人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年6月16~18日/続『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(6)

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 今回からが'40年代でも第二次世界大戦後のフランス映画になります。廉価版DVDボックスセット『フランス映画パーフェクトコレクション』にはパブリック・ドメイン作品でも名作と名高い作品や定評ある監督、話題作が優先収録されているので(『ジャン・ギャバンの世界』全3集は'53年までのギャバン主演作を網羅収録しているため玉石混淆で、それだけに凡作・水準作でも珍しい作品が豊富で面白いコレクションでしたが)、今回の戦後映画3作はいずれも見ごたえのある名作・佳作ばかりになっています。ジャン・コクトーの初の本格的劇映画(ルネ・クレマンがノンクレジット共同監督)、ハリウッドに亡命していたジュリアン・デュヴィヴィエの帰国第1作、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの戦後第1作と監督の顔ぶれやキャリアでの位置づけだけで重要な作品であり、戦前のフランス映画の流れからは決して主流とは言えない作品であることも戦後フランス映画の変貌を告げる作品であれば、戦後のフランス映画は全体的には戦前のフランス映画の主流を新たな意匠で焼き直したような作品が主流になるのでこれらコクトー、デュヴィヴィエ、クルーゾーの作品は戦後フランス映画でも主流とは言えない、監督の個性の強く出た作品です。名作と定評あるコクトーの『美女と野獣』はともかく、クルーゾーの名高い『犯罪彼岸』は日本初公開時高い評価を受けながらあまり観られる機会の少ない作品ですし、デュヴィヴィエの『パニック』は日本未公開作の上に同じ原作小説からのリメイク『仕立て屋の恋』'89(パトリス・ルコント監督)のヒットまで日本では注目されなかった作品ですがハリウッドでの『逃亡者』'43、『パニック』の次にイギリスに招かれて撮った『アンナ・カレーニナ』'48と並べるとやっぱりデュヴィヴィエはフランス人を描いたフランス映画でこそ光る監督なのがしみじみ感じられる意欲的な佳作になっていて、これもぜひともお薦めしたい一見の価値ある作品です。

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●6月16日(日)『美女と野獣』La Belle et la bete (DisCina'46.10.29)*93min, B/W : 日本公開昭和23年('48年)1月27日 : カンヌ国際映画祭音楽賞(ジョルジュ・オーリック) :キネマ旬報ベストテン6位
◎監督:ジャン・コクトー(1889-1963)
◎主演:ジャン・マレー、ジョゼット・デイ
○野獣の庭園でバラを摘んだ父を死なせることができず、野獣のもとを訪れた娘ベラ。彼女との交流が野獣の心を氷解させるが……。J・コクトー独自の世界観で表された徹底した映像美が幻想の深みへと導く傑作。

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 ジャン・コクトーは言うまでもなく文学者が本業で、詩人・劇作家・小説家・批評家としてどの分野でも一家をなした人でしたが、サイレント時代から映画の熱心な批評家でもありました。チャップリンを20世紀の世界最大の芸術家として賞揚し、フランスのサイレント映画についても熱心に応援を続け、トーキー時代になっても夭逝したジャン・ヴィゴの戦後の復権にいち早く乗り出してジャン・エプステンの『まごころ』'23をヴィゴの先駆的作風と位置づける具合に専業の映画批評家よりも直観的に鋭い映画批評家だった人です。'31年にはアヴァンギャルド映画の中編『詩人の血』を自主製作で初監督し、同作ですでにコクトー好みの鏡、彫刻、破片、血、幻聴、変身、天使、青年、美女、転移、死と復活などのテーマが出揃っているのは『詩人の血』自体は実験的作品ながらさすがで、あくまでコクトー好みであるにせよコクトーは映画の映像的本質の中で何がもっとも魅惑的かを知りぬいていた。