポチョムキン』'25、1898-1948)、オレクサンドル・ドヴジェンコ(『大地』'30、1894-1956)と並び3大巨匠とされるのがフセヴォロド・プドフキン(Vsevolod Illarianovich Pudovkin, 1893-1953)ですが、プドフキンはもともと俳優出身で、師事した先輩監督で革命前から映画界で活躍していたレフ・クレショフ(1899-1970)より年長者でした。クレショフの門下生たちボリス・バルネット(1902-1965)、フョードル・オツェプ(1895-1949)はプドフキンとともにクレショフ中心のグループを作っていたので、共同監督作やおたがいの作品に出演してもいます。同時期に特異な実験派ドキュメンタリー映画監督だったジガ・ヴェルトフ(1896-1954)も含めて、20年代のソヴィエト映画界はロシア革命後の戦後(内戦ですが)改革とともにドイツの表現主義映画、フランスの印象主義映画(これは亡命ロシア映画人の貢献が大きいものでしたが)と競って世界映画の最前線に立っていました。革命10周年を迎えた1927年頃までは映画界は自由な気風が許されていたのですが、1929年頃を境にソヴィエト政府=ソヴィエト共産党スターリン独裁体制が強まると上記の監督たちは従来なら許されたような自由な企画が通らず、国策に沿った映画作りを強いられ、オシップは亡命し、不遇に追いやられたバルネットは失意の果てに自殺してしまいます。最大の存在だったエイゼンシュテインですらちょうどスターリン独裁体制と重なったサウンド・トーキー以降には2作しか残せず(うち遺作となった『イワン雷帝』は三部作のうち第3部が製作許可されないまま未完)、さらに政府許可のもとアメリカの独立プロからの出資でメキシコ・ロケした作品も未完のままエイゼンシュテインには無断で編集・公開されてしまったり、ソヴィエト映画省によって完成した新作長編映画もまるまる1本破棄される、と散々なことになります。スターリン没後のスターリン独裁体制批判が定着した頃には上記の監督たちは亡命して帰国する気はないか、亡くなっているか、老いて第一線を退いているか忘れ去られてしまっていましたので、戦前ソヴィエト映画の黄金時代は'20年代半ば~末と非常に狭い時期になります。プドフキンの場合第1長編~第3長編の3作がのちに「革命三部作」と呼ばれ、この三部作だけが現在でもプドフキンが十分に力量を発揮した古典的作品と見なされており、エイゼンシュテインの『ストライキ』'24、『戦艦ポチョムキン』、『十月』'28の初期3作、ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」と肩を並べるサイレント時代のソヴィエト映画の記念碑的作品として製作から90年あまり経った現在でもくり返し再評価され、論じられる代表作になっています。師のクレショフやライヴァルのエイゼンシュテイン同様プドフキンは映画理論家としても業績の大きい人で、1933年に英訳でまとめられた『映画の技術』は日本語訳もされ、スタンリー・キューブリックは同書を映画理論の原論として熟読しもっとも影響を受けたと表明しており、キューブリックのような木の股から生えたような鬼才でもプドフキンから学んだというのは麗しいエピソードです。なお、プドフキンの日本公開作は少ないですが「革命三部作」のうち2作は日本でも劇場公開されており、歴史的意味も踏まえて初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●4月25日(木)
『母』Mat (Mezhrabpomfilm, Moscow'26.Oct.11)*89min, B/W, Silent : https://youtu.be/HlP9uGQ56ag (with English Subtitles) : 日本公開昭和45年11月

