人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年7月4~6日/ジェラール・フィリップ(1922~1959)の初期出演作(2)

イメージ 1

 この『ジェラール・フィリップ・コレクション』は実に重宝な廉価版DVDボックスで、収録作9本中3本もの日本未公開・日本盤(世界?)初DVD化作品が含まれ、既刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』に収録済みのフィリップ主演作5作を合わせれば'44年の映画デビュー以来'53年(パブリック・ドメイン年限)までのほとんどのフィリップ主演・出演作が網羅されているほどで、フィリップは'59年に36歳で早逝してしまいますから、このあと享年までの作品は10本ほどしかありません。フィリップは'53年(昭和28年)には当時めったになかった映画祭のためのプロモーション来日までしており、この年までには若手俳優中の大スターの座を築いていましたから、'54年以降のフィリップの主演作は一流スター向けの企画ばかりになりましたが、初期の主演・出演作には日本未公開に終わったものもあり、『ジェラール・フィリップ・コレクション』収録作でも近年20年にようやく日本初公開された作品はさらに3本あり、本国公開時すぐに日本公開されたのは9本中3本にすぎません。前回でも触れたようにフィリップは第二次大戦後の若い世代の代表的な俳優でしたが、フィリップ作品を手がけた監督の多くは戦前から活動していた古い世代の映画人であり、戦後作品で名を上げたといっても戦前に一流監督と見なされなかったから戦後に時流に乗った企画を手がけることができたので、職人的な腕前では場数を踏んできたヴェテラン監督たちだけに公開当時は観客の評判も良く新たなフランス映画の主流が生まれたかのように受けとめられましたが、'50年代半ばに戦後世代の新人監督が台頭するようになるともっとも批判の対象になったのが戦後~'50年代前半までの旧世代の監督たちの映画でした。俳優たちを批判するような声はなかったのですが、フィリップが昇り調子だった時期のフランス映画自体が迷走期の時代の作品と見られたのは晩年のフィリップに危機感を与えていたとおぼしく、ジャック・ベッケルロジェ・ヴァディムら新鋭監督たちに当時評価の高かった監督、国際的巨匠のルイス・ブニュエルなど出演作品の意識的な路線変更が見られます。しかしフィリップは肝臓癌によって'59年11月に早逝したので、'60年代のフランス映画界の急激な変貌後には一時代を築いた過去の俳優として出演作とともに存在感ごと棚上げにされた観があり、フィリップ没後に第一線の映画監督になったアラン・レネエリック・ロメールがフィリップよりも年長者で、かつ長命と長い監督キャリアを保ったのを思うとあまりに早く過去に置きざりにされたようで、フランス人にはしつこい時はとことんしつこく、そのくせ妙に飽きっぽい文化風土がありますが、活動の最盛期がフランス映画の過渡期だったのが不利に働いたように思えます。1作ごとに見ればフィリップの出演作は充実した作品が並ぶのにあまり語られない佳作が多いのはもったいないことで、その意味でもこうした作品集成は映画好きのかたの盲点を突いた価値があります。なお、このフィリップ初期作品集は日本未公開作品も多いため、DVDジャケットから各作品紹介文を引用しました。

イメージ 2

●7月4日(木)
『美しき小さな浜辺』Une si jolie petite plage (C.I.C.C Dutch European, Darbor Films, 1949.1.19)*85min, B/W : 日本公開平成11年('99年)12月10日
◎監督 : イヴ・アレグレ
◎出演 : マドレーヌ・ロバンソン、ジャン・セルヴェ、クリスチャン・フェリー
○閑散期の小さな浜辺の町を訪れた一人の青年。静養中だと言う青年は、唯一営業しているホテルに滞在することに。数日後、彼の後を追うように中年の男がホテルにやって来る。二人の男の正体は果たして……。

イメージ 3

