人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

『逸見猶吉詩集(ウルトラマリン)』昭和23年(1948年)刊・その1

(逸見猶吉<明治40年=1907年生~昭和21年=1946年没>)
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『逸見猶吉詩集』(全38篇)
昭和23年=1948年6月・十字屋書店
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『全詩集大成・現代日本詩人全集12』
(十字屋書店版『逸見猶吉詩集』全編再録)昭和29年=1954年4月・創元社
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『定本逸見猶吉詩集』(全78篇)
菊地康雄編・昭和41年=1966年1月・思潮社
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「覺え書」

 逸見猶吉詩集は彼の友人二、三によつて編纂されたものである。晩年、満州での作品の拾遺、また逸見以前の本名での同人誌二冊なども編纂後現はれたがそれらやまた數多くないエッセイなども網羅しての全集も何れは出る機會があるだらうと思ひ、この詩集には収録しなかつた。
 逸見猶吉の大概は、一九二八年若冠二十歳、ウルトラマリンに始まり満州の地理を一聯に終るとみるのが至當であつて、だから本詩集は彼の作品の全貌ではなくとも全貌に近い。傑汁はすべて収められてゐると思ふ。
 彼の作品の一部は曾つて「現代詩人集」の第三巻に掲載されたが、獨立した詩集としてはこれが最初であり、ランボウの系譜が、異なつた資質に於て日本に出現したのもこの詩集が最初である。
 詩作二十年の結果のおほよそがこの一巻であることは彼の寡作を物語つてゐるが、ぎしぎし音たてる充溢とその氾濫は、比を逆にして獨自な天稟を雄辯に語つてゐる。
 わが国一流の詩人としての、あの特異な顔貌もすでにない。けれどもいまは一つの象徴として「牙のある肖像」が立つてゐる。
 (一九四八・一・二〇 草野心平)

報告

 (ウルトラマリン第一)

ソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時
外套ハ枝ニ吊ラレテアツタカ 白樺ノヂツニ白イ
レダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ
ソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ
 《血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深クナル
 北方 ドコカラモ離レテ 荒涼タル ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――――》
暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾カラ 舌ヲダシテ
ヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々 ソレハ目ニ見エナイ狂気カラ轉落スル 鴉ト時間ト アトハ
サガレンノ青褪メタ肋骨ト ソノ時 オレハヒドク
凶ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デアルカ
馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君モシル ワヅカニ一点ノ黒イモノダ
風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ 野ツ原ノ涯ハ監獄ダ 歪ンダ屋根ノ 下ハ重ク 鐵柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ
絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト 大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ
苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレテ
アラユル地點カラ標的ニサレタオレダ
アノ強暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覺デアツタラウカ
彈創ハスデニ彈創トシテ生キテユクノカ
オレノ肉體ヲ塗抹スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタカ
アア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク烽火ノアガル 嬰児ノ天ニアガル
タダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ
ソノ時オレハ歩イテヰタ
ソノ時オレハ齒ヲ剥キダシテヰタ
愛情ニカカルコトナク 彌漫スル怖ロシイ痴呆ノ底ニ オレノヤリキレナイ
イツサイノ中ニ オレハ見タ
悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ
アゴヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ スベテ痩セタ肉體ノ影ニ潜ンデルモノ
ツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ
 《ドコカラモ離レテ荒涼タル北方ノ顔々 ウルトラマリンノスルドイ目付
 ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――――》
イカナル眞理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ
今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ

(昭和4年=1929年10月「學校」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

兇牙利的

 (ウルトラマリン第二)

レイタンナ風ガ渡リ
ミダレタ髪毛ニ苦シク眠ル人ガアリ
シバラク太陽ヲ見ナイ
何處カノ隅デ饒舌ルノハ氣配ダケカ
毀ワレタ椅子ヲタタイテ
オレノ充血シタ眼ニイツタイ何ガ残ル
サビシクハナイカ君 君モオレヲ對手ニシナイ
窓カラ見ル野末ニ喚イテル人ガアリ
ソノ人ハ顔ダケニナツテ生キテユキ ハツハ
オレハ不逞々々シクヨゴレタ外套ヲ着テル
醉フタメニ何ガ在ル
暴力ガ在ル 冬ガ在ル 売淫ガ在ル
ミンナ悪シキ絶望ヲ投ゲルモノニ限リ
悪シク呼ビカケルモノニ限リ
アア レイタンナ風ガ渡リ
オレノ肉體ハイマ非常ニ決闘ヲ映シテヰル

