人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年6月22~24日/続『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(8)

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 コスミック出版のDVD10枚組のパブリック・ドメイン映画廉価版ボックス(各巻1,800円)から、今回は『フランス映画パーフェクトコレクション』続刊の『情婦マノン』『嘆きのテレーズ』『フィルム・ノワール 暗黒街の男たち』からの30本をご紹介していますが、昨年4月には、
○2016年12月24日刊『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界 第1集』1.『望郷』'37、2.『どん底』'36、3.『陽は昇る』'39、4.『獣人』'38、5.『愛情の瞬間』'52、6.『港のマリィ』'50、7.『夜霧の港』'42、8.『ラインの処女号』'53、9.『逃亡者』'44、10.『面の皮をはげ』'47
○2017年2月24日刊『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界 第2集』1.『大いなる幻影』'37、2.『我等の仲間』'36、3.『霧の波止場』'38、4.『夜は我がもの』'51、5.『地の果てを行く』'35、6.『曳き船』'41、7.『鉄格子の彼方』'49、8.『狂恋』'46、9.『珊瑚礁』'39、10.『ゴルゴダの丘』'35
○2017年12月21日刊『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界 第3集』1.『快楽』'52、2.『愛慾』'37、3.『白き処女地』'34、4.『メッセンジャー』'37、5.『彼らの最後の夜』'53、6.『ベベ・ドンジュについての真実』'52、7.『ヴィクトル』'51、8.『リラの心』'32、9.『トンネル』'33、10.『はだかの女王』'34
 ――の30本をご紹介し、また昨年9月には、
○2018年5月17日刊『フランス映画パーフェクトコレクション~天井桟敷の人々』1.『天井桟敷の人々』'45、2.『巴里の空の下セーヌは流れる』'51、3.『エドワールとキャロリーヌ』'51、4.『白い馬』'53、5.『ル・ミリオン』'31、6.『外人部隊』'34、7.『犯人は21番に住む』'42、8.『オルフェ』'50、9.『素晴らしき放浪者』'32、10.『ブローニュの森の貴婦人たち』'45
○2018年6月22日刊『フランス映画パーフェクトコレクション~巴里の屋根の下』1.『禁じられた遊び』'52、2.『にんじん』'32、3.『赤い手のグッピー』'43、4.『輪舞』'50、5.『巴里の屋根の下』'30、6.『たそがれの女心』'53、7.『あなたの目になりたい』'43、8.『肉体の悪魔』'47、9.『枯葉~夜の門~』'46、10.『花咲ける騎士道』'52
○2018年7月18日刊『フランス映画パーフェクトコレクション~舞踏会の手帖』1.『ゲームの規則』'39、2.『アタラント号』'34、3.『毒薬』'51、4.『自由を我等に』'31、5.『ぼくの伯父さんの休暇』'53、6.『舞踏会の手帖』'37、7.『悪魔が夜来る』'42、8.『パルムの僧院』'48、9.『ミモザ館』'35、10.『双頭の鷲』'48
 ――の既刊30本を紹介しています。前回収録作一覧を載せた続刊の『情婦マノン』『嘆きのテレーズ』『フィルム・ノワール 暗黒街の男たち』は2018年9月~11月の発売で、さらに続刊として今のところは、
○2018年12月10日刊『フランス映画界の至宝~ジェラール・フィリップ コレクション』 (9枚組)1.『狂熱の孤独』'53、2.『美しき小さな浜辺』'49、3.『愛人ジュリエット』'51、4.『フレール河岸の娘たち』'44、5.『白痴』'46、6.『失われた想い出』'50、7.『星のない国』'46、8.『七つの大罪』'52、9.『ボルゲーゼ公園の恋人たち』'53