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 サイレント時代のソヴィエト映画の符丁のように使われる言葉にプドフキンの師レフ・クレショフの提唱したモンタージュ理論というのがあり、クレショフはアメリカ映画、特にアメリカ映画の父で体系的な映画手法の創始者とされるD・W・グリフィス(1875-1948)の諸作を弟子たちと研究し、グリフィスが体系化したフィルム編集(モンタージュ)の技法はさまざまな異なるコンテの映像を編集することで躍動的に物語を運ぶものですが、この編集(モンタージュ)自体が映画ならではの不思議な効果を生み出すのに着目しました。クレショフはロシア革命前のイヴァン・モジューヒンの映画のフィルムを使い、モジューヒンの笑顔→皿に乗ったステーキ、というモンタージュではモジューヒンの笑顔は食欲で健康的に喜んで笑っているように見えるのに、まったく同じモジューヒンの笑顔→年頃の少女、とモンタージュすると好色な目を向けている助平親父に見えるのを確かめ、映画の1ショットはそれ自体で完結した意味を持つのではなくモンタージュされた前後のショットで意味を形成するという原理を提唱しました。これはクレショフ効果と呼ばれるようになりサイレント時代のソヴィエト映画の方法的自覚となりましたが、クレショフ効果自体はクレショフの発明ではなくグリフィス始めハリウッドのアメリカ監督たち、旧ロシア映画や北欧映画やドイツ映画の表現主義、フランスの印象主義映画でも直感的に行われていたことです。またモンタージュ理論の解釈と応用もクレショフ自身と弟子のプドフキンやバルネット、エイゼンシュテインやドヴジェンコ、ヴェルトフでは監督ごとに異なっており、モンタージュ以前の1ショットだけでも映画ですから当然独自のコンテがあり、ショットの中に動きがあるわけです。サイレント時代にモンタージュ理論が重視されたのは映画がまだ音声を伴わず、また撮影機材の条件のため技術的に移動撮影が困難で固定ショットの積み重ねで撮影していくのが通例だったためなので、撮影機材の発達でフィルムが音声化(サウンド・トーキー)し、移動撮影も容易になると1ショットの長い移動撮影が音声を伴うためモンタージュに依らない技法も生まれてきます。そこであえて極力コンテを割らずできる限り長回しで押していく、という映画監督たちも世界諸国で現れますが、長回しで不自然でなくできることは限界があるのに対してめりはりの効いたコンテを割って効果的にモンタージュするのは映画の原則には違いないので、モンタージュの可能性に焦点を絞ってさまざまな映画表現を試みたサイレント時代のソヴィエトの映画は国家予算規模で世界最高水準のすごい映画を作る、という野心に燃えたものになり、それを代表する『戦艦ポチョムキン』が確かにものすごい映画だけれどよく考えると劇映画というよりも世紀に数人の怪物的でマッド・サイエンティスト的な天才映画作家の壮大な映像実験の感じが違和感になっているので、むしろサイレント時代のソヴィエト映画への入り口としては情感豊かなプドフキンやドヴジェンコ、バルネットらの映画の方がふさわしく思えます。のちに「革命三部作」と呼ばれるようになったプドフキンの長編第1~3作はどれも傑作のほまれ高いものですが、中でも第1長編『母』はゴーリキーの同名長編小説('06年刊)の映画化作品ですが、これは本当に素晴らしい。俳優時代が長く監督デビューが遅れた(とはいえまだ30代前半)プドフキンですし、本作は戦前の日本では『戦艦ポチョムキン』とともに横浜まで取り寄せられるも税関で送り返されて、'68年のソヴィエト国立モスフィルムのレストア版によって日本では初めて'70年にエイゼンシュテインの第1長編『ストライキ』'24とともに公開がかなったそうですが(『戦艦ポチョムキン』はスターリン没後すぐにレストア版が作られ世界的にリヴァイヴァル公開、日本ではその時初公開されていました)、『戦艦ポチョムキン』に10年遅れて復原されたのも不運で同時にリヴァイヴァル公開(日本初公開)されていたら本作やプドフキンは決してエイゼンシュテインに水を開けられなかったろうと思えます。本作は貧しい庶民の労働者家庭の老主婦がいわばロシア革命前夜のジャンヌ・ダルクになるまでを描いた作品です。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 帝政ロシアの圧政の下で革命の一翼を担ったひとりの母の人間的成長とその革命を描いた作品。製作はメジュラブ・ルーシ・プロダクション。1969年にモス・フィルムによってサウンド版が製作された。原作はマクシム・ゴーリキーの同名小説。監督は「アジアの嵐」のフセヴォロド・プドフキン、脚色をナターン・ザルヒ、撮影はアナトリー・ゴロブニヤ、美術はセルゲイ・コズロフスキー、音楽はチーホン・フレンニコフがそれぞれ担当。出演はヴェラ・バラノフスカヤ、ニコライ・バターロフ、アレクサンドル・チスチャコフ、アンナ・ゼムツォワなど、プドフキンも警官役で出ている。