(昭和4年=1929年12月「學校詩集」)

死ト現象

 (ウルトラマリン第三)

雲母(キララ)ノ下ノ天末線(スカイライン)
曝サレテヰル骨ノ自暴
ソコニ死ノヤウナモノガアル
ヤミガタイ息ヅマル堅勒ノ胸盤ガアル
 《硝子ノ翼・硝子ノ血 コノ感情ニナダレコム冬》
透明ノ底ニ擴ガルモノ 滲ミ入ルモノ
機械ノ一點ニ恒ニレイゼント狙ハレテアルモノ
アア世界ヲ充顛スル非情ノ眼ヨ
君ハ見ルカ 君自身ノ狂愚ヲ蹴落スコトガ出來ルカ
君ノ内部ニ氾濫スルマラリアノ愛 ソレスラモナホ季節ハ残シテユク
ウルトラマリンノ風ガ堕チ
ウルトラマリンノ激シイ熱ノ勃ルトコロ
ヤガテハ燃焼スル
彼處荒茫タル風物ノ奥デ ソノスルドキ怒リニ倒レテアルモノハ何カ
俺ハ感ジル 石炭ノヤウニツライ純潔ヲ ソノ火力ヲ
俺ハ知ル 海豹ノヤウニ齒向フ方角ヲ ソシテ今
冬ハアレラ傷メル河河ニ額ヲヌラシテヰルノダ
北地ノバリバリシタ氣圏ノナカ ソノキビシイ肩ヲスベリ
際涯トホク沈ム汽車ノ隅カラ俺ハ遙ルカナ雲ヲ測ロウ
 ★
凄イ暴力ハナイカ
自分ヲ視ルコノ瞬間ハ恐ロシイ
ソレハ苦痛ヨリモ絶體デアル 風ニ靡ヒテ何處ヘ往ク
原因ノアル處ニ生キテ逆轉セザル妄想ヲ深メテ生ノ荒々シイ殺倒ノ底ヘ
 ★
タトエナキ抛物線ノ挺轉 流レ去ル粗悪ノ地理・停車場
コノ重々シイ空間ニ懸垂スルモノ 充血スル顔ヨ
ナントイフ極度ノ貧困デアラウカ
傾ムク黒イ汽車ノ一隅 ソコニハナンノ夢モナイノダ
俺ハ君ヘ語リカケ 君ハ横ヲ見テ微笑スルバカリデアラウカ
十二月・雲母(キララ)ノ下ノ天末線(スカイライン)鐵ノヤウニソレハ
背ヲ向ケル無表情 天來ノ酷薄

(昭和4年=1929年12月「學校詩集」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

曝ラサレタ歌

殷賑タレ
齒モ露ハニ眠ルモノ
死ノヤウニ跨ガル コノ大街道ノ屋根ニ沍(サ)エテ
告ゲルコトナク家ヲ奔リ 告ゲルコトナク奔リユケヨ
精神稀薄ノモノ 憂欝デ扁平ノモノ 情操ナク可憐ノモノ ソノ哀情ノ毒ヲ拂ヘヨ
煌メク狂妄ノ全身ニ 足ヲ踏ミ外ストコロ 無邊ノ愚行ヲ拍手サレヨ
イツサイハ其ノ中ニ在ル 経験ト認識ヲ超エテ 彼等ハツネニ饒舌ヲ極メル
大街道ノ屋根ヲ周ツテ 翼ナク飛行スルモノソノ堪ラヌ負荷ヲ投下セヨ
海ハ遮ラレテ一枚ノ紙ノムカフ 激動セヨ オレノ脾腹ニ笑ヒヲ索(モト)メヨ
錆ビ荒レタ鐵ノ橋梁カラ 海燕ノ隕チルソノ飜エル非情ノ態(カタチ)ヲ究メヨ
鉤ナリニ肉体ノ反映(ハエ)ヲ隈ドル 反抗ノ 虚榮ノ 怖ロシキ寡黙ヲ許セヨ
ツラナル大街道ノ諸道具ヲ驅ツテ君ノ飛行ヨ自在ナレ
星ハ還ルデアラウカ星ハ 地平ヲ劃ル視野ヲ刪ツテ 時限ノ燃エサカル一瞬ニ燃エヨ
何處ニモナイ君ノヨロコビノ為ニ元原ノ表出 彼ノ大樹ノ裂カレタ幹ニ 君ノ光榮アル胸ヲ飾レ
イノチ有ルモノニ歌ハシメヨ 齒モ露ハニ眠ルモノ 君ノ眼窩ニ千年ヲ飼ヘヨ
アア 吹キ捲ル風ニ撓ンデ 殷賑タレ

