人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

アート・ブレイキーズ・ジャズ・メッセンジャーズ・ウィズ・セロニアス・モンク Art Blakey's Jazz Messengers with Thelonious Monk (Atlantic, 1958)

アート・ブレイキーズ・ジャズ・メッセンジャーズ・ウィズ・セロニアス・モンク (Atlantic, 1958)

f:id:hawkrose:20200515175111j:plain
アート・ブレイキーズ・ジャズ・メッセンジャーズ・ウィズ・セロニアス・モンク Art Blakey's Jazz Messengers with Thelonious Monk (Atlantic, 1958) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLEyxWPyoryRJz4tDevfgvQQhTI1S2Iy5r
Recorded at Atlantic Studios, New York City, May 14 & 15, 1957
Released by Atlantic Records SD1278, Late April or early May 1958
All songs composed by Thelonious Monk, unless otherwise noted.

(Side 1)

A1. Evidence - 6:46
A2. In Walked Bud - 6:39
A3. Blue Monk - 7:54

(Side 2)

B1. I Mean You - 8:02
B2. Rhythm-A-Ning - 7:20
B3. Purple Shades (Johnny Griffin) - 7:48

(1999 CD Bonus tracks)

7. Evidence (alternate take) - 5:30
8. Blue Monk (alternate take) - 6:59
9. I Mean You (alternate take) - 7:34

[ Art Blakey's Jazz Messengers with Thelonious Monk ]

Art Blakey - drums
Thelonious Monk - piano
Bill Hardman - trumpet
Johnny Griffin - tenor saxophone
Spanky DeBrest - bass

(Original Atlantic "Art Blakey's Jazz Messengers with Thelonious Monk" LP Liner Cover & Side 1 Label)

f:id:hawkrose:20200515175130j:plain
f:id:hawkrose:20200515175149j:plain
 アート・ブレイキー(1919-1990)にとってもセロニアス・モンク(1917-1982)にとっても唯一のアトランティック・レーベル作品。当時モンクはリヴァーサイド・レコーズからの諸作で1952年~1954年のプレスティッジ・レコーズとの契約期間とはうって変わった第一線の一流アーティストとして創作力の絶頂と名声を確立していましたが、ブレイキーは低迷期にありました。ブルー・ノート・レコーズからの1954年のアート・ブレイキークインテット『A Night at Birdland Vol. 1』『Vol. 2』で大成功を収めたブレイキーはメンバーの出入りのあと『At the Cafe Bohemia, Vol. 1』1955でジャズ・メッセンジャーズを発足させますが、1958年10月にブルー・ノートと再契約し『Art Blakey and the Jazz Messengers』(通称『モーニン(Moanin')』)で活動が軌道に乗るまでのジャズ・メッセンジャーズは、1957年までにライヴ盤3枚、スタジオ盤9枚を録音しながらも契約レーベルやメンバーの安定しない、危なっかしいバンドでした。極論すれば成功したのはメッセンジャーズとしてのデビュー作だった『At the Cafe Bohemia, Vol. 1』『Vol.2』と、初のスタジオ盤で『Cafe Bohemia』のメンバーからトランペットがケニー・ドーハムからドナルド・バードに替わった『The Jazz Messengers』1956だけで、以降『モーニン』で名誉挽回するまでの1956年末以降のジャズ・メッセンジャーズは1年足らずの間にスタジオ盤8枚、ライヴ盤1枚を制作しながらも後には暗黒時代とすら呼ばれることになります。トランペットはビル・ハードマン、ピアノはサム・ドッケリー、ベースはスパンキー・デブレストで、サックスは56年12月~57年3月上旬までのスタジオ盤3枚とライヴ盤1枚がジャッキー・マクリーン、57年3月中旬~57年8月のスタジオ盤5枚がジョニー・グリフィンでした。マクリーン、グリフィンともに新人時代とはいえ、トランペットのハードマンともどもこの時期すでに安定した力量を示しているのはメッセンジャーズ以外のアルバムでわかります。それでも1956年末~1958年秋までのメッセンジャーズは低迷していたのです。

