人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『NAGISAの国のアリス』第三章

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 第3章。
 ウサギが素早く生け垣の下のウサギ穴に飛び込むのをぎりぎり見とどけたアリスは、一瞬の躊躇もせずに自分も穴に飛び込んだのでした。もちろん後先考えず、出る時はどうするのかも考えずにです。
 ウサギ穴はしばらくのうちはトンネルのように真横に延びていましたが、突然真下になりました。本当に突然だったのでアリスは迷う暇もなく、ものすごく深い井戸のような穴に落ちていたのです。
 井戸がとほうもなく深いのか、落ちる速度がよほど遅いのか、そのどちらかのようでした。というのは、アリスは落ちながら周りを見渡したり、これから私どうなるのなどと考える余裕があったからで、まっ先に落ちていく先を見てみましたがまっ暗で何も見えません。それではと周りの壁をじっくり見ると食器棚や本棚が並んでいるのが見えました。それにあちこちに地図や絵が釘から吊してありました。アリスは壺をひとつ手に取ってみましたが、オレンジ・マーマレードとラベルにあるのに中身は空っぽでがっかりしました。ですが壺を落として穴の底にいる人の頭に当たって死んでしまったらえらいことになるので、落ちながら別の棚にちゃんと戻しておきました。
 こんなに深い穴に落ちたんだもの、とアリスは考えました、これからは階段くらい転げ落ちたって大したことないわ!家じゅうのみんなから強い子ちゃんて褒められるわ。屋根の上から落ちたって文句は言わせないわよ!
 そりゃそうでしょうね、とドジソン先生、下へ、下へ、さらに下へ。いつまで落ちていくんでしょうか?
 私どのくらい落ちたのかしら、とアリスは声に出して言いました、たぶん地球の中心に届くくらいだわ。てえことは、とアリス、学校の授業で習ったのは400マイル、メートル法なら1600キロメートル、と誰も聞いていないのに声に出すまでもありませんが、ちょっとした練習のようなものです。そう、だいたいそのくらいの距離になるはずよ。でもここは、緯度とか経度とかはどうなっているのかなあ(もちろんアリスには緯度も経度もちんぷんかんぷんですが、とドジソン先生、アリスは難しいことばを使いたい年ごろなのです)。
 このまま落ちていったら、地球の裏側に出ちゃうのかしら、とまたアリスはつぶやきました。そしたら頭が下向きの人たちの中から飛び出しちゃうんだわ、地球の対極圏で良かったんだっけ?(誰も聞いていなくて良かったわ、対極圏なんて何か変だもの)。


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 ようやく着いたよ、とカッパとサルとイヌは海岸で大きく伸びをしました。遊んでいられる夏も再来年に卒業を控えた大学時代のこの年が最後ですから、三匹は学生時代最後のレジャーを満喫するため予算の許す限りの国内の南国で過ごしにやってきたのです。
 海岸から砂丘に降りると、彼らのような物好きはさすがに他には誰ひとりとしておらず、さながらプライベート・ビーチのような満足感に三匹は喜びのセッセッセをしました。足代・宿代・食費に雑費がかかっても、海に面した砂丘を独占するのに特別な利用料金など不要である上に、夏だ海辺だ青春だ、と謳歌するのに水着姿の女の子のひとりもいないのは唯一の無念ですが、ナンパは都会でやればいいことです。さいわいカッパは大ノッポなりに、サルは中ノッポなりに、イヌはチビなりに女の子にはモテました。これはひと言で女の子と言っても、大ノッポがタイプという子もいれば中ノッポがタイプという子もおり、チビがタイプという子もいるということです。
 そして今、広大な天然のプライベート・ビーチに立って、カッパとサルとイヌの三匹ともが大自然の偉大な抱擁力の前に色気づいた思考などすっかり漂白されて、ほとんど無心に大海原に対峙しておりました。
 三匹は服の下に水着を着て海岸にやってきていましたから、服を脱いで一か所に集めておくと、そのまま海へ駆け出しました。他愛なく三匹の馬鹿が水遊びに興じる声だけが浜辺に響く中でまずウサギ、それから少女の足が砂の中から勢いよく突き出てきました。それはまるで地球の裏側からストンと落ちてきたようでした。足は一旦砂の中に引っ込むと、今度は砂の中からウサギの手、少女の手が出てきて、三匹の脱いであった服を一着ずつつかみ砂の中にひきずりこみました。それからウサギの手が燕尾服を盗んだ服の替わりに砂の上に置き、少女の手がやはり少女の着ていたらしいワンピースを盗んだ服の替わりに置きました。
 波音が寄せては返しました。
 カッパ、サル、イヌの三匹は戻ってくると、サルとイヌの服がなくなっている替わりに少女のワンピースとやたらと小さい燕尾服が置いてあったので、カッパは自分の服を着て何ら問題ありませんでしたが、サルとイヌは困ってしまいました。服の下にはそれぞれ千円札が服の代金のつもりか挟んでありましたが、学生証も定期券も財布もポケットに入れてあったのです。でも千円きりで何ができましょう?