(昭和6年=1931年3月「詩と詩論」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

冬ノ吃水

毟ラレテ防風林
沿河ニ錯落スル鴉共
狙(ウ)タレタ冬ノ街衢カラ獸血ニソマル
ソコノスルドイ傷痕カラ擾然トシテオレト君
杳カ對岸ニ横タフ一沫ノ苛薄ニサヘドキドキスル
鑢ノヤウナ幻覺ノ破片ガ 飛バサレテ來ルデハナイカ
沸キカヘル 岩漿ノニホヒニ噎セテ コノ道ハ忽チ
オレタチノ胸ニマデ切リ墜チテ來ルノダ
サカシマノ防風林 鴉共
擦リキレタ風ヲ孕ンデ 水ニ鎖シテ コノ沍エタ
風物ヲ 一線ノ攪キミダス非望ノ指示ヲ 誰ガ知ラウ
気圏ヲメグル 縦横ノ驕リ ギシギシト凍ル
ウルトラマリン・デイプノ驕リ
兇牙利非情ノマン中ノ誰ダ
喇叭ヲ吹キナラス誰ダ
 ★
奪フバカリノ愛シイ問ヒニ
ナニガ其處カラ君ヲ看ルノカ ツネニ
殺到スルインヘルノ 地上ノ露ハナル無際限
生キルトハ ソレヲ無盡ノ網目ヲ破ツテ 出發スル
出發スルノダ――――
曠茫トシテ 立ツトコロ
モノヲ言ハズ 焔硝ノ腮ヲ銜ム冷血ノ末輩
火ノ雜草ノ 飽クナキオレノ額ニココロ觸レテ スデニ
夏秋モムザンニ断タレ
天ニ流失スル 夢ナキ季節ノ歌ヲ堰イテハ
ナントイフコノ身ノ激シイ 蹂躙デアラウコトカ
 ★
絶望ニユズルモノ無シ
ヂカノ背後ニ傷ツケル糧ヲ曝シテ
ナホ 生涯ノ迂曲ト離反ニ吹キ荒サブ北北西 罕(マレ)ニハ
氣流ノ行方ノミ深ク明滅スル コノ全身ノグルリニ潜ンデ
断崖(キリギシ)ノイザナヒ 渦巻クモノヲオレハ知ル
オオ ハルカ犇メク樹々ノ淵(ナダ)ニ 火ヲ放ツテ
荒々シク捲キアゲテユク地底ノ落暉 ソノ肋(アバラ)
憤ルオレノ頸ニハ渇キ燦トシテ牽カレル 非望ノ一線
冬ノ吃水ガイマ獸血ニ蒙(クラ)ク 暴々ト泡立ツテユクノダ

(昭和6年=1931年3月「詩と詩論」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

鞭ヲ振ル
岩床ニ蔦葛ノ灼ケテ
目ヲ据エルトコロ 獣ヲ走ラス
日日ノ 年々ノ 身ヲ引キ縛ル騒擾
落葉松(メレーズ)ニ絡ム砂ハ苛立チ オレヲ蹴起ツテ
遠イ氣圏ノ底 彼ノ滞流(ヨドミ)ノ悪ニマデ墜チユクノカ
 ★
舌ヲ噛ム日々ニ
吹キサラス髪毛ニ
檻ヲ攀ヂル ソノ檻ノ涯ニ凍リツク 昏イヴイスタ
悲シミノ草々ニ獸ヲ喚ンデ オオ 裂ケマヂル
鐵條ノ裡 自ラノ四肢ニ 噎セカヘル獸血ヲ藉イテ
インザンニ轍ハ深ク 自爆ノカギリヲ募ツテユクノダ
何ヲ待チ構ヘテ 背後ニ不快ナ峡江ヲ負ヒ
何ヲ迎ヘテ フタタビ鞭ヲ自ラニ加ヘヤウカ
イキマク肺腑ニ煙ツテ 蒼ク
何トイフ巻積雲(シロ・キュムラス)ノ崩潰
未ダ背骨ニ沈ム非望ノ歌ニ 冬ヲ眠ラズ
冬ヲ眠ラズ スサマジキ笑ヒノ央ニ 横タハルオレ
 ★
北ノ北カラ北ヘ
地平ヲ屠ル
落葉松(メレーズ)ノ
逆毛ニ瀕シテ アツハ
貴様 虚耗ムゲンノ店晒シ オノレ
眼底ヲ穿ツテ擾レ 太陽コソ恒ニ北ニ在ルノダ