『詩人の血』を本格的な劇映画にまったく新しく作り替えたのが『オルフェ』'50で、同作で劇映画の目標を達成したコクトーは晩年に映画による長編エッセイと言うべきコクトー自身が主演の幻想映画『オルフェの遺言』'60を映画の遺作とします。脚本提供作を除けばコクトー自身の監督した本格的な長編劇映画は『美女と野獣』、『双頭の鷲』'48、『恐るべき親達』'48、『オルフェ』と意外と少ないのですが、逆に言えば戦後5年のこの4作だけでコクトーはフランス映画史上の最重要監督になっているので、ミュージシャンや作家の余技の映画は自己主張の過剰が映画を損ねるというような通弊に陥っていない。ちゃんと映画を知り抜いている監督の、他の映画監督には決して作れない個性の強い作品になっていて、詩人・劇作家・小説家・批評家としてのコクトーの才能が映画に文学者の余技の自己主張ではなく豊かな滋養を与えている。コクトーの映画をまとめて観たのは何度もあり、本作も数年前に感想文を載せたばかりですが、良い映画は何度観ても発見や音楽的楽しみがあるので、今回はコクトーの映画作品では意外と俗っぽい人間ドラマ(ヒロインの家庭事情)はノンクレジットながら実質的に技術面の必要で共同監督を勤めたルネ・クレマンの手腕かな、と思えてきました。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 詩人ジャン・コクトーが脚本・監督を担当した十八世紀のおとぎ話の映画化。巻頭タイトルにコクトーの自筆で「世界は今あらゆるものを破壊し去ろうと熱中しているが、おとぎばなしが天国へ寝そべったまま連れて行ってくれたあの少年時代の信頼感と素直さとを取りもどしたい」という意味のことを述べている。美術をクリスチャン・ベラアル、作曲をジョルジュ・オーリックが担当。その他一流のスタッフの一丸となって創り出した交響詩的なニュアンスは旧来の映画にはなかった香気を充満させている。主演はコクトーに見出されたジャン・マレー。なおこの映画は1946年フランス映画コンクールの授賞作品で巴里ラ・マドレエヌ劇場で三ヶ月の長期興行に成功している。
○あらすじ(同上) 昔、年老いた商人(マルセル・アンドレ)がいた。末娘のベル(ジョゼット・デイ)は美しく優しい娘で、いつも意地悪の二人の姉(ミラ・パレリー、ナーヌ・ジェルモン)にいじめられていた。彼女は腕白な兄の友達アヴナン(ジャン・マレー)から求婚されていたが、父の世話をするために拒んでいた。父は自分の船が沈んだので破産を覚悟していたが、その一隻が無事入港したと聞いて喜んだ。二人の姉は宝石や衣しょうをお土産にねだったが、ベルは唯バラの花が欲しいといった。父が港に着いてみると船は債権者に押収されてしまい止むなく夜道を馬に乗って帰って来る途中、いつのまにか道を踏み迷ってこれまで見たことも聞いたこともない荒れ果てた古城に行き当った。人影もなく静まり返った場内の異様な恐しさに逃げ出して庭に出るとそこには香しいバラの花が咲き誇っていた。ベルのことを想い出してその花を一輪手折った時、突如眼前に一個の怪物(ジャン・マレー)が現われて立ちふさがった。形は人間だが全身に毛がそそり立ち、物すごい形相をして彼をにらんでいる。野獣はこの古城の主であった。大切なバラを盗んだ罰に命をもらうといったが、もし娘の一人を身代りによこせば一命を助けてやると約束し父を魔法の馬に乗せて帰した。ベルはこの話を聞いて責任を感じ父の生命を助けるために白馬に乗って単身野獣の居城へおもむいた。野獣は醜怪なその容ぼうにもかかわらず優しく堂々たる言葉で毎夜七時に食事の時だけ会いたい。そして「私の妻になっておくれ」と言ったが、ベルは「いやです」と答えた。美女と野獣の生活はこうして始まったが、ベルは次第に野獣のやさしい心に幸福な自分を見出すようになって来た。会いたい人の顔をみられる魔法の鏡でベルが父の顔を見ると、父は心労のため病床にふし、家財はみんな差押えられていた。父想いのベルは野獣に一週間の約束で家へ帰ることとなり、野獣は信頼の形としてダイアナの宝庫の金の鍵と、何処にでも行ける手袋を与え、一週間経って帰って来なければ自分は心労のために死ぬであろうと言う。