 ブルー・ノート復帰作『モーニン』でメッセンジャーズはリーダーのブレイキー以外は総入れ替えになりますが、メッセンジャーズはリーダーのブレイキーの指名でメンバー交替ごとにメイン作曲家と音楽監督が変更されるバンド運営をとっており、歴代メッセンジャーズもすでに、前身のアート・ブレイキークインテット時代からホレス・シルヴァーケニー・ドーハムドナルド・バードハンク・モブレー→マクリーンとハードマン→グリフィンとハードマンと変遷を重ねていました。マクリーン(アルトサックス)とグリフィン(テナーサックス)は日本でも人気の高い優れたジャズマンですし、ハードマンはあまり注目されないトランペット奏者ながらアレンジの力量が重用されていたらしく(1958年にはジョン・コルトレーンとの共作2作も手がけています)、マクリーンもグリフィンもリーダーというよりはソロイスト体質ですから主導権はアレンジャー指向のハードマンに委ねていたと思われます。今回ご紹介するのはそんな時代のメッセンジャーズ作品で、ピアノのドッケリーの替わりにセロニアス・モンクをピアニストに迎えてフルアルバムを作ってしまった大胆な企画でした。

 メッセンジャーズが「Art Blakey and the Jazz Messengers」を正式名称とするのはブルー・ノート復帰作『モーニン』以降で、それ以前はアート・ブレイキーの名前がついたりつかなかったり、このアルバムのようにArt Blakey's Jazz Messengersだったりと場当たり的なものでした。それはさておき、アート・ブレイキーセロニアス・モンクの縁は浅からぬもので、モンク自身のデビュー作になったブルー・ノート・レコーズでのSPレコーディング(後にアルバム『Genius of Modern Music Vol.1』『Vol.2』『Milt Jackson and Thelonious Monk』)にまとめられる1947年10月15日~1952年5月30日の6セッション・30曲32テイク中、4回目のセッション6曲7テイク(シャドウ・ウィルソン)、6回目セッション4曲(マックス・ローチ)以外の4セッション18曲19テイクはすべてブレイキーがドラムスに起用されています。本作の選曲で興味深いのはブルー・ノート時代の曲のうち「In Walked Bud」はブレイキーの参加した1947年11月21日録音が初演ですが、「Evidence」と「I Mean You」の初演(48年7月2日)は'50年代後期にレギュラーになるシャドウ・ウィルソンがブルー・ノート時代に唯一モンクと録音したセッションからの選曲です。プレスティッジ移籍後の「Blue Monk」は1954年9月22日初録音でドラムスはブレイキーでした。また、モンクの代表曲に数えられるようになった「Rhythm-A-Ning」はすぐにライヴ・レパートリーになり、名盤『Mulligan Meets Monk』1957(1957年8月録音)や『Thelonious in Action』1958(1958年8月録音)でリヴァーサイド移籍後の代表曲になりましたが(モンクの新曲多産時代はブルー・ノート、プレスティッジで終わり、以降はアルバムごとに新曲は2~3曲になりました)、「Rhythm-A-Ning」初演はこのメッセンジャーズへのゲスト参加アルバムでした。また、前述のいきさつで新生メッセンジャーズには起用されなかったジョニー・グリフィンはオリジナル曲「Purple Shadows」(「小さなスナック」ではありません)を提供しており、モンクの曲と並ぶと見劣りする平凡なブルースですが、ソロイストとしてリヴァーサイド・レコーズに移籍したのでモンクのライヴのレギュラー・メンバーになり傑作ライヴ『Thelonious in Action』と『Misterioso』(同日録音)を残します。グリフィンとモンクの初共演としても本作は意義のあるアルバムになりました。

