今回でコスミック出版の廉価版9枚組DVDボックス『ジェラール・フィリップ・コレクション』収録作品の年代順紹介は終わりです。既刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』に収録されていたジェラール・フィリップ主演・出演作『肉体の悪魔』'47、『パルムの僧院』'48、『悪魔の美しさ』'50、『輪舞』'50、『花咲ける騎士道』'52、『夜ごとの美女』'52の6作を合わせれば映画デビューからパブリック・ドメイン年限の'53年までのフィリップ出演・主演作はナレーションや短いカメオ出演作品を除けばこれでほぼ全作揃うので、端役出演ながら映画出演2作目のイヴ・アレグレの日本未公開作『夢の箱』'45と、即時に日本公開もされて他社から単品DVD化もされている主演作『すべての道はローマへ』'49(ジャン・ボワイエ監督、ミシュリーヌ・ブレール共演)の2作が未収録ですが、日本未公開・初DVD化作品が3作(『フレール河岸の娘たち』'44、『失われた想い出』'50、『ボルゲーゼ公園の恋人たち』'53)、日本公開が半世紀以上遅れ単品DVDも入手困難な作品が3作(『白痴』'46、『星のない国』'46、『美しき小さな浜辺』'49)、早くから日本公開され単品DVD化済みながら見逃されがちな作品が3作(『愛人ジュリエット』'51、『七つの大罪』'52、『狂熱の孤独』'53)とほとんどが稀少作品なだけに非常に重宝な初期作品集で、できればオムニバス映画『七つの大罪』や比較的著名な『愛人ジュリエット』あたりは外しても未公開・未DVD化作『夢の箱』や見過ごされがちな『すべての道はローマへ』収録をと欲も出ますが、いずれ『フランス映画パーフェクトコレクション』の続刊が出る時に期待したいと思います。なお、このフィリップ初期作品集は日本未公開作品も多いため、DVDジャケットから各作品紹介文を引用しました。
●7月7日(日)
『七つの大罪』Les Sept Peches capitaux (Franco-London Film, Paris=Film Costellazione, Rome, 1952.4.30)*139min, B/W : 日本公開昭和28年('53年)4月1日
◎監督 : ジョルジュ・ラコンブほか
◎出演 : ミシェル・モルガン、フランソワーズ・ロゼー、ノエル・ノエル
○聖書が説く「七つの大罪」(貪欲、憤怒、怠惰、邪淫、嫉妬、貪食、傲慢)をテーマに、7人の監督がメガホンを握ったオムニバス映画。G・フィリップは、最後の章に加え、章をつなぐ狂言回しの大役を務める。
フランス=イタリア合作の大作オムニバス映画の本作は日本初公開時は148分ヴァージョンが公開されたようですが現行版の国際版では139分版が定着しており、エピソードもタイトル通り全7話もあればプロローグから各エピソードをつなぐ狂言回しのシーン(フィリップが遊技場で「七つの大罪」の各悪魔をかたどった人形を倒す的当てのボール配りと解説役を勤める)もありますので、各エピソードや狂言回し場面から少しずつ摘まめば9分短縮でもあまり内容は変わらないだろうと思えます。国際版はおそらくアメリカ公開版を基準にしたものでしょうし、風俗上・また道徳上多少問題になるような描写や台詞の箇所が割愛されたのでしょう。そういえば昔のフランス映画やアメリカ映画ではティーンエイジャーが堂々と喫煙飲酒性行為を行いますが、昨今の日本の映画上映倫理規定ではどうなっているのか。そんなことで古典映画をスクリーン上映できなくなっているのなら野暮の骨頂ですが、現在では名画座自体がほぼ絶滅しているのであまり問題にされないのでしょう。