ベルが家に帰ると父は急に元気になったが、二人の姉妹のせん望と、ベルを思うアヴナンの野望とが一緒になってベルの金の鍵を奪い、兄とアヴナンは野獣を退治して宝物を奪う計画を立てた。ベルを迎えに来た白馬に乗って城に着いた兄とアヴナンはまずダイアナの宝庫の宝物を狙った。一方、ベルは魔法の鏡で野獣をみると、そこに映し出されたのは、ベルを慕う余り、心労によって今にも死にかかっている野獣の姿であった。直ちに魔法の手袋をはめて野獣のもとへ飛んで帰ると、彼はすでに瀕死の状態であった。アヴナンは宝庫の屋根を破り、中へ潜入しようとした途端、傍に立っていた彫像ダイアナが放った矢に背を射抜かれ、突如野獣に変身してしまった。その時ベルの介抱にもかかわらず、息をひきとったと思われた野獣の姿はかき消すように消えて、こつ然と輝くばかりの美しい王子(ジャン・マレー)が現われた、それはアヴナンによく似た王子だった。王子は長い間魔法使いのために野獣にされていたが、今、ベルの愛によって元の姿に帰れたと語った。王子は妃となったベルと共に、雲の上をはるか王子の城へと飛んで行くのだった。
 ――シャルル・ペローの良く知られたおとぎ話が一躍舞台劇、バレエ、ミュージカル、アニメーションなどさまざまにリメイクされるようになったのはコクトーの本作が作られたからなのも文化史的な意義の高い映画ですが、子ども向けの絵本とコクトーの本作さえあれば「美女と野獣」は十分とも言えるので、実は兄の友人でヒロインの求婚者の美青年アヴナンが野獣の真の姿だった事情など二重人格のドッペルゲンガー現象とでも解釈しないでは辻褄が合わず、コクトーはそんな辻褄合わせは野暮とばかりに大した説明もしませんし野獣本人ばかりかヒロイン、ヒロインの家族を中心とした他の登場人物も起こったことをそのまま受け入れます。メルヘン映画なのはそれが通る世界だからですが、没落商人家庭の見栄張りの姉たちの妹いじめ、野獣の仕草(ヒロインがこっそり覗くと寝起きの野獣は池に手でくむのではなく直接顔を水面につけて水を飲み、水面に映る自分の顔に苦しみます)と、割と生ぐさくリアルな描写・演出も行き届いていて、感動少年少女物語と見せて戦渦のシーンやホームドラマ展開はけっこうえぐいブラック・コメディの『禁じられた遊び』'52の監督になるクレマンが共同監督に就いた効果は本職監督の技術面だけでなくファンタジー作品にもワサビを効かせるこうした演出に現れているように思います。『オルフェ』が実はけっこう俗っぽいパリ文壇の人間ドラマを絡めているように、コクトーもクレマンの持ちこんだ皮肉で卑近な味が長編劇映画では生きると踏んだのが純粋な実験映画『詩人の血』を『オルフェ』に発展させる鍵になったと思われ、コクトー映画の傑作は『双頭の鷲』と『オルフェ』でしょうが、陰鬱なホームドラマ『恐るべき親達』よりチャーミングな題材でポピュラーな要素に満ちた『美女と野獣』は本格的な長編劇映画への進出第1作にふさわしく、一般的にはもっとも人気の高いコクトー映画なのもうなずけます。野獣の館のあちこちに据えられた彫像が白塗りの俳優なのはコクトー映画では当たり前の光景なのですが、初めて観るコクトー映画が本作ならインパクトは絶大で、『詩人の血』は限られた観客しか観ていなかったでしょうからこれもやはり『美女と野獣』が世間をあっと言わせたコクトーならではの趣向になっている。また本作の成功があったからこそ『双頭の鷲』『恐るべき親達』『オルフェ』とコクトーは長編劇映画の監督作を次々作ることができたので、反主流の映画の旗印となった点でもコクトーのみならず戦後フランス映画で本作がいち早く果たした役割の大きさを感じさせます。

●6月17日(月)
『パニック』Panique (Filmsonor'47.1.15)*94min, B/W : 日本未公開、映像ソフト発売 : ヴェネツィア国際映画祭特別賞
◎監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)
◎主演:ヴィヴィアーヌ・ロマンスミシェル・シモン、マックス・ダルバン
○パリのある空き地で、絞殺された女性の死体が発見される。近所で変わり者と評判のイール氏が、容疑者として疑われるが……。G・シムノン原作で1989年に『仕立て屋の恋』としてリメイクされている。

