人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『NAGISAの国のアリス』第四章

イメージ 1

  (31)

 第四章。
 ようやく着いたよ、とカッパとサルとイヌは海岸で大きく伸びをしました。遊んでいられる夏も再来年に卒業を控えた大学時代のこの年が最後ですから、三匹は学生時代最後のレジャーを満喫するため予算の許す限りの国内の南国で過ごしにやってきたのです。
 海岸から砂丘に降りると、彼らのような物好きはさすがに他には誰ひとりとしておらず、さながらプライベート・ビーチのような満足感に三匹は喜びのセッセッセをしました。足代・宿代・食費に雑費がかかっても、海に面した砂丘を独占するのに特別な利用料金など不要である上に、夏だ海辺だ青春だ、と謳歌するのに水着姿の女の子のひとりもいないのは唯一の無念ですが、ナンパは都会でやればいいことです。さいわいカッパは大ノッポなりに、サルは中ノッポなりに、イヌはチビなりに女の子にはモテました。これはひと言で女の子と言っても、大ノッポがタイプという子もいれば中ノッポがタイプという子もおり、チビがタイプという子もいるということです。
 そして今、広大な天然のプライベート・ビーチに立って、カッパとサルとイヌの三匹ともが大自然の偉大な抱擁力の前に色気づいた思考などすっかり漂白されて、ほとんど無心に大海原に対峙しておりました。
 三匹は服の下に水着を着て海岸にやってきていましたから、服を脱いで一か所に集めておくと、そのまま海へ駆け出しました。他愛なく三匹の馬鹿が水遊びに興じる声だけが浜辺に響く中でまずウサギ、それから少女の足が砂の中から勢いよく突き出てきました。それはまるで地球の裏側からストンと落ちてきたようでした。足は一旦砂の中に引っ込むと、今度は砂の中からウサギの手、少女の手が、三匹の脱いでいた服を一着ずつつかみ砂の中にひきずりこみました。それからウサギの手が燕尾服を盗んだ服の替わりに砂の上に置き、少女の手がやはり少女の着ていたらしいワンピースを盗んだ服の替わりに置きました。
 波音が寄せては返しました。
 カッパ、サル、イヌの三匹は戻ってくると、サルとイヌの服がなくなっている替わりに少女のワンピースとやたらと小さい燕尾服が置いてあったので、カッパは自分の服を着て何ら問題ありませんでしたが、サルとイヌは困ってしまいました。服の下にはそれぞれ千円札が服の代金のつもりか挟んでありましたが、学生証も定期券も財布もポケットに入れてあったのです。でも千円きりで何ができましょう?


  (32)

 街、と言ってもすれ違う人もいないような田舎町ですが、実家から宿に送金してもらうよう電話するのに小銭がいるな、とにかく千円札をくずして小銭を作ろう、 と三匹はタバコ屋に寄りました。服を盗られていないカッパはサルとイヌのために小銭を貸す義理はないからです。タバコ屋には青島幸男が店番をしていました。こんな田舎だけれど、とサル、釣りを騙そうとタバコを値切りでもしたら不審者と思われるのがオチだぞ。
 あのオバアさん、とサルは背中が見えないように左右にぴったりカッパとイヌにくっついてもらいながら話しかけました、ゴールデンバットは210円でしたよね?
 ゴールデンバットは210円だったかい?と青島幸男。そうですよ、全国どこでもゴールデンバットは210円、とサルは千円札を出し、1個ください、お釣りは790円。
 はあドキドキした、とサル。3匹は、今度は街を出るためにバス停を探さなきゃならないな、と歩き始めました。電車も通っていない街ですが、バスなら走っているはずです。3匹はそれらしい標識はないかキョロキョロしながら一列縦隊で進みましたが、やがて農民のような漁師のようなオッサンが仏頂面で歩いてきました。こんなオッサンに訊くのは嫌ですが、今日通行人を見かけたのは初めてです。僕が訊くよ、とカッパが列を離れました。サルはつんつるてんの燕尾服、イヌは女物のワンピースと、仲間たちは見るからに怪しいからです。
 なにィ、バス停?とオッサンはしょいこを投げ出すと、あっちだ、とあっさり先の三差路の左を示して、またしょいこを背負って立ち去ろうとしました。あの……とカッパ、僕の足を見なくていいんですか?足?俺は医者じゃねえよ、と小松方正は言うと、もう3匹には興味も親切心もない様子で歩いて行きました。
 最初からここへ来れば良かったよ、と露天風呂に浸かる3匹。体も潮気でベタついてたしさ。でもこの後どうする?残りのお金じゃ服も買えないし、またいつ不審者扱いされることになるかわからないし。
 買えないなら盗めば?と男湯と女湯の仕切りの岩陰から、ボーイッシュな美女が形の良い乳房も露わに身を乗り出してきました。服なら脱衣場にいくらでもあるでしょ?
 そりゃそうです。3匹はおねいさんに代わるがわる感謝しました。またお会いできて天にも昇る気持です。でもまたどうしてまたここへ?それはね……いずれわかるわ、と美人は女湯に消えました。