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 いつまでも水着では街に出られませんので、とりあえずカッパ、サル、イヌの三匹は服を着ることにしました。カッパは残されていた自分の服を着れば良いので問題ありませんでしたが、サルとイヌはワンピースと燕尾服のどちらを着るかで困ってしまいました。ワンピースは女物だし、燕尾服は中肉中背のサルにはサイズが小さそうで、結局女装するならチビなイヌの方が似合うと決められて、イヌは少女物のワンピースを着ることになりました。
 問題は僕だな、とサルは燕尾服に無理矢理そでを通してみました。何とか着られないことはなさそうだぞ、うーん、やあっ!と両腕がやっと両袖に通ると、長さは腕まくりほどですが、燕尾服の背中はびりっと左右に裂けてしまいました。正面からはつんつるてんながら服を着ているように見えますが(腹部はヘソ上で、燕尾服というより素肌にチョッキを着ているようでした)、背中は丸出しです。やあ、見たことあるよ、とカッパ、びんぼっちゃまみたいだよ。それよりズボンは入るかい?
 お前はいいよなあ、とサルはボヤきながらズボンをはくと、意外と伸縮性のある素材で、膝上の短さながらスパッツをはいた具合になんとか収まりました。ぱっつんぱっつんなのは仕方ないですが、こりゃあ目のやり場に困るね、とカッパ。ヒワイだわ、とイヌ(女装)。どうせ私は大きいですよ、とサル、他人と較べたわけじゃないけどね。
 街、と言ってもすれ違う人もいないような田舎町ですが、とにかく千円札をくずして小銭を作ろう、実家から宿に速達で送金してもらうよう電話してみよう、と三匹はタバコ屋に寄りました。服を盗まれていないカッパはサルとイヌのために小銭を貸す義理はないからです。タバコ屋には青島幸男が店番をしていました。こんな田舎だからなあ、とサル、騙してタバコも値切れるんじゃないか?
 あのオバアさん、とサルは背中が見えないように左右にぴったりカッパとイヌにくっついてもらいながら話しかけました、ゴールデンバットは200円でしたよね?
 ゴールデンバットは200円だったかい?と青島幸男。そうですよ、全国どこでもゴールデンバットは200円、とサルは千円札を出し、1個ください、お釣りは800円。
 ちょっと待ってくれんかね、と青島幸男は言うと、やにわに脇の赤電話の受話器を取り、もしもし、タバコの値段も知らない不審者は通報するようにと……ええ今、店先にいます。
 不審者?


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 あっ、あの、お婆さん、とサルは泡を食って訂正しました。タバコを値切ろうとしたくらいで警察に通報されてはたまりません。ま、間違えました、ゴールデンバットは今たしか210円でしたよね?
 遠くからパトカーが近づいてくる音がしました。ああもういいですお婆さん、さいならー。しかしサルの背中は破れた燕尾服でまる空きなので、サルを先頭にカッパ、イヌと直列に並びながら急ぎ足で立ち去るのはいかにハレンチな3匹といえども不審者と思われても仕方ない、と認めないわけにはいかないような情けない気分になりました。どうしようか、とカッパ。とにかく街を出た方が良くはない?とワンピースを着て以来だんだんおカマが板についてきたイヌ。街を出るには?