(昭和6年=1931年3月「詩と詩論」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

廣シイ天幕

冬ヲ荒ラス微塵ノ
天河ニ牙ヲタテル岩碓ノ
磅曝(ホウハク)スル 惧レノ旋渦(ビーフリ) 盲ヒタル眩耀ノガンヂガラメ
アア コップ一杯ノ空氣ニスラ放電スル死ノ生々シク
一筋黒ク硫末ヲヒク 暴戻(レイ)ノ季節ヨ
千年ニ重ナル刹那ノ弛ミナク オレタチノ展望ハ
恒ニコノ 廣(ハゲ)シイ天幕カラ 露ハナ足ヲ突キ出シテヰル
臨海屈折ヲ犯シテヰルノダ 熾ンナル風陣ヲ劈イテ 刀背(ミネ)ノヤウナ眩暈ガメグリ
ソノ煌ク探究ノ底ヲ ジツニ 生キルモノノガントシタ所在
世界ハ恐ルベキモノニ充チテヰル コノ世界ノ
隅々カラ 何ガ腕ヲモツテ オレタチニ呼ビカケルノカ
息マザル悪熱ヨ オオ君コソハ生キル

 《ドス黒イ咽喉ノオクカラ
 唐突ナ笑ヒヲ叫ンデヰルギブスナドガ スベテ
 剥裂シテ投ゲダサレ 両腕ヲダラリト喇叭ノヤウニ
 醜ク欠ケテヰル コレハマタ何トイフ愚カシイ反覆――――
 錆ビタル車輪ノ空轉ヨ
 雲ヲ斑スル戦ノ羊齒ヨ
 耐エガタイコノ沸キタツ風物カラ ワヅカ 非常ノ爆鳴ガシレテ
 唯一ナル生ノ切リ口ニ 鋼(ハガネ)ノゴトク手觸レルデアラウ》

ヂリヂリト兇猛ナモノガ血脈ニ逆巻キ
頸ヲソグ飢餓ノ飾リナク 無為ノ脳漿ニ翼折ラレ オレハ自ラノ
腹立タシイ重量ヲ負ツテ コノ廣シイ天幕カラ 遠望ノ限リヲ翔ケテユカウ
暴々タル視野ヲ踏ミコエ 雷ニ撃タレタ兇牙利ノ 水ノヤウナ跳梁
夢ハソレ以外ノ何デアラウカ
群レユク不明ノ季候鳥 流レル冷タイ騒擾ノ翳リ
イツサイノ狂妄ハ點火サレ 墜落ニヨツテノミ 激シク燃焼スルノダ
トホク歪曲スル方向ノ深サ ソノ息ヲノム陥没カラ
逆ニ吹キ上ゲテクルウルトラマリン
目眦ヲ裂ク 親愛ニ昂ル オレハ荒擾タル現象ノ背骨ヲ
アクマデ無慚ニ押シ分ケテユクマデダ
見ヨシジマナル狼藉ノ所在ニ イチメン澱ミナク氾流スル天ノ砂州
冬ヲ荒ス微塵ノ
偏奇スル透明ノ
自ラノ笑ヒノナカニ オレハ最後ノ放擲ヲ受ケル