 イヴ・アレグレの作品は前作『デデという娼婦』'48が既刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』に収録されており、アレグレ夫人シモーヌ・シニョレの初主演作といえる同作は'30年代フランス映画と'50年代後半~'60年代フランス映画の最良のミッシング・リンクとも見なせる佳作でした。アレグレは戦後フランス映画の脚本重視主義の監督としてクロード・オータン=ララやジャン・ドラノワらと同傾向の監督と片づけられがちな人ですし、際だった個性を感じさせる作風でもないのですが、兄のマルク・アレグレがもっと娯楽性に富んだ作風なのとは違う個人映画らしさがあり、また兄マルクと共通する登場人物の描き方に開けた自然さがあり、のちに凄みの利いた個性派女優となるシニョレの構えない演技が魅力になっているのが『デデという娼婦』で、名高いベッケルの『肉体の冠』'52やカルネの『嘆きのテレーズ』'53のシニョレよりも若々しいというだけではなく良い意味での映画の柄の小ぶりさ、緩さが映画を作為を感じさせない流露感にあふれたものにしていました。ドラノワ、ラコンブ、オータン=ララ、また実際はアレグレとは正反対にとびきりの技巧派ルネ・クレマンら撮影所出身監督が'40年代後半~'50年代初頭には脚本重視の「心理的リアリズム」派として若い反主流批評家の批判の的となっていましたが、イヴ・アレグレの映画の手作り感は戦前からキャリアのある「心理的リアリズム」派の手練れた映画よりも'50年代後半からの独立プロによるフリーの戦後世代監督たちに近いもので、撮影所出身という出自は上記の監督たちと同じでも『デデという娼婦』も本作も屋外セットではない寂れた野外ロケが当時の映画では珍しいほど全編の要を担っていて野外ロケのシークエンスも多い。低予算映画の制約もあったでしょうが美術に凝った屋外セットではなく本物の実景をドラマの背景にするのは'30年代~戦時下の'40年代前半にはごく稀だった発想で、兄マルクの映画にはそれがあることからも兄譲りの手法だったと思える。野外ロケの多用にはルノワールという反主流的大物監督がいましたが、アレグレの映画、ドラマ性自体はフェデー、デュヴィヴィエやカルネら'30年代の「詩的リアリズム」派を緩く継承しており、ルノワール的な野放図な性格の映画ではありません。本質的にはコメディの監督だったクレールも含めて、戦前フランス映画の「詩的リアリズム」派の発想は運命劇である点で、これがさらに通俗化したのが戦後'40年代後半~'50年代前半の「心理的リアリズム」派で、まず運命劇の劇的構成があり登場人物は機械的な役割を果たしているだけで人間性の躍動など二の次ではないか、という批判が戦後世代の批評家・監督から起こり、運命劇的な図式性からはみ出すルノワール、その愛弟子のベッケルや夭逝したルノワール周辺のヴィゴ、発想自体が因習的でなくまったく独自の映画を作っているコクトー、オフュルス、ブレッソン、タチなど少数の例外的監督がむしろ師表されるようになったのですが、これは'30年代に早くからサルトルが大家フランソワーズ・モーリアックの心理小説を「モーリアックの小説の人物には自由がない。作者の構想におあつらえむきの概念的な傀儡にすぎない」と批判し、同時代のアメリカ小説を賞揚した批評の映画版です。戦後世代にはサルトルの批評は絶大な影響力を持っていたのでサルトル的な視点から'30年代から'50年代半ばにいたるフランス映画の主流を批判さかたので、その時期の映画監督アレグレも伝統的性格によって一緒くたにされた。しかしクレマンやクルーゾーらがむしろ無節操なまでに無思想で技巧だけで虚構世界を作る態度で戦後世代が賞揚するヒッチコックに近かったのと同様、アレグレは兄マルクと同じく伝統的発想より個人的な趣味性の方が強い映画を作っていたので、サラブレッド中のサラブレッドといえるオーギュスト・ルノワールの息子ジャン・ルノワールセザンヌが紹介した愛弟子ベッケルに近い。アレグレ家は親子二代に渡ってアンドレ・ジイドの同性愛の相手(兄弟の父と兄マルク)で公私とも密接だった良家でコクトーとも交友があり、いわばルノワール/ベッケルやアレグレ兄弟はフランス映画の白樺派みたいなものでした。