さて本作は、のちに『新・七つの大罪』'62として続編も作られており、そちらは監督の顔ぶれがシルヴァン・ドム、エドゥアール・モリナロ、フィリップ・ド・ブロカ、ジャック・ドゥミ、ジャン=リュック・ゴダール、ロジェ・ヴァディム、クロード・シャブロル(エピソード順)となっており、ヌーヴェル・ヴァーグ以降の戦後世代監督たちがそろっているため現在では『新・七つの大罪』のほうが有名なくらいですが、オリジナル『七つの大罪』も気楽に楽しめるオムニバス映画で、監督の多くが短編映画を手がけたキャリアがある、映画監督はまず短編映画の監督から監督歴を始めた時代のムードが活きている作品です。日本初公開時のキネマ旬報の紹介は全エピソードに渡り詳細で長ったらしいですが、その分鑑賞や復習には役立つので引いておきます。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) フランス及びイタリア映画人の協力によったオムニバス映画一九五二年作品で、聖書に説く七大罪の一つ一つをテーマにしたエピソードが集められている。以下各挿話毎に解説・略筋を紹介する。なお狂言まわしのシークェンスは「夜は我がもの」のジョルジュ・ラコンブが監督、「花咲ける騎士道」のジェラール・フィリップが出演している。【第一話・欲ばりと怒り】「壁にぶつけた頭」などで知られるエルヴェ・バザンのオリジナル・ストーリーを、「裁きは終わりぬ」のシャルル・スパークが脚色、「ナポリの百万長者」のイタリア監督エドゥアルド・デ・フィリッポが監督・主演する。撮影はエンツォ・セラフィン、音楽は「海の牙」のイヴ・ボードリエの担当。主演はデ・フィリッポの他、「ミラノの奇蹟」のパオロ・ストッパ、「輪舞(1950)」のイザ・ミランダである。【第二話・怠けもの】「飛んで行く箪笥」などのファンタジー映画作家カルロ・リムのオリジナル脚本を、「うるさがた」「春の凱歌」のコンビ、ジャン・ドレヴィル(監督)とノエル・ノエル(主演)が担当。撮影は「二つの顔」のアンドレ・トーマ、音楽は「肉体の悪魔(1947)」のルネ・クロエレックである。ノエル・ノエルの他、新人ジャクリーヌ・プレシスが共演。【第三話・色好み】バルベイ・ドールヴィリーの原作を「肉体の悪魔(1947)」のジャン・オーランシュとピエール・ボストが脚色、「デデという娼婦」のイヴ・アレグレが監督する。撮影は「しのび泣き」のロジェ・ユベール、音楽は「オルフェ」のジョルジュ・オーリックの担当。主演は「娼婦マヤ」のヴィヴィアーヌ・ロマンス、「調馬場」のフランク・ヴィラール、新人フランセント・ヴェルニヤ。【第四話・ねたみ】「ジジ」などで有名なフランス女流作家コレット・ウィリーの原作「牝猫」(La Chatte)から、「ドイツ零年」のロベルト・ロッセリーニが脚色・監督する。第一話と同じく撮影はエンツォ・セラフィン、音楽はイヴ・ボードリエの担当。主演はアンドレ・ドバールとオルフェオ・タンブリ。【第五話・大喰らい】第二話のカルロ・リムがオリジナル脚本を書き監督するコント風の一篇。撮影は「肉体の冠」のロベール・ルフェーヴル、音楽はイヴ・ボードリエ。主演は「ファビオラ(1948)」のアンリ・ヴィダル、クローディーヌ・デュピュイ、ジャン・リシャール。【第六話・見えっぱリ】第三話と同じくジャン・オーランシュとピエール・ボストの脚本から「肉体の悪魔(1947)」のクロード・オータン・ララが監督。撮影は「赤針嶽」のアンドレ・バック、音楽は第二話のルネ・クロエレック。「ファビオラ(1948)」のミシェル・モルガン、「旅愁」のフランソワーズ・ロゼー、「娼婦マヤ」のルイ・セニエ、「肉体の悪魔(1947)」のジャン・ドビュクールが共演。【第七話・第八の罪】「環礁地帯K」、のレオ・ジョアノンと「花咲ける騎士道」のルネ・ウェレルが脚本を書き、ジュルジュ・ラコンブが監督。撮影は第五話のロベール・ルフェーヴル、音楽は第六話のルネ・クロエレック。ジェラール・フィリップが出演する。なお、このエピソードは全篇のオチで、七大罪には関係ない。