 ――が出ており、既刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』収録の代表作とは重複せず、パブリック・ドメイン年限の'53年作品までを集めたため、助演作品やイタリア映画も含んでいるので『フランス映画パーフェクトコレクション』とは名銘たなかったようですが、既刊の『フランス映画~』と『ジェラール・フィリップ コレクション』で'46年の映画デビューから'53年までのフィリップ出演作は『すべての道はローマへ』'49以外網羅されているので、同作(他社から単品発売されていますが)も収録して10枚組で発売されなかったのは惜しまれます。『ジャン・ギャバンの世界』は始めて主演俳優になった'34年~パブリック・ドメイン年限の'53年までのギャバン出演作を戦後のイタリア作品2作(おそらく原盤が不明になっているのでしょう)以外は完全網羅し、'32年~'34年の助演作品を加えているので、『夜霧の港』と『逃亡者』は戦時中のアメリカ亡命時のハリウッド映画主演作ですからジャン・ギャバン作品集とは言えても厳密にはフランス映画に限らない。またデュヴィヴィエ、ルノワール、グレミヨン、カルネら力量ある監督の作品に混じって何もこんな映画にと思うようなB級映画の主演作も多く、戦後には意欲作でも監督の腕前が落ちるのでギャバンという俳優のキャリア自体に興味を惹かれる作品集成になっています。既刊10セット99本、うち数本はギャバン主演のアメリカ映画やフィリップ出演のイタリア映画にせよ、これだけ手軽に『フランス映画パーフェクトコレクション』だけでサウンド・トーキー化以降の主だったフランス映画を観られるのはとんでもない気がします。またさらに数巻の続刊が組めるだけの名作佳作がこの時期のフランス映画にはある(『海の牙』'47、『海の沈黙』'などは『戦争映画パーフェクトコレクション』に、『黄金の馬車』'53は『史劇パーフェクトコレクション』に収録されていますが)ので、それを思うとフランス映画だけに限っても観ても観ても観きれないのは嬉しくもあり虚しくもなるような気がします。

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●6月22日(土)
恐るべき子供たち』Les Enfants terribles (O.G.C'50.3.29)*106min, B/W : 日本公開昭和51年('76年)8月14日
◎監督:ジャン=ピエール・メルヴィル(1917-1973)
◎主演:ニコール・ステファーヌ、エドアール・デルミ、ルネ・コジマ、ジャック・ベルナール
○母を亡くして、姉弟二人だけで暮らす閉ざされた世界から、大人にならざる得なくなったときに起こった悲劇……。ジャン・コクトーの原作による思春期の少年少女の心の脆さを描いた作品。

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 初期のメルヴィルは、一見やはりジャン・コクトーと同時期に交流を持っていたロベール・ブレッソンに接近したストイックな作風の印象を受けますが、それを言えばメルヴィルの映画は晩年まで一貫してストイックなので、ブレッソンの映画とは厳しさの向いている方向が違うのが後期作品からさかのぼって観て長編第1作『海の沈黙』'49、第2作の本作を観るとわかります。メルヴィルの映画のストイックさはエモーションやテーマの強調のためで映画の作り方としてはごく正統的で、メルヴィル自身がアメリカの犯罪ハードボイルド映画(いわゆるフィルム・ノワール)から学んで自己流に応用したスタイルでした。ブレッソンの映画のストイシズムはアメリカ映画的な効果の強調とは無関係で、被虐性を感じさせるまでに登場人物のドラマを追いこんでいくことから生じてくる。ブレッソンの映画をカトリック的発想によるものとするならばカトリック圏の映画監督はみなブレッソンのような映画を作っていておかしくないわけですが、それはブレッソン作品の話題で考えてみるとして、名作と名高いメルヴィルの本作はジャン・コクトーの'29年発表のコクトーの小説中でも代表作と言える作品の映画化で原作者コクトー自身がメルヴィルと共同脚本を手がけていますが、古典文学に材を採ったコクトー脚本の『ブローニュの森の貴婦人たち』'48をブレッソンが監督したのよりも本作はあまりにコクトー色が強くて、コクトーによるナレーションが全編に渡るばかりでなく俳優のキャスティングもコクトーの好みのように見える。『ブローニュ~』もブレッソンの映画としてはコクトーくさいものでしたが、本作は一見メルヴィルを監督に立てたコクトーの映画にも見えるので、メルヴィルは『海の沈黙』の監督手腕を買われて本作の監督に指名されたそうですが、この時期映画製作に集中的に取り組んでいて'48年に『双頭の鷲』『恐るべき親達』、本作と同年の'50年に集大成的作品『オルフェ』を監督・公開したコクトーによる企画と脚本が先にあったのでしょう。本作は少なくともブレッソンには持ちこまれないし受けないだろうという内容で、またドラノワやオータン=ララなど文芸映画を得意とした戦後監督ではこの硬質な味は出なかったでしょうから、メルヴィルが監督しただけはある映画になっていますが、コクトーの原作小説や脚本にもあったはずの姉弟の近親相姦的な雰囲気や少年少女たちの同性愛的関係はあまり彷彿としてこない。そういやメルヴィルは映画監督には珍しくいわゆる恋愛映画は撮らない人だったな、と思えてきます。ブレッソンの大半の映画は愛に苦しむ人々の姿を描いていましたし、『やさしい女』'69、『白夜』'71などずばり恋愛映画らしい恋愛映画も作っている。