[ あらすじ ] 二十世紀初めの帝政ロシア。金属工のウラーソフ(アレクサンドル・チスチャコフ)は毎日、居酒屋で労働の疲れとウサ晴らしに飲んだくれていた。妻のペラゲーヤ(ヴェラ・バラノフスカヤ)は夫にどなられ、ぶたれ、貧しさと惨めさに打ちひしがれて生きていた。息子パーベル(ニコライ・バターロフ)は恋人アンナ(アンナ・ゼムツォワ)等と地下運動に挺身していた。或る夜、居酒屋で父は、スト破りの相談をしていた右翼暴力団に目をつけられて、スト破りに誘われる。同じ夜、アンナはパーベルの所に武器の入った包みを預けにきた。母は眠ったふりをし、息子が包みを床下に隠すのを見た。翌朝、パーベル等はストライキを呼びかけるため工場に行ったところをスト破りに包囲され、乱闘となる。そして、その乱闘に加わっていた父はピストルで射たれ死んでしまう。母は悲しんで、息子に危険な事はやめてくれと頼む。そこへ軍隊がやって来た。「武器のありかを白状すれば許す」と言う言葉に母は床下に隠してあった武器を出す。しかしパーベルは逮捕された。裁判が開かれ、懲役刑が言い渡された。「真実はどこ!」――母の悲痛な叫びが法廷に響いた。母は悲しみから驚きへ、驚きから怒りへと目覚め一歩一歩息子と同じ戦列へ進んだ。獄中の息子に会い、メモを手渡す。息子は微笑みかけた。メモは五月一日の脱獄計画が書かれていた。その日は街の隅々から労働者達が、まるで雪どけの小さな流れが大きな流氷の河に流れ込むようにデモの隊列に加わっていった。勿論、母もいた。赤旗が翻った。囚人達も呼応した。多くの囚人が射殺されたが、パーベルは河の流氷づたいに脱出した。パーベルがデモ隊に合流し、母と抱き合って再会を喜んだ瞬間、騎兵隊の一斉射撃が息子を射ち殺した。母は投げ出された赤旗を持ち、襲いかかる騎兵隊の前に立ちはだかる。しかし、騎兵の剣が一閃し、母は殺された。だが、氷を押し流す激流のように再度、赤旗はロシアに翻るであろう。
 ――良くも悪くも『戦艦ポチョムキン』が集団劇なら本作の良さはごく自然に感情移入できる等身大の、平凡ですらある庶民家庭の主婦の老母がヒロインになっていて、エイゼンシュテインモンタージュ理論の帰結として映画のリアリズムには職業俳優は排除し風貌だけが役柄にふさわしい素人を配役する(すなわち人物は映像素材にすぎない)という徹底した映画作りでしたが、プドフキンは主要キャストには舞台経験のある職業俳優を配しました。エイゼンシュテインの映画のように人物は集団の1要素(断片)でしかない描き方は実験性では画期的ですが、普通映画はプドフキンのように数人の主要人物に興味を集中させて観客を映画に引きこむ視点人物を置き、壮大な群像劇になるとしても視点は主要人物たちの運命をたどることで共感や感動が生まれるものです。プドフキンを尊敬するキューブリックがグリフィスやエイゼンシュテインアベル・ガンスはやりすぎだと批判するのは良識なので、本作はもう90年以上も昔、映画の設定は1905年(戦艦ポチョムキンの叛乱も同じ年のことです)ですから映画製作時から20年前のロシアのスラム街を舞台にしているのですが、もう音声がついてカラー化されれば現代映画とほとんど変わらないみずみずしさがある。酔った初老の労働者が夜の暗い路上から千鳥足で帰宅して、いかにも不機嫌な面もちでいる。老いた妻が夫をおどおどして迎え、若い息子は背を向けている。夫の視線で主婦はハッと壁の掛け時計をかばいますが(観客は主婦の視点で夫が時計を酒代のために質入れしようとしているのを悟ります)、夫は時計を壁から剥がそうとして夫婦はもみ合いになり、息子は立ち上がるが時計は床に落ちて割れて壊れてしまう。息子は父親にくってかかり、母親は二人をなだめようとして……というのが字幕も音声もないのに伝わってきて、この貧しい労働者家庭がどういう家族か冒頭の数分間の場面だけで響いてきます。その夜、若い女が青年の部屋の窓を叩いて包みを差し入れし(この二人が恋人らしいのも仕草だけでわかります)、青年は居間の板張りの床下に包みを隠しますが、物音で気づいたらしい老母はドアの隙間からそれを見るも気づかないふりをして再び眠りにつく。映画冒頭のここまでの2シークエンスの流れは自然かつ意外性や静と動の対比もある見事なもので、映画史上でもこれほど完璧な導入部はないでしょう。しかも父親が資本家に工事ストライキのスト破りに雇われ、一方息子は労働運動にたずさわっていたのでストライキ鎮圧の際に射殺された父親の事件がらみでストライキ首謀者と目されて逮捕され、老母は息子の無罪のためにと警察(と軍隊)に情報提供を求められ床下の銃器類の包みを明かしますが、裁判はまったく機械的に息子を極刑判決の有罪にしてしまう。