○あらすじ(同上) 祭りの見世物。聖書に説く七大罪をあらわした人形に、お客達か球をぶつけけて遊んでいる。球をくばってまわる香具師の若者(ジェラール・フィリップ)の呼声よろしく、先ず命中して倒れた人形は「欲ばりと怒りんぼう」――。【第1話・貧欲と憤怒】貧乏なクラリネット教授ゼルミニ(エドゥアルド・デ・フィリッポ)は、因業家主アルヴァロ(パオロ・ストッパ)から二ヶ月の家賃一万五千リラを払えと強談判されたあと偶然家主の十万リラ入りの財布を拾った。それを見ていた青年を巧みにごまかしつつ持主の処へ返しに出かけると、強欲なアルヴァロは謝礼もせずに財布を取戻した。処かこの時アルヴァロは細君(イザ・ミランダ)に美容院代をせがまれて夫婦喧嘩の最中。彼女の首からちぎれ飛んだ真珠の一粒がゼルミニの靴に入ってしまったとは気付かなかった。ヒステリィを起した細君は、怒りにまかせて夫の手提金庫を街にぶちまけてしまい、ひとり帰るゼルミニは自分の靴の中に家賃にあまる宝をみつけ出したという次第。【第2話・怠惰】今や天国では地上から送られて来る死人の激増にすっかり音をあげている。これは地上に文明が発達しすぎた結果、戦争やあわただしい日常生活であまりにも性急に人のいのちがスリ減らされるためだと、怠惰の女神(ジャクリーヌ・プレシス)を下界へ降すことになったが、効果は誠にテキ面、地上では誰一人マトモに働こうとはしなくなってしまった。火事にも消防夫は出ず、まち街にはバナナの皮が散り、あらゆる工場はサボタージュという有様に、主(しゅ)は改めて行政官聖ペトロ(ノエル・ノエル)を地上に派遣、怠惰の行き過ぎを是正させて、やっと秩序を取戻した。地球はもと通りの繁栄にかえることだろう。【第3話・邪淫】祭りの日、村の司祭は十三歳になる宿屋の娘シャンタル(フランセント・ヴェルニヤ)から妊娠したと聞かされた。相手は宿屋に泊る美男画家ラヴィラ(フランク・ヴィラール)だという。司祭は驚いて娘の母ブラン夫人(ヴィヴィアーヌ・ロマンス)に知らせた。夫人が画家ともども問いつめたところ、娘は画家のすわった椅子にすわったので妊娠したと信じ込んだことが判った。その夜、問題の椅子をみつめたラヴィラとブラン夫人の気持は妖しく動き、――そしてその部屋で鳴りつづけるレコードが一つ溝を循環しはじめたのを真先に聞きつけたのはシャンタルであった。彼女は堂々と二人の部屋に入って、あわてて飛起きた母と男を尻目にレコードを止め、唇を噛みしめたまま夜の闇の中へ消え去った。【第4話・嫉妬】イタリア人画家オリヴィエ(オルフェオ・タンブリ)はフランス女カミュ(アンドレ・ドバール)と新婚三ヶ月、そして彼は昔から真白な牝猫サラを寵愛していた。ひたすら夫の愛を独占したい若妻カミュはこの猫が嫌いだった。この猫がつねに二人の仲をみつめ、夫の愛も猫の方に傾きすぎると思われたからである。或日、夫の留守中、彼を想いつつ精魂こめて作りあげようとした料理の肉を、彼女はサラに盗まれた。ついで夫の絵に助言してすげなく拒まれた時、内攻していた彼女の嫉妬は爆発した。彼女はカッとして猫をテラスに追いつめ、猫は遥か下の街に落ちた。運よく瀕死のサラを拾って帰って来た夫は、はじめて妻の恐ろしいねたみを知った。二人の間には決定的な破局があるだけだった。【第5話・貧食】ブリッジの席上、食いしんぼうの男爵夫人をみたアンリ(アンリ・ヴィダル)は、祖父アントナンの話をしてきかせた。――アントナン(アンリ・ヴィダル)は田舎医者だったが、或夜人里はなれた野原で自動車が故障し、一軒の農家に宿を求めた。百姓夫婦(ジャン・リシャール、クローディーヌ・デュピュイ)は快く彼を迎え、自製のチーズを御馳走してくれたが、そのうまさは類のないものであった。さて寝る段になって、三人はたった一つのベッドに妻君を真中にして横になったが、夫はすぐさま大いびきをかき出す。さあどうぞとアントナンを促す女房の誘いに、好機至れりとアントナンは戸棚のチーズに突進した。【第6話・傲慢】名門の誇りを持ちながらも、パリエール夫人(フランソワーズ・ロゼー)とその娘アンヌ・マリイ(ミシェル・モルガン)は今や人目を忍んで公園の薪木を拾うほどの落ぶれ方だった。