メルヴィルの映画にも男女関係は出てきますがそれ自体がテーマになっている印象は稀薄で、本作から受けるのも生身の少年少女たちの愛憎劇というより古代神話の現代劇化という印象で、神々の世界の出来事のような気がしてきます。またトリフォーの批評から借りると「メルヴィルサミュエル・フラーはギャング映画でも戦争映画でもギリシャ神話のように撮る」と、メルヴィルやフラーを賞賛した上でヒッチコックは犯罪スリラーは犯罪スリラーとして撮っていた、と対照しているので、これは優劣ではなくトリフォーの酷愛するニコラス・レイも神話のように映画を撮る監督でしょう。意外にもコクトー自身の映画は、神話の現代化のような自作脚本によりながらも人を食ったような味が効いていて、ずっと遊びと余裕が感じられる。メルヴィルの本作はジャン・ヴィゴの中編『新学期・操行ゼロ』とともにようやく昭和51年に日本初公開されましたが、息詰まるムードの本作と開放感あふれるヴィゴの中編の2本立てとは配給のフランス映画社も心憎い企画を立てたものです。当時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
○解説(キネマ旬報新作外国映画紹介より) 詩人ジャン・コクトーの代表作を、「海の沈黙」でデビューして既成のフランス映画界に衝撃をあたえたジャン・ピエール・メルヴィルが映画化しヌーヴェル・ヴァーグの先駆的役割を果たした作品。製作・監督はジャン・ピエール・メルヴィル、原作・台詞はジャン・コクトー、脚色はメルヴィルコクトー、撮影はアンリ・ドカエ、音楽監修はポール・ボノー、編集はモニーク・ボノーが各々担当。出演はニコール・ステファーヌ、エドゥアール・デルミ、ルネ・コジマ、ジャック・ベルナール、メルヴィルマルタン、マリア・シリアキュス、ジャン・マリ・ロバンほかで、ナレーションはコクトー自身が担当している。
○あらすじ(同上) その晩は、雪だった。シテ・モンチエの、コンドセ高等中学校の中庭を、走り、叫びあい、雪球を投げあう少年たちのシルエットが飛びかう。ポール(エドゥアール・デルミ)は死にそうな思いで、憧れのダルジュロス(ルネ・コジマ)を探していた。ところがポールは、ダルジュロスの姿をかいまみた途端に彼が投げた石の入った雪球で胸を射ちぬかれ、気絶してしまう。それが奇蹟の、そしてこの悲劇のはじまりであった。ポールの姉エリザベート(ニコール・ステファーヌ)は、負傷して帰ってきた弟と、つきそってきた友人ジェラール(ジャック・ベルナール)を家に迎えいれることを耐えがたく思った。瀕死の母の看病とそのうえ、弟まで病人になってはたまらないということよりも、姉と弟の居室、二人だけの王国に、弟がたかだか親友と名のるだけの他人に侵入することを許したことが腹立たしいのだ……。エリザベートは生きる上で奇蹟は常に起こると信じていた。母(マリア・シリアキュス)の侍医がボールを診察して、通学を禁じて療養を命じたことも、ジェラールの伯父がポールとエリザベートとジェラールの三人を海辺の旅行に招いてくれたことも、彼女にとっては奇蹟のひとつだった。やがてポールの健康は回復したが、例の雪合戦事件のせいでダルジュロスが放校されたという知らせを聞いて、彼の心は痛んだ。母が死んだのはそれから間もなくのことだった。エリザベートはファッション・モデルとして働き始めた。彼女は仲良くなったモデル仲間のアガート(ルネ・コジマ)をちょくちょく家に連れてくるようになった。アガートは誰の眼にも、ダルジュロスに酷似した少女だった。ポールはアガートを愛し始めていることをひた隠しに隠して、彼女を無理に遠ざけた。殊に、いかにしてエリザベートにさとられずにすむかに腐心した。それでも秘そかにアガートに愛を伝えたいと思うようになった。こうして悲劇は徐々に忍び寄っていた。やがてエリザベートは、金持ちのアメリカ人マイケル(メルヴィルマルタン)と結婚するが、マイケルは謎の自動車事故死を遂げた。それ以来、エリザベートはますますポールに固執するようになっていった。ある夜、ポールはアガートに対する愛情をおさえることが出きず、手紙を書いた。"あなたがもし私を嫌いならば、自分は死ぬ以外にない……"。不運にも、その手紙はエリザベートの手に渡ってしまった。ついに悲劇の幕は切って落とされたのだ。エリザベートはポールに、「アガートはお前など愛していない、やがてジェラールと結婚するだろう」と言い、ポールへの愛に懊悩するアガートにはジェラールと結婚するべきだと説得した。そうしてアガートとジェラールは結婚した。偶然、ジェラールは新婚旅行の旅先でダルジュロスに会ったという。そのとき託されたダルジュロスの"毒薬"をポールに手渡した。それは少年時代、ポールがダルジュロスにあげた"宝物"だった。エリザベートは、ポールが今、その"宝物"を飲みほして、自分も死ぬことだけが二人の奇蹟の完結なのだと信じた。エリザベートの予想どおり、やがてポールはその"毒薬"を飲み込んだ。最後のポールの手紙を受けとったアガートは大急ぎでエリザベート邸にかけつけた。しかしすでに手のほどこしようがなかった。そしてアガートは最後に、ポールの自分に対する深い愛を知ったのだ。エリザベートは、ポールの死を確認すると、自らの胸に銃口をむけた。