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 デュヴィヴィエは'40年~'45年のハリウッド亡命中に『リディアと四人の恋人』'41、『運命の饗宴』'42、『肉体と幻想』'43、『逃亡者』'44など6作のハリウッド作品を手がけ、うち1作は米仏合作で亡命直前の'40年にフランスで作られ'43年アメリカで完成公開・'45年フランス公開になったものでしたが(『わが父わが子』)、ハリウッドでの作品はそれなりに商業的成果を上げたものの、やはり亡命中のジャン・ギャバンを主演に迎えた『逃亡者』に往年の冴えがなかったようにフランス人監督が作ったハリウッド映画という感覚のズレが良くも悪くも感じられるものでした。盟友ルノワールアメリカ人監督以上に土着的なアメリカ映画を作ってみせたのとは対照的で、ルノワールアメリカ人とアメリカ社会を自然に把握してハリウッド監督以上に行き届いた映画を作ることができましたが、デュヴィヴィエの把握する人間性の基準はフランス人とフランス社会にあり、ハリウッド映画なのにフランス映画くさい作風が抜けなかったと言えそうです。はるかに技巧家で器用に見えるデュヴィヴィエの方がハリウッドにはなじめず、デュヴィヴィエのような器用さはなさそうなルノワールの方がするりとハリウッドになじんで戦後も長く帰国しなかったばかりか、引退後は再度ハリウッドに移住して晩年を迎えた、つまり'40年代以降のルノワールにとってはハリウッドの方が居心地が良かったらしいのは両者の性格や映画監督としての資質にも関わるので、ルノワールのハリウッド作品の名作の数々は素晴らしいものですがフランス人の根っこが抜けなかったデュヴィヴィエも意外と器用なばかりの人ではなかったのがわかってくる。戦後のフランス帰国第1作は戦前からの馴染みのシャルル・スパークとの共同脚本でジョルジュ・シムノンの原作小説を映画化したもので、主演はミシェル・シモンと亡命直前のフランスでの最後の作品『旅路の果て』'38と同じ共同脚本家、主演俳優です。デュヴィヴィエは自作脚本で映画を作る監督なので、スパークが共作者でもオリジナル原案でも原作小説があってもデュヴィヴィエ自身が決定してプロデューサーとかけあっているはずですが、デュヴィヴィエ自身かスパークかプロデューサーかわかりませんが、戦後映画だからなるべく刺激的なものを、具体的にはクルーゾーの『密告』'43のようなものをデュヴィヴィエ流に、というアイディアがあったのではないかと思われます。のちに同じシムノンの原作小説から『仕立て屋の恋』'89がリメイクされてヒットしましたが、シムノンの原作小説は未読ながら原作小説に忠実なのは『仕立て屋の恋』の方で、『パニック』はシムノンの原作から『密告』に寄せてさまざまな箇所が脚色されているように思える。流れ者で住み着いたシモンが占い師・占星術研究家でうさんくさがられているというのも『仕立て屋の恋』の主人公は平凡な仕立て屋で、ただ性犯罪の前科があるのが容疑者になり市民の疑惑の的になる原因です。またシモンが向かい側のアパートに住む若い女給のアリス(ヴィヴィアン・ロマンス)に恋い焦がれるのも『仕立て屋の恋』と同じですが、アリスにはアルフレッド(マックス・ダルバン)という情人がいて(『仕立て屋の恋』ではエミール)、映画が始まった頃には終わっている若い女性の強盗殺人の犯人は実はその女の秘密のヒモだったアルフレッドなのですが、アルフレッドにぞっこんなアリスはシモンの自分への好意を利用してアルフレッドの指示通りシモンを決定的な殺人容疑者に陥れようとする。『仕立て屋の恋』ではアリスが次第に孤独な主人公に心を動かされていくのですが、本作のアリスは大胆な偽装工作を行うことでストレスとショックは感じてもアルフレッド一筋なので残酷なことをしたとは思っていてもシモンへの同情はありません。原題も原作小説が『イール氏の婚約』なら『仕立て屋の恋』の原題はただの「イール氏」ですし、それを『パニック(Panique)』として町中が殺人事件をめぐって主人公をめぐる疑心暗鬼につつまれる様子にテーマを移し、クライマックスでは主人公をリンチにしようとする市民の暴動場面になるのは相当の脚色が感じられます。本作は日本未公開作なので日本盤DVD発売時に簡単なキネマ旬報の紹介があります。