映画は母の権力への怒りとともににわかに政治映画に拡大し、労働者グループは青年の救出のために監獄を襲撃する計画を立てます。母は息子に短い時間だけ面会を許され、息子に監獄襲撃の計画のメモを渡します。「明日」とだけ書かれたメモで息子は母の面会の意味を察知し、鉄格子を握る青年の表情に野原で自由に遊ぶ少年の映像が再度「明日」の字幕とともにクロスカッティングされます。クライマックスで監獄を襲撃した労働者たちの群衆が軍隊に制圧されて屍死累々となり、流氷を渡ってきて再会がかない、抱きしめた息子も流弾に絶命してしまう。老母は倒れた息子の額の血を泥まみれの手で拭い、息子が掲げていた赤旗を掲げて押し寄せてくる騎馬隊に立ち向かい疾走してくる騎馬隊は老母を踏み殺してなおも労働者たちを虐殺していきます。流氷が激流に激突しあいながら流れていく状景がモンタージュされて民衆の怒りと革命運動の継続が暗示されて、この極端に字幕の切りつめられ、説明めいた字幕は用いられない映画は幕を閉じます。クライマックスの憲兵対隊による労働者虐殺場面は『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段の大虐殺」へのプドフキンの挑戦ですが、群衆劇で押し通すエイゼンシュテインに対してプドフキンはヒロインの主婦の老母の息子を失った悲しみと怒り、死を覚悟した最後の決起に焦点を集中させる。決然と赤旗を掲げゆっくりと進んでいく老母の正面からのショットと押し寄せてくる騎馬隊のやはり真正面からのショットのクロスカッティングは決定的瞬間を俯瞰のロングからの構図に突然切り替わり騎馬隊が平然と老母を踏み殺して通過していくことで老母の死の痛切さを増幅します。プドフキンの「革命三部作」はいずれも別個の趣向がある名作ですが、1作選ぶならやはりこの『母』がずば抜けている。また三部作共通に「密告」「裏切り」が主人公の革命への覚醒と決意の契機になっており、これは「革命三部作」のテーマ面での共通点になっているのも三部作の第1作にすでに続く2作への萌芽が始まっており、権力者の不正へのプドフキンの強い怒りが凝縮されている観があります。いずれにせよエイゼンシュテインにはない等身大の人間への共感がプドフキン最高の美点であり、『戦艦ポチョムキン』より『母』にはるかに正統な映画のエッセンスが豊かに息づいていると思われるのはそれゆえのことです。

●4月26日(金)
『聖ペテルブルグの最期』Konets Sankt-Peterburga (Mezhrabpomfilm, Moscow'27.Dec.14)*87min, B/W, Silent : https://youtu.be/-Pe72HmPFt8 (English Subtitles) : 日本未公開(特殊上映)

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 前書きでは7人の同時代監督の名前を上げましたし'20年代のソヴィエト映画にはこの7人の監督は外せないと思いますが、サイレント時代のソヴィエト映画というとあまりにエイゼンシュテインが突出していて、知名度でも実際に広く観られている頻度も他の監督が顧みられる機会はは合わせて1割に達するかどうか、といったところではないでょうか。戦前の外国の古典映画でしかもお固くあまり楽しくなさそうで世相習慣にも馴染みがなく社会主義の宣伝めいてそうなソヴィエト映画、その上サイレント映画となると、たぶんサイレント時代のソヴィエト映画で突出して観られているエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』は観る人を圧倒するものすごい傑作ですが、こういうものならこの1本観れば十分と懲りてしまったりエイゼンシュテインの長編全7作とはどんなものだろうと興味を持っても同時代の他の監督のソヴィエト映画に興味を広げていかないような性格が『戦艦ポチョムキン』にはあって、サイレント時代のソヴィエト映画の代表作がこれなら他の監督の作品は昨今の呼び方をすればどうせ劣化コピーだろうと思わせてしまうような尖り方がある。それに対してプドフキンがいかに正統的な作劇術で優れた成果を発揮したかは長編第1作『母』だけでも十分に伝わってきますし、実験的ドキュメンタリー監督ジガ・ヴェルトフの独自の実験性を除いては他の映画監督の映画作法はエイゼンシュテインより人間性の描写を重視したプドフキンの立場にずっと近いのです。