人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年1月7日~9日/短編・中編時代のハロルド・ロイド(4)

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 映画俳優としてのキャリアを'13年に始めたハロルド・ロイド(1893-1971)は'13年に短編7編、'14年には短編5編の助演を経ただけでしたが、'15年に盟友ハル・ローチ(1892-1992)が独立プロダクション「ハル・ローチ・プロダクション」を起こして看板俳優として友人ロイドを迎えたため、初めて主演に起用されます。'15年前半の短編14編にはロイドの役柄にはまだ固定したキャラクターがありませんでしたが、7月からそれまでシリーズ作品を持たなかったロイドはローチの企画でチャップリンの放浪紳士キャラクターをパクった「ロンサム・リューク」シリーズを'15年後半に15編、'16年に34編を作るも、'17年9月から眼鏡キャラクターのシリーズを主力にして'17年に11編を作り、「ロンサム・リューク」は'17年末までの20編で終わりにします。眼鏡キャラクター2年目の'18年には36編もの1巻の短編を10月までに発表したあと初めて2巻のだに移り、11月に2編、12月に1編と3編を発表しましたが、11月作品でそれまでロイドの相手役ヒロインだったベイブ・ダニエルズ(1901-1971)が降板、12月の「其の日暮らし」で初起用されたヒロイン、ミルドレッド・デイヴィス(1901-1969)が評判を呼び、以降デイヴィスはロイドと結婚引退する第4長編の大傑作『ロイドの要心無用』'23.4まで'19年~'23年の短編8編・中編3編、長編4作を大ヒットさせるロイド長編前半期までのレギュラー・ヒロインになりました。長編第5作『ロイドの巨人征服』'23.9から長編第10作『田子作ロイド一番槍』'27.1まで6作のヒロインを勤めたジョビナ・ラルストン(1900-1967)とともにデイヴィスはロイドの全盛期を二分した2大ヒロインと言えますが、結婚引退したデイヴィスはともかくロイド作品以降もベイブ・ダニエルズは『男性と女性』'19や『四十二番街』'33、ジョビナ・ラルストンも『つばさ』'27と代表作があり、ローチ=ロイドの女優発掘・育成力も大したものだったと言えます。
 デイヴィスをレギュラー・ヒロインに据えてからはロイドは作品のヒットとともに寡作になり、'20年は2巻ものの短編が2月、3月、5月、7月、9月、12月と6編に、'23年は3巻の中編を3月、5月、10月に3編、2巻の短編を9月に1編発表とますます1作毎に慎重になりましたが、12月25日公開の4巻の初長編『ロイドの水兵』は2巻の短編用予算の7万7,000ドルで作られ、公開されるや48万5,000ドル以上の収益率32倍を上げた大ヒット作になりました。ハル・ローチ・プロ('21年の中短編4作はローリン・フィルム・カンパニー名義ですが、『ロイドの水兵』から再びハル・ローチ・プロ名義に戻ります)はファミリー的な結束があり、カメラマンのウォルター・ランディン、フィルム編集のトーマス・J・クライザー、タイトル字幕デザインのH・M・ウォーカーもレギュラーでしたが、'21年からは「ロンサム・リューク」時代以来の監督のフレッド・ニューメイヤー、脚本家のサム・テイラーが固定されます。技術職のランディン、クライザーはともかく字幕デザインのウォーカーは効果的な脚本のまとめ役でもあり、プロデューサーのローチもノンクレジットの場合でも監督を兼ねていましたし(ローチが監督名義の時もニューメイヤーやテイラーがノンクレジットで共同監督を兼ねました)、何よりもロイドの映画はロイドのキャラクターと体技、センスに依っていたので企画や脚本、撮影の陣頭指揮を執るのはロイドだったことです。