日本の白樺派文学者たちは皇室とも対等なほどの特権階級でしたが、ルノワールの映画がほとんど1作おきに大赤字を出しても気ままで旺盛な製作がつづけられたのはそれでもスポンサーがついたからで、職人的娯楽監督の兄マルクはともかく弟イヴが、やはり戦時中監督デビューしたベッケル同様着実にキャリアを伸ばせたのは修行時代に築いていた人脈のうしろ立てがあったからともいえそうで、地味で渋くいかにも低予算の本作はフランス国内観客動員数84万9,005人の小ヒットに終わりましたが、この時期昇り坂だったフィリップを起用できたのはフィリップを映画・演劇界に誘った兄マルクの『フレール公園の恋人たち』'44でノンクレジットながら映画デビューし、イヴ・アレグレの『夢の箱』'45が端役ながら初クレジットされた映画出演第2作だった。しかもフランス国立劇団でフィリップを指導した女優マドレーヌ・ロバンソンのヒロイン作だった、とファミリー的な映画企画だったからでしょう。夫人シニョレ主演の前作『デデという娼婦』も埋もれた佳作でしたが、本作も珠玉の小品と言うに足る出来で、ベッケル作品が早くからヌーヴェル・ヴァーグの先駆と賞賛されていたのに『デデという娼婦』や本作が見落とされていたのか意図的な無視すら感じさせる。もっとも先入観からあまり注目されていなかったとも思えるので、日本公開も本国公開の50年後ごく地味に特集上映されたきりの作品です。キネマ旬報でもビデオ・スルー(未公開初映像ソフト発売)あつかいの紹介です。
○解説(キネマ旬報映画データベースより) 1999年12月10日に『"俳優"ジェラール・フィリップ・アンコール』として特集上映された。
○あらすじ(同上) 美しい浜辺のホテルにやってきたピエール。彼はある女性歌手のレコードをかけると過剰な反応を示した。彼は孤児で、このホテルで働いた経験があり……。
 ――キネマ旬報のあらすじはタネを割っていますが、映画の展開ではまず雨の多い海岸町へ、どこか影のある自称"学生"の青年ピエール(ジェラール・フィリップ)がたどりつき、女将(ジャンヌ・マルカン)のホテルに静養に来るところから始まります。ホテルでは自動車修理工の妻で通いのメイドのマルト(マドレーヌ・ロバンソン)と、孤児院から雑用夫に住みこみで酷使されている少年(クリスチャン・フェリー)が働いています。その後、自称"作曲家"のフレッド(ジャン・セルヴェ)がマルトの夫の修理屋に車を預けて同じホテルに泊まりますが、フレッドはピエールを嫌う雑用夫の少年を抱きこみ、ピエールと顔を合わせないように部屋で食事を取り、少年と示しあわせてピエールの身辺を色々探っています。キネマ旬報あらすじの「彼(ピエール)はある女性歌手のレコードをかけると過剰な反応を示した。彼は孤児で、このホテルで働いた経験があり……」とわかってくる、しかもその女性歌手はピエールが来る直前に殺害されていて、まだ女将が代替わりする5年前に今の少年と同じように孤児院から引き取られ雑用夫としてこき使われていたピエールは、旅で立ち寄った女歌手に美貌を見こまれ坊やにスカウトされましたが、パリでの5年間は頽廃した芸能界の生活に巻きこまれて耐えがたいものだった(ピエールが稚児として利用されていたのも暗示されます)のが明らかになってくる。結局ピエールはそんな生活から逃げだすため女歌手を殺害して故郷に逃げてきたのですが、かつての自分と同じような孤児院出の雑用夫の少年がいて愕然とする。またフレッドは実際に女歌手の取り巻きの作曲家で、ピエールを脅迫しに来たのは殺害現場から盗まれていた宝石が目当てとわかる。ピエールは殺害は認めますが宝石泥棒は否認し、諦めたフレッドが修理屋から去る寸前に電話で警察にピエールを通報したのを知ったマルトと夫の修理工はピエールをベルギーに逃がすトラックの手配をし、また雑用夫の少年がホテルの女客相手に売春しているのに気づいていたピエールは去る前に少年に成人して雑用夫を辞められるまで耐えるんだ、安易な道を選ぶと自分のようになると念を押しそれとなく宝石の隠し場所を教えて姿をくらましますが、少年がピエールを追って海辺の小屋を探して浜辺を走り、滞在客の夫婦が浜辺を「美しい小さな浜辺ね」と散歩する姿から急激にカメラがトラックバックして浜辺のロングになるショットで映画は終わります。