理論家のトップを切ったクレショフやその愛弟子バルネットなどはコメディ作品で傑作を作ってもおり、やはりクレショフに師事したプドフキンも監督デビュー短編「チェス狂」'25は喜劇映画でした。プドフキンの作品では、完全無欠の名作『母』よりも「革命三部作」の第2作、第3作はさらに野心的な尖鋭化があり、成否で言えば『母』よりムラのある仕上がりですが、『母』1作ではなく第2作、第3作を含めた「革命三部作」の作者だからこそ巨匠と見なされるだけの重量感がプドフキンにはあるので、三部作中でも比較的あまり観られる機会の多くない第2長編『聖ペテルブルグの最後』も必見の傑作になっている。本作は海外盤のDVD発売はありますが日本未公開・日本盤未DVD化作品で、特殊な文化会館上映しかされていませんがルネ・クレールも映画史上最高最愛の作品に上げており、『母』とも第3作『アジアの嵐』とも異なる魅力があります。簡単に本作の概要、あらすじを記しておきましょう。
◎共同監督にミハイル・ドレルが当たり、脚本ナターン・ザルヒ、撮影アナトーリー・ゴロヴニャ、編集オレクサンドル・ドヴジェンコの布陣で製作された本作はエイゼンシュテインの『十月』'28同様ロシア革命10周年を記念して企画された、革命前夜からロシア革命成就までを描いた作品です。映画はヴォルガ地方の農村地帯ペンザの貧農たちの生活描写から始まります。素朴な農民の青年(イヴァン・チュヴェレフ)が職を得るために同郷出身の知人の中年夫婦(アレクサンドル・チスチャコフ、ヴェラ・バラノフスカヤ)を頼って聖ペテルブルクに到着します。しかし夫妻の夫の労働者は労働運動のリーダーで、ちょうど工場ストライキを始めたばかりでした。ペテルブルグには厳しい、ほとんど奴隷のような労働条件しかない工場労働しかありません。職にすぐ就けなかった青年は会社社長(ウラジミール・オボレンスキー)に直談判しに行き、面接で誘導質問されて知らず知らずのうちに労働者のリーダーである同郷出身の恩人の逮捕を手助けしてしまいます。青年は恩人の逮捕にようやくことの重大さに気づいて自責の念に駆られ、検察官(セルゲイ・コマロフ)に資本家の不正行為を直訴しようとしますが、門前払いを食らって騒動を起こした青年は逮捕され、懲役により第一次世界大戦の軍役に送られ、そこで戦友たちと革命の計画を語りあいます。3年後の1917年、戦場から帰った青年は労働者のリーダーになり、十月革命の内戦準備を整えます。恩人の夫人と再会した青年は禁固刑にされていた恩人の処刑が間近であることを知らされ、処刑場に乗りこんで軍隊に反旗を訴えて恩人の救出に成功しますが、さらに過酷な十月革命の実行が青年と労働者たちを待ち受けます。映画は内戦で戦死した青年の死を看取り、生き残った労働者兵たちに金バケツで持参してきた塩ゆでのじゃがいもを配り、廃墟となった聖ペテルブルグ寺院の回廊をひとめぐりして去っていく労働者夫人の姿で終わります。
 ――本作は題材・内容ともにエイゼンシュテインの『十月』と比較されますが、『十月』が徹底して群像劇であり特定の主要人物を排した作劇術なのに対して本作は青年とその同郷出身の恩人夫婦を主人公としてキャラクターの掘り下げとドラマがあり、やはり1905年の帝政下の民衆蜂起とその弾圧を描いた『戦艦ポチョムキン』と『母』の対照が『十月』と『聖ペテルブルグの最後』にもある。レーニンを最高指揮官とするボルシェヴィキ革命をドキュメンタリー的に映像で徹底再現してみせるのが『十月』の意図なら、プドフキン自身の出身地でもあるペンザの農村から始まりプドフキン自身と同世代の青年の上京物語である本作は、あり得たかもしれない10数年前のプドフキン自身の運命でもあったわけで、プドフキン自身は内戦で命を落としませんでしたが実際につい10年前の出来事なのが本作を血の通った映画にしています。「革命三部作」はいずれも権力からの抑圧に無自覚な主人公が裏切り・密告の過程を経て叛逆に目覚めるプロットを持っていますが、あてにしていた就職がふいになった失望と職に就きたい一心で結果的に恩人夫婦への密告者になってしまう。青年が事の重要さに気づくのは軍用車に騎兵とともに乗せられてアパートの中庭に案内させられ、地下室に住む恩人が逮捕されて連行され夫人が泣き崩れ、驚いて出てきた主婦たちやアパートじゅうの窓から軽蔑の眼差しを受けながら会社社長に採用メモとチップを渡されて恩人を連行した車が去っていく場面で、このシークエンスでのアパートじゅうの窓の仰角ショット、中庭の様子をとらえる俯瞰ショット、青年の視点による人々から受ける軽蔑の眼差しは圧倒的で、このシークエンスは鋭く一度観たら忘れられない「密告」の名場面です。