盟友ローチのプロデュースの下、ロイドがキャプテンになって製作されていたのが映画のトーキー化で各セクションの分業化が余儀なくされるまでのサイレント時代のロイド映画で、主演俳優が脚本監修、演出を兼ねたファミリー的な劇団的チームがロイド映画のハル・ローチ・プロダクションでした。チャップリンの独裁的な映画作り、キートンの偏向した作風はともにチャップリンキートンの個人的な天才によるものでしたが、ロイドの映画が個人的な天才よりもチームワークによる業績として偉大な達成を示しているのはロイドの親しみやすいキャラクターに見合ったものだったので、逆にチャップリンキートンにはロイドのような映画作りはできなかった点に三者三様のあり方があったのは、このサイレント時代の3大喜劇映画俳優それぞれの持ち味でもあったと言えるでしょう。

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●1月10日(木)
「客に混って」Among Those Present- (監=フレッド・ニューメイヤー、Rolin Film Company'21.May.29)*35min, B/W, Silent : https://youtu.be/Z7692H8m0kw

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 ロイドが初めて3巻の中編に取り組んだ'21年最初の3月公開作「好機逸すべからず」は初めてクレジットにシナリオ担当者(サム・テイラー)を掲げ、ローチ・プロもローリン・フィルム・カンパニー名義で世に問うた力作でしたが、'20年度の2巻短編をギャグで拡張してまとまりや構成には難のある、3巻の中編にした成果のあまり感じられないものでした。しかし続く'21年の中短編「客に混じって」「俺がやる」「落胆無用」は'20年度前半のロイドとデイヴィスのロマンス・コメディ傾向に戻って物語の枠組みをきっちり決め、その上でプロットとストーリーの展開にちゃんとつながりのあるギャグの選択と練りこみが上手くいっていて、'21年度後半作から前作までの作品ごとに内容のムラの目立つ試行錯誤を挽回する佳作揃いになっています。もっとも試行錯誤期のロイド作品も高い人気とヒット成績を維持していたからロイドは途中で失速せずに済んだので、ムラが目立ち試行錯誤を感じさせるといってもロイド作品のこれでもかのギャグ満載、ロイドのキャラクターとヒロインのデイヴィスの人気でそれらも十分面目を保っていましたが、そろそろ映画1編全体の完成度を配慮しないとという試作がいまいちの出来に終わった「好機逸すべからず」で、一応の納得のいく完成度に仕上げることに成功したのが本作「客に混じって」以降の中短編3作なのがわかります。本作はチャップリン短編でも「チャップリンの駈落」'15や「チャップリンの女装」'15、「チャップリンの替玉」'16や「チャップリンのスケート」'16、「チャップリンの冒険」'17などでよく使われた「偽者(替え玉)コメディ」ですが、ロイド作品ではそれほど使われない(放浪紳士「ロンサム・リューク」シリーズではわかりませんが)のは、都会の青年キャラクターのロイドには一応作品ごとに役柄の設定があるからでしょう。またロイド作品は同時代にはチャップリンとは異なる形で意外な影響力があったのですが、それはあとで触れるとして、本作もジャケット裏の紹介文を引いておきます。
○成り上がり一族(ジェイムズ・ケリー、アギー・ヘリング)が上流階級気取りでキツネ狩りを催すことになる。そこで社交界の有名人を呼ぼうとイギリス貴族、アバナシー卿を招待するが鼻も引っかけてもらえない。だが、引っ込みがつかなくなった執事(ウィリアム・ギレスピー)は替え玉を用意。気取った紳士のものまねが得意なホテルのクローク係の青年(ハロルド・ロイド)を雇って、アバナシー卿のフリをしてもらうが……。