 ――先に原作のコクトー色が強いと書きましたが、コクトー色は確かに強いにせよ「メルヴィルを監督に立てたコクトーの映画」という印象は忘れた頃にやってくるので、観直してみるとコクトー自身が監督したら本作の目の詰まったような感触よりももっとやんちゃな感じのする映画になっていたように思えます。同性愛的・近親相姦的関係がコクトーの場合は一種の幼児性のように軽やかに描かれるので自然でもあり幼児性特有の残酷さも際立つのに対して、本作でメルヴィルが描く少年少女~青年たちは年齢よりずっと大人びて見える。愛憎劇も自然発生的な同性愛的・近親相姦的感情によるものというより明確に意志的な支配欲・独占欲に見えるので、タイトルに反してあまり子どもたちの世界という感じはしてきません。主人公が惹かれるがき大将の少年とモデルの少女は同一の女優が演じ(声は吹き替え)、両性具有的な美というのもコクトーのモチーフですが、がき大将は男子生徒の学生服で少年の声の吹き替えですし、モデルの少女はカジュアルで胸が強調されたセーター姿でごく女らしい具合に全然別人に見えるので、主人公がヘテロセクシュアルというのもあまり感じられない。弟を偏愛する姉にドラマが集中していきますが、ここで映画用に原作から思いきった改作がなされているので、コクトー自身かメルヴィルかどちらの案かはわかりませんが、コクトー色は強くても原作小説『恐るべき子供たち』とはテーマ自体が異なる作品になり、にもかかわらず原作小説から多くを引き継いでいるので実際は映画のテーマは前半と後半で割れてしまっています。そう気づいたのは数度目の観直しになる今回が初めてで、これまでは気づかなかったのもうかつな話ですが、原作小説や本作よりずっと原作小説に忠実な萩尾望都による漫画化('79年)を読んでいる方も含めて、本作のテーマの不統一を観過ごされている方のほうが多いのではないか。それもメルヴィルの演出に隙がなくムードの一貫性と緊張感は保たれているからですが、主人公ポールにとってのヒーロー/ヒロインである美少年ダルジュロス/美少女アガーテへの両性愛的な思慕と、それによって姉エリザベートとの近親相姦的姉弟愛が危機にさらされるのが、実際にはダルジュロス/アガーテが両性具有的でもなければ姉弟愛が近親相姦的にも見えないためかみ合っていない。原作小説とは後半の展開がかなり異なりますが脚本の次元では無理があった改変を強引に演出の力でねじ伏せたような感じもします。本作を観直しされる方は、前半と後半が本来は別の映画をつなぎ合わせたようになってはいないかを注意してご覧いただくと異なる見え方がしてくるのではないでしょうか。

●6月23日(日)
『悪魔の美しさ』La Beaute du diable (Les Films Corona'50.5.16)*96min, B/W : 日本公開昭和26年('51年)12月4日 : キネマ旬報ベストテン6位
◎監督:ルネ・クレール(1898-1981)
◎主演:ミシェル・シモンジェラール・フィリップシモーヌ・ヴァレーヌ、ニコール・ベナール
○老いたアンリ・ファウスト教授のもとに、悪魔の使いメフィストが現れる。メフィストは、なかなか魂を
売ろうとしないファウストを若返らせるが……。ドイツの「ファウスト」伝説を映画化したR・クレールの傑作!

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 ルネ・クレールも戦時中はハリウッドで亡命生活を送っていた人で、『奥様は魔女』'42、『そして誰もいなくなった』'45などハリウッド作品でもなかなかの佳作を残した人です。もともと『最後の億万長者』'34を最後にイギリスに渡っていた監督でしたから英米映画界では10年あまりを過ごしてきたので、フランス帰国第1作『沈黙は金』'47は父親のように目をかけた青年男女の若者の恋を傷心をかくして見守る中年男をモーリス・シュヴァリエが演じ、チャップリンの『ライムライト』'52やジャック・タチ遺作脚本の長編アニメ『イリュージョニスト』2010にも似ていればチャップリンの『街の灯』'31が原型とも言える松竹新喜劇~寅さん映画にも似ていて、50代半ばのクレールの年齢を思うと老けすぎてはいないかとは思えますが感じのいい映画でした。その後クレールは本作、『夜ごとの美女』'52、『夜の騎士道』'55と3作続けてジェラール・フィリップ主演作を取り、'30年代作品に戻ったようなジョルジュ・ブラッサンスピエール・ブラッスールの主演作『リラの門』'57を撮りますが、その後の『世界中の黄金(Tout l'or du monde)』'61、『民族戦争(Les Fetes galantes)』'65はともにコメディ作品ながら日本未公開・未DVD化のままです。