 そう、電車も通っていない街ですが、バスなら走っているはずです。3匹はそれらしい標識はないかキョロキョロしながら一列縦隊で進みましたが、やがて向こうから農民のような漁師のようなオッサンが仏頂面で歩いてきました。こんなオッサンに訊くのは嫌ですが、今日通行人を見かけたのは始めてです。僕が訊くよ、とカッパが列を離れました。サルはつんつるてんの燕尾服、イヌは女物のワンピースと、仲間たちは見るからに怪しいからです。
 なにィ、バス停?とオッサンはしょいこを投げ出すとカッパに、お前足を見せてみろ!あのー、あなたはお医者さまですか、とサル。オッサンは無視してカッパの片足から無理やり靴下を脱がすと足の裏を見て、こりゃあ生まれて一度も下駄を履いたことねえ足だな?バス停も知らねえ、下駄を履いたこともねえだと!すると都合良く自転車で警ら中のおまわりが通りかかりました。巡査、不審者だ!とオッサン。うわあ、と3匹は、サルの背中が丸出しなのも隠さず一目散に逃げ出しました。
 最初からここへ来れば良かったよ、と露天風呂に浸かる3匹。体も潮気でベタついてたしさ。でもこの後どうする?残りのお金じゃ服も買えないし、街では不審者扱いだし。
 買えないなら盗めば?と男湯と女湯の仕切りの岩陰から、ボーイッシュな美女が形の良い乳房も露わに身を乗り出してきました。服なら脱衣場にいくらでもあるでしょ?
 そりゃそうです。3匹はおねいさんに代わるがわる感謝しました。でもどうしてアドバイスしてくれるんです?それはね……いずれわかるわ、と美人は女湯に消えました。
 服泥棒か、まさかこんなことで、こそ泥になるとはなあ……。


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 やっと人心地ついたような気がする、と風呂屋から路地に出て、サルがつぶやきました。おれたち人じゃないけどね、とカッパ。サルもイヌも、砂丘ですり替えられた燕尾服とワンピースから脱衣場で他人様から掠めてきた服を着て、とりあえず不審者には見えないでしょう。いかにも田舎者っぽい服装が洒脱なカッパのカジュアルないでたちと並ぶと不似合いですが、文句は言っていられません。路地は真っ暗で、街角ごとにある街灯の周り以外は足元も見えないくらいでした。
 とにかくこれなら宿に戻っても怪しまれないだろうから、泊まりの予定はもうキャンセルして夜行バスか電車に乗るか、でなければ電話を借りて実家に送金してもらうよう頼もう。ヒッチハイクで京都に帰るにも今のあり金じゃ菓子パンも買えないよ。もちろん服も所持品も盗まれていないカッパだけなら困ったことはないのですが、お金を貸さない代わりに友人の義理があるので一緒に困ることにしたのです。
 ところで着ていた服は?とカッパ。サルはハッとして、ああ持ってきちゃった。置いてくれば良かったのに、とカッパ、そこら辺に捨てちゃえよ、朝まで誰も気づかないよ。そうだな、とサルは服がすっぽり隠れそうな草むらがないか街灯の下できょろきょろし、暗闇に包みをバサッと投げ捨てました。
 捨てるな、と突然甲高い声が3匹を恫喝しました。街灯の円い明かりの中に、いつの間にかふたつの影が立っていました。捨てるな、とピストルを3匹に向けているのは、砂丘で盗まれたイヌの服を着ているウサギでした。ひいい、と3匹はピストルに気づいて声にならない悲鳴をあげると拾え!とウサギ、また元の服を着ろ。ヤですと言ったら?とサル。殺す、とウサギ、殺してから元の服を着せる。じゃあ着たなら?とサル。着たらそのまま殺す。
 どっちにしろ殺されるんですかあ、とサルとイヌは抱き合ってさめざめと泣きました。何で殺されるんですかあ?