川や海、砂浜の出てくる映画は泣けるのは人類のDNAレベルの感受性に訴えかけてくるのでサイレント時代ではデリュックの『狂熱』'や『洪水』'24、エプスタンの『まごころ』'23や『地の果て』'29があり、トーキー後の著名作ではヴィゴの『アタラント号』'34、デュヴィヴィエの『望郷』'37やカルネの『霧の波止場』'38、グレミヨンの『曳き船』'41、ルノワールの『素晴らしき放浪者』'32や『ピクニック』'36、『浜辺の女』'47(これは渡米中のハリウッド作品ですが)と名作目白押しなのからも実感できますが、川の場合は人生や運命について考えさせられる一方で、海となるとさらに生と死のニュアンスが強くなってくる。本作では殺人というドラマはすでに終わっていて、逃亡中のフィリップがあてもなく郷里に帰ってくる(地元の人は5年前の少年のフィリップを覚えていない)という、『望郷』や『霧の波止場』のジャン・ギャバンの役柄を謎めいた逃亡者の青年に置き換えた作りになっている。デュヴィヴィエやカルネの'30年代作品を否定的に取らず、それらと'50年代末~'60年代のもっと開放的な映画の橋渡しとなる作品に本作を位置づければ本作が「詩的リアリズム」派の控えめな長所を活かし、戦後の「心理的リアリズム」派の映画の誇張におちいらない節度を保っているのは立派です。『デデという娼婦』では『望郷』の原作小説と同じ作家の原作をアレグレと共同脚色していたジャック・シギュールが本作では単独オリジナル脚本ですが、オリジナル脚本なだけにアレグレの意向をくんだ内容でしょうから脚本偏重と目すのは不当で、カルネ作品を始め数々の名作でも素晴らしい仕事をしてきた名手アンリ・アルカンの撮影もみずみずしく、人物の運命を過剰に描きつくさないまま浜辺で終わる本作の浜辺のわびしい美しさといったらない。のちの戦後世代の新鋭批評家・監督たちは意図的に(戦略的に)本作を無視したのではないでしょうか。

●7月5日(金)
『失われた想い出』Souvenirs perdus (Les Films Jacques Roitfeld, 1950.11.11)*122min, B/W : 日本未公開、映像ソフト初発売
◎監督 : クリスチャン=ジャック
◎出演 : イヴ・モンタン、ベルナール・ブリエ、ピエール・ブラッスール、フランソワ・ペリエ
○パリのある建物には様々な落とし物が保管されている。4つの落とし物「オリシスの彫像」「花輪」「ウサギの毛皮」「バイオリン」にまつわる思い出話が描かれた作品。G・フィリップは3話目に出演している。

イメージ 4

 本作はオムニバス映画で日本未公開、このコスミック出版のDVDボックスが日本盤初DVD化になるもので、ビデオ時代にもリリースされておらず日本でテレビ放映されたことはあるそうで、コスミック出版ボックスでもテレビ放映時の邦題を踏襲しています。もっともこの邦題自体が原題からはそう離れてはいないのですが、より忠実に原題に即せば「記念品」「思い出の品物」になので「オリシスの彫像」「花輪」「ウサギの毛皮」「バイオリン」と各エピソードにはそれぞれ話の鍵となる品物が織りこんである。全編2時間強、各エピソード平均30分とオムニバス映画としては長く、また別々の監督ならまだしも一人の監督が全4話のオムニバス映画を作るのは珍しいのですが、クリスチャン=ジャックの演出は悪く言って大味、良く言っておおらかなので30分×4本が大作感のない、あっさり観られる映画になっているのが取り柄でもありなるほど日本未公開に終わった作品だなあとも思わせます。これがフランス本国では観客動員数238万6,014人の大ヒット作になったのはイヴ・モンタン、ベルナール・ブリエ、ピエール・ブラッスールジェラール・フィリップ、フランソワ・ペリエ長編映画主演級のスターが各エピソードに主演しているからでもあり、女優陣もエドウィジュ・フィエール、シュジー・ドレール、ダニエル・ドロルムとそろっているのでスターの顔見せ映画としてだけでもヒット作になる条件はそろっていたと言える。