○解説(キネマ旬報外国映画紹介より) 亡命先のハリウッドから帰還したジュリアン・デュヴィヴィエの戦後第1作となったフィルムノワール。主人公が殺人の疑惑を晴らせぬまま追い詰められるプロセスや、人々の日常生活をリアルに描出した。原作はジョルジュ・シムノンの「仕立て屋の恋」。【スタッフ&キャスト】監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 原作:ジョルジュ・シムノン 出演:ヴィヴィアン・ロマンス/ミシェル・シモン/マックス・ダルバン
 ――解説に「原作はジョルジュ・シムノンの『仕立て屋の恋』」とあるのはパトリス・ルコント監督、ミシェル・ブラン主演の『仕立て屋の恋』日本公開時にシムノンの原作が映画の邦題に合わせて翻訳されたからですが、メグレ警視もの『男の首』がデュヴィヴィエの脚本・監督で映画化された『モンパルナスの夜』'33(映画原題は『男の首』)でもメグレ警視と主人公の犯人の名前とキャラクター以外は事件も犯罪内容も副登場人物も話も全然違うオリジナル脚本だったくらいですから、シムノンは自作の映画化は好きにしてくれという作家だったのでしょう。本作の流れ者の老占星術師のシモンは素性不明のうさんくさい人物と町中から怪しまれてはいますが性犯罪の前科などはなく心優しい好人物に描かれており、主人公に決定的な容疑が(ヒロインの偽装工作で)かかる過程から追い詰められるまで、また結末のどんでん返しは本作と『仕立て屋の恋』では大きく違い、本作は全体的にクルーゾーの『密告』に直接のヒントを得たと思われるムードの設定に合わせて脚色・演出が行われていることから、本作はサスペンス映画にするための原作小説からの変更が多く、『仕立て屋の恋』は原作小説におおむね忠実な映画化と思えます。サスペンス映画にするための改変にはスパークがずいぶんアイディアを出したのではないかと思われ、また結末のどんでん返しはあっさりとあっけなくさらりと締められるのが戦前のスパーク脚本やデュヴィヴィエ監督作品からは思い切った軽さがあり、戦前のスパーク脚本作品やデュヴィヴィエ監督作品が結末でどうだ堪能したろうと見栄を切るような臭みがあったのを思うと本作の結末はもの足りないのが好感が持てる仕上がりです。本作も後輩クルーゾーの向こうを張ろうという、デュヴィヴィエがクルーゾーなど意識しなくてもいいではないかと思える妙な方向への意欲がハリウッド帰りの方向性の迷いを感じさせもしますが、それでもこの題材が何より良かったのはシャルル・スパーク共同脚本、ミシェル・シモン主演という馴染みの顔ぶれで、フランス人社会を描くデュヴィヴィエの手馴れた手腕にぴったり合ったところで、センスはともあれ何と言ってもデュヴィヴィエは一流監督ですから名優ミシェル・シモンを再び主演に迎えて悪かろうはずはない。センスはともあれ一流なのは脚本家スパークも同じで、シモンの役柄は監督によりけりですがスパーク脚本やデュヴィヴィエ監督はとかく重くなりがちというか、'30年代のフランス映画自体が重厚な悲劇好みの傾向があったのですが、もうそういうのではなく市井の陳腐でちんけな痴情犯罪を陳腐でちんけなままさらりと面白く描けないかとあえてスパーク共同脚本でデュヴィヴィエが作ってみせたのが本作の良さになっており、悲劇的な末路を迎えるシモンがちっとも悲劇的に見えないのは'30年代のスパーク脚本作、デュヴィヴィエ監督作からは考えられないことです。悲劇を描いて悲劇にならないシモン主演映画はルノワールやギトリならばともかくデュヴィヴィエには画期的なことで、本作にもダイナミックなアクション場面を含むクライマックスはスパーク=デュヴィヴィエらしいけれん味がありますが、それもさらりと流してしまう。帰国第1作だし、という力みよりは再びフランスで映画を撮れる喜びがおそらく映画自体を風通しのいい、明るいものにしていて、明らかにクルーゾーの『密告』の線をなぞりながら『密告』の陰鬱さはまったくないからりとした仕上がりになっています。デュヴィヴィエ作品中では代表作とも特に上位とも言えない小品ですがこれはこれで立派な佳作で、ミシェル・シモン主演のデュヴィヴィエ作品というだけで期待される以上にこんな作風のデュヴィヴィエ作品もあったんだなと思わされます。しかしデュヴィヴィエは凝ると『巴里の空の下セーヌは流れる』'51のような意欲的失敗作を作ってしまう監督でもあるので、案外愛嬌のある大家だったではないかと'30年代の代表作だけでは語れないところがあります。