或日街で会った旧友から舞踏会に招待すると言われた時には、まだ社交界から見捨てられてはいないと思い込むことも出来たが、しかし正式の招待状はついにやって来なかった。アンヌ・マリイは自尊心を傷けられながらも一張羅の服を着て出席した。パーティの席上、一婦人が指輪をなくしたと騒ぎ出した。浮かれた客達は面白半分に参会者の身体検査をはじめたが、頑として許さなかったのはアンヌ・マリイであった。全員の眼が異様な皮肉でこの招かれざる客に集中した時、アンヌ・マリイは自分のハンド・バッグを投げ出して一人席を蹴った。開けてみると、中から転がり出したのは母へ土産に食卓からかすめたサンドウィッチやケーキであった。主催者の謝罪をよそに、アンヌ・マリイは堂々たる威厳をもって邸を去った。【第7話・知られざる罪】深夜、いかがわしい造りの家に、カーディナル(フィリップ・リシャーズ)と水兵がタクシーで乗りつける。地下室へはいると、そこには裸の黒人、中国人、極度に背曲りな小人、売春婦、ストリップ・ティザアが曰くありげにたむろしている。彼らは何をする人達なのだろう?――実は画家(ジェラール・フィリップ)が「七つの大罪」のポスターを描くモデル達なのである。
――と、本作はいかにも多彩な監督をそろえたオムニバス映画らしいオムニバス映画で、フランス本国では239万6,014人の観客動員とクリスチャン=ジャック単独監督のオムニバス映画『失われた想い出』'50より1万人多い大ヒット作になっている。入場料はわかりませんがスタッフ、キャストの多さからも製作費は同作の10倍以上かかっているのではないかと思われるので純益は『失われた想い出』より下がると思いますが、フランス人やイタリア人てどうしてそんなにオムニバス映画を面白がるんだろう、と、十分に本作は面白いのですが不思議にもなります。日本では国産オムニバス映画の大ヒット作などあまりないからですが、ヨーロッパではこれはテレビドラマのような感覚で楽しまれていたのではないか。日本では国内スターの声はラジオで親しまれ、紅白歌合戦の始まりは昭和26年('51年)、NHKテレビの放映は昭和28年('53年)で、その後'50年代末までに映画産業を追いこむほどテレビは普及し、東京オリンピック('64年)のテレビ中継によって日本は世界一のテレビ普及国になります。'60年代末でも日本のテレビ普及率に対してアメリカすら7割強、フランスやイタリアでは日本の1/3程度のテレビの世帯普及率だったのが'60年代以降の日本の映画産業を圧迫した影響は大きかったのですが、'60年代になってもフランスやイタリアでは単独または合作でオムニバス映画が盛んだったのは長編映画、大作映画とは違った余興的な楽しみがオムニバス映画にはあるからで、それは狭くてテレビの普及した日本では大衆演劇やラジオ放送、テレビドラマで十分だったのでしょう。本作でもオータン=ララの監督した、落ちぶれた名家の母娘をあらんことかフランソワーズ・ロゼーとミシェル・モルガンが演じる第6話などキャスティングだけでもすごいのですが、これもテレビドラマ的趣向です。ロッセリーニがコレットの有名な『牝猫』を切れ味の良い短編にまとめた第4話などさすがの貫禄なのですが、NHKの文芸ドラマシリーズみたいでもある。'50年代初頭の伊仏の映画監督・俳優の顔見世興行みたいなもので、映画全編ではちゃっかりラコンブ監督の狂言回しパートと最終話の主役を勤めるフィリップがいいところを持っていく。映画ならではと言いたいところですが年末年始のテレビのスペシャルオールスタードラマみたいなものにこういう作りも踏襲されていると言ってしまえばそれまでで、良くも悪くも本作の面白さ・楽しさは余興的なものと言って良さそうです。ただし当時のフランス映画、イタリア映画に通じていればいるほど余興の楽しさも増すので、本作は入門的にもなれば通好みともいえるオムニバス映画で、あながち軽いばかりではなく、観客次第では当時のフランス映画、イタリア映画の展望にもなる作品です。