脚本もクリスチャン=ジャック本人に加えてジャック・プレヴェールアンリ・ジャンソン、ピエール・ヴェリら一流どころが参加している上に、ジョセフ・コスマの音楽とイヴ・モンタンの歌も聴けるという具合で、イタリアとの合作作品ですがあまりにフランス人向けに作られた内容で、地上波放映だったならピエール・ブラッスール主演でエドウィジュ・フィエールが子持ち未亡人の相手役の、古い愛人同士のクリスマスイヴのつかの間の再会を描いた渋い第1話「オリシスの彫像」か、ベルナール・ブリエ主演(イヴ・モンタンもブリエの落とそうとしている未亡人を横取りする街頭歌手役で出てきますが)のコメディの第4話「バイオリン」のどちらかが削られ順序を入れ替えたのではないかと思えます。フランソワ・ペリエが身元詐称で愛人かけ持ちの追いつめられた遊び人の金持ち色男を演じる第2話のコメディ「花輪」は執事のアルマン・ベルナールとのかけ合いも、執事が親戚の葬儀のために配達された花輪で主人の急死を偽り愛人を諦めさせようとする展開も面白く、第3話のジェラール・フィリップ主演の「ウサギの毛皮」はかくまってくれたダニエル・ドロルムを絞殺してしまう陰惨な逃亡中の女性絞殺魔の話で、はっきり言ってフィリップ主演のこの第3話は全4話中もっとも見劣りするエピソードなのが皮肉です。
 ――そんな具合に皮肉にもフィリップ主演のエピソードがあるためにこのDVDボックスに収録され、日本初DVD化(世界初DVD化?)された本作はフィリップ主演以外のブラッスール主演、フランソワ・ペリエ主演、ベルナール・ブリエ&イヴ・モンタン主演(映画俳優としてはモンタンはまだブリエより格下だったのがわかります)のエピソードのほうが面白いのですが、フィリップ主演エピソードは同じ逃亡中の殺人犯役でもイヴ・アレグレの『美しき小さな浜辺』のような微妙なニュアンスに欠けていて、オムニバス映画中の短編映画としてもあまりまとまりがない。途中から始まって途中で終わるような話で、浮気な恋人を絞殺して逃亡中のフィリップはたまたまダニエル・ドロルムにかくまわれるのですが、自分が犯行におよんだいきさつを打ち明けているうちに興奮してきて狂乱状態におちいりドロルムを絞殺してしまい去っていくので、第1話メロドラマ、第2話コメディ、締めの第4話がコメディなので緩急をつけるためにこしらえられた犯罪サスペンスの第3話、という感じがしてしまう。フィリップ自身の演技はまずくないだけに独立した短編映画として観るには不足で、またこうした内容は長編映画でもフィリップには似合わないのではないかと疑問に思えるような演出です。フィリップはたとえ犯罪者役でもやはり観客の共感を誘うような役柄がふさわしく、『美しき小さな浜辺』のフィリップもそうでした。本作のエピソードのフィリップは卑小なサイコキラーなので、オムニバス映画中の意外性のある配役としてはいつもながらの熱演があいまってムード・チェンジの役割は果たしても良い役とは決して言えない。このエピソードは第2話同様アンリ・ジャンソンとピエール・ヴェリの共同脚本ですが、ジャック・プレヴェール脚本担当の第1話と第4話含めて全編クリスチャン=ジャックも脚色に加わっているので、メロドラマ→コメディ→犯罪サスペンス→コメディという構成に当たって意図的にあまり単独短編らしくない、全4話中もっとも断章的な内容になっている。千両役者の無駄づかいとまでは言いませんが他の3話がそれなりに気の利いた好短編なだけにフィリップ主演エピソード「ウサギの毛皮」だけがもっと別の内容にはできなかったのかと思えてきます。それでも全体的には本作はおおらかなフランス映画らしい雰囲気の漂う作品で、クリスチャン=ジャックというと時代ものの娯楽監督というイメージですが現代ものでも基本的に作風は同じようなもので、気楽に楽しめるそつない普通の映画ですし、稀少な作品を観られた満足感は十分与えてくれる。ドラノワやオータン=ララのようなハッタリもないので好感も持てるのですが、フィリップ主演の第3話はハッタリとは言わずとも刺激の強い話をと作為の目立つ挿話になっていて、この部分だけ採れば失敗に思えます。