人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

近藤東詩集『抒情詩娘』(昭和7年=1932年刊)前編

(近藤東<明治37年=1904年生~昭和63年=1988年没>)
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『詩集 抒情詩娘』昭和7年=1932年11月1日・ボン書房刊(袖珍判本文24頁・限定200部・定価20錢)
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近藤東自筆原稿「レエニンノ月夜」
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詩集 抒情詩娘

 《イヴ》の末裔タチニ――

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鏡二映ツタサカサマノ女ノウシロ姿ハ一本ノ蝋マツチノヤウニ華奢デアツタ。ナメラカナ背中ノハテノ栗色ノ毛髪。點火燐。

女ハ《シイツ》ノ上ニ《パフ》ヲ落シタ。《シイツ》ノ皺ハボク二地中海ノ地圖デアツタ。四月ノ。

女ノ體躯デ故郷ノ街ヲ語ルタメニ放心シタ。港ヘノ傾斜路。葡萄酒(ヴイノ)。手風琴。ミガカレタ肌二驟雨サヘ降ラセタ。

《パフ》ハ窓カラ捨テラレル。窓カラ捨テラレタ《パフ》ハ地中海ノ春ヲ匂ハセテ落チテ行ツタ。一輪の花ノヤウニ。

(詩集書き下ろし・再録詩集改題「地中海ノ女」)

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ボクノ上着ハ港ノ新聞紙デアツタ。ボクハ霧ノヤウニ上陸シタ。夜霧ノヤウニ。

《シルクハット》ノ中デ白革手袋ガ泳イダ。女ガハダカデ踊ツテヰタ。踝飾(アンクレツト)ガ青イ内股ヲ撲(ウ)ツテヰタ。芙蓉花ノヤウナ乳房ガ揺レテヰタ。《ジヨンブル》ノ好色ガ水脈ヲヒイテ往來スル。

ボクハ瞳孔ノ黴ヲハラツテ埠頭ヘ歸ツタ。遠イ機関銃ノ空射ガ街路ヲ《ペイヴ》シテキタ。

(詩集書き下ろし・再録詩集改題「上陸」)

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コノ十六歳ノ支那花嫁ハ、アノ度毎二卓上デ墨西哥銀貨(メキシコダラア)ヲ弾マセタ。《カアテン》ヲ出テ。

宵、彼女ハ街角ノ《シヨウ・ウインドウ》二凍テツイタ。トキドキ、英吉利兵ノ杖(ケイン)ガ頬ヲ撥ネタ。

彼女ノ《ケイプ》ノ襟飾ハ造花デアツタ。造花ニハ思想ガナイ。ソレ故、雨ノ日ニハ雨色二匂ツタ。濡レテ。

(詩集書き下ろし・再録詩集改題「造花」)

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凱旋門(アアチ)ガ意味スル意味ノタメニボクハ手二小サナ旗ヲ持タサレタ。

一隊ガ臭気ヲ撒布シテ過ギタ。

ボクハコノ侮辱サレタ街ヲカナシンデ階段ヲ馳ケ上ツタ。

部屋ニハ既二母国語ヲ忘レタ女ガ喪章ツキノ花束ヲ椅子二置キボクノタメニ両腕ヲ自由二シテヰタ。微笑ンデ。

ボクハコノ體臭ノアル《マンドリン》ヲ膝ノ上二カイ抱イテドコニモナイ國歌ヲ唄フノダ。ドコニモナイ國歌ヲ唄フノダ。

(「詩と詩論」昭和5年=1930年9月・原題「國歌」)

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マルデ鑵詰ノフタヲアケルヤウニアハテテ窓ヲ開イテオ母サンヲ呼ブオ孃サン。

ボクノ空腹。

(「文芸汎論」昭和7年=1932年3月・原題「抒情詩娘」)

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ポルトガル》ノ娘サン
オ前ノ肩ハ Stewed Prune ノ匂ガスル
ボクハ日本ヲ忘レマス
ボクノ祖国ハ《シルク・ハット》ヲ冠ツテヰル
《シルク・ハット》ヲ踏ミツブサウ

(「詩と詩論」昭和4年=1929年6月・原題「CHARLESTONING FOOLS」)

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 《イタリア人》ノ安宿
 乞食ノ昇天
昇天シタ乞食ハ《タキシイド》ヲ着テヰル昇天シタ乞食ハ《フルウツ》ポンチヲ喫ベテヰル肉着ヲハズシタ女ガ卓上デ仰反ツテヰル女ノ腿ハ氷蜜柑ヨリツメタイ