(昭和5年=1930年9月「詩と詩論」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

ベエリング

 ――親愛の人G・Bニ――

霙フル
ドツト傾ク
屋根ノムカフ 白楡ノ叫ビニ耳ヲタテテヰル昏イ
憂愁ノヒト時ヲ 荊棘ノヤウニ悪ク醉ツテルノダオレハ
灰ノヤウナヒカリガ立チ罩メ 君ハモウ酒杯ヲ
トラウトシナイ 起チアガル オレヲ看ル
オレタチヲ冒シテル蒼褪メタベエリング
憎シミハモウ形ヲトラナイ
扉(ト)ヲアケハナテ《無意味ナル警笛(サイレン)ヨ》
撃テ《霙フルナカノ永遠ノ明日》
オレノ悲シイ懶怠カラ タダ
純粋ニ血ヲ流ス日ノ ヴイジョンヲ遮ギル氷海(フイルノ)ガ
總身ヲ削ツテドンランニ 頽(ナガ)レコムノダ
アア コノ夕暮ノケハシイ思ヒ
冷タイ明眸ニブキミナ微笑ヲタタエル君ノ
スルドク額ヲ刳ルモノ 何トイフソノ邪悪デアラウカ
椅子ノモツレタ位置カラ遠ク 鐵ノ滲ミイル屈折カラ
鹽ノムゲンナ様子ガシレテ 今コソ
ベエリングハ眞向カラノ封鎖ダ
霙フリヤマズ 夜トナル

(昭和5年=1930年9月「詩と詩論」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

(以下次回)


 逸見猶吉(明治40年=1907年9月9日生~昭和21年=1946年5月17日没)の生前に自選詩集としてまとめられたのは合同詩集「現代詩人集3』(昭和15年=1940年7月・山雅房)収録の小詩集『ウルトラマリン』18篇だけで、序文に「満州國に移り住んで四年、この間のものは全くこの集にいれなかつた。深い理由はない。仮に『ウルトラマリン』と題したのも、以前詩集を出さうと考へた時この言葉を思ひついたからで、今になれば一寸した愛情である」と書かれています。同書は岡崎清一郎、菱山修三、藤原定、菊岡久利、草野心平ら同人詩誌「歴程」の詩人たちの合同作品集でした。逸見は昭和10年草野心平と「學校」「銅鑼」らの同人誌を統合した同人詩誌「歴程」の創刊メンバーで、草野心平(1903-1988)が引き継ぐ昭和12年までは逸見猶吉が「歴程」の編集発行人でした。昭和10年は逸見猶吉は戦時下の満州で物資配給の官吏職に就いた年で、草野に編集発行人を譲ったのも満州現地の職務の多忙からでした。「歴程」に至るまでに「學校」「銅鑼」の同人として高村光太郎金子光晴、吉田一穂、高橋新吉、尾形龜之助、伊藤信吉、中原中也山之口獏らと交流があり「歴程」は彼らが一堂に会し、「歴程」創刊時には逝去していましたが「學校」「銅鑼」時代の宮澤賢治八木重吉らも遺族から未発表遺稿を託されて没後同人としていました。「歴程」同人は高村光太郎宮澤賢治高橋新吉を師表としていましたが基本的には一人一派で、逸見猶吉は中原中也(1907-1937)と同年生まれですが中原のように高橋新吉宮澤賢治への傾倒するよりも萩原朔太郎を尊敬していたといいます。

 昭和4年10月草野心平編集「學校」掲載の「報告(ウルトラマリン第一)」、またすぐ12月の伊藤信吉編集『學校詩集』で「報告(ウルトラマリン第一)」「兇牙利的(ウルトラマリン第二)」「死ト現象(ウルトラマリン第三)」3篇の発表は「學校」「銅鑼」周辺の詩人たちにとって事件でした。草野心平は「あの詩を読んだ時私は寒気がした。私は感動で震えた。その当時、あれ程私を驚かした詩といふものは他になかつた」と昭和23年(1948年)7月の「歴程」逸見猶吉追悼号のエッセイ「生き返したい」で回想し、同じ号に戦時中の疎開以来岩手独居中の高村光太郎も「今座右に一篇の彼の詩もない。しかし曾てよんだ彼の詩のひびきはりんらんと耳朶をうつてやまない」と追悼文「逸見猶吉の死」を寄せています。高村も昭和4年に草野から逸見に引き合わされ、高村歿後の全集編纂時には敗戦後に「歴程」周辺の詩人たちに頻繁に消息の連絡を取りつつ、ことに満州の逸見猶吉の消息を心配する心情が多数の書簡に残されています。高村は同追悼文で「彼の詩は字面のどこにもなくて、しかも字面に充實して人を捉へる。その由来を究尽してゆくと何もないところへ出てしまふくせに、究尽の手の脈には感電のやうなシヨツクが止まない。詩の不可思議をまざまざと示すやうな彼の詩は、殆ど類を絶して、彼以後に彼の如き聲をきかない」と優れた理解を示しています。