●6月18日(火)
『犯罪河岸』Quai des Orfevres (Majestic Films=Corona=Cine-France'47.10.3)*107min, B/W : 日本公開昭和24年('49年)7月5日 : ヴェネツィア国際映画祭監督賞 : キネマ旬報ベストテン10位
◎監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(1907-1977)
◎主演:ルイ・ジューヴェ、シモーヌ・ルナン、シュジ・ドレール、ベルナール・ブリエ
○歌手として人気が出始めたジェニーは、映画会社を営む富豪のブリニョンに取り入ろうとする。嫉妬深いジェニーの夫モーリスは、ブリニョンを殺そうと家に乗り込むが、すでに彼は殺されていて……。

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 本作は戦時下のフランスでの単独監督デビュー作『犯人は21番に住む』'42、第2作『密告』'43以来のクルーゾーの第3作で、クルーゾーはフランス人ですがもともとフランスの映画産業はドイツ資本と密接だったためドイツ映画界で映画の仕事に入った人で、'30年代にドイツで数作の共同監督作品がありますがドイツの映画社がドイツ語版・フランス語版の両方を同時製作した会社企画作品なのでフランスでの単独監督デビュー作が本格的な監督第1作とされています。ただし『犯人は21番に住む』はベルギーの推理小説の映画化で無国籍的な内容ですからドイツでも作れた題材なのを思えば、クルーゾー自身が原案・脚本(共同)でフランスのどこにでもある田舎町を舞台にした匿名密告状による疑心暗鬼の脅迫状犯罪サスペンス『密告(原題『カラス』)』がフランス監督クルーゾーとしては画期的な作品だったと言えて、同作は商業的成功を収めながらフランスの腐敗を描いた作品と同時のドイツ占領下の宣伝に利用されたことでフランス人観客の反感も買い、クルーゾーへの対独協力批判も起こる具合に両刃の剣となった作品でした。第3作を撮る機会がなかなか訪れなかったのも『密告』が独仏両方から問題視されたためで、第3作の本作が戦後2年経った'47年にようやく製作許可されたのも『密告』問題が尾を引いたからです。ただし『密告』がいかに強力なインパクトのあった作品だったかはデュヴィヴィエの『パニック』が『密告』を意識した内容なのからも明らかで、クルーゾーの第3作は公開前から非常に大きな注目を集めた作品になりました。結果本作はヴェネツィア国際映画祭監督賞受賞作となり、本作から『恐怖の報酬』'53までの5作でクルーゾーは世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)のグランプリを制覇した史上初の監督になります。また本作『犯罪彼岸』は2002年にアメリカで再公開されてリヴァイヴァル・ヒットをするなど息の長い人気を誇る作品で、クルーゾーの最高傑作とする批評家も多く、日本でも初公開年にはキネマ旬報外国映画ベストテン10位と、犯罪ミステリー映画としては異例の高い評価を受けています。本作も原作小説は『犯人は~』と同じベルギーの推理作家のものですが、本格犯人当てミステリー『犯人は~』のように無国籍的なものではなく、舞台をフランスに置き換えて、犯罪ミステリー映画としては倒叙ミステリー・サスペンス(先に犯行にいたる登場人物たちの同行と犯罪を描き、後半で探偵が出てきて捜査が始まる)と見せかけて真犯人が二転三転し、普通映画紹介の場合キャスティング表にすら載らない意外な真犯人が明らかになるという反則すれすれどころか本格推理小説としては完全な反則を堂々とやっているのにリアリティと皮肉な面白みがあり、後世のアメリカ映画『夜の大捜査線』'67も意外な真犯人でしたがあれは原作小説のアメリカ探偵作家クラブ賞受賞作『夜の熱気の中で』にちゃんと即してさり気なく伏線が張ってあり、それに較べても本作の真相(意外な真犯人)はこんなの伏線もへったくれもないだろという奇想です。