今後も単品発売化されるのも日本での正式な劇場公開も再度のテレビ放映もないだろうと珍しい作品のままでしょうが、このDVDボックスでは『美しき小さな浜辺』が比較対象になるために、フィリップの演技の表現力の繊細さが上手く活かされた例と単に熱演にとどまった例を観較べることができる。またフィリップほどの千両役者でも企画と演出によっては単にオムニバス映画中のアクセントでしかない役柄に終わるのもわかるので、どんな映画も手当たり次第に観るとそれなりに見方ができてきます。日本未公開・未DVD化作品でも本作よりは初期端役出演作のイヴ・アレグレ作品『夢の箱』'45を収録してほしかった(または同作を入れて10枚組ボックスにしてほしかった)と思いますが、本作だって観て損した気はしない、70年後には忘れられている現代映画よりはずっと観ごたえのある映画です。

●7月6日(土)
『愛人ジュリエット』Juliette ou la Cle des songes (Les Films Sacha Gordine, 1951.5.18)*89min, B/W : 日本公開昭和27年('52年)12月13日
◎監督 : マルセル・カルネ
◎出演 : シュザンヌ・クルーティエ、ロジェ・コーシモン、エドゥアール・デルモン
○囚人となってしまったミシェルは獄中、すべての人の記憶が失われている「忘却の国」で想い人ジュリエットを探す夢を見る。記憶に飢えた世界で、ミシェルはジュリエットの愛の記憶を蘇らせることができるのか。

イメージ 5

 本作は戦後作品の不評がつづいていたマルセル・カルネひさびさの評判作になり、次作『嘆きのテレーズ』の成功の布石となりました。フランス本国での観客動員数は51万3,083人と製作規模の割りには伸びず、低予算の小品『美しき小さな浜辺』の84万人強、オールスター・オムニバス映画『失われた思い出』の238万人強にもおよばなかったのですが批評は好評で、リアリズム系統のカルネ作品には珍しくファンタジーと現実が交差する作りですが、これまでの戦後作が戦後の世相を描こうとしてカルネ作品の端正な持ち味と齟齬をきたしていたため一種の戦略的後退による建て直しの姿勢が好意的な評価をもたらした、と言えそうです。カルネのファンタジー作品は戦時下に『悪魔が夜来る』'42がありましたがドイツ占領下のフランスの状況の寓意が強いもので、そこが戦後に高い評価の理由にもなればメッセージ性が映画を損ねているとも目せるものでした。本作は戦前からカルネが映画化を宿願していたという戯曲を原作にようやく実現がかなったというもので、ジェラール・フィリップは非常に好演しており、本作の成功の比重は大きくフィリップの主演と存在感にかかっていると言えそうです。また『悪魔が夜来る』のようなファンタジーの見かけをとった寓話でもなくフィリップ演じる主人公の個人的な自由への希求を幻の恋人への夢想を通して描いた苦い味わいの恋愛ファンタジー・ロマンスであり、ファンタジーの中では歴史ロマンスとして物語が展開され夢想の中の物語ならではの不条理と主人公フィリップは次々と直面することになる。カルネらしからぬブラック・ユーモア的な不条理展開が主人公フィリップを次第に負け犬的な立場に追いこんでいくのも異色で、カルネの映画の人物は悲劇的ではあっても本作のフィリップのような惨めな負け犬オーラを放つ境遇には追いこまれませんでしたし、負け犬キャラクターっぽいフィリップというのもフィリップの俳優キャリアとしては新境地だったでしょう。批評が好意的だったのに観客動員数があまり伸びなかったのは「今度のフィリップはどうだった?」「あんまりぱっとしない役だったよ」と素朴な観客の反響が反映したと思われ、クレールのフィリップ主演作『悪魔の美しさ』'50、『夜ごとの美女』'52もファンタジー映画ですがクレールは鬱屈した映画は作らない監督ですから明快なファンタジー作品でした。本作『愛人ジュリエット』はこの時期のフィリップが主演してこそ見どころのある映画になったと思いますが、戦後作品としてはあまりに超時代すぎて時期を逸した作品に思える。本来『悪魔が夜来る』の前後に作られてしかるべき内容だったと思われ、その場合'50年時点でのフィリップほど適役な主演俳優は得られなかったでしょうから、ただでさえ地味になりがちな内容がさらにもっと華のない、ごく薄味な小品にとどまったと思える。