  (33)

 やっと人心地ついたような気がする、と風呂屋から路地に出て、サルがつぶやきました。おれたち人じゃないけどね、とカッパ。サルもイヌも、砂丘ですり替えられた燕尾服とワンピースから脱衣場で他人様から掠めてきた服を着て、とりあえず不審者には見えないでしょう。いかにも田舎者っぽい服装が洒脱なカッパのカジュアルないでたちと並ぶと不似合いですが、文句は言っていられません。路地は真っ暗で、街角ごとにある街灯の周り以外は足元も見えないくらいでした。
 ところで着ていた服は?とカッパ。サルはハッとして、ああ持ってきちゃった。またか、とカッパ。サルは服がすっぽり隠れそうな草むらがないか街灯の下できょろきょろし、暗闇に包みをバサッと投げ捨てました。
 捨てるな、と突然甲高い声が3匹を恫喝しました。街灯の円い明かりの中に、いつの間にかふたつの影が立っていました。捨てるな、とピストルを3匹に向けているのは、砂丘で盗まれたイヌの服を着ているウサギでした。ひいい、と3匹はピストルに気づいて声にならない悲鳴をあげると拾え!とウサギ、また元の服を着ろ。ヤですと言ったら?とサル。殺す、とウサギ、殺してから元の服を着せる。じゃあ着たなら?とサル。着たらそのまま殺す。
 どっちにしろ殺されるんですかあ、とサルとイヌは抱き合ってさめざめと泣きました。殺す理由はなかったんじゃないですかあ?
 お前たちは日系英国諜報部ラビット柳瀬少佐(とサルをにらみ)、そして英国武偵高校諜報科アリス・リデル(とイヌをにらみ)として死ぬのだ。え、と3匹はウサギの後ろの影をよく見ると、砂丘でサルが盗まれた服を着た女スパイらしき少女がいました。
 あのー僕は関係ないですよね、とカッパ。うむ、とウサギ。お前は50年後に山奥の地中から白骨で発見されることになる。
 嫌だあ、と3匹は泣き崩れました。仕方ない、自分で着ますよ。
 そしてサルとイヌが着替えを済ますと(カッパは暢気に♪オラは死んじまっただー、と鼻歌を歌っていました)、見覚えのあるトラックが突っ込んできました。
 さあ早く乗って、とお姉ちゃんが運転席の窓から顔を出して叫びました。地獄にまたまた女神様や、と3匹はトラックの荷台に飛び乗りました。ピストルをぶっ放す音に3匹は体を伏せました。ですが追跡者はウサギたちだけではなく、またあの毒グモみたいな眼帯男の高級車も後を追ってきていたのです。
 すぐ駅よ!


  (34)