 このアルバムの発表時期、モンクは専属契約していたリヴァーサイドから『Brilliant Corners』1957(56年10月・12月録音)、『Thelonious Himself』1957(57年4月録音)などの傑作を発表し、1957年5月録音の本作の直後には『Monk's Music』1957(57年6月録音)、さらに前述の『Mulligan Meets Monk』『Thelonious in Action』『Misterioso』など創作力では生涯の絶頂期にありました。セミプロ時代から数えて25年、レコード・デビューから数えて10年(ブルー・ノートからのSPは発売当初まったく売れませんでした)、ようやくモンクの力量と革新性が認められるようになっていました。メッセンジャーズとの共演はどちらかといえば当時迷走中のメッセンジャーズ側にメリットがあったでしょう。ただし本作の演奏は微妙にかんばしくありません。ブレイキーはモンクのセッションでは的確なドラミングでサウンドに安定感をもたらしていましたが、本作のブレイキーはリーダーシップを意識するあまり推進力の強すぎる演奏です。モンクのピアノもブレイキーに圧されたか、テーマ部やホーンのソロの背後ではほとんどピアノを弾きません。ブレイキーに遠慮をしているともとれますし、ブレイキーのリーダーシップによる自作曲のアレンジに違和感があったとも思えます。本作が未発表アルバムとしてずっと後年に発売されていたら、リハーサル段階の音源と見做されても仕方ないくらい演奏にムラが見られます。

 研究者のリサーチによると録音は「Blue Monk」「I Mean You」「Rhythm-A-Ning」「Purple Shadows」「Evidence」「In Walked Bud」の順で収録され、最初の2曲が14日録音、残り4曲が15日録音と推定されるようです。曲として平易だからか、2曲とも別テイクが残されているほど初日録音は慎重だったか、むしろ初日録音2曲の方が破綻のない仕上がりです。また2日目録音の4曲中別テイクのある「Evidence」は1958年秋からの新生メッセンジャーズでもライヴ・レパートリーになる曲です。破綻といえば翌月録音のアルバム『Monk's Music』もブレイキーも参加したオールスター・セッションですが、明らかな演奏ミスが連発するもメンバーがオールスターなのでそのまま発売され、それはそれで面白いアルバムになりました。しかし本作の場合はそういう種類の冒険的で意欲的な失敗作でもありません。ブレイキーがやろうとしているメッセンジャーズ流のハード・バップではモンクは空間を生かす得意の演奏ができず、置いてけぼりになってしまった観があります。

 翌月の『Monk's Music』の次にモンクとブレイキーが共演したのはおよそ15年後の「Giants of Jazz」の世界ツアー(71年9月~11月)で、メンバーはディジー・ガレスピー(トランペット)、カイ・ワインディング(トロンボーン)、ソニー・スティット(アルトサックス)、モンク(ピアノ)、アル・マッキボン(ベース)、ブレイキー(ドラムス)のオールスター・セクステットで、リーダーはガレスピーとブレイキーでした。ライヴ盤も数枚出ましたがビ・バップの名曲オン・パレードのショー的な興行だったのがうかがわれます。モンクは『Monk's Blues』1969(1968年11月録音)を最後にコロンビアとの契約も満了して更新しなかったので、ツアー途中にロンドンでインディー・レーベルのブラック・ライオン・レコーズからアルバム制作の依頼を引き受けて、ソロ・ピアノ10曲11テイク(うち1曲がアドリブのみの新曲)と、マッキボンとブレイキーとのトリオで8曲を1971年11月15日の1日で録音しました。このツアーと録音以降モンクはわずかな単発ライヴを行うのみで1976年のライヴを最後に晩年まで沈黙を守りましたが、没後に遺族から精神疾患の悪化と痴呆症が明らかにされます。チャーリー・パーカーガレスピーのベーシストだったマッキボンもブルー・ノートのSP録音時代にモンクと共演していましたが、すでに病状の始まっていた(しかしそれを公表しなかった)モンクはこのツアー中もレコーディング中もブレイキーとマッキボン始め全員30年来の旧知だった他のメンバーとひと言も口をきかなかったと証言されています。モンクの再演ベスト曲集と言えるこのセッションは『Something in Blue』 『Nice Work in London』『 Blue Sphere』『The Man I Love』の4枚のLPに分けて発売されましたが、現在ではCD3枚の『London Collection Vol.1』~『Vol.3』に録音順にまとめられています。これがモンクの最後の公式スタジオ録音になりました。ブレイキーは奇しくもモンクのデビュー作と遺作、さらに中間に位置する本作のいずれもに参加したことになりましたが、その意味合いはまったく違ったものだったでしょう。

(旧稿を改題・手直ししました)