 逸見猶吉には単行本未収録の少なくない散文があり、宮澤賢治についてのエッセイ、昭和9年(1934年)5月の「三田文學」掲載の「修羅の人-宮澤賢治氏のこと-」が注目されますが、数年前(昭和3年)の3月と同年秋に函館に遊興した、「(その時の心境は)酷かつた、まつたくあの頃もいまもなんといふ月竝みの酷さだ。醒めてることの稀ないまいましさ。その兩度の旅に、おもへば詩集『春と修羅』が鞄の底にたしか藏はれてゐたやうな氣がするのだ」「『春と修羅』の背後に立つて、或ひは考へ深さうな微笑を泛べてゐる宮澤賢治氏がはつきりと見えて、なにか注意を受けるやうな又冷淡につき離されさうな具合で、無頼な私の生活がなんとも堪らなくなつてきた」「だが『死ト現象』などに没頭してゐた私は、ああ、いいな『小岩井農場』『オホーツク挽歌』と思ひながらも、何故か茫漠とした虚しさにおそはれて、謀叛氣のやうなものを感じてしまふのだつた」と宮澤の詩への距離感を語っています。宮澤賢治昭和8年9月に亡くなっているのでこれは追悼文として書かれたものですが、宮澤賢治の詩に一種の潔癖症的な教条性を感じていたならば、人格的には敬意を持っていても高村光太郎の詩にも同種の「謀叛氣」(反感)を感じていなかったとは限りません。

 逸見猶吉の評価を決定的にしたのは吉田一穂(1998-1973)が昭和5年(1930年)3月の「詩と詩論」に書いた時評「詩集に関するノート」で、安西冬衛『軍艦茉莉』、北川冬彦『戦争』、春山行夫『植物の断面』とともに『學校詩集』を採り上げた時評でした。『軍艦茉莉』『戦争』『植物の断面』は「詩と詩論」発行元の東京厚生閣のシリーズ「現代の芸術と批評叢書」からの刊行で「詩と詩論」同人による話題の新作でしたが、一穂は『學校詩集』に他の3冊を合わせた以上の分量を割き、「私はこの中から初めての詩人・逸見猶吉の詩『ウルトラマリン』を声をあげて推讃する。その最も新しい尖鋭的な表現・強靭な意志の新しい戦慄美、彼は青天に齒を剥く雪原の狼であり、石と鐵の機械に擲彈して嘲ふ肉体であり、ウルトラマリンの虚無の眼と否定の舌、氷の齒をもつたテロリストである」と激賞しました。「詩と詩論」は最前線の詩壇エリート集団と見られていたので、外郭同人の吉田一穂が「詩と詩論」の中心メンバーたちの新作以上と評価した逸見猶吉は「學校」「銅鑼」周辺にとどまらない最大の新人と注目されたのです。一穂は後輩詩人では多作な岡崎清一郎(1900-1986)、急逝(事故死)後に草野心平・逸見猶吉・宍戸儀一編で唯一の詩集『亜寒帯』昭和11年(1936年)がある石川善助(1901-1932)に慕われ、逸見も一穂の厳格な詩法には真剣に兄事しましたが(一穂詣では若い詩人たちの度胸試しで、中原中也が「(一穂が訪問者に出す)茶が苦くてなあ」とぼやいて誰もが苦笑していたそうです)、友人・宍戸儀一への書簡で一穂の新作詩篇に触れ「近業『鴉を飼ふツアラトウストラ』を見れば、氏にとつて当然な道だとしてもニルヴアナ(解脱)に近い自覺が均整と數理美とを示してゐる。感嘆すべく醒めたる人の姿だ。だが己はむしろ、酩酊(數としての)なかに入るだらう。群のなかを堕ちてゆくだらう」と書き送っています(昭和7年=1932年5月17日付)。逸見は一穂が「詩と詩論」を離れ対抗誌として主宰した「新詩論」(昭和7年=1932年10月~昭和8年=1933年10月、全3冊)にも参加しましたから一穂への敬意は変わらなかったようです。一穂ははるか後のエッセイ(「地獄の骰子」読売新聞・昭和42年=1967年9月6日)で詩集の刊行ブームに触れて「マラルメも逸見猶吉も生前、一冊の集も持たなかつた。(中略)堕天使といはれたシェリーが地中海で溺死した時、あるサチリストが『奴の骨は地獄の骰子になつてゐるだらうよ』といつた。いや詩人とは自分の骨を削つた骰子で、一か八か、生涯を賭けて勝負するものである」「詩を書くことは本然の生を生きたことだ。その行為がそのまま報いであるのだ」と書いています。この理解の深さと詩観の近さからも、逸見が高村光太郎宮澤賢治よりも吉田一穂に親近感を抱いていたのは違いないと思われます。