『夜の騎士道』や『リラの門』は昔テレビの深夜放映で観て、ホームビデオもなかった時代に観る深夜放映の外国映画ほど一期一会の感激がこもり嬉しかったものはないのでそれはもう感動したのですが、そういう映画をあとで観直す機会があるとこんなもんだったかなと意外と拍子抜けする場合が多い。昔の日本人のフランス映画愛は深かったので'30年代~'60年代のフランス映画は深夜放映の定番でしたが、定番作品ほど観飽きやすいとも言えるので、'30年代のフェデーやクレール、カルネ作品は観直すと飽きてきた。案外いちばん通俗的で多作なデュヴィヴィエなどは一周まわってよくよくなったりもするので、ちなみにルノワール作品は民放深夜放映では『どん底』'36、『大いなる幻影』'37が稀に放映される程度でした。『夜の騎士道』『リラの門』は長年観直していないので良い印象が残っていますし、'30年代前半のクレールは観飽きたと言っても画期的な業績を残した偉い人と尊敬は変わらないのですが、フィリップ主演三部作のうち本作と次の『夜ごとの美女』は『夜の騎士道』よりはるかに力作で、『沈黙は金』はしみじみとしたノスタルジックなカムバック作品だったから今度は戦後のスター俳優を主演に底抜けに面白く奇想天外な映画を作ろう、という意欲は伝わってくる。初めて観た時は乗せられて面白く観られたのですが、観直すとその奇想天外な意欲作の面が裏目に出て大山鳴動して鼠一匹の観がある、手はこんでいるしがんばってアイディア絞り出した盛りだくさんな映画ではあるけれど、フィリップのスター映画なのを楽しむ以外内容がないなあと思えてくる。それにカラー作品『夜の騎士道』も居間の白黒テレビをカラーテレビに買い換えて白黒テレビは台所用になったのを夜中の台所の白黒テレビで観たのが最初だったので、学生時代に観直したらカラー作品だったのに驚いたのもあります(昔はこういうこともあったのです)。またフィリップのスター映画と見ればクリスチャン=ジャックの明朗な『花咲ける騎士道』'52の色事編のような『夜の騎士道』はフィリップらしい色男ぶりが描かれているため、仕掛けの多い『悪魔の美しさ』『夜ごとの美女』よりすっきりしている。本作は日本では戦後のクレール作品中キネマ旬報年間外国映画ベストテン6位(この年の日本映画1位は『麦秋』、外国映画1位~5位は1位『イヴの総て』、2位『サンセット大通り』、3位『わが谷は緑なりき』、4位『オルフェ』、5位『邪魔者は殺せ!』で7位は『バンビ』)ともっとも高い評価を受けましたが、本国公開も『オルフェ』と同年と、サイレント時代から交友のあったコクトーに逆影響されたような作品を狙ったのではないかと思われます。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引きましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「沈黙は金」につぐルネ・クレール監督作で、イタリアにおいて撮影が行われた。「ファウスト」の物語であるが、ゲーテの戯曲によらず、ファウスト伝説よりの独自の構想で映画化されている。脚本はクレールと、劇作家アルマン・サラクツウの協力になるもの。撮影は「恐るべき親達」のミシェル・ケルベ、音楽はロマン・ヴラドの担当。主演は「リゴレット」のミシェル・シモンに「パルムの僧院」のジェラール・フィリップで、「バラ色の人生」のシモーヌ・ヴァレール、コソセルバトワアル出身の新人ニコール・ベナール、クレエル映画の定連レイモン・コルディらが共演、カルロ・ニンキ、パオロ・ストッパらのイタリア俳優が助演する。
○あらすじ(同上) 十九世紀初頭の某公国。大学教授ファウスト博士(ミシェル・シモン)は五十年のストイックな研究生活の結果、一流の磧学とうたわれていたが、忍びよる老いの悩みには克てなかった。それにつけこみ、青春を取戻せと誘惑してやまない悪魔の手下メフィストは、ついに博士を説伏せ、魂を売渡す代償として先ず彼を青年アンリ(ジェラール・フィリップ)の姿にかえてやった。若いアンリ・ファウストはジプシイ娘マルグリット(ニコール・ベナール)との恋に酔ったが、博士の失踪を知った警察は犯人としてアンリを捕えた。が法廷に、老博士の姿をしたメフィスト(ミシェル・シモン)が現れたのでアンリは釈放され、以後彼はメフィストの意のままに、砂を金に変える術を会得して、国一番の分限者となり、大公妃(シモーヌ・ヴァレール)の愛をも受けるようになった。しかしアンリは依然として魂を売る契約書には署名しようとはしないので、怒ったメフィストは彼から一切の能力を取上げた。驚いたアンリは夢中で契約書に署名し、ついに魂を売ってしまったが、幸福はやって来ず、冷たい未来を悟るばかりであった。絶望したアンリは最後の希望をマルグリットとの恋にかけようとしたが、憤慨したメフィストは国中の金を砂に戻してしまった上、マルグリットを魔女として告発した。しかしマルグリットの魂は既にアンリのもの、メフィストの自由にはならなかった。彼女はメフィストから見せられた契約書を宮殿に押寄せた民衆に投げ与えた。民衆は、ファウストの署名をみて、博士の姿をしたメフィストを追いかけ、ついにこの悪魔の手下はバルコニイからおちて煙となって消え去った。暁がおとずれ、マルグリットと共に愛の生活に旅立つアンリの姿がみられた。