原作者のS・A・ステーマンはベルギー戦前の本格推理小説の第一人者としてカルト的な存在ですが、本格推理小説のふりをして意外性と奇想を追究するあまりいくら何でもこれはないだろうという作風でも知られた人で、本作の原作(未訳)は『正当防衛』という原題だそうですがステーマンの他の代表作『六死人』『マネキン人形殺害事件』『犯人は21番に住む』(以上翻訳あり)同様タイトル自体が大嘘(ミスディレクション)という人を食ったベルギー人です。幸い日本初公開時のキネマ旬報の紹介でも犯人を割ってはいないので、このあらすじからどこに真犯人が出てくるのか想像してください。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「犯人は二十一番に住む」未輸入の「からす」のアンリ・ジョルジュ・クルーゾーが監督した一九四七年作品で、「六人の最後の者」「犯人は」と同じくS・A・ステーマン作の小説に基き、クルーゾーがジャン・フェリーと協力脚色し、「犯人は」のアルマン・ティラールが撮影したもの。主なる出演者「旅路の果て」「どん底」のルイ・ジューヴェ、「レ・ミゼラブル」のシャルル・デュラン、「犯人は」「六人の最後の者」のシュジ・ドレール、「幻想交響楽」「カルメン(1946)」のベルナール・ブリエにややおくれて出た新人シモーヌ・ルナンで、「求婚」のピエール・ラルケ、「偽れる装い」のジャンヌ・フュジェ・ジル、新顔のクローディーヌ・デュピュイ等が助演している。なおセットは「偽れる装い」のマックス・ドゥーイが設計し、音楽は「黒騎士」のフランシス・ロペスが作曲している。クルーゾーはこの映画によりヴェニスで監督賞を得た。
○あらすじ(同上) 二流所の流行歌手ジェニイ・ラムール(シュジ・ドレール)はパリの下町育ち、男の浮気心をそそる色っぽさが自慢だ。伴奏のピアノをひく夫のモーリス(ベルナール・ブリエ)は、人一倍の嫉妬深い男なので、ジェニイが色目を使ったとか使わぬとか夫婦げんかは毎日である。二人の住むアパートの下の部屋には女写真師ドラ(シモーヌ・ルナン)のスタジオがある。ドラはモーリスの幼な友達で、彼に少々関心を持っているが、男の方はジェニイにまるで夢中である。ドラの写場で女連れのセムシの金持ブリニヨン(シャルル・デュラン)は色っぽいジェニイに野心を起して、ジェニイを後援してやろうと申出る。嫉妬深いモーリスには内緒で会見する手はずと知った彼は、カンカンに怒ってブリニヨンの事務室に先まわりし、後援なぞは真平だと物すごいたんかをきる。折しも訪ねて来たジェニイを連帰ると、熱いキッスで仲は直る。窓ごしに見上げるドラは苦笑い。ところがモーリスが用たしして帰宅すると妻は不在でまっ暗がり。不審がる彼の目はブリニヨンの私邸の番地を書附けた紙切れを見つける。逆上した彼はピストルをポケットにジェニイが出演中の劇場へ行きアリバイを作っておいて、ブリニヨン邸へ自動車をとばす。開け放しの戸を押して入ると、ブリニヨンは死んでノビている。驚いてとび出すと、何者かがモーリスの車を乗逃げしてしまう。タクシーを捕える事が出来ず、彼は地下鉄までかけ出す。これよりさき、ジェニイはセムシを訪ねると、後援は口実で手ごめにしようとかかるので、手にふれたシャンパンのビンで相手の頭をなぐり、こん倒したのを見て彼女はあわてて逃出したのである。汗だくだくで劇場へもどるとハネたあとで、何処にいたのかときかれる仕末で、モーリスはアリバイが成立すればいいがと気がもめる。モーリスは心配でたまらず一切をドラに話して少し安心する。モーリスから告白を聞いたあと、今度はジェニイから電話がかかり、セムシ野郎を酒ビンでなぐり殺したという泣きながらの打明け話。ドラは大胆に現場へ行き、指紋のついてそうな物をふいてしまう。ブリニヨン殺しは警視庁の名探偵アントワン(ルイ・ジューヴェ)の受持ちとなる。モーリスが暴れ込んでたんかを切った事から、彼は容疑者第一号となり、探偵はコツコツとアリバイ調査にかかる。