田舎出の素朴な青年が期待して上京してきたのに夫人に迎えられて家に上がると恩人の労働者は「ついてない時に来たな。明日からストライキなんだ」そして妻に「仲間たちと計画を練るから今夜は泊めてやってくれ」と自分のことは後回しにされる失望、そして体よく密告者にさせられて怒って乗りこんで行くも門前払いを食らい格闘になって逮捕されてしまう場面とシークエンス単位は非常に鋭く良いのですが、第一次大戦の兵役3年間が挟まると構成のバランスは崩れ、銃殺刑にされる恩人の救出に駆けつけて処刑に並んだ騎兵隊に反旗を呼びかける場面は『戦艦ポチョムキン』の「甲板上のドラマ」のシークエンスと似ていますが、これは『戦艦ポチョムキン』に軍配が上がります。十月革命の戦闘自体は案外あっけなく、むしろ恩人の夫人が塩ゆでじゃがいもを生存者の労働者兵に配りにきて青年の死を看取る、内戦終結直後の「聖ペテルブルグ寺院の終焉」の静謐な場面が印象に残ります。最初観た時は金バケツでじゃがいもを提げてきた夫人がじゃがいもを渡すと生存者が食べ始めるので何かと思いましたが、そうか塩ゆでじゃがいも配りなのかと合点がいくまで数秒かかりました。日本の感覚だとおにぎりを配るようなものでしょう。「聖ペテルブルグの最後……」と字幕が出て夫人が寺院の回廊を去って行く結びも余韻深いですが、全編の構成の緊密さ、完成度では『母』の方が上位に上がります。しかし本作は『母』とは違う角度で人物像の掘り下げ、表現の豊さがあり、意図せずして密告者となった主人公の素朴な青年の痛覚は前作では描き得なかったもので、本作もまたプドフキンの傑作と呼ぶに足るものです。

●4月27日(土)
『アジアの嵐』Potomok Chingiskhana (Mezhrabpomfilm, Moscow'29.Nov.10)*125min, B/W, Silent : https://youtu.be/sCE5447sjQY (with English Subtitles) : 日本公開昭和5年10月

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 本作は戦前に日本公開された数少ないソヴィエト映画で、キネマ旬報ベストテンは昭和5年サイレント映画サウンド・トーキー映画の両立時代でしたので3位までの発表(当時は読者投票)でサウンド・トーキー映画とサイレント映画を分けてベスト3が選ばれ、本作は外国映画サイレント部門の2位(1位はヨーエ・マイの『アスファルト』、3位もマイの『帰郷』。外国映画サウンド・トーキーは1位マイルストン『西部戦線異常なし』、2位ルビッチ『ラヴ・パレード』、3位なし)に選ばれる評判作になりました。さて、映画監督以前に映画史家・映画批評家として出発したジャン=リュック・ゴダールは革命派ソヴィエト映画監督の熱烈な支持者ですが、ソヴィエト映画の傑作の数々は本質的にはハリウッド映画と同じものではないかとも喝破しており、クレショフやその門下生たちやエイゼンシュテインはグリフィスを始祖とするアメリカ映画を徹底的に研究・摂取して映画を作ったので内容はソヴィエトの政治的姿勢を反映していても技法はハリウッド映画の技法の応用ではないかと疑問を呈し、完全に非(反)ハリウッド的な映画はヴェルトフだけではないか、と一時スターリン独裁化以前のソヴィエト映画にすら否定的な見解を示していた時期がありました。実際にはドヴジェンコ、バルネット、もちろんプドフキンらの劇映画にはハリウッド映画の規格では割り切れない感性があり、ゴダールも過激な発言をより視野の広いソヴィエト映画への再評価に訂正しますが、ゴダールの指摘は一応正当なのでソヴィエト映画は技法的にはハリウッド映画の応用であってもアメリカ映画、またキリスト教圏の資本主義国では道徳的・法的規制によって踏みこめなかった領域にずかずかと踏みこんだのは特筆すべきことで、アメリカやドイツ、フランス、北欧(そして日本)の監督たちも表向きは社会道徳と妥協して巧妙な社会・権力批判の映画を稀に作っていたのに対して正面から旧制度・権力批判の映画を作ることができた。また映画史的にアメリ長編映画の始祖グリフィスに映画の原点があると集団運動によってグリフィス直系の映画作りを指向したのも特筆すべきことで、'20年代当時グリフィスはアメリカ本国では次第に冷遇されつつあった時期でした。