 お前たちは日系英国諜報部ラビット柳瀬少佐(とサルをにらみ)、そして英国武偵高校諜報科アリス・リデル(とイヌをにらみ)として死ぬのだ。え、と3匹はウサギの後ろの影をよく見ると、砂丘でサルが盗まれた服を着た女スパイらしき少女がいました。
 あのー僕は関係ないですよね、とカッパ。うむ、とウサギ。お前は50年後に山奥の地中から白骨で発見されることになる。
 嫌だあ、と3匹は泣き崩れました。仕方ない、自分で着ますよ。


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 泣きべそをかきながらもしぶしぶサルとイヌは、元の燕尾服とワンピースに着替えるため、せっかくせしめた他人の服を脱ぎ始めました。田舎の夜道ですから通りかかる人もおらず、助けを求めるすべもありません。
 そうか、手配中の不審者とはあなたたちだったのか、とカッパ。要するに、自分たちの服を着た身替わり死体が必要なわけですね。シェーッ、とサルとイヌは飛び上がりました。うすうす気づいてはいたけれど、カッパがそれを言うのは挑発もはなはだしいことです。
 あーでも、とカッパは残念そうにイヌの方を向いて、こいつは身替わりになりませんよ、ついてますもん、アレが。ね?そうですそうです、私これでもついてるんです、とイヌもワンピースのすそを持ち上げました。
 それからこいつは、とサルの方を向き、こいつはこれでもついていないんです。サルは一瞬傷ついた気分が表情に表れてしまいましたが、すぐにごまかし、そそそうなんです、私ついていないんです。ほーら、身替わりにするのは無理ですよお。別を当たった方が……。
 しかしもうお前たちは知ってしまった、とウサギ。僕たちバカだから大丈夫でーす、と必死にアピールする3匹。
 でも使えるわ、と少女。撃ち殺した後でついてる方からアレを切りとって、ついてない方につければいいのよ。
 それはあんまりじゃないですか、とサル、愛もないのにチョン切っちゃうなんて。
 愛があればいいの?と少女。
 いや……と言葉に詰まるサル、てか僕がついていないというのは嘘です。でもこいつが(とイヌを見て)ついているのは本当ですから、さっきの話だとアレが1本あまります。
 つべこべ言わずにさっさと来るんだ!とウサギが怒鳴ると、威嚇されてずっとお腹がゴロゴロしていた3匹はとっさに一気に脱糞すると、手づかみでウンコをウサギと少女に投げつけました。うわっ、何をするかっ!
 これは一見汚い手口ですが、糞便の投擲は前近代化社会では世界中で普通に行われていた攻撃法です。ひりたての生ウンコを投げつけられて(熟成したウンコも嫌ですが)ひるまない相手はめったにいません。
 3匹は脱兎のごとく、そのうちサルとイヌは半裸のままで逃げ出しました。激しい銃声が聞こえると、3匹はいつの間にか警官隊に包囲されているのに気づきました。3匹は起こったことを正直に話しましたが司直は信用せず、所持品によって3匹は本国へ強制送還されることになったのです。


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 3匹は、略式起訴に決着がつくまで3か月を拘置所に監禁されて過ごしました。被疑者の段階では使役はなくひたすら禁固されるのですが、3匹はそれぞれ別の雑居房に振り分けられ、カッパは麻薬不法所持・使用被疑者、イヌは職業的集団窃盗団、サルは組織的密輸団に放り込まれ、カッパの雑居房は単独犯ばかりですから次々と裁判を済ませては入れ替わるのですが、イヌとサルのぶちこまれた組織犯の集団では案件が複雑かつ職業的犯罪者ばかりですから、審議が長引いて半年以上も未決犯のままグループごと拘置されている輩が大半で、彼らの陰湿で排他的な部外者苛めは刑務官の目の届かない、痕跡の残らないかたちで執拗な攻撃をイヌとサルに加えられました。
 カッパのぶちこまれた麻薬犯の雑居房は個人的な所持・使用容疑者ばかりの、いわば一匹狼の群れでしたから、職業的組織犯のような上下関係や排他性はなく、全員が何の会話もなく仏頂面で読みたくもない読書をしながら一日中座っているだけです。イヌやサルはことあるごとに罵倒され、すれ違いざまに蹴りをいれられていました。単独犯の雑居房にせよ組織犯の雑居房にせよ、12畳に10人の成人男性が詰め込まれているのは同じです。
 入浴は週に12分間と8分間の2回、タオルの所持は1本のみで使用していない時は刑務官が一目でわかるようタオルかけにかける規則です。ひげ剃りは週に1度電気シェーバーが20分間配られます。許可された時間(昼寝、晩の睡眠)以外は寝転ぶのはおろか壁に手をつく、背中をもたれるのも禁止です。20年前の日付の入ったカーペットみたいにごわごわした毛布で、顔を隠して寝るのは絶対厳禁です。