●7月8日(月)
『狂熱の孤独』Les Orgueilleux (Columbia fims, 1953.11.25)*99min, B/W : 日本公開昭和29年('54年)10月29日
◎監督 : イヴ・アレグレ
◎出演 : ミシェル・モルガン、カルロス・ロペス・モクテスマ、ヴィクトル・マヌエル・メンドーサ
○メキシコのとある町を訪れたフランス人夫妻。夫は伝染病にかかり死んでしまう。残された妻は、意外にも夫の死に悲しみを覚えず、町で出会った酒浸りのフランス人ジョルジュに惹かれていくのだった。
ジェラール・フィリップ最晩年の主演作品にスペイン人監督ルイス・ブニュエルのメキシコ作品『熱狂はエル・パオに達す』'59がありますが、先にブニュエル作品へのフィリップの出演を知った時にはブニュエルは国際的巨匠とはいえ何でメキシコくんだりまで、と不思議でした。その後メキシコものの本作を観てようやく合点がいったので、縁の深いイヴ・アレグレの監督による本作はサルトルの原作小説('44年発表)によるメキシコとの合作映画で舞台もメキシコの田舎、最寄りの都会のベラクレスまでもかなり遠いという田舎町の設定で、フランス本国で280万5,061人の観客動員数のヒット作になり、ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銅獅子賞受賞を受賞しましたが同年は金獅子賞受賞作がなく銀獅子賞が『嘆きのテレーズ』『雨月物語』『赤い風車』『青春群像』『虹の世界のサトコ』(ソヴィエト映画)、『小さな逃亡者』(アメリカ映画)という異例の年で(ヒューストン作品『赤い風車』はイギリス映画です)、さらに次点として銅獅子賞を本作とサミュエル・フラーの『拾った女』、さらに日本未公開のスペイン作品、ブラジル作品が受賞しています。審査員特別賞が『雨月物語』だったので事実上のグランプリは同作だったようなものですが、『雨月物語』や『青春群像』にはおよばずとも銅獅子賞に『拾った女』や本作を拾い上げているのは見識というべきで、本作はポール・ミスラキの音楽がどうだメキシコだぞといわんばかりに騒がしく、さすがに音楽を使わない場面はきっちり押さえていますがそれでもまだうるさい。それだけは何とかならなかたったかなあと思いますが、本作の妻を死なせてしまって以来メキシコの田舎町に住み着いて酒びたりのルンペンになったフランス人元医師役のフィリップの破れかぶれの熱演はすごい。まるで三船敏郎の生霊が憑りうつったかのようで、本当に黒澤映画の三船敏郎を観て感化されたのだったらやりすぎだぞフィリップと突っ込みたくなるのですが、もうそのくらいいかれた汚れ役の熱演ぶりです。また舞台が猛暑のメキシコ、私室にいることが多いのでヒロインのミシェル・モルガンはほとんど下着姿で、旅行中に夫の急病・急逝、また伝染病感染の疑いで田舎町にとどまることになったフランス人女性なだけにメキシコの気候に慣れてもいなければ風土に合った服も持っていない、その上財布も擦られて唯一金のペンダントだけを換金し酒場兼宿屋のオーナーの申し出で宿屋の一室にいるので仕方ないのですが、こんなに映画のほとんど全編に渡って下着姿というヒロインは珍しい。映画は田舎町に突如発生した伝染病の蔓延に関わるヒロインと主人公、医師、酒場のオーナーと女将、町の人々の人間ドラマをメキシコの地方色豊かに描いていくのですが、伝染病蔓延ドラマを描くに当たってはサルトルの'44年の『チフス』が原作でもドラマ性では大ベストセラーになったカミュの『ペスト』'47が参照されている印象を受けます。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「奇蹟は一度しか起らない」のイヴ・アレグレが脚色監督した仏墨合作の一九五三年映画で、メキシコの一漁村に住む世をはかなんだ若いフランス男と、気品あるフランス婦人との恋愛を、実存主義的な手法で描くもの。