『戦艦ポチョムキン』や『母』の群衆大虐殺場面は明らかにグリフィスの『国民の創生』'15や『イントレランス』'16から生まれたヘソの緒が見える。『母』のクライマックスの流氷の場面はグリフィスの傑作『東への道』'21クライマックス場面の流氷の転用です。ソヴィエト映画監督たちがグリフィスの前例を意識していないわけはないのでそこにはグリフィスが意図せず表現していた、またはグリフィスの意図以上の意味をこめてより映画表現そのものを強烈にしようという方法的自覚があり、見事な成功を収めている。グリフィスを映画の父、映画そのものと敬愛・偏愛し、ほとんど崇拝して譲らないゴダールが'20年代のソヴィエト映画監督たちに共感して熱中したり冷めたりをくり返すのもグリフィスとソヴィエト映画の関係からなので、プドフキンもまた映画という新しいメディアにどれだけの表現の可能性があるかを切り開いた古典映画の始祖(ソヴィエト映画自体がその第二世代ではありますが)たる風格があります。グリフィスの映画は内容的にはスペクタクル的側面がソヴィエト映画に受け継がれたのですが、「革命三部作」中本作だけが戦前に日本公開可能だったのは西洋人の搾取に気づいて民族意識に目覚め自治独立の闘争に向かうモンゴル人、というスペクタクル作品だったので社会主義宣伝映画ではないと検閲を通ったと思われ、プドフキンとしては列強の搾取からアジア諸国もロシア民衆ののように立ち上がるべきだという意図だったでしょうし、日本の観客の好評も本作の革命映画としての性格によるものと思えます(日本の治安維持法施行と共産主義者弾圧は前年からのものです)。ただし'28年中に完成していた本作が本国でも'29年末まで公開されなかったのは、同年のエイゼンシュテインの第4長編『前線』がスターリン独裁化の兆しとともに内容改変を迫られ『古きもの新しきもの』と改題改訂公開されたのと同様の背景が想像され、また本作はあまりにスペクタクル映画にすぎる感じも受けるのですが、感想の前に日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ]「生ける屍」に主演して我国にも知られているフセヴォロド・プドフキン氏が自ら監督に当った映画で脚色はオシップ・ブリック氏、撮影はプドフキン氏の片腕として「セント・ピータースプルグの最後」等を手がけたアナトーリー・ゴロウニヤ氏。主役を演ずるインキジノフ氏は純粋の蒙古人である。因に此の映画は別名「ジンギスカンの後裔」とも言われている。無声。
[ あらすじ ] 茫漠たる蒙古の広野に育った猟師ティムウル(ヴァレリ・インキジノフ)は病床にある父親から珍しい銀狐の毛皮を渡され金に換えようと市場に出立する。一年に一度開かれるこの市場では蒙古人が遠い路をはるばる運んで来た毛皮が売買されるのであるが、買手たる白人商人(ヴィクトル・ツォッピ)は狡猾な手段でいつも彼等の品物を強奪的に安価に手に入れている。ティムウルが持って来た銀狐の毛皮は市場の人気を呼んだが悪辣な白人商人は僅かな値段で買落とそうとする。これが因でティムウルと白人との間に争いが起り軍隊の出動となったが友人の計いでティムウルは山中に逃亡し、ゆくりなくも蒙古独立の志士の一隊にめぐり会う。そしてこの義勇団の団長の危険を救ったことから彼もまた団員として仲間に入ることを許される。此の地に来ている自国商人の利益を保護し隙あらば土地までも我物にせんと言う侵略的野心を持つ白人国の政府はかねてから此所に一団の軍隊を駐屯させていたがその司令官ペトロフ(L・テディンツェフ)はその内意を色にも出さず、表面和平を説えて此の地の宗教喇嘛教の儀式などに参列している。だが蒙古独立の義勇団と自国の軍隊とが交戦中との報知を受取り彼が司令部に帰って見ると、そこには一人の蒙古人が捕えられていた。この蒙古人こそティムウルであったが、ペトロフは彼を反抗者の一人として直ちに銃殺の刑に処さんとする。所が一伍長に命じてティムウルを処刑に出した後、ペトロフがティムウルの所持品を調べてみるとこの蒙古人がヂンギスカンの後裔であることが判明する。そこで老獪なるペトロフは一計を案じ谷底に瀕死の状態でいるティムウルを連れ戻し手厚い看護を施す。ティムウルは未知の白人の中にあって元気を回復してゆく。かくてペトロフはティムウルを蒙古王に祭り上げ自らその実権を握ろうと計画をめぐらす。ティムウルは美しい白人の夫人(L・ビリンスカヤ)から見世物扱いにされているのを心づかず司令官の野心の傀儡となって無意味の日を続ける。