 昇天シタ乞食
 乞食ノ昇天
巡捕ガ皺クチヤニナツタ彼ノ体ニノシヲカケテヰル昇天シタ乞食ハタシカニ! 《タキシイドヲ》着テヰル

――《ムツソリイニ》万歳デセウネ
――左様《ムツソリイニ》万歳

(詩集書き下ろし・再録なし)

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橋カラノ下リ勾配。黄包車(ワンポツオ)ハ西瓜ノ種ダ。西瓜ノ種ハ《コムニスト》デハナイ。

黄浦江ノ靄ハ拳銃ヲ亂射シタ。《ソヴイエエト》領事館ノ窓ガ無數二散ツテ光ツタ。空色ノ軍艦ガ水兵ヲ吐瀉シタ。陸戦隊。透明ナ哨兵ハ一着ノ黄合羽(エロウスリツカア)デアル。

ボクハ月夜ヲ感ジタ。月夜ヲ。《レエニン》ノ月夜ヲ。寝台(ベツド)ノ中デ。女ハ白系《ロシア》ノ食用薔薇。女ハ機関車ノヤウニオシカカツテ來タ。ボクハ轢死スル。

(「詩と詩論」昭和4年=1929年3月、「改造」懸賞詩第一等当選作昭和4年5月・原題「《レエニン》ノ月夜」)

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彼女ノ系圖ハ椅子ノ上ノ《コンビネイシヨン》ニアル體温ノ殘ル脱ガレタ《コンビネイシヨン》。

ボクハ彼女ノ腓膊(フクラハギ)ニヨツテ彼女ノ年齢ヲ測量スル年齢ヲ測量サレタ彼女ハ《レモネイド》ヲ含ンダ唇ヲボクニ與ヘルノデアル。假死ニマデ。

假死ノ彼女ハタブン《バルチツク》ノ湾ニ沈ムノデアラウ。夥シイ満月ガ彼女ノ二ノ腕カラ泡ノヤウニ消エテユク。

ボクハ彼女ノ肌ノ汚染(シミ)デアルボクノ皮膚ヲ恥ヂタ彼女ノ肌ノ汚染デアル東洋人ノ皮膚ヲ恥ヂタ。

(詩集書き下ろし・再録なし)

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市街戰。娼婦ト電車ト小學校ノ貧困。艦隊ト領事館ノ白イ結婚。空ハ Tobacco ノ廣告板。

ボクハコノ支那賭博ヲニクム。ボクハ化粧シタ騎馬路ヲ走ツタ。月光。

居留地デ、ボクハ唇ヲフタツ盗マレタ。ヲンナハ上瞼ヲ銀色ニ磨イテヰタ。《プレゲエ》機ノ翼ノヤウニ。

(昭和4年=1929年6月「詩と詩論」・原題「盗まれた唇」)

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日本兵ト竝ンダ《ドイツ》巡査ノ頭ヲハジイテ、女ハボクノ國籍ニ媚ビテ見セタ。泥人形ガ首ヲ振ツタ。《ヘルメツト》帽ノ首ヲ。シカシボクハ祖國ト抒情詩ヲ持タナイノダ。

ソノ
《ムチリ》!
トシタ肢體ノ潤澤ナ沼地デ
ボクハ思ハズ栗ノ花ヲ散ラセタノミデアル。
栗ノ花ヲ。

ボクハ愛國心ヲ取リ戻サウトシテ、白人女ノ舌ヲ吸ツテヰタ。

(昭和5年=1930年9月「詩と詩論」・原題「愛國心」)

 ★

 少女ハ南方カラ來ル少
 女ハ白イ垢ノヤウニ南
 方カラ來ル國際港ハ少
 女ニ罎デアツタ透明固
 體ノ内ノ棲息蹴リ上ゲ
 タ《スリツパ》ガ空ニ當ツ
 テ落チテ來タ悲シムナ
 少女ヨ悲シムナ少女ヨ

(昭和5年=1930年6月「詩と詩論」・原題「國際港の雨天」)

(詩集前半12篇・原詩のゴシック体部分は《》で括りました)


 近藤東(明治37年=1904年6月24日生~昭和63年=1988年10月23日没)は現代詩誌「詩と詩論」(商業誌規模の同人誌。1928年9月~1931年12月、通巻第14冊。継続誌『文學』1932年3月~1933年6月、通巻第6冊)関連詩人でもモダニズム詩の特色がもっとも強い詩人で、「詩と詩論」自体が三好達治から北川冬彦安西冬衛西脇順三郎北園克衛、吉田一穂や逸見猶吉など志向の異なる詩人たちが昭和初年の詩の革新だけを共通項に参加していただけであり、梶井基次郎も三好・北川と親友だったために寄稿していたほどです。前述の詩人たちは「詩と詩論」に関わっていた間だけモダニズムの傾向を示していたとも言えます。近藤東も大戦敗戦後には作風の転換がありますが、「詩と詩論」終刊後に主宰者・春山行夫が後継誌として創刊した「文學」~「詩法」~「新領土」に至るまで同人であり続けました。それらの後継誌では「詩と詩論」に参加するには遅れた村野四郎、安藤一郎、笹澤美明や、戦後に詩誌「荒地」を創刊する「詩と詩論」読者上がりの学生詩人たちが集まったので、「詩と詩論」創刊同人でその前身同人誌「謝肉祭」からの同人だった近藤は主宰者・春山と並ぶ古株だったのです。