 ――この上流階級気取りの裕福なオブライエン家は実際には見栄を張ろうと張り切っているのは夫人だけで、夫のオブライエン氏と娘(ミルドレッド・デイヴィス)はむしろ夫人の見栄張りぶりに閉口しています。執事はアバナシー卿の滞在するホテルを訪ねてすげなくあしらわれますが、アバナシー卿が去ったあとホテルのクローク係の青年がアバナシー卿の尊大なそぶりをそっくり真似て同僚とふざけているのに眼をつけます。こうして執事のギレスピーはロイドをアバナシー卿に仕立て上げ、オブライエン家の泊まりこみの社交パーティーに連れてくるのですが、ロイドは一家の娘デイヴィスに一目惚れしてしまいます。これは大勢のパーティー客のショットが一瞬デイヴィス一人だけ立っているショットに変わり、切り返してロイドの一目惚れの表情が映り、また大勢のパーティー客の映像に戻ってロイドはデイヴィスに歩み寄って手をとり挨拶する、という技法で表現されます。映画では窓越しに見つめあう、鏡に映った姿で目が合うパターンとともにこういう出会い方をした男女は結ばれるという法則があり、愛人の社交界の名物女(ヴェラ・ホワイト)と組んで社交パーティーの手柄でオブライエン家の娘と結婚して資産を手に入れる、という執事の企みを偶然盗み聴きしたロイドは執事の企みを阻止しようと奮闘することになります。ヨーロッパ随一のキツネ狩り名人で鳴らしたアバナシー卿の武勇伝のスピーチを求められたロイドは偶然オブライエン氏が隠し飲みしようとしていた密造酒を飲んでしまい、キツネ狩りから熊、果てはライオン狩りまで大ボラを吹いて(ロイドのホラは虚構の回想映像で描かれます)客の大喝采を浴びます。翌日は乗馬会が予定されていますが、ロイドはオブライエン家の名馬ダイナマイト号を楽勝で乗ってみせよう、鞍なしでもかまいませんぞと豪語するやいなや、ギョッとするパーティー客たちの表情に続いて馬小屋を滅茶苦茶に破壊する馬の映像が入ります。「少々気性の荒い馬でして」と言うオブライエン氏に、ロイドは早くも戦々恐々として寝室に引き上げます。ロイドは夜のうちに逃げようとしますが、階段裏で名物女と密談している執事の会話を聞いて止まり、翌日の乗馬会で散々な目にあい(ここでの視覚的ギャグの連発は略すとして)、一方オブライエン氏はハムエッグを食べているところをオブライエン夫人にみとがめられ、お前の見栄などもうこりごりだ、パーティー料理よりこれが食べたいんだ、と開き直ります。ボロボロになったロイドがデイヴィスに寄り添われて来て、実は貴族ではなくて本名はオライリーといいます、と打ち明けるロイドをオブライエン氏は一気に親しみの情(O'BrienもO'Reileyもアイルランド系の姓です)を見せて隣に座らせ、嬉しそうなデイヴィスを背後に給仕に持ってこさせた山盛りのハムエッグを一緒に食べて、エンドマーク。
 本作では'20年の後半作品から前作「好機逸すべからず」までロマンス・コメディかスラップスティックかでシンプルなプロットにギャグを満載しすぎてストーリーと遊離してしまい推進力が乏しく、賑やかで楽しく明るいロイド喜劇の路線は守りながらごたごたしてしまって完成度は低い、という傾向にあったのがギャグを絞りこみ集中させて全体のバランスを図り、結果としてスラップスティック喜劇味のあるロマンス・コメディ映画としてまとまりのある、一挙に完成度を高めたものになっており、サム・テイラーの脚本がようやくロイドの求める喜劇映画の方向性を効果的に生かせるようになったのが感じられます。構成としてはロイドがオブライエン家の社交パーティーに連れて来られるまでの前半、パーティー第1夜のロイドのスピーチを中心にしたパーティー風景が中盤、翌日の乗馬会騒動が後半の3部構成になっていますが、前半と中盤は小ギャグの積み重ね、後半の乗馬会にスラップスティックを持ってくるのが全体の流れをすっきりさせ、それまでの試行錯誤期の作品のようにギャグの豊富さが映画の進行と釣り合いの取れない難点を逃れています。