 ――映画はミシェル・シモン演じる主人公ファウスト博士が悪魔と契約して美青年フィリップに若返るも、老境の自分の姿を借りて人間の姿になった悪魔メフィスト(シモン)につきまとわれるというもので、いやあ今回の続『フランス映画パーフェクトコレクション』はシモン主演作が豊富で嬉しいのですが(また本作にもさり気なく'30年代初期からのクレール、ルノワール作品の脇役俳優ガストン・モドーがベッケルの諸作同様出演していますが)、せっかく面白くできそうなシモンとフィリップの二人一役設定が結局シモンは悪魔メフィストとしてフィリップにつきまとう役になるため、老人だった頃の主人公の姿を借りているからという整合性はあっても二人一役なのが趣向として活きてこない。悪魔メフィストは別の役者に任せてフィリップがメフィスト次第でシモンに戻ってしまうとか、鏡や子どもたち、相思相愛になった女の目に映るのはシモンのままだったりとか、二人一役を生かせる趣向はいくらでもあったはずです。また若返ったフィリップ登場のあとはシモンは悪魔メフィストに徹するのであれば老境の主人公がシモンである必要は必ずしもなく、人間の姿を借りるなら誰でもいいようなもので、またこの姿の老人に戻ってしまうぞという脅迫のニュアンスがあるかというとそれもない。シモンの悪魔メフィストは現実には老境の主人公ファウスト博士の姿をしているのですから、社会的地位も高いファウスト博士本人の立場を悪用して圧力をかける展開が考えらるますがそれもなく、結末のフィリップが書いたファウストの署名のある悪魔との契約書の露見でファウスト老博士の姿の悪魔メフィスト(つまりシモン)が暴徒に追いつめられて高所から転落し灌木に串刺しになって煙になって消えてめでたし、と結末だけ二人一役設定が活かされるのですが、19世紀初頭という時代劇設定でセットや衣装も凝り、それなりにトリック撮影などで見せ場も作りながら、根本の設定や話に面白みがなく、名優シモンも青年スターのフィリップも役を演じているだけといった具合で登場人物に感情移入しながら観るようには観客を引っ張ってはくれない。クレールの映画はもともと人工的でしたが作りものなりに情感の漂う作品には観客を夢の世界にいざなう楽しさがありました。本作は大ヴェテランと若手スターのW主演で凝りに凝った面白い映画を作るぞ、しかもネタは大古典『ファウスト』だ、と意欲には満ちあふれているのに仏作って魂入れずの典型のような作品になってしまった。それでもフィリップ主演で『夜ごとの美女』『夜の騎士道』と次作、次々作を作れたのはそれなりに見世物的な評判は呼んだからと思えるので、『沈黙は金』と『リラの門』の間の3作がフィリップ主演三部作だったのはクレールにとってはどうだったのか。クレールほどの映画監督がキャリアの終わりは尻すぼみになってしまったのを思うと、この時期作るとしたらもっと別の種類の映画だったのではないかと悩ましくなります。

●6月24日(月)
田舎司祭の日記』Journal d'un cure de campagne (UGC'51.2.7)*110min, B/W : 日本未公開、映像ソフト発売 : ヴェネツィア国際映画祭国際賞国際賞・イタリア批評家賞・国際カトリック映画事務局賞
◎監督:ロベール・ブレッソン(1901-1999)
◎主演:クロード・レデュ、ニコル・ラドミラル
○初めての教区に赴任してきた若い司祭。献身的な彼を、村人たちは歓迎しなかった。そして、もともと病弱な身体は次第に病にむしばまれていき……。司祭は、そんな苦悩の日々を日記に綴るのだった。