 モダニズム詩はおおよそ抒情詩(三好達治主宰「四季」)とリアリズム詩(北川冬彦主宰「詩・現実」「時間」)、抽象詩(北園克衛主宰「VOU」)に分かれたり「歴程」に移って行きましたが、「詩と詩論」創刊主宰者の春山行夫の系譜に一番長く忠実だったのが近藤東でした。その作風がいかに時流に迎えられたかは、当時「文藝春秋」や「中央公論」と並ぶ総合誌だった「改造」誌の昭和4年の通巻100号記念の懸賞公募に近藤東作品「《レエニン》ノ月夜」が一等当選されたことでも知られます。二等1名は、佳作14名には「詩と詩論」同人の上田敏雄と共に「歴程」同人の石川善助「間借者の詩」が入っており(上田黎名義)、石川は夭逝しますがこの次点入賞をきっかけに吉田一穂に傾倒した作風に急変します。近藤が大学最終学年の昭和2年(1927年)に海外(当時植民地)に遊学(ラグビー部マネージャーとして上海遠征)した経験は詩作に転換をもたらし、「《レエニン》ノ月夜」のインパクトは20代の青年詩人たちに大きなショックを与えました。「新領土」に拠った新進詩人・永田助太郎など、直接近藤の影響を感じさせる夭逝詩人もいます。ただし近藤の詩はあまりに時代のムードに密着しすぎて、歴史性を加味しないでは評価の難しいものです。

 「《レエニン》ノ月夜」を典型として、近藤東の詩は日本の当時のアジア植民地を舞台にして、多国籍化した文化状況に架空の一人称主人公「ボク」の視界のとらえた一触即発の政治(軍事)情勢とさまざまな国籍の私娼たちとの交渉を描いたもので、二つの世界大戦に挟まれた時代に北半球の世界各国で猖獗をきわめたモダニズム文化、その反映であるモダニズム文学の典型的なスタイルです。人間の実存を「性(または人間関係)」と「政治(または経済活動)」に二分する図式は市民文化の繁栄した19世紀末に暗示され、20世紀に常套化した発想ですが、1920年代にはそれはまだ新しい発見でした。性と政治に分裂した人間像は日本の詩では石川啄木高村光太郎に先駆が見られます。反政治的に性に耽溺する発想は小説では永井荷風谷崎潤一郎が確立したと言えますが、夏目漱石、また自然主義小説の作家たちも社会に対する反逆的性格では同様の着想にたどり着いていたと見られます。

 日本でモダニズム文学が意識されるようになったのは元藩士の家系で外交官家に生まれ、大学教授時代の永井荷風に学んだ堀口大學(1892-1981)が外遊中に刊行したフランスのモダニズム作家ポール・モランの連作短編集『夜ひらく』の翻訳刊行(大正12年=1923年)でしょう。先に詩集『抒情詩娘』の特徴として上げた内容を、日本でなくフランスと置き換えればそのまま堀口大學訳のポール・モランになり、人工的で奇矯な比喩表現の多用や人物や行動の即物的な無目的性など、現在では過去の流行作家という評価しかないモランがもたらした影響は大きいのです。大正12年萩原朔太郎『青猫』、金子光晴『こがね虫』、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』の年でもあり、菊池寛による「文藝春秋」創刊で新人作家として横光利一川端康成が大プッシュされてデビューした年です。日本語の文体意識そのものが大きく変わる変わり目になった年とするなら、文語脈が払底されたことでは現代日本語はこの時期に始まった、とも言えるでしょう。横光、川端ともに『夜ひらく』からの影響を公言して日本のモダニズム小説を代表する作家になりますし、『海に生くる人々』『蟹工船』『太陽のない街』『武装せる市街』など昭和初期のプロレタリア文学モダニズム文学の文体なしには書かれなかったものです。また第二次世界大戦敗戦前までの日本文学では、詩は小説、批評、演劇、美術と交流の盛んなものでした。