2巻の短編では1巻の短編を2編併せたような前半・後半の作りがちぐはぐだったのですが、3巻の中編の本作も1巻の短編3編の合巻とも言えるのですがちゃんと全体として起承転結を感じさせる構成に成功しています。'21年12月の第1長編『ロイドの水兵』は実質的にはロイドの乗りに乗った監督によって2巻の短編予定が4巻の長編になったもので、長編化の移行は'21年2月公開のチャップリンの6巻の初長編で撮影に1年をかけ公開前から大評判だった大ヒット作『キッド』に刺戟された'21年3月の3巻の中編「好機逸すべからず」以来構想に具体化しつつあったはずですが、チャップリンが3巻の中編に乗り出した'18年の2作「犬の生活」「担え銃」とは別の発想で、ようやく中編として成功した作品として本作は会心作になりました。この好調は『ロイドの水兵』までの中短編2作「俺がやる」「落胆無用」でも続くのです。

●1月11日(金)
「俺がやる」I Do (監=ハル・ローチ/サム・テイラー(ノンクレジット共同監督)、Rolin Film Company'21.Sep.11)*25min, B/W, Silent : https://youtu.be/uZJyeqX2mXE

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 先の「客に混じって」の感想文中にロイド映画の意外な影響について少し触れましたが、チャップリンの短編作品(チャップリン自身がフランスの喜劇映画俳優マックス・ランデのキャラクターを参考にしたのはありますが)はアメリカ国内外に無数の模倣キャラクター喜劇映画を生みました。長編『キッド』や『サーカス』『街の灯』『ライムライト』のメロドラマ喜劇としての影響は現在でも続いていると言えるほどです。キートンのエキセントリックな作風は大きな追従者を生みませんでしたが、作品の現代性では今なお再評価の最中にあります。ロイド映画は一見影響力など持ちそうにないような作風なのに、'20年代のソヴィエト映画の傑作であるレフ・クレショフの『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』'24や、クレショフ門下生のボリス・バルネットの『帽子箱を持った少女』'27や『トルブナヤの家』'28にロイド映画そっくりの演出や映像が見られます。クレショフはプドフキンやドヴジェンコ、ヴェルトフ、エイゼンシュテインと並ぶロシア革命以後の指導的映画監督であり、やや先輩のプドフキンとともに革命以前のロシア映画の大俳優兼監督イヴァン・モジューヒン(革命時にフランスへ亡命)の主演映画の既成ショットを使って「クレショフ効果」と呼ばれるモンタージュ理論を発見した人で、微笑む男の顔のショットにステーキのショットを続ければ男の顔は食欲を表して見えるのに、同一の微笑む男のショットに妙齢の少女のショットを続ければ男の顔は好色を表しているように見える、という分析がそうです。バルネットはヴェルトフとともに当時のソヴィエト映画の主流リアリズムからは異なる(兄事したクレショフとも違う)発想で映画を作り始めた人でした。プドフキンやドヴジェンコエイゼンシュテインらはアメリカ映画の父、D・W・グリフィスの映画にもっとも基礎的なモンタージュの用例を見出し、クレショフの理論の自覚的な応用によってアメリカ映画の技法の過激化と言うべき作品を生み出しました。エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』'25、プドフキンの『母』'26、ドヴジェンコの『武器庫』'29などがそうです。対してジガ・ヴェルトフはドキュメンタリー映画の監督だったので物象の映像化と映像化された物象の提示の相違に着目し、映像による知覚の再構成という厄介な主題にたどり着きました。