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 原作者のジョルジュ・ベルナノス(1888-1948)はフランスのカトリック文学者でもジュリアン・グリーン(1900-1998)と並んで際立って苛烈な作風で知られ、本作の原作小説『田舎司祭の日記』'36は戦時中の昭和16年に初めて日本語訳が刊行され、新潮文庫で昭和27年('52年)におそらくブレッソンによるこの映画化の日本公開を予期して収録再販されましたが、映画は日本公開されず、文庫もすぐ絶版になりました。数次に渡る新潮文庫のリクエスト復刊で再版されていますが、筆者の手元にあるのは平成6年('94年)で第五刷です。訳者あとがきの末尾は「今大戦以来彼の消息は審かではない。」とあり、没後5年あまり経って出版社経由で訃報すら確かめられなかったことになります。ベルナノスの出世作悪魔の陽の下に』'26はモーリス・ピアラによる映画化('87)がカンヌ国際映画祭パルム・ドール(大賞)に輝き日本公開もされましたが、ベルナノスは原作小説『悪魔の陽の下に』にもピアラの映画にも出てくる少女ムシェットをヒロインにしたスピン・オフ的小品『少女ムシェット』'37も書いていて、同作はブレッソンが'67年にピアラに先立って映画化(カンヌ国際映画祭パルム・ドールノミネート、カンヌ国際映画祭国際カトリック映画事務局賞受賞、ヴェネツィア国際映画祭イタリア批評家賞受賞)しています。長編劇映画デビュー作『罪の天使たち』'43、第2作『ブローニュの森の貴婦人たち』'44はそれぞれ脚本(台詞)にジャン・ジロドゥジャン・コクトーといった一流文学者の協力を仰いだものでしたが、戦後初の作品になる本作はブレッソンの真の独自な作風が確立したと目される重要作かつ孤高の趣きのある傑作で、映像ソフト化されるまで日本ではテレビ放映しかされなかったそうですが(文化会館などでは英語字幕入り16mm民生用プリントで上映されていました)、カトリック信仰に優しく甘美な救済などを夢見ている日本人の幻想などはベルナノスの小説、ブレッソンの映画の厳しさでこなごなに粉砕されるので、甘ったれた癒やしや許しは一点もない、何の努力も報われない俗世に外側からも内側からも苛まれながら絶望に耐えつづけるしかない信仰の姿を突きつけられます。職業俳優を起用しないブレッソンの映画は基本的にロケ地でオーディションした素人俳優たちしか出てこないので、本作のような田舎町ものだと主演の新任青年司祭役のクロード・レデュ、ヒロインに当たる町の資産家の娘のニコル・ラドミラルや上級職の聖職者役の人物はともかく、近隣住人から出演者を募り、撮影中にも諸事情から配役の交替もあったかもしれません。ブレッソン自身による脚色は一人称の日記体の原作小説を忠実になぞり、映画ですから抄出ですが主人公の新任青年司祭が日記を書いていく姿が、日記の文面のナレーションとともに青年司祭の任地での司祭としての仕事を関わる教区の住人たちとの交流を通して描かれていくのですが、神学校卒業後長いあいだ結核療養所にいて、着任時にもパンと果物とワインしか食べられないほど良くない健康状態を押してやって来た他所者で若造の新任青年司祭に対して、田舎町の市民たちは一様に不信感を露わにしてきます。教会行事のために訪問すればどうせ金をむしり取る気だろと吐き捨てられ、通常の暦通りの司祭の任務にすら容易に協力を得られない。資産家の若い娘が近づいてくるが新任の青年司祭に対する興味本位なのと、自分が近づくことで青年司祭に悪い噂が流れて司祭が孤立する事態が悪化するのを楽しむためで、実際に主人公は真っ先に娘の父親で町の最有力者の資産家に敵意を向けられます。また病弱で息子の戦死以来信仰への不信と神への憎悪をあからさまにしている有力者の未亡人がいる。農夫や商人、町の有力者たちもことごとく新任青年司祭に露骨な不信と憎悪をあからさまにします。このように本作は通常の劇映画のようなフィクションらしい明確なプロットやストーリーを持たない映画で、ベルナノスの原作小説はフィクションですがある意味ドキュメンタリー映画のように作られている劇映画とも言えます。日本盤DVD初発売時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報外国映画紹介より) 陰影を巧みに活かした撮影が印象深い、ヴェネチア映画祭国際賞ほかを受賞したロベール・ブレッソン監督作。寒村に赴任した若き司祭が、病に冒されながら強い信仰と使命感から献身的な努力を続けるが、村人から誤解を受けて悩むことに…。【スタッフ&キャスト】監督・脚本:ロベール・ブレッソン 撮影:レオン・アンリ・ビュレル 音楽:ジャン・ジャック・グレネンワルト 原作:ジョルジュ・ベルナノス 出演:クロード・レイデュ/アンドレギベール/ジャン・リベール/マリー・モニク・アルケル
 ――なぜ村人たちがことごとく新任青年司祭に不信感を露わにし、憎悪すら向けてくるのかを主人公は日記に詳細に記しながらことさら分析しませんが、このカトリック教区の住人たちはみな生まれながらのカトリック教徒であり、人生に信仰による救いなどまったくないではないかと骨身に沁みているのです。無宗教、または漠然とした宗教風土の人間がキリスト教カトリックに救いがあると想像するのとは違って、生まれながらに教えられて信仰してきた宗教が何の救いももたらさないと痛感している人々なので、その不信や憎悪は新任青年司祭に向けられる。