 日本による傀儡政権下の満州で配給管理に従事していた逸見猶吉こと本名・大野四郎は帰国もかなわないまま、敗戦から1年の昭和21年(1946年)5月、栄養失調による肺結核の悪化から病没します。夫人と小学生の女児の遺児も同地で病没し、男児3人は養家を得て帰国しましたがうち1児は児童のうちに事故死しました。逸見猶吉は既発表作品の手入れ原稿を詩集刊行を想定して友人に託しており、その半数を初の単行詩集として刊行したのが『逸見猶吉詩集』(全38篇、昭和23年=1948年6月・十字屋書店)でした。草野心平の「覚え書」を付したこの詩集は少部数出版でしたが、編集委員金子光晴西脇順三郎三好達治北川冬彦中野重治草野心平・村野四郎・伊藤信吉が当たった、明治の島崎藤村以来戦前までに評価を確立した83人の主要詩人の既刊詩集を原則全巻収録した『全詩集大成・現代日本詩人全集』全15巻・序巻1の第12巻(創元社・昭和29年=1954年刊)に、草野心平高橋新吉中原中也・尾形龜之助・八木重吉との6人集で復刻されました。草野心平110ページ(既刊詩集ほぼ全編)、高橋新吉170ページ(既刊詩集再編集・ほぼ全編)、中原中也42ページ(生前刊行2詩集のみ)、尾形龜之助36ページ(生前刊行3詩集のみ)、八木重吉42ページ(生前刊行詩集全編・没後刊行詩集ほぼ全編)、逸見猶吉16ページ(十字屋書店版『逸見猶吉詩集』全38篇)で、逸見猶吉は昭和41年(1966年)に定本詩集が刊行されても倍の78篇になった程度で、増補分は十字屋書店版で割愛された編集基準がほぼ妥当な習作や偶成詩が大半ですから享年40歳にしても寡作のほどがわかります。草野心平が「覚え書」(後出)で(十字屋書店版『詩集』に)「傑汁はすべて収められてゐると思ふ」と書いた通りでしょう。

 ちなみに『全詩集大成』の編集方針はまちまちで、明治期の詩人は明治期の詩集のみ、多作家の場合は代表詩集のみも多く、現存詩人には再編集・改作を許可し、没後刊行詩集は原則対象外とした一方で石川啄木宮澤賢治八木重吉立原道造は没後刊行全詩集・全集収録の未刊詩編を網羅収録と特別扱いを受けています。中原中也が生前刊行詩集のみの扱いなのは第12巻の人選の通りあくまで「歴程」の1詩人という位置づけだからで、むしろ没後刊行詩集しか持たない逸見猶吉が収録された方が異例です。83詩人の中で生前刊行詩集がなく特別に没後刊行詩集が収録されているのは『三富朽葉詩集』、大手拓次『藍色の蟇』『蛇の花嫁』、『平戸廉吉詩集』、石川善助『亜寒帯』、『富永太郎詩集』『逸見猶吉詩集』のみで、このうち石川善助と富永太郎は最終巻でぎりぎり追加収録された詩人です。この全集の全巻解説は伊藤信吉(1906-2002)で、明治・大正期については金子光晴、プロレタリア詩の系譜は中野重治と伊藤、「歴程」系詩人は草野心平、「詩と詩論」系は村野四郎、「詩・現実」派は北川冬彦、「四季」派は三好達治で、最年長者の西脇順三郎は「詩と詩論」派と言うより名誉委員長だったと思われます。温厚な西脇ではなく好みの激しい佐藤春夫日夏耿之介室生犀星あたりが監修だったらまとまるものもまとまらなかったでしょう。伊藤信吉と三好達治はかつて萩原朔太郎の秘書を勤めており、中野重治西脇順三郎はやはり萩原に兄事していた詩人でした。当時存命中の高村光太郎については評価は批判(西脇・金子)と擁護(草野・伊藤)にはっきり分かれていました。編集委員8人のうち中心となったのは伊藤信吉と草野心平で、編集実務は伊藤信吉、各委員の意見の調整には草野心平の役割が大きかったと思われる人選になっており、逸見猶吉を世に送った草野・伊藤による全集だったからこそ遺稿詩集『逸見猶吉詩集』が詩人没後8年にして「現代詩の古典」(草野心平)の位置を与えられる機を得たのです。