『カメラを持った男(これがロシアだ!)』'29がヴェルトフの'20年代の成果の集大成です。一方、クレショフの代表作となった『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』や前記のバルネットの初期長編は人を食った風刺コメディにプロパガンダをこめたもので、その時クレショフやバルネットの作品がロイド映画を真似たようなギャグや映像を使っているのは革命ソヴィエトに対するブルジョワアメリカらしさをロイド映画の引用再現という型で対比的に表現したとも見えますが、そうした政治的解釈をアリバイにしたとしてもクレショフやバルネットがロイド映画のギャグの日常的で平易なアクション性と面白さを取り入れようとしたとする方が順当で、その場合チャップリンキートンではエキセントリックに過ぎます。ロイドは十分個性的ですが平凡な青年市民が日常的な状況の中で突拍子もないコメディの主人公を演じる点で個性的なので、これは気がつくと危機的状況に巻きこまれていた主人公がピンチを脱する、というのがロイド映画の基本パターンであることからもロイド映画は巻きこまれ型のサスペンス映画・スリラー映画の構造を持ったコメディ映画であることがわかります。チャップリンキートンはむしろ自発的に危機的状況に参加していくタイプの冒険型コメディ映画なので、クレショフやバルネットがチャップリンキートンではなくロイド映画のコメディ構造になぞらえてロイド映画からパーツを借りたような代表作のコメディ映画をものした秘訣はそこにあるでしょう。こういう理屈をこねるとこのブログの映画感想文は「中級者以上向け」と言われかねませんが、筆者は老人ボケにさしかかった年齢で思考速度が遅いので寄り道しないと考えがまとまらないのです。ロイド映画は巻きこまれ型危機脱出コメディ、とソ連映画から学んだところで、本作もジャケット裏の作品紹介を引いてみましょう。
○子供を待ち望む新婚夫婦(ハロルド・ロイドミルドレッド・デイヴィス)が、甥っ子2人を預かることに。だが、子供たちの世話は大変!家中をめちゃくちゃに荒らすわんぱくな4歳児(ジャッキー・モーガン)の後を追いかけ、赤ちゃん(ジャッキー・エドワーズ)に飲ませるミルクを作るだけでクタクタだ。しかも逃亡中の泥棒が近所に潜んでいるとの知らせを受けた夫婦。その後、家の中で怪しい物音を聞いて震え上がり……。
 ――'21年度のロイド作品では唯一の2巻の短編の本作は再びローチ監督ながらノンクレジットで脚本のサム・テイラーも共同監督に加わっているらしいですが、前半は子守り騒動、後半は強盗侵入勘違いですっきりまとまっており、映画冒頭はアニメーションによる結婚式が短いながら楽しい趣向になっています。「1年後」とロイド夫妻が甥っ子2人を用事のある姉夫婦から預かる場面になり、その後は4歳児の暴れっぷりがロイド家中を滅茶苦茶にします。家政婦のおばさんは甥っ子たちを連れ返ったのと入れ替わりに教会の奉仕に行ってしまうので家事はデイヴィスがきりもりすることになり、子守りはロイド一人の役割になるので暴れん坊の4歳児とむずかる赤ちゃんの間でてんてこまいになります。これは4歳児が知恵をしぼった悪ふざけと不器用なロイドによる視覚的ギャグの連続なのできりがないのですが、子守りの苦労というテーマに絞ってあるのでギャグの拡散はありません。子供たちを寝かしつけて一段落(ここからが後半)、そこに近所のおばさんが「先週からずっとあの男が近所をうろついているのよ」と、街路の黒スーツの男(ノア・ヤング)をロイド夫婦に教え、夫婦は新聞で近所に強盗事件多発、犯人不明で逃走中の報道を読んで震え上がります。あとは夜中に強盗が侵入してきたと勘違いしたロイドとデイヴィスの家中を探しまくり逃げまくるスラップスティックで、4歳児が買ってきていた花火と爆竹包みが一斉に爆発し、何事かと駆けつけてきたノア・ヤングは警備中の警察官だったのが判明します。