 再び列車内で追い詰められた3匹でしたが、また着替えさせられたサルとイヌをかばうでもなく、カッパはサルとイヌの素性を確認しました。彼は不法入国諜報部小冊子ラビット柳瀬、とサルを指し、そしてこいつは(とイヌを示し)やはり不法入国武偵高諜報科のアリス・リデルです。そうですよね?
 そして僕らは最前線で戦ってきたのです。敵も味方もない壊滅戦の戦場で、現地ではもう僕らの生死は確認もできず、こんなところで生存していたら戦地に送られたのは一体誰だったかということになるはずだ。あなたたちがぼくらを殺しても、あなたたちはこの世界からも自分たちを抹殺することにはならず、僕たちが代わりに引き受けた従軍の意義も身代わり死体が発見されるとともに霧消してしまうということですよ。それに第一……。
 カッパは目の前の相手を問い詰めました、あなたはウサギ、そしてこいつらはサルやイヌです。動物は動物を補食する以外では殺さない。僕たちだってピストルやナイフがあってもあなたたちを殺すことはない。僕たち動物同士が殺しあえますか?
 ウサギは詰まって、後ずさりしました。
 殺せるわ、と少女が言いました、だって私は人間だから。
 人間だって動物です。
 殺しあえる動物だから人間なのよ、とアリスは言いました、あなたたちがどんなに逃げ回ってきたかを探るのは、私たちの身代わり死体になって発見されたら徹底的に調べられるでしょう。私たちはヤドカリと貝がらみたいにあなたたちと二人一役になって、残るのはあなたたちの死体だけになるわけ。
 この人でなし!とサルはボヤきましたが、突然いつもはおとなしいイヌがガアッ、とウサギと少女に飛びかかったのです。すかさずカッパが車両と車両の間のドアを閉めました。とにかく逃げるんだ、自由席の客車の中では連中だって手出しはできないに決まってる。
 ですが客室は閑散としていました。まずいまずいまずい、と3匹は通路を進みながら、誰か乗客が座っているところへたどり着かなきゃ、そこで大騒ぎするだけでいい、乗務員を呼ばれて知らない駅で摘まみ出されたってここで殺されるよりはずっといい。
 すると金持ち風の身なりの男女が退屈そうに二人がけのシートに並んでいるのに差し掛かりました。サルは振り向くと、あっ毒グモとお姉ちゃんや、と声に出して驚きました。
 お姉ちゃんまた僕たち助けに来てくれはったんやろ、とサル。何で知らんぷりなんや?


  (35)

 何のことかしら、とロリーナ(といっても未来のロリーナ)は冷たく言いました。そんな、とサル、あなた僕たちを助けてくれたじゃないですか、つれないこと言わんといてや。君たちは何の用だね、とドジソン先生(ただし眼帯のドジソン先生)は五月蝿そうに言いました。いえ僕らは五月でも蝿でもありません、とサル、ただの哀れな逃亡兵なんですわ、早く車掌さんかお巡りさんに通報してください。
 逃亡してるのならお逃げなさい、とロリーナ、あなたたちの邪魔はしないわ、もし逃亡兵というのが本当なら、とロリーナはドジソン先生に、逃げ続けてこそ逃亡兵のはずよねえ。そう、それに、とドジソン先生、私は他人の自由に干渉する趣味はない。そんな卑しいことはしない。私の趣味は卑しいの反対なのだからだ。どうだ、おそれいったか。
 おそれいりまへん、とサル、なぜなら僕らは卑しいの反対の反対なのだからです。どうですか、おそれいりましたか?
 おそれいらん、とドジソン先生、なぜなら私は卑しいの反対の反対の反対なのだから。つまりそれは上品ということなのだから。
 お姉ちゃん、とサル、こんな偽善者と一緒にいてはったらお上品が鬱ります。僕たちと一緒に逃げましょ逃げましょ。
 何のことかしら、とロリーナ(といっても未来のロリーナ)は冷たく言いました。そんな、とサル、あなた僕たちを助けてくれたじゃないですか、つれないこと言わんといてや。君たちは何の用だね、とドジソン先生(ただし眼帯のドジソン先生)は五月蝿そうに言いました。いえ僕らは五月でも蝿でもありません、とサル、ただの哀れな逃亡兵なんですわ、早く車掌さんかお巡りさんに通報してください。
 逃亡してるのならお逃げなさい、とロリーナ、あなたたちの邪魔はしないわ、もし逃亡兵というのが本当なら、とロリーナはドジソン先生に、逃げ続けてこそ逃亡兵のはずよねえ。そう、それに、とドジソン先生、私は他人の自由に干渉する趣味はない。そんな卑しいことはしない。私の趣味は卑しいの反対なのだからだ。どうだ、おそれいったか。
 おそれいりまへん、とサル、なぜなら僕らは卑しいの反対の反対なのだからです。どうですか、おそれいりましたか?
 おそれいらん、とドジソン先生、なぜなら私は卑しいの反対の反対の反対なのだから。つまりそれは上品ということなのだから。
 お姉ちゃん、とサル、それでは本当のことを言います。
 本当のことって何?