 近藤東は大学初年度に名古屋在住時の春山行夫(1902-1994)主宰の同人誌「青騎士」を知り、文通して親しくなり翌大正15年(1926年)上京した春山と共に同人誌「謝肉祭」を創刊しました。昭和3年春に近藤は大学を卒業して鉄道省に就職、同年9月には春山行夫主宰の季刊「詩と詩論」が創刊され、編集同人として参加します。昭和4年5月に発表された「改造」懸賞詩の応募は2,500編、二次審査で絞っても350編だったというから大変なものです。一等の近藤は100円の賞金を獲得しました。物価指数で言うと、当時の1円は現在の1,500円~1,800円に当たりますから150万円~180万円といったところです。二等賞金は50円でしたが14名の佳作受賞者は図書券でした。これほど盛況な懸賞詩コンテストが行われていたのも詩の読者・アマチュア詩人相手の企画が商業的に成り立つほど盛んな時代だったからです。

 詩集『抒情詩娘』は28ページ、本文24ページの小冊子で定価20銭のパンフレットです。収録詩編全24篇はすべて「★」だけで区分されてタイトルもページのノンブルもなく、この軽さがモダニズムの精神をよく体現しています。全24編のうち21編は発表誌での原題、または第2詩集『萬國旗』(昭和16年=1941年7月・文藝汎論社刊)、第3詩集『紙の薔薇』(昭和19年=1944年1月・湯川弘文堂刊)への再録の際に個別にタイトルがつけられています。「《レエニン》ノ月夜」は『上海-未定稿』の総題で5篇の連作として「詩と詩論」昭和4年(1929年)3月に発表され、同年5月の「改造」に懸賞詩一等当選作として掲載されました。『詩集 抒情詩娘』は全24編を12編ずつ前後編に分けてご紹介しますが、詩集に先立って発表されたのは、
「《レエニン》ノ月夜」「逃亡」昭和4年(1929年)3月「詩と詩論」(『上海-未定稿』の総題で他3篇を含む5篇の連作として発表)
「《レエニン》ノ月夜」「逃亡」昭和4年5月「改造」懸賞詩第一等当選作
「盗まれた唇」「湾」「CHARLESTONING FOOLS」昭和4年=1929年6月「詩と詩論」
「丘」昭和4年9月「詩と詩論」
「新婦」昭和4年12月「詩と詩論」
「愛國心」「國歌」昭和5年(1930年)9月「詩と詩論」
「朝」「掌」昭和6月(1931年)6月「詩と詩論」
「《二グロ》」「夏ノ唄」「少女」昭和6年9月「詩と詩論」
「抒情詩娘」(二篇)昭和7年(1932年)3月「文藝汎論」
「西班牙扇子」(「鼻唄」前半のみ)昭和7年=1932年9月「文藝汎論」

 ――の17編で7編は詩集書き下ろしとなり、書き下ろし7篇のうち4編は後の詩集再録時に独立したタイトルがつけられました。同じ同時期のカタカナ詩でも以前ご紹介した連作詩「ウルトラマリン」の逸見猶吉(1908-1946)と近藤東はまったく異なる効果を上げており、逸見の詩では詰屈で凶暴な内向的攻撃性を表していた片仮名表記が、近藤の場合は軽薄な享楽的無国籍性を皮肉に客体化することで抒情詩のパロディを生み出しており、題材では安西冬衛(1898-1865)に近く、手法は北園克衛(1902-1978)に近いながらも、効果的なゴシック体使用に見られるユーモア感覚のようにより若いセンスを感じさせるものです。『抒情詩娘』はこれまでご紹介してきた明治20年代~大正~昭和初頭の『楚囚之詩』『新體梅花詩集』『有明集』『孔雀船』『啄木遺稿』『三富朽葉詩集』『聖三稜玻璃』『月に吠える』『我が一九二二年』『秋の瞳』『富永太郎詩集』『雨になる朝』『測量船』『ウルトラマリン』『瀧口修造の詩的実験』『千田光詩集』『鮫』『萱草に寄す』のように傑出してもいなければ時代を超えた革新的な詩的感銘を備えた詩集ではありません。モダニズムの詩集としても春山行夫『植物の断面』、北園克衛『白のアルバム』、上田敏雄『仮説の運動』、安西冬衛『軍艦茉莉』、北川冬彦『戦争』(以上すべて昭和4年刊)、決定的詩集となった西脇順三郎『Ambarvalia』(昭和8年刊)には規模や鋭さ、完成度でもおよびません。ですがこの詩集には昭和5年(1930年)前後でなければ書かれなかった遊戯的で刹那的な魅力があり、ふつう普遍性を価値基準とした詩の世界ではこうした詩集が見過ごされがちなものです。

(旧稿を改題・手直ししました)