取り越し苦労だったとピストルを引き出しにしまおうとしたロイドは、編みかけの赤ちゃんの服を見つけ、初めてデイヴィスは赤ちゃんの妊娠を告げて、喜んで抱きあう夫婦の姿で、エンドマーク。ロイド喜劇は日常的シチュエーションにおける危機直面のサスペンスからの脱出スリラーの構成を持ったコメディ映画なのを典型的に示す小品で、ソヴィエト映画界でクレショフ、バルネットが着目したのはロイド映画の明快な構成とギャグの有機的な結合(本格的に完成され、スケールアップするのは長編化後ですが)だったのを先に長々と述べたのは本作がその典型だからです。恋愛ロマンス・コメディ路線の構成としてロイドがはっきりとこの「スリリング・コメディ」を意識したのは'20年の第3作「眼が廻る」だと思います。そして第1長編『ロイドの水兵』直前の、ロイドの最後の中短編(中編)の「落胆無用」は長編第4作の大傑作『ロイドの要心無用』を「眼が廻る」以上に予期させる(はっきりその先行作品と言える)、ロイド中短編時代最高の名作になるのです。

●1月12日(土)
「落胆無用」Never Weaken (監=フレッド・ニューメイヤー、Rolin Film Company'21.Oct.22)*29min, B/W, Silent : https://youtu.be/YhmsovkmU5A

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 ロイドの短編は初の2巻短編「ロイドのブロードウェイ」'19でロイドのキャラクターをロマンス・コメディに上手く乗せることに成功し、コメディエンヌ・タイプのベイブ・ダニエルズからもっとお嬢さま風なミルドレッド・デイヴィス初起用作の'19年度最終作「其の日ぐらし」はデイヴィスの起用が成功した佳作になりましたが、作風はまだチャップリン喜劇の影響を感じさせるものでした。'20年度の6編ではチャップリンの影響を払底し、前半作品はロマンス・コメディ路線、後半作品はスラップスティック路線でロイドならではの作風を試行錯誤しましたが、ロマンス・コメディ路線とスラップスティック路線の境目にある「眼が廻る」が抜きん出た成功作になり、ただし同作の趣向は続けて使えないため試行錯誤は'21年度の最初の初中編「好機逸すべからず」まで続きました。次の「客に混じって」「俺がやる」で構成のはっきりした、スリルを主眼にしたロマンス・コメディとスラップスティック路線の融合に成功したロイドが再び「眼が廻る」と同趣向の高所危機一発ギャグの作品に取り組んだのがロイドの中短編時代最後の作品になった3巻の中編「落胆無用」で、このロイド取っておきの高所危機一発ものは「眼が廻る」に始まり「落胆無用」でより豊かなものになり、大傑作の長編『ロイドの要心無用』'23で極めたあと、トーキー第2作『ロイドの足が一番』'30でさらにひと工夫して再利用されることになります。'23年の中短編は「好機逸すべからず」こそまだ'20年度作品の試行錯誤を引きずっていますが同作で監督にニューメイヤー、脚本にサム・テイラーを責任者に固定したのが実際の総監督兼企画者のローチ、原案・演出家兼主演者のロイドにとってはロイド一座の作品チームの集中力や創造性を高め、佳作「客に混じって」と「俺がやる」に続いて中短編時代の最後で最高の傑作「落胆無用」に結実したのがうかがえ、この乗りがあったからこそ次作『ロイドの水兵』は2巻短編を予定しながら4巻の初長編になったのが納得させられます。本作もジャケット裏の紹介文を引いておきましょう。
○高層ビルのとあるオフィスで働いている青年(ハロルド・ロイド)は、隣の診療所に勤める女の子(ミルドレッド・デイヴィス)と恋人同士。ところがある日彼は恋人が別の男(ロイ・ブルックス)のプロポーズを受けたと勝手に勘違いし、絶望のあまり自殺を試みる。しかし、毒を飲むのも決心がつかず、ピストル自殺をするのにも失敗。ビルの鉄筋にぶら下がるも、やっぱり命が惜しくなり……。