  (36)

 僕たちはあの戦場で……あの戦場というのはあなたも(とロリーナに感謝の眼差しを注ぎましたが、ロリーナからすげなく逸らされてもめげずに)……あなたもご存知の、僕らを救い出してくれはった塹壕ですけど、救い出された時には僕らはもう戦死の身分が認定されていた後なんです。つまりラビット少佐とアリス諜報員、それから国籍不明・身元不明の民間人1名(とカッパを指し)は法的にはもう生存していません。僕らは元のヤポネシアに戻って元々の僕らに戻ればいいだけでした。
 万事丸く収まったということじゃないか、とドジソン先生、元通りに復したならば、それのどこに不都合があるかね?
 はい、僕らが戦地に送られた替わりに、戸籍上ぼくらの身元にヤドカリみたいにすっぽり入り込んでいた連中がいました。つまり中ノッポこと僕(とサルは自分を指して)、それからチビこと彼(とイヌを指し)は、別人がもう僕らの替わりにすり替わっていたのです。
 彼は問題ないんだろう?とカッパに目をやるドジソン先生、それに君は(とイヌに目を向け)女装はしているがもともと戸籍上は男性のはずだろう?偽者が女性なら、あくまで偽者なのは明らかじゃないかね?
 チョン切ってしまったという言い訳が効きます、とカッパがニヤニヤしながら言いました、もっとも本物の彼の方はまだちゃんと付いていますが。それと僕ですが、この連中と(とサルとイヌを指し)一緒にお陀仏した国籍不明者ということになっているので、祖国に戻って行方不明者から名乗りを上げると必然的に連中たちも実は生きている、ということになります。そうなるとまた僕たちは殺しに来る奴らに追われる身になってしまいます。てか現にもう追われています。生きている限りは狙われるんです。こないな話ってありますか?
 話をスッキリさせるとやな、とサル、この大ノッポ(とカッパを指し)が生きている、と名乗り出たら僕ら全員が実は生きていたことになる、つまりまたまた身替わりのために殺される。だから僕たちは見つからへんように逃げ隠れ通さねばなりませんが、向こうさんとしてはいつ名乗り出るかもしれない僕らをしつこく追い続けているのです。こういうのって何と言ったらいいんでしょうね?
 負のスパイラル、とロリーナ。
 ではどうしたらひっくり返せるんでしょう?その、負の……。
 無理でしょうね、お気の毒だけど、とロリーナ。だからこそそれはスパイラルなのよ。


  (37)

 君たちの話を聞いているとね、と毒グモ、いやドジソン先生は言いました、君たちと私たちには一連の事態について認識にずいぶん大きな懸隔があるようだ。おそらく客観的真実はさらに事態を俯瞰したあたりにあるのだろう。たぶんそれは突き止めてみれば簡単明瞭で、わかってみればあくびが出るほど退屈に違いない。地球上に厳密な意味での水平は存在しない、のだが概念としての水平は普遍的に存在する。君たちにとって現実であるものを私たちが変えることはできない、もちろんその逆もだ。どうするね?この女にしても同じことだ。君たちが彼女をどう頼ろうとも、彼女は君たちを本質的には助けることはできない。
 それはあなたの言い分です、とサルはムキになって抗弁しました、僕らは直接この人の知恵を借りたいんです。
 そうか、君たちは若いな、とドジソン先生。男も中年になると女一般にそこそこ悟りができる。まず女は食習慣についても男と違う動物だということに絶望せねばならない。まず連中はモツ煮や脂身、アナゴやシメサバを好まないのだ。干しシイタケは食べるが生から調理したシイタケは食えなかったりする。畜肉や魚介、ヴェジタブルやフルーツの好き嫌いもヒジョーに多い。ピーナッツや干しぶどうは好き嫌いでも構わないと思うが、好きではなくてもそこにあるものを食えるのは生物の生存がかかった適性問題だろう。私は食い物の好き嫌いにうるさいやつはブン殴りたくなるのだ。
 それはそれでいいですが、とカッパ、このままだと僕たち殺されてしまうんですけど。あのウサギと、その連れの女の子に。
 アリスね、とお姉さんは不機嫌にドジソン先生に向き直ると、あの子のことは先生にも責任あるんじゃありません?
 私がかい?とドジソン先生は肩をすくめると、私は教育者だが、他人に教えられるのは数学と哲学くらいのものだよ。
 数学と哲学の世界では、とセリフの少ないイヌが真面目な顔で訊きました、他人の命はそんなに安いものなんですか?
 ドジソン先生が答える間もなく、客車と客車のあいだの扉が開きました。アリスが来たわ、とロリーナ。ウサギもね、とドジソン先生。何、すぐにはバレはしないさ、彼らは地球を突き抜けてきた、私たちは地上を迂回してきたからね。私たちは歳をとった、がアリスは一瞬で今ここに現れたのだ。
 そしてアリスが現れました……青年のような男装をして、ウサギの両耳をつかんでぶらさげながら。