 12畳に10人というのがどれほど狭いかというと、左右に4枚ずつ布団を敷いて中央に縦に2枚布団を敷くと畳が見えず、さらに毎朝の掃除をすると10人の足が摩耗させた畳のカスが握りこぶし大に集まるほどです。
 3人は合同の運動時間(週2回)に四方が5階建てに囲まれた息苦しい中庭で、顔を合わせる時がありました。話を小耳に挟んだ初老の任侠っぽいおじさんが「あんたは大丈夫そうだが」とカッパに、次にイヌとサルに「あんたたちは独居に移った方がいい。独居もつらいが、あいつらはクズだ」3匹を見て「あんたたちはこんなところにいる人間じゃない」
 3匹はもともと人間ではありませんでしたが、刑務官も含めて確かにここは人間のクズばかりでした。


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 3匹の起訴容疑はイギリス秘密諜報部の機密隠匿と非合法亡命未遂でしたが(なんで僕も、とカッパは不服でしたが、状況的に先に潜伏・手引きしていた共犯者という容疑は免れません)、裁判は在日アメリカ軍部が代行する、というイレギュラーなものでした。これは彼らのような事件の場合に軍事レベルの裁判を行う権限が日本の司法にはないからで、にもかかわらず国選弁護人は日本の弁護司会から出向するしかなく、これでは事実上弁護士にできることなど何もないばかりか、弁護側すら検察側の手下のようなものです。
 駐留アメリカ軍基地で開かれた裁判は初回は検察からの起訴容疑、翌週の結審は本国への強制送還という有罪判決の確定に終わりました。こんな茶番な裁判がアリならどんな反論も意味がありません。弁護人もまるでやる気のないデクノボーで、起訴事実(どこが事実だよ、と3匹はボヤきました)をそのまま認めて最小限の罪状(誰の?)で済ませるしかないでしょう、となげやりそのものです。でも僕たちはどこの国のスパイでもありません、スパイ容疑が晴れればこれが不当逮捕なのも、拘置され起訴され有罪になるのも、すべてでっち上げの結果というのは明白になるんじゃないですか?
 私はそっちの方面は専門にしていないんでね、と弁護人はいけしゃあしゃあと言いました。懲役または罰金、というのは本国へ送還されてから改めて裁判の俎上に乗るでしょう。ならば、検察からの起訴内容が、せめて日本国内で国法に抵触する行為はなかったとされているなら最小限の処罰で済むんですよ。
 この馬鹿にはどんなに馬鹿と言っても無駄なんだろうな、とカッパはサルとイヌに目配せしました。つまり世の中にはつける薬もない馬鹿が実在して、それは好嫌とか善悪でもなく、自然災害みたいなものなんだろうな。
 そしてその通りに裁判は進み、そして決着しました。駐留アメリカ軍基地から押送される覆面バスの中で、サルはさよならアメリカ、さよなら日本、とつぶやきました。
 3匹は神戸港から貨物船で労役を課せられながら(飛行機を使うほどの緊急性はなく、また貨物船で労役させるのは渡航費の節減と食費・諸雑費を自分たちでまかなわせるためでもあります)、どうやらイギリスらしい国に着いたらしいのは数か月後のことでした。そして3匹は、さっそくスペイン領と対立しあう海峡の離島をめぐる武力抗争で兵役を勤めなければならなかったのです。


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 また飛行機が飛んでいるな。今、空は何色に染まっているんだい?朝焼け色?夕焼け色?それとも墨でも流したような灰色?
 夕焼け色かな、とサルは答えました。たっぷりダイオキシンや副生成物を含んでいそうだよ。テトラクロロソジベンゾ……。
 エージェント・オレンジ、とカッパが歌うようにつぶやきました、エージェント・ブルー、エージェント・ホワイト。まるで詩の文句みたいじゃないか。空が朝焼けのように染まり、夕焼けのように燃え、雷雨の前触れのように曇る。だがそれは自然現象ではない。
 何のために?とイヌ。何のために?とサル、昔は戦争の本質は領土拡張と支配と略奪だった。早い話が強盗さ。奪うため、儲けるためにするのが戦争だったのだから、戦うのも死ぬのも軍人だけで良かったはずなんだ。民間人を殺傷してしまうのは玉子を生む鶏の首を絞めるのと同じことで、最良の手段は恐怖と圧政で支配して一定の租税や物資を搾取することだった。だから殺してしまうのは無意味だった。
 軍人の他は?