 ――本作も3部構成からなる3巻中編になっており、まずビルの外壁に釣り竿で指輪が運ばれる映像から、隣あったオフィスの窓でロイドがデイヴィスに指輪をプレゼントしている様子が映されます。デイヴィス(整形外科のアシスタント嬢)もロイド(こちらは何の業種か不明ながら、秘書)も上司に見つかり注意を受けますが、現実に当時はそういう作りだったのか映画内の虚構かわかりませんが、高層ビルの高層階のオフィスなのに窓は壁全面で床との段差がないのには仰天します。西洋建築では塔や階段、窓などもほとんど手すりがない、あっても安全面では役に立たないくらい低い(観光地でも現在は知りませんが、ナイアガラの滝などは柵がないため日本人観光客の事故率が多かったと言われます)のは事故は自己責任という文化だからか、'29年の株式相場大恐慌では高層ビルからの投身自殺が相次いだというのもこんな窓では簡単に身を投げられるわけです。話が逸れましたが、デイヴィスは上司の整形外科医(ウィリアム・ギレスピー)に不景気で患者が来ない、このままじゃ閉院だとこぼされ、廊下でばったりロイドと会ったデイヴィスは訳を話し、ロイドは整形外科の名刺をどっさり持ってよし来た任せといて、と飛び出していきます。大丈夫かね、という上司に「あの人に不可能はありません」と受けあうデイヴィス。階段を降りる途中、ロイドは廊下で数人の見物人の前で宙にとんび(バック転)を切る男を見かけます。曲芸事務所を開いたんだ、という曲芸師(マーク・ジョーンズ)に話をつけたロイドは、街中で曲芸師が足を滑らしたふりをしてひっくり返り、隠れていたロイドが出てきて整体マッサージすると曲芸師はシャキッと治る、という見世物で通行人を集め、松葉杖や車椅子の見物人を始め観衆に整形外科の名刺を配ります。ロイドは撒水車の通り道にオイルを撒いて通行人をことごとく転倒させ同じ手口で曲芸師と組んで整形外科の名刺を配る、と張り切りますが、次に曲芸師が転倒した時は通行人を巻き込んでしまい通行人は倒れて曲芸師は警官(チャールズ・スティーヴンソン)の姿に逃げてしまい、隠れていたロイドはうつ伏せに倒れた通行人(ジョージ・ロウ)を曲芸師と思いこんで整体マッサージし始めますが、ひっくり返すと白目を向いて気絶した別人、その上警官が見ているので引っ込みがつかなくなり、何とか二人三脚の要領で起きあがらせてすたすたと立ち去り、通りかかったレッカー車の鉤に襟を吊して通行人を去らせます。ロイドは名刺がほとんど捌けて、患者の押しかけているデイヴィスの診療所に戻りますが、廊下で後ろ姿の大男(ロイ・ブルックス)とデイヴィスが「明日にでも結婚式が上げられるよ」「嬉しい!やっと私たち結婚できるのね!」という会話を聞いてしまいます。ここまでが前半1/3で、中盤1/3は上司が留守のオフィスに戻ったロイドが失恋の絶望のあまり自殺しようとする顛末で、まず服毒自殺しようとしますが不味くて飲めないので砂糖をたっぷり入れますがやはり不味いものは不味く、吐き出したばかりかコップも落として割ってしまう(「俺がやる」でもようやくミルクをいっぱいにした哺乳瓶を垂直に落として割ってしまうギャグがありました)。次にナイフを手に取りますが、机につこうとした左手の指先を書類刺しに刺しただけで痛みに耐えかねてナイフは断念。ようやくロイドはピストル自殺を思いつきますが引き金を引く勇気が出ず、風船を自分の頭に見立ててピストルを前方に固定し、オフィスのドアノブと引き金を紐で結わえてドアを引くと発射する仕掛けをして、目隠しの用意をしてビルの管理人に用事があるから今から来てくれと電話し、ピストルの発射先の窓際のデスクの椅子に目隠しをして座ります。