ジャン・オーランシュのオリジナル・ストーリーは、J・P・サルトルの小説『チフス』を土台にかかれた。台詞担当はジャン・オーランシュ(「青い麦」)とジャン・クルウゾーである。撮影はメキシコのアレックス・フィリップス、音楽は「愛情の瞬間」のポール・ミスラキ。「愛憎の瞬間」のミシェル・モルガンと「夜ごとの美女」のジェラール・フィリップが主演し、メキシコからカルロス・ロペス・モクテスマとヴィクトル・マヌエル・メンドーサが共演、ほか、ミシェル・コルドゥ、アンドレ・トフェルらが出演している。この映画は一九五三年ヴェニス映画祭で優秀作品賞を得た。
○あらすじ(同上) メキシコ、一漁村。フランス人ジョルジュ(ジェラール・フィリップ)はかつて医者だったが、妻の出産の時処置を誤って死なせてからは酒と女に身を崩し、酒場で馬鹿踊りを踊って乞食のような生活をしていた。この町へ休暇旅行に来たフランス人トム(アンドレ・トフェル)が突然吐気に苦しみ、メキシコ人の医者(カルロス・ロペス・モクテスマ)は伝染性の脳脊髄膜炎と診断し直ちにトムを隔離したが死んでしまった。一人異郷に残されたのはトムの妻ネリィ(ミシェル・モルガン)。持金はいつの間にか盗まれ、帰るに帰れない始末だった。医者の許へワクチンが届けられ、最初にネリイがジョルジュに支えられて腰椎注射をうけた。ジョルジュは注射をうけようとしなかった。トムの葬式の日、第二の患者が発生し、教会の聖器庫が臨時の隔離病棟にあてられた。ネリイは村でただ一軒のホテルに泊っていたが、主人のドン・ロドリゴ(ヴィクトル・マヌエル・メンドーサ)は彼女に露骨な好意をみせた。ジョルジュは、久しぶりにネリイのような美しいパリ女を見、忘れていた感情のよみがえってくるのを感じていた。疫病はひろがる一方で、患者は聖器庫からあふれた。汽車の乗客中にも患者が出て、交通は遮断寸前にあった。ネリイは復活祭の前日、現在の心境を懺悔した。夫の死を悲しむ気にはなれず、これからの生活が気にかかること、ジョルジュに心を惹かれることもつけ加えて――。一方ジョルジュは患者の世話に打ちこんでいた。ネリイがジョルジュに靴を買ってやったことから、嫉妬したドン・ロドリゴが彼女に挑んだ。ネリイはロドリゴの手を逃れてジョルジュが神妙に働いている浜辺へかけつけた。そして二人はしっかり抱合った。
――映画はフィリップの医師としての再起とアルコール依存症の克服、フィリップへの愛を自覚したモルガンとの愛の成就と割合メロドラマ的に終わるのですが、異邦メキシコの異様な雰囲気と致死性の伝染病蔓延というサスペンスが吊り橋効果を出しているのでこりゃ孤独な男女が惹きあうよなとそれなりに説得力はあります。フィリップとモルガンの熱演もあって大ヒット作になったのも納得の出来で、『デデという娼婦』'48や『美しき小さな浜辺』などの抑制のきいた良さと較べればずいぶん通俗的ではあるけれど、本作のような作品の場合には通俗なのも必要な要素なので、モルガンかフィリップのどちらかが死ぬといった結末もつけられるでしょうが本作のハッピーエンドもこれからの困難が込みなのでハッピー一辺倒ではなく、生き抜いていくことがテーマなのでこのハッピーエンドでいい。この二人はおたがいの存在のために生きていく価値・目的をみつけるので、モルガンかフィリップのどちらかが死ぬのでは悲劇にはなっても生きていくことがテーマにはならなくなってしまいます。また本作は、あまり良い例ではないかもしれませんが、ブラジルを舞台にした『黒いオルフェ』'59などのフランスの南米異国趣味映画の先例になっているとも考えられる。『黒いオルフェ』はブラジルの観客・知識人階級からまったくブラジル人をわかっていない異国趣味映画と批判の的になっている映画ですが、それに較べれば本作のフィリップはメキシコ民衆と平等な立場ですし、もっとも尊厳ある人格の人物として描かれているのはメキシコ人医師です。本作の原題『Les Orgueilleux』は直訳すれば「誇り高き者」ですが、メキシコ人医師に倣って誇り高き者に再起するフィリップの話なので、フィリップ個人が独力で再起できたのではなくメキシコ人医師とモルガンの存在によって、というのも映画はちゃんと描いている。同年銀獅子賞を受賞したカルネの『嘆きのテレーズ』より本作のほうがよほど良いと言っては褒めすぎでしょうか。