作られるべき時代とふさわしい主演俳優の出現に時差があったため一見復調した作品に見えて好意的に受けとめたいけれど、あちこちにかねてから企画していた演出本来の方向性と、優れた若手俳優の資質を活かそうとする意欲のために、テーマ自体の不統一が生じてしまっていないか。最大の難点は結末で、予想できないという意味ではたいへん意外性のある大胆な終わり方ですが、首尾一貫した説得力ある結末を放棄して映画自体をぶち壊しにしかねない丸投げの衝撃的結末になっている。あらすじを読んで結末までのあらましを知っても映画の実物の衝撃力は変わらないと思うので、日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「天井桟敷の人々」のマルセル・カルネが、「港のマリイ」についで監督した作品で原作はジョルジュ・ヌヴーの戯曲『ジュリエット或は夢の鍵』。カルネとしてはこの作品の映画化は大戦以前からの宿願であったといわれ、現実と夢との交流をリアリスティクな筆致で描くことで、逆に超現実の味わいを出そうとしている。脚色はカルネの「日は昇る」を執筆したジャック・ヴィオ(「宝石館」)とカルネの協力、台詞は原作者ヌヴウ(「想い出の瞳」)が担当している。撮影および音楽はともに「港のマリイ」のアンリ・アルカンジョゼフ・コスマで、コスマはこの作品で五一年度カンヌ映画祭音楽賞を獲得。美術は「天井桟敷の人々」のアレクサンドル・トローネ。主演は「悪魔の美しさ」のジェラール・フィリップ、「神々の王国」のシュザンヌ・クルーティエで、以下、ロジェ・コーシモン、エドゥアール・デルモン、イヴ・ロベールらが共演する。
○あらすじ(同上) 青年ミシェル(ジェラール・フィリップ)は牢獄の中で恋人ジュリエットを想い、夢で彼女に会いに旅立った。彼の着いた処は「忘却の国」で、住民達は誰ひとり思い出をもたず、新来の彼から昔の出来事を求めようと必死になった。彼が少女を探しているのを知った貴族(ロジェ・コオシモン)は、村で美しい少女(シュザンヌ・クルウチエ)をみつけ、自分のシャトオに連帰った。村の探偵から迫害されたミシェルはシャトオに逃込み、少女のいることを知って追ったが、彼女は逃げたあとであった。森の中で、ミシェルは少女ジュリエットにめぐり合い、想いのたけを打明けた。彼は牢獄へ入る前、ジュリエットと海岸へ行きたいために店の公金を盗み、その結果捕縛されてジュリエットと別れてしまったのだった。しかし森の少女ジュリエットは過去の記憶をもっていなかった。彼女はミシェルが座を外した時、追って来た貴族(ジャン=ロジェ・コーシモン)に再び連去られ、もうミシェルを思出さなかった。ミシェルはシャトオへ追って、貴族が結婚魔「青髭」であることを知り、必死にジュリエットを呼返えそうとした――ところで眼が覚めた。彼は主人(ジャン=ロジェ・コーシモン)の温情で不起訴となり、釈放されるとすぐジュリエットの家にかけつけたが、彼女は安月給取りの彼を見返り、主人の求婚を承諾していた。現実はミシェルを裏切った。もはや彼の行く処は「忘却の国」しかない。彼は、とある工事場の「危険立入禁止」と書かれたドアを開けて何の恐れもなく進み入った。
 ――現実のフィリップは貧しい事務員で、同僚の恋人ジュリエットとの旅行のために職場の帳簿をごまかして詐取した横領事件が露見し入獄中なのですが、夢の中では近世風の城下町「忘却の国」のなかで貴族の城主にジュリエットを奪われようとしている。「忘却の国」の住人たちは恋人ジュリエットを含めて追放されて帰ってきた主人公のかつての友人・知人・関係者ばかりのはずなのですが、誰もが主人公のことを覚えてもいなければ人間関係すらリセットされた状態になっている。その貴族の城主の正体は伝説的な結婚詐欺師の花嫁殺害常習犯「青ひげ」だと主人公は直観するのですが、ジュリエットとの結婚宣誓式で主人公は青ひげを告発するも「忘却の国」の住人は青ひげの何たるかを知らず、恋人ジュリエットすら「忘却の国」で出会って恋を囁きあった主人公を忘れはててしまっているのです。城主を告発した主人公はかえって城下町の住人たちを怒らせ、リンチにあいそうになってしまいます。