そこに通りの向かいの建築中のまだ鉄骨だけの高層ビルの組み立て中の吊り下げた鉄骨の梁が窓を破ってロイドの座った椅子とデスクの下に入りこみ、そのままロイドを椅子とデスクごと窓の外の宙空にさらっていきます。ここからが後半1/3で、ロイドが吊される拍子に風船の割れた音にピストルが発射したと勘違いしたロイドは、目隠しをずらしてビルの壁面彫刻のハープを弾く天使像を見て天国か、とにっこりしますが、街頭のジャズバンドの喧騒にハッとして自分が椅子とデスクごとビルとビルの間の宙空に吊り下げられているのに気づきます。引き上げられた鉄骨の梁は建築中の高層ビルに引き寄せられ、ロイドはデスクと椅子の転落を乗り切って建築中の高層ビルの鉄筋にしがみつきます。
 この先はアイディア満載の視覚的ギャグの連続で、渡ろうとしていた鉄骨が途中で途切れていたり、移送中の鉄骨に乗ってしまったり、ようやく見つけた梯子はロイドが降りようとしてもどんどん引き下げられて結局降りられず、上階でねじ込み作業中の焼いたボルトが落ちているのにロイドが尻餅をついて飛び上がったり、と高層ホテルの庇渡りの「眼が廻る」と類似の転倒ギャグはありますが庇よりも行動範囲が広く建築構造が複雑なのでさらに観ごたえのあるスリリングなスラップスティックになっている。しかも実質的にロイドの一人芝居なのも画面に集中できるので、貨物に紛れて緊急の用のためハワイ→ロサンゼルス便に密航したら建築中の高層ビルの宙吊りの資材の中だったという高所脱出譚『ロイドの足が第一』は、デパートの宣伝のためにアトラクションで友人のビル登り名人に依頼したビル登りの集客宣伝で出世を狙ったロイドが友人の代わりに自分がビル登りをしなければならなくなる『ロイドの要心無用』よりも「落胆無用」の発展なのがわかります。『ロイドの要心無用』では衆人環視状態のやむなくとは言えやらざるを得なくなったビル登りですから、ビル登りは必ずしも一人芝居ではなく知らずに窓の外に妨害物を出してくる工事人夫や、わざわざロイドにお説教するおばあちゃんも出てきますし、入れ代わるからもう一階登ってくれ、と警官に追い回されるビル登り名人の友人、恋人ミルドレッド・デイヴィスの様子などがカットバックされていました。ロイドは当初一、二階登って友人と入れ代われるつもりでついに屋上まで登りきる羽目になるので、アクシデントで高所で往生することになる「眼が廻る」「落胆無用」『ロイドの足が第一』の系譜と『ロイドの要心無用』は高所サスペンスという題材ではくくれてもサスペンスの方向は逆なのです。「眼が廻る」を上回る作品を目指して傑作「落胆無用」を作り、「落胆無用」の記憶が新しい観客にも『ロイドの要心無用』を異なる趣向の作品として披露でき、また長編でアクシデント型の高所サスペンス・コメディ『ロイドの足が第一』を作っても『ロイドの要心無用』とは別という意識的な作り分けがロイド=ローチのチームには明確にあり、作品の積み重ねを上手く生かした以外なロイド作品の作家性に気づかされます。さて作業用の木製エレベーターに転がりこんだロイドは、そのままロイドの重みでするすると落下し、地上にすとんと着地します。エレベーターから出て大地を踏みしめ安堵して気の抜けた表情のロイド。そこにデイヴィスが先の男とやってきます。再び悲嘆にくれた表情のロイドにデイヴィスは「兄よ」「やあ、やっと牧師に就任したから君たちの結婚式を上げてあげられるよ」歓喜の表情のロイドとデイヴィスは寄り添い、エンドマーク。ロイ・ブルックスがロイドの恋敵役のレギュラー役者なのも観客へのトリックになっていますが、確かにロイドの傑作には、チャップリン映画の鋭い現実的テーマやキートン映画の異常な不条理感は稀薄でしょう。チャップリンキートンの傑作と並べればロイド映画は無内容とすら見えます。しかしその場合、ロイド映画の映画ならではの楽しさ自体を無価値と言うなら、映画というメディア、表現手法そのものを軽んじることになりはしないでしょうか。