 軍人の他は。もっとも抵抗勢力が出てきたら民間人でも危険だから、これは武力で鎮圧する必要がある。ただし、だ……。
 空はオレンジ、赤、そして黒く染まり、それら色鮮やかな煙を散布する飛行機が旋回していました。いつまで続けるのだろう?
 いつまで続けるのだろう、こんなの一文の得にもならないはずじゃないか。かえって持ち出しになっているんじゃないか?
 得とか損ではないんだろう、とカッパ、意地とかメンツとか、そういうものを賭けて戦っている時が一番始末が悪いんだ。
 損得ではなく優劣だね、とサル、そうなるとどちらかが音をあげるまで泥仕合は続くことになる。ほら、また枯れ葉剤が来たぞ。
 3匹はガスマスクをつけ直すと、野営戦のために根城にしている洞穴の中に逃げ込みました。洞穴の奥にはうまい具合に光りの差し込む縦穴があり、さらに小さく澄んだ湧き水もあって、携帯用の兵糧とこの水があればなんとか餓えずに済みました。
 とにかくこれはそういう種類の戦争なんだ、とサル。戦いが続く限りこの状況は続く。おれたちは味方からも敵からも殺される……おれたちを殺しにくる味方を味方と呼べるなら。だがおれたちは殺さないで、殺しにくる奴らから隠れ通し、逃げおおすだけだ。
 上手くいくかな、と不安げにイヌ。まあ駄目になったら死ぬだけだしさ、とカッパは鼻歌を歌いながら飯盒を火にかけました。


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 さあ早く乗って、とお姉ちゃんは3匹に、トラックの荷台を指してうながしました。明け方のうちが勝負よ。
 今をのがしたらまた逃げられなくなるわ。その前に、とお姉ちゃんは3匹が乗り込むと、国境を越えたら大使館に駆け込むのよ。
 僕らを助けてくれるんですか、とサル。見捨てるわけにはいかないもの、とお姉ちゃん、あなたたちがどんな目にあったか一部始終を見ていたんだから、助けないわけにはいかないわ。お姉ちゃんあんたはええ人や、とサルは京言葉で感激しました、世の中そんなに、むごいことばかりやあらへんな。
 お姉ちゃんはかけ流しの温泉銭湯で服のすり替えのアドバイスをくれた、あのお姉ちゃんです。3匹はあの時のお姉ちゃんのいかしたヌードを思い出し、こんな緊迫した事態にもかかわらずにやけてくるのを抑えられませんでした。地獄に仏、いや女神さまやで。
 トラックは走り出しました。3匹は慌てて荷台の縁につかまりましたが、後ろからこんな戦場には不似合いな高級車が迫ってきます。おい停まれ、このアバズレが!と高級車の窓から眼帯の、顔立ちだけでも肥満とわかる中年男がピストルをかざして怒鳴りました。
 お前を育ててやったのはこんなアバズレにするためではないぞ!と眼帯男はピストルをぶっ放しました。気にしないで、とお姉ちゃん。あの、あの方はお父さんで?とサル。夫よ、とお姉ちゃん。ああ、はかないわとサル。もうすぐ駅に着くわ、とお姉ちゃん。
 早く下りて、この時間なら検問なしに列車は国境を越えるから。トラックが駅に着くのと毒グモみたいな眼帯男の車が追いつくのは同時でした。早く、急いで!お姉ちゃんの言う通り、早朝の駅は無賃乗車もお構いなしで、3匹は発車待ちの列車に乗り込みました。
 列車は走り始めました。車掌も来ないし、と3匹がようやくひと安心していると、あのウサギがまた例の少女と現れたのです。
 ウサギはバサッと服を投げて寄越しました。着替えるんだ。こんな所ではできません、とサルとイヌは泣き出しました。
 ほう、とウサギ、ならトイレがある。サルとイヌは着替えを持たされました。僕もですか、とカッパ。そうだ、お前も来い。
 着替えたらどうするんですか?死んでもらう。あなたは誰を殺すんですか、とカッパ。僕はカッパ、そしてこいつらは英国諜報部少佐ラビット柳瀬と英国武偵高諜報科アリス・リデルです。あなたはあなたたちを殺せますか?
 第3章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)