  (38)

 今までカッパたちはアリス(とウサギが呼んでいました)たちには追われて命を狙われ、ロリーナ(という名前は知りませんでしたが)には危機一髪を助けられてきましたが、この2人と同時に出くわしたのは初めてで、そこでようやく3匹もふたりが姉妹らしいと気づいたのでした。世の中に似ていない姉妹は掃いて捨てるほどいますし、他人の空似の可能性もあればアリスとロリーナも容貌だけでは決め手には欠けるでしょう。しかしウサギをぶら下げ現れたアリスとキッと睨みを交わしたロリーナの間には、姉妹とするに十分な容貌の近似以上に近親者以外には働かないような根の深い桎梏が横たわっているように見えました。女は怖いわ、とサルはささやきました、きれいな顔して本性は何考えてるんだかわからんもんなあ。
 サルにはそのつもりはありませんでしたが、サルのボヤきは毒グモことドジソン先生の耳にも入ってしまったようでした。ドジソン先生はニヤリと笑うと、君たちだって学んでこなかったわけじゃああるまい、と見透かしたようなことを言いました。
 どういうことですか、とカッパ。
 イヌはもともと口数は決して少なくはないのですが、何か言おうとすると口達者なカッパやサルに先に言われてしまうのでこの場もさっきからモヤモヤしていましたが、アリスとロリーナ、カッパとサルとドジソン先生が同時ににらみあいの沈黙に踏み込んだ一瞬に一言、客車中に響き渡る声で、
 助けて!
 と叫びました。
 アホやな、助けを呼んだってこの客車にはこの人たちしかおらんのやで、とサル、どうにもならん。カッパもうなずきました。
 イヌはかまわず、もう一度、
 助けてください!
 と言いました。だから、とサル、誰に言っとるんや?僕たちを助けてくれる人は、もうおねえちゃんだって助けてくれんのやで。僕らは逃げ続けるしかないと決まったようなもんや。なあ?とサルは顔を上げると、
 最初からこういうことだったんですか?おねえさんたちの一方が追う、一方が逃がす。僕たちはそういうゲームの駒みたいなものだったんでしょう?僕たちが動いていることで何かしらお金も動いているのに違いない。どういう種類のお金かはわからないけれど、どういうゲームなのかは何となくわかる。つまり僕たちが死んだら上がり、そういう種類のえげつないゲームと違いますか?
 助けて!とイヌ。
 ああバレてた?とウサギがアリスの手から、ひょいと降りました。


  (39)