 逸見猶吉に惜しまれるのは、比較的早く十字屋書店版『逸見猶吉詩集』に恵まれた替わりに本格的な全詩集『定本逸見猶吉詩集』が遅れ、これにも収録洩れの詩や雑誌掲載型から大きく改稿された作品が多く、草野心平が「全集も何れは出る機會があるだらう」と期待したにも関わらず相当の分量の散文(批評、エッセイ、書簡、雑篇)を集成した逸見猶吉全集はいまだに未刊です。十字屋書店は戦中(昭和14年=1939~昭和19年=1944)年に、昭和10年(1935年)から文圃堂から刊行されながら中絶していた宮澤賢治の没後全集を草野を中心とした歴程グループの尽力を得て完結させた実績があり、宮澤賢治を国民的童話作家・詩人にしたのはその十字屋書店版全集です。

 また同書店は昭和22年(1947年)7月には初版以来30年以上経つ山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』を草野心平の再編集で復刻したばかりでした。敗戦直後の時勢では散文を含めた準全集の刊行は難しかったでしょう。現在でも逸見猶吉の散文は、主要な研究書の菊池康雄『逸見猶吉ノオト』(昭和42年=1967年)、森羅一『逸見猶吉の詩とエッセイと童話』(昭和62年居心地1987年)、尾崎寿一郎『詩人 逸見猶吉』(平成23年=2011年)に転載・引用されているもの以外は一般の読者には容易に読めません。逸見猶吉詩集も現在手軽に普及している版はありませんから、せめて全集ではなくても詩集と散文を合わせた選集くらいは望まれます。

 前述の通り十字屋書店版詩集と『定本逸見猶吉詩集』は前者が全38篇、後者が40篇増補・逸見自身による改稿を含む全78篇と倍以上の増補がありますが、逸見唯一の生前の自選集である山雅房刊『現代詩人集3』昭和15年(1940年)収録の小詩集『ウルトラマリン』全18篇に、同時期の未収録詩篇と『ウルトラマリン』以後の時期からの増補20篇から成る十字屋書店版『逸見猶吉詩集』で逸見作品の珠玉は尽くされているでしょう。『ウルトラマリン』は昭和11年(1936年)頃までの作品集で、同年以降は逸見猶吉は満州駐在になり、『逸見猶吉詩集』は満州時代以降の作品は少数が厳選され補遺程度と言って良く(ただし厳選された分佳作揃いで、『定本』で読める遺漏詩篇の大半は十字屋書店版未収録になったのも納得の凡作です)、逸見と同年生まれの中原中也の2詩集、逸見より1歳上で萩原朔太郎の激賞により世に出た伊東静雄(1906-1953)の最初の2詩集、立原道造(1914-1939)の2詩集と『ウルトラマリン』は完全に同時代の作品ですが、いずれも戦後詩の喩法の水準を予告する現代詩の古典ながらも、中原中也立原道造のようにポピュラーな詩人にも伊東静雄のような玄人好みの詩人にも成り得ない激越な攻撃性、狂気、難解さが、『ウルトラマリン』成立から80年を経た今日でも読者の安易な理解を拒んでいます。

 宮澤賢治山村暮鳥も難解な詩人ながら感覚的に馴れることはまだ可能ですが、逸見作品の宮澤や暮鳥とも異なる圧倒的な詩行の密度は取りつく隙を与えない硬質さを感じさせます。詩集本編より先に十字屋書店版の巻末の草野心平による「覺え書」を転載しておきました。友人の弁として情理兼ね備えた、貴重な一文であり無駄のない名文で、十字屋書店版詩集はこの跋文によって決定版遺稿集の風格を備えたとも言えるほどです。逸見猶吉の詩は以前にもご紹介しましたが、このシリーズでは十字屋書店版詩集全38篇を4回に分けてご紹する予定です。なお底本は正字・正かな表記の『全詩集大成・現代日本詩人全集12』を用い、詩篇配列は十字屋書店版を踏襲し、原著にはない詩篇ごとの初出掲載誌の発表年月を注記しました。
(以下次回)

(旧稿を改題・手直ししました)