だがペトロフの奸策や一切の虚飾の剥がれる日が到来した。或日司令官の令嬢に毛皮を持参した男があった。この男こそティムウルを恥しめた商人でありその持参品は問題の毛皮であった。ティムウルの怒りは一時に燃え上り彼は人々の前面で令嬢(アンナ・スダケヴィッチ)の頚に巻かれた毛皮を奪い取る。忽ち官邸内は騒然となる。折から捕虜となった一蒙古人が彼の面前で惨殺される。いまは猛虎の如く怒り狂ったティムウルは阿修羅の如く荒れ廻り厩より荒馬を奪って去る。蒙古は遂に立った。横暴なる白人に対して起った。ティムウルを先頭に数万の義勇団の馬蹄の響き、突如アジアの広野に嵐が起った。ペトロフの軍隊は銃をとって走る。嵐に面をそむけながら。嵐は力を増す。丘の大樹は吹き干切られる。岩も飛ぶ。軍隊も吹き飛ばされる。ティムウルの一隊は勝鬨あげて過ぎる。ペトロフの一隊は重なり合って丘をころがり落ちてゆく。
 ――本作の原題は『ジンギスカンの末裔』でその方が内容に即していますが、海外版(アメリカ輸出版)が『Storm Over Asia』だったため現行の邦題になったようです。現行の日本盤DVDは'30年代に音声をダビングした擬似トーキー版で長さも87分と短縮され、海外版DVDではサイレントの125分版が観られますが40分近い短縮で擬似トーキーというと難があり、しかし125分版はやや冗長に感じる。『聖ペテルブルグの最後』は初公開時は2時間あまりだったのがのちにサイレントのまま87分で決定版になったようですが同作の場合は冒頭のペンザの農村風景や第一次大戦などが短縮されたと思われるので適切な短縮編集だろうと思われます。本作は途中でモンゴル人の主人公(「ジンギスカンの末裔」とあとで判明し政治利用されそうになる)が白人のパルチザン部隊に加わり、パルチザン部隊の隊長ペトロフの視点が入ってくるあたりからが視点人物が割れるのが冗漫さと焦点の定まらなさになってくる。『アジアの嵐』と改題したアメリカ輸出版、日本公開版の由来はクライマックス場面が大嵐の中の戦闘になるのですが、『母』や『聖ペテルブルグ~』ではパンフォーカス、ピント送りやカット割りでさりげなく美しく繊細な映像構成に成功していたプドフキンが、本作では題材に見合った手法をと考えたのでしょうが、非常に荒々しい映像やモンタージュが目立つのも本作の特色で、本質的には本作はアクション映画でありスペクタクル映画としてもプドフキンの考えたモンゴル人の民族性というのが映像の荒々しさで表現されているのだとしたらちょっと問題です。アベル・ガンスのようにコマ単位のクロスカッティングも多用され、はっきり言って本作の映像表現は『母』や『聖ペテルブルグ~』より古びて見えます。またクライマックスのものすごい嵐の中の戦闘もリアリズムを通り越していて嵐そのものが象徴表現として用いられているように見え、これも映像表現として適切なものかどうか疑問に感じられます。主人公の怒りは加わっていたロシアのパルチザン部隊そのものが自分たちの部族から搾取していたイギリス人商人たちと変わらず、ラマ教圏を支配しようとしており、そのため自分がジンギスカンの末裔と判明すると政治利用しようとするのに気づいて爆発してモンゴル民族独立のために謀叛を起こすのですが、スターリン独裁化前兆期に本作が公開延期になった気配があるのはスターリン政権はむしろ本作で描かれたようなアジア隣接圏の共産党支配に乗り出す意図があったため、内容を改訂させるかこの内容で公開して現在のソヴィエトはアジア諸国の民族独立を奨励すると表向きは通しておくかで映画省内で検討されたのだと思います。しかしいろんな意味でプドフキンの意欲的問題作の本作はプドフキンらしい細やかでさりげない描写もあちこちありますし、西欧のブルジョワ批判もあり、この題材をアベル・ガンスが撮ったらと思うとさぞやけたたましい代物になったでしょうから、本作のいただけない点はグリフィスよりもガンスの映画に近いからなのですが、題材・内容・手法・仕上がりのいずれも異色であるところに本作の価値はあり、好き嫌いを置いても「革命三部作」の掉尾を飾る大力作には違いありません。また異郷冒険大スペクタクル映画として本作が大好きという感想があってもおかしくないので、冗長さも含めての大作感ともにそれがプドフキンの狙いなら本作も大成功作で、その証拠に戦前の日本公開は大好評を博しています。もちろん戦前の日本の観客はソヴィエト映画らしい危険な匂いを嗅ぎつけたからこそ本作を大歓迎したのです。