上級職の聖職者たちはいわゆる管理職ですから、任地で現場に当たる司祭の教官なのでいわばエリートであり、かつては同じような教区担当司祭だったでしょうが、教区信徒が教区司祭に協力的であることで教区での地位の確保や維持に役立ったという有利な環境を経てきたからこそ上級職に上がれたと考えられる。平時にあっては教区がコミュニティーの中枢としてありがたがられることもあるでしょうが、ベルナノスは'22年に最初の著作、出世作悪魔の陽の下に』が'26年なのからも第1次世界大戦の災禍のあとに出発していて、本作の原作小説も年号が出てくる場面は「19××年」としかされていませんが、原作小説・本作ともに「先の戦争で出征した息子が戦死した」未亡人が重要な役割を占めていることからも「戦後数年後」なのが時代背景になっている。第1次大戦は未曽有の大戦としてヨーロッパ文明の終末とまで大きなショックを与えた戦争であり、ブレッソンは嫌うでしょうがフランス最大の第1次世界大戦映画、アベル・ガンスの『戦争と平和(我弾劾せり)』'19は当時の衝撃を如実に伝えます。第2次世界大戦となるとフランスは第1次世界大戦以上の戦死者どころか'41年~'44年の4年に渡ってドイツに占領され、ゲシュタポの脅威やヴィシー傀儡政権下の内戦状態にまでなったので、人心の荒廃は宗教的な救済では回復できない状態で、文化人・知識人が羽振りを利かせる都市圏ではともかく、田舎町などは権威自体への憎悪が鬱積していてもおかしくないでしょう。強い使命感を持ち清廉潔白な主人公はその純真な信仰と使命感ゆえに、若い娘に手を出したり老未亡人に媚びたりしてはいないと誰もがちゃんとわかっているのに悪い噂を囁き貶めあうので、それは教区の人々が決して満たされないカトリック教徒だからこそです。キリストがなぜ公開処刑されたかはローマ民衆がそれを望んだからで、審判官ピラトですら違憲として執行を止めようと尽力したのに押し切ったのは暴徒化した民衆だったのは聖書に克明に記録されています。青年司祭を呼びつけてまで神への呪詛をくり返し、息子を忘れられない限り神への憎しみは消えないと言う老未亡人に、主人公はついにではご子息を忘れられれば主への憎しみは消えるのか、と問い返してしまう。激昂した未亡人は息子の写真をはめ込んだメダルを暖炉に投げこみ、主人公が燃える薪の中から写真の燃えたメダルを拾い上げると、未亡人はすっかり晴ればれとした表情になっていて主人公に礼を言います。主人公は自分が適切な相談相手になれたか自信が持てずに帰宅しますが、夜中に未亡人の隣人に託された手紙が司祭館に届き、あなたの言葉で私は本当に息子を失ったけれどそれが私に救いになった、あなたが息子に代わって私にそれを教えてくれた、と未亡人の書いた感謝がつづられている。いくぶん主人公はあれでよかったのだ、と納得しようとしますが、朝教会に着くと未亡人の心臓発作による急死の知らせが入る。主人公は未亡人の館に行き遺体と対面しますが、帰りぎわ町の最有力者の資産家に「我が家は代々聖職者とは良い関係を築いてきたが、君はこの教区に有害だ」と弾劾されてしまいます。葬儀のあと上級聖職者が訪ねてきて主人公は威圧されますが、上司は青年司祭の健康状態を気づかいパリの病院への受診を勧めて、去りぎわ上級司祭から祝福のあいさつを受けようとした主人公は逆に上級司祭に君から祝福してくれと請われる。さらに主人公は資産家の娘から帰ってこない方がいいわと言われて司祭館を出ますが、その兄の軍人がオートバイで通りかかり駅まで乗せてもらう。オートバイの勢いにめまいを覚えながら主人公はこれに耐えなければ神に迎えられないのだ、と思います。駅に着いて兄の軍人はあなたの噂は聞いた、同じ歳だし友人になりたかった、と握手を求め、軍人も司祭も神には同じはずだから、と言います。結核が完治していなかったと思いこんでいた主人公は末期の胃癌だと判明し、神学校~結核療養所まで一緒でパリで薬局を開業している親友のアパートに泊めてもらう。親友は婚約者がいて交替で主人公の様子を見に来ますが、掃除婦の仕事をしている婚約者は仕事に疲れきって結婚を諦めている。主人公は末期癌の苦痛で朦朧としながら日記を書きつづけますが、床に日記帳とペンをとり落とし、映画の最後の5分間は十字架のシルエットの映像に親友が上級聖職者に宛てた主人公の臨終までの報告の手紙が読み上げられます。「最後に彼はゆっくり言いました、『それが何だ、すべては思し召しだ』。そして間もなく息を引き取りました」。……これは一般的な宗教物語としては救いもへったくれもないでしょう。またこんな内容が映画として成り立つかの点でも、本作はぶつ切れのエピソードの羅列で、創作・劇作・映画脚本の常識を逸脱したものです。しかし本作はこの物語、この話法でなければ描けなかった真実を観る人に届けてくれる映画で、ブレッソン作品でも観るたびに新たな発見があることでは抜きん出た1作です。また本作の次作はさらに6年後の『抵抗』'56で、遺作となった『ラルジャン』'83まで10作足らずですが、ブレッソンの映画は基本的に本作を踏まえたものになるのです。