●7月9日(火)
『ボルゲーゼ公園の恋人たち』Les Amants de Villa Borghese (Cine Produzione Astoria, Roma=Productions Sigma-Vog, Paris, 1954.5.17)*89min, B/W : 日本未公開、映像ソフト初発売
◎監督 : ジャンニ・フランチョリーニ
◎出演 : ヴィットリオ・デ・シーカ、ミシュリーヌ・プレール、フランソワ・ペリエ
○ローマにあるボルゲーゼ公園を舞台に、公園で繰り広げられる様々な恋人たちのエピソードを描いた作品。G・フィリップは、『肉体の悪魔』での共演で有名なM・プレールと、5つ目のエピソードに出演している。
イタリア=フランス合作の本作はイタリアで先行公開され、フランスでの公開は半年後になりました。本作も日本未公開・初DVD化の稀少作品ですが、全編イタリアのボルゲーゼ公園が舞台のオムニバス映画ですし、フィリップ、ミシュリーヌ・プレール、フランソワ・ペリエらフランス俳優が出演しているとはいえほとんどのスタッフ、キャストがイタリア映画人です。各国語版ウィキペディアでもイタリア語版がもっとも詳しく自国映画として解説していることからも合作映画とはいえ実際はイタリア映画と言ったほうがよく、クレジット上ではジャンニ・フランチョリーニの単独監督あつかいですが実はヴィットリオ・デ・シーカが共同監督だったのが判明しています。フランス公開時の観客動員数は67万5,488人と小ヒットで、イタリアでのヒット業績はわかりませんがフランスより高かっただろうと思える。フィリップ出演・主演作のデビュー~'53年度作品の観客動員数一覧は参考までに巻末に載せますが、観客動員数はそれだけが映画の価値を決めはしないにしろ、公開当時の評判の指標にはなります。動乱期の戦時下~解放直後には映画の集客数はまったく不振だったのも観客動員数にははっきり表れています。またフィリップのデビュー当時から10年未満で映画界は急激に復興したのもわかります。その前に『ボルゲーゼ公園の恋人たち』の内容に移りましょう。
○あらすじ(イタリア語版ウィキペディアより) 第1話 : 公園で井戸端会議をする主婦たち~旅行中のスウェーデン娘のナンパに失敗する青年見習い兵士(ルイジ・ラッソ)の話。第2話 : ギリシャ語教師(フランソワ・ペリエ)を誘惑させて証拠写真を撮り合格させようと高校生たちが策謀するが誘惑役の少女(アンナ・マリア・フェレッロ)は教師が失明間近でもうじき辞任する話を聞き、脅迫用の証拠写真撮影をわざと妨害する。第3話 : 中年プレイボーイ(ヴィットリオ・デ・シーカ)が若い娘(ジョヴァンナ・ラッリ)とのデートのため車で待ち合わせるが、若い娘に恋横暴する青年(マウリツィオ・アリーナ)に言いがかりをつけられ娘と青年のケンカに巻きこまれあぶはち取らずに終わる。第4話 : 間接的な知りあいばかりの中高年市民たち(レダ・グロリア、エドゥワルド・デ・フィリッポら)が社交上テーブルに同席することになり、とりとめない話題のうちに唯一若い女性への恋愛アドバイスに話題が集中し、若い娘は混乱して泣き中高年市民たちは困惑する。第5話 : 公園で中年マダムのヴァランザン夫人(ミシュリーヌ・プレール)が子どもたちを子守りに遊ばせて待ち人するが待たされ、カフェで予定の遅れの電話をかけたすえようやくベンチで青年カルロ(ジェラール・フィリップ)がやってきて言い訳し、夫人は散歩しながらフィリップに3年3か月の関係の別れ話を切り出し、実は青年も夫人との関係に飽きていたと言い出したので夫人は青年を引き留めにかかるが、青年はすでに結婚話が進んでいると言い、青年を平手打ちした夫人は泣き崩れ青年は無言で去る。