 すべての宗教は自分自身の幸福より他者の幸福を祈念している、とウサギは言いました。はあ、とカッパ。
 つまりおのれの幸福ばかりを願う者は悪しき意味でのエゴイストということだ。そしてこの場合他者とは何だろう。それが家族や恋人、友人のみを指すならエゴイズムの延長に過ぎまい。それはもっと大きなものでなければならない。われわれがつながっている共同体、そのもっとも大きな他者の単位は結局祖国ということになる。右であれ左であれ祖国のために身を挺し、時には殉ずる者は敵味方を越えて最高の敬意で語り継がれられる。国のために働くことは最高の名誉であると考える。世界の秩序は国家単位の法体系を尊守することから生まれ、ゆめゆめ法の正義を疑ってはならない。
 なぜなら、とウサギは言いました、われわれの大半の者が法の正義によって人権を護られていると信じて疑わないからだ。正確には疑いたくない。われわれの自由や可能性は国家資格や法規定によって制限されている。われわれが近代化と呼ぶ文化改革がそれで、多くの侵略国家が王制から共和制、民主制に移行することで利権を議会制社会の人民に広く解放した革命的意義は大きい。その代償にわれわれは進んでそれ以上の自由を犠牲にすることになった。誰もが密告者たる資格を持ち、誰もが被疑者足りうる社会の一員となった。つまりそういうことだ、この世界の原理は。
 だが君は一種の宗教学から始めた、とドジソン先生は言いました、一般的には宗教は政治的党派より上位にあるとされる。そこを君は民心一般の愛国心と混同している。宗教の多くは共同体の精神的基盤として発生したもので、世界最大の宗派などは国土を持たない放浪民族が、いわば国土の代わりに作り上げた神話体系から生まれている。
 それに君は共同体の単位の延長から国家の成立を規定したが、共同体が共同体である最大の理由は人はある程度の単位でまとまらないと生きていけない、ということでもあり、また異なる共同体が接触すれば競合から争いに発展するのは珍しくなく、統廃合以外に平和的解決がないことはしばしばで、私はあえて上品な表現を使っているが早い話が皆殺し、大虐殺で終わる戦争以外の戦争を数える方が難しい。
 でもそれが僕たちに何の関係があるんです、とカッパが言いました。ああ、つまり君たちはどこへ逃げても同じってことさ、とドジソン先生は言いました。
 アリスが笑いだしました。


  (40)

 何てことだ、とカッパはサルと顔を見合わせると、揃って地団駄を踏みました。イヌもワンテンポ遅れて踏みました。あんたたち結局グルだったんですか、いったい僕らを何だと思っているんです?
 グルというのは良くない言い方ね、とおねいさんのロリーナが答えました、それを言うならキャッチ&リリースと言ってほしいわね。それに踊らされているのはあなたたちだけなんじゃないわ、私たちだって好きでこんなことやっているわけじゃないのよ。
 ウサギがそでをまくって腕時計を見て、そろそろ結論を出そうじゃないか、と言いました。結論て何ですか?君たちがどちらの国に属しているかだよ。
 それじゃまるであんたたちが両国の代表みたいだ、とサルが文句をつけました、僕らから見ればあんたたちこそ……。
 どちらも外国人というのかね?とドジソン先生、だが人は親と国籍は選べないで生まれてくるものじゃないかね?
 それは今年死んだら来年は死なないで済むのと同じ理屈です、とカッパ、こんなキャッチ&リリースがありますか?
 早く終わらせちゃいましょうよ、とアリスが冷たく言いました。そうだね、とドジソン先生、それでどうするね?
 この国らしいやり方でやりましょ、とロリーナがスマホを片手に言いました、この国では生き物の所有者を決するためにちょっとした力較べをするの。綱引きの要領で左右の腕を引っ張り合うのよ。それで獲物が苦痛のあまり死にそうになっても手を離さなかった方が勝ち。
 死ななかったら?とアリス。
 死ぬまでやるのよ、とロリーナ。
 僕たち3人いますけど、とサル、順々にやっていくんですか?
 それも面倒そうね、とロリーナ、3人いっぺんに済ませる良い方法はないかしら?
 手をつながせよう、とウサギが言いました、左右のバランスもあるから、真ん中に小さいの(とイヌを見て)を置き、左右に大きいの(とカッパとサルを見て)を分ければいい。
 案外僕ら助かるかもしれないぞ、とサルはこっそりささやきました、引っ張り合いがきつくなったら、真ん中のお前が両手を離せば綱引きが弾けて、どさくさ紛れに逃げるチャンスもあるかもしれん。
 3匹はイヌを間に、カッパとサルを左右にして並ばせられました。手をつないで、とロリーナ。男同士で手をつなぐのも気色悪いですわ、とサルが軽口を叩きました。
 そうね、とアリスが目配せすると、ウサギが3匹の腕をロープで縛り始めたのです。
 第四章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)