……何度目の夢(どんどん悪くなっていく悪夢)から覚めた主人公は、自分への告訴の取り下げと釈放を告げられます。それは社長が主人公の横領を職務上のミスと免訴あつかいにしたからで、ここで初めて夢の中にでてきた城主「青ひげ」が現実では社長だったのがわかる。また社長が主人公を免訴にしたのはジュリエットからの懇願で、現実のジュリエットは社長からの求婚を受け入れその代わり主人公の免訴を頼んで主人公との関係を清算したいという意向なのが社長から伝言される。現実の絶望的な結果に茫然とした主人公は再び「忘却の国」の夢の中にもどり、リンチから逃れて隠れた工事中の小屋にいる自分を見つけ、「危険につき立入禁止」と札のかかったドアを見つけてドアを明け、そのままドアの向こうの闇の中に消えていきます。映画はそこで終わります。ジャン・ジロドゥレイモン・クノーのようなリアリズムとファンタジーの融合に巧みな文学者の作品のような趣向ですが、おそらくカルネが拠った原作戯曲、ジョルジュ・ヌヴーの『ジュリエット或は夢の鍵』もそうした系列の作品なのでしょう。監獄の描写は雑居房の囚人たち、刑務官などの様子も含めて非常にリアリスティックで、日本の監獄は亜熱帯気候のため採光窓や通風には配慮してありますが乾燥した気候のフランスの堅牢な牢獄はほとんど薄暗い地下牢と違いこそあれ、入獄経験のある観客には身にしみて伝わってくる現実味があります。一方悪夢化していく主人公の夢想は当初主人公の現実逃避的な夢で、何もかも忘れられた忘却の国で一からやり直したい願望の反映なのですが、次第に現実的な敗北的状況への不安感がそのまま投影されたものになる。カメラマンはカルネ作品常連の名手アンリ・アルカンですが刑務所のリアルな陰影と「忘却の国」の意図的に人工的な照明効果を対比的に描き分けていて、カルネ作品の常で舞台はほぼ全編がスタジオ・セットですが、アルカンはイヴ・アレグレのような屋外ロケでもスタジオ・セットでも非常に繊細な諧調のある陰影を撮影できる力量なのが本作でも遺憾なく発揮されています。本作はことさら戦後映画らしくしようとした無理のない、しかも'30年代~戦時下までのカルネ作品とも違った雰囲気を、カルネらしい丁寧さで完成度の高い作品に仕上げた意欲作でしょうし、フィリップも抑制した演技で名演なのですが、結末の意図的な完結感の放棄も効いているにもかかわらず、どうも話が出来すぎている印象が残る。他人の夢の話ほどつまらないものはないと言いますが、カルネの本作といいクレールの『夜ごとの美女』'52といいこういう夢なら面白いだろうという監督の計算に誤算はありはしないか。カルネなりクレールなりには面白い夢であっても観客には夢の話は映画であってもいくらでも恣意的に作れる分だけ物語への興味が薄れてしまう、という原則を技巧とアイディアでどうにかしようとしているのですが、ファンタジー映画としても現実との接点で夢が左右されていく映画にしても観客が期待する面白さとはどこかかみ合っていない。若手俳優中の実力派スター、ジェラール・フィリップに夢を託したとしても、大ヴェテラン監督のカルネやクレールはとっくに青年の夢想の実感から覚めた年配であり、作りこんだ話ではあるものの環境には夢の話なら都合よく転んで終わりじゃないかと物語自体にサスペンスが感じられなくなる。そうした基本的なことは知り抜いているはずの巨匠クレールやカルネが、しかし俺のは面白いんだと通してなるほど悪くない、辻褄もあってる、しかし面白くもないとなったのが本作やクレールの『夜ごとの美女』で、そういや黒澤明にも『夢』'90があったくらいで、本当に夢幻的、または悪夢的な映画は夢を意図しない時に実現するのを痛感します。無理のない作風に転換しようとした力作かつ意欲作で、ムードや構成はそつなく一貫したカルネらしい丁寧な作品だけに失敗作では決してなく、それだけに何の感銘もない映画に終わっているのが痛ましい。プラスの札をすべてそろえたのに夢という基本的なアイディア(原作の舞台劇では有効だったとしても)の1点でゼロに帰してしまったような印象を受けます。しかしそれなしには本作の企画自体がなかったでしょうし、どうにかならなかったものでしょうか。