第6話 : 夜の公園、街娼たちが車を引っかけようと待ち構え、ベルガモから来た男を引っかけて車に乗りこんだブルネットのアントニエッタ(エロイーザ・シャニ)は話している最中停車中の車に衝突するが、男同士は役所の顔見知りで、しかも停車中の車に同乗していたのはもともとベルガモの男の目当てだった金髪のエルヴィラ(フランカ・ヴァレリ)だったので娼婦同士のケンカになり、さらに取り締まりのパトカーが駆けつけてきたので娼婦二人と男二人は逃げだす。夜の公園の野外劇場の「ミス・シネマ」選考会の出場者たちに娼婦二人はまぎれこみ、エルヴィラは出場者、アントニエッタは審査員に間違えられる。エルヴィラは優勝してパーティー会場への車に乗り、審査員をしたアントニエッタはショーが終わったあと逮捕されてパトカーに乗せられる。
――こういった他愛のないイタリア流人情ドラマのオムニバス映画ですが、言ってしまえば戦後日本で「日比谷公園の恋人たち」でも「芝公園の恋人たち」でもいいですがそういう趣向のものです。しかし「日比谷公園の恋人たち」ではこうはならないと思えるのも事実で、日本人にはこれほどあっけらかんとしたものは作れない。本作はお国柄とローカル色がよく出た、フランス人同様イタリア人も自分の国が世界一と思っているようなラテン民族ですからローマ一はイタリア一、イタリア一は世界一でイタリア人気質は全世界の普遍的人間性という絶大かつ無意識の自信を持って作られたのがよくわかる映画です。芸術系のイタリア映画を念頭に置くと拍子抜けするような大衆娯楽人情お色気映画ですが、こういうどうでもいい(失礼)普通のイタリア映画はかえって日本公開されないので、映画祭狙いや国際ヒット狙いの臭いイタリア映画よりずっといい。名指しは何ですがグッドモーニング何とかとかニューシネマ何たらとかみたいな(例が古いですが)日本公開もヒットしてキネマ旬報ベストテン1位のようなイタリア映画にろくなものはないので、こういう作品がフィリップ主演エピソードのあるオムニバス映画というだけの理由でポロッと日本初DVD化されるのは拾う神に幸ありの観があります。ちなみにフィリップ出演・主演作はフランスの研究者がきちんとフランス公開時の国内観客動員数のデータをまとめていて、せっかくですから映画デビュー作~'53年度作品の観客動員数を巻末にまとめておきましょう。
『フレール河岸の娘たち』'44(マルク・アレグレ) : 5,861人
『夢の箱』'45(イヴ・アレグレ) : 2,792人
『星のない国』'46(ジョルジュ・ラコンブ) : 56万1,428人
『白痴』'46(ジョルジュ・ランパン) : 107万9,256人
『肉体の悪魔』'47(クロード・オータン=ララ) : 476万2,930人
『パルムの僧院』'48(クリスチャン=ジャック) : 615万1,922人
『美しき小さな浜辺』'49(イヴ・アレグレ) : 84万9,005人
『すべての道はローマへ』'49(ジャン・ボワイエ) : 143万4,128人
『悪魔の美しさ』'50(ルネ・クレール) : 253万8,884人
『輪舞』'50(マックス・オフュルス) : 151万5,560人
『失われた想い出』'50(クリスチャン=ジャック) : 238万6,014人
『愛人ジュリエット』'51(マルセル・カルネ) : 51万3,083人
『花咲ける騎士道』'52(クリスチャン=ジャック) : 673万3,287人
『夜ごとの美女』'52(ルネ・クレール) : 349万9,199人
『七つの大罪』'52(オムニバス) : 239万6,014人
『狂熱の孤独』'53(イヴ・アレグレ) : 280万5,061人
『ボルゲーゼ公園の恋人たち』'53(オムニバス) : 67万5,488人