当夜ドラが乗ったタクシーの運転手も引張られ、首実験をさせられて、ドラが現場に行った事もバレる。烈しい尋問で包みきれず、ブリニヨン邸へ行ったことを白状したモーリスはブタ箱に入れられる。ジェニイが下手人だと思込んだ彼は、罪を被って愛妻を救う気で、腕時計のガラスを割って手首の動脈を傷つける。モーリスが自殺を企てたと聞いたジェニイは、済まないやらうれしいやらで夫に抱きついて泣き伏してしまう。致命傷がピストルの弾丸であることから、モーリス夫婦の無罪を知るアントワンは、他の容疑者が発射したピストルを持っており、ブリニヨンを殺した弾丸と同口径である事から、その男に犯人であることを自白させる。
 ――本作が一応ルイ・ジューヴェ主演なのはジューヴェが名探偵アントワン警部だからですが、実質的な主役は酒場の歌手とピアニストの夫婦のシュジ・ドレールとベルナール・ブリエで、夫のブリエに惚れているけれど夫婦の友人なので遠慮している女性カメラマンのシモーヌ・ルナンはドレールとブリエの双方の相談役といった役柄です。色魔のプロモーターの家に妻が仕事の斡旋を頼みに行ったのを知ったブリエがころしてやるとアリバイ工作までしてピストルを手にプロモーターの屋敷に乗りこむとすでにプロモーターは殺されていて、しかも路上駐車した車も泥棒に乗り逃げされてアリバイ工作が大幅に崩れてほうほうの体で帰って女カメラマンに事の次第を電話で打ち明ける。さらに女カメラマンを訪ねた妻はプロモーターに迫られて酒瓶で殴り殺してきてしまった、と言うので、女カメラマンは真夜中にプロモーターの屋敷に行って酒瓶の指紋その他証拠を隠滅する。映画冒頭で歌手とピアニストの夫婦の日常と、女カメラマンとの交友関係からプロモーター登場、そいつが色魔だと知る、夫の反対を押し切り内緒で妻が仕事の斡旋を頼みにプロモーターを訪ねるのを夫が知る、というあたりまでで約20分。さらに夫がプロモーターを殺しに出かけて上記の流れで女カメラマンが現場で証拠隠滅を済ませるのが20分で、まだ夜明けにアントワン警部の家に本庁からの呼び出しが来るのは映画開始から約45分です。後半は「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」の原型みたいなもので、ジューヴェは南アフリカ戦線からの退役軍人でコンゴ人の孤児の男の子を養子にして慈しんでいる所帯くさい名警部なのですが、ひょいひょい世間話のついでのようなふりをして夫婦別々のアリバイ工作の穴を突くような質問を誘導してくる抜け目のない探偵です。被害者の死因が銃殺であることからたがいに相手が真犯人ではないかと疑って庇いあおうとする夫婦、さらに女カメラマンにも動揺が走ってくる。酒瓶で殴ったという妻が女カメラマンに打ち明けたのも真相ではない可能性があるわけで、一応観客は夫の視点で現場に踏みこんでみたらすでに殺されていた、というのは提示されているので夫は真犯人ではないにしても、では誰が真犯人で夫は無実を証明できるのか、と次々やっかいな事情が生じ、もし妻が犯人だとしたらそれを隠匿しなければならない、という状況に立たされます。本作がいかにもフランスくさいのはこの歌手の妻の伴奏ピアニストの夫を演じるベルナール・ブリエがずんぐりむっくり体型の額の後退した丸顔の男で、とても歌手の妻役のシュジ・ドレールと女友だちのカメラマン役のシモーヌ・ルナンの両方にモテモテの色男には見えないあたりですが、ラテン系人種には色男といってもいろいろな種類があって、日本人にはブリエのようなタイプの色男というのが存在しないしそもそも日本人的体型にはあまりない容貌なので、ブリエの色気というのが存在するのがフランス映画らしいところにもなっている感じがします。またブリエは短気で嫉妬深いが情熱的な男を演じてジューヴェの名警部に負けない名演であり、『密告』の主役だったピエール・フレネーのような翳と威圧感のある長身で面長の俳優では出せない被虐感を観客に伝える。童顔で幼児体型っぽい成人俳優が事実上の主役なのもサスペンスの醸造に一役買っており、あとは本作の完全にミステリーの原則に反した超意外な犯人ですが、小説じゃなくて映画だからこれもありなんじゃないかなと思えますし、こりゃないだろと認めない人にも同感できるのです。