人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

『逸見猶吉詩集(ウルトラマリン)』昭和23年(1948年)刊・その2

(逸見猶吉<明治40年=1907年生~昭和21年=1946年没>)
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 このシリーズでは逸見猶吉(明治40年=1907年9月9日生~昭和21年=1946年5月17日没)生前に合同詩集に収録された小詩集『ウルトラマリン』(『現代詩人集3』所収=山雅房昭和15年=1940年7月刊)18篇に、20篇を増補した没後刊行の初の単行詩集『逸見猶吉詩集』(十字屋書店・昭和23年=1948年6月)を収録詩篇の配列順にご紹介しています。前回は詩集巻頭から昭和4年(1929年)~昭和6年(1931年)に発表された8篇をご紹介しました。『ウルトラマリン』を踏襲した『逸見猶吉詩集』は必ずしも執筆・発表順の配列ではなく、各編ごとに初出誌を注記しましたが、詩史的には「歴程」(その前身誌である「學校」「銅鑼」)の詩人とされる逸見が、意外なほど主流モダニズムの商業詩誌「詩と詩論」に初期の力作を載せていたのがわかります。それほど「詩と詩論」に関わりながら日本のモダニズムシュルレアリスム詩の文脈で語られることがないのは、その難解さのあまり敬して遠ざける風潮があったように思えます。実際、逸見作品はモダニズムにもシュルレアリスムにも属さないものですが、同時代詩人との詩的性格の懸隔を検討する論議もあっていいでしょう。そうした点でも、モダニズムを出発点としながら昭和10年(1935年)の第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』では当時類例のない作風を確立していた伊東静雄(1906-1953)と逸見猶吉は裏表の位置にあります。『わがひとに與ふる哀歌』と『ウルトラマリン』は戦前にあって第二次世界大戦後の戦後詩の喩法を予告した、現代詩の分水嶺とも目せる詩集でした。中原中也の『在りし日の歌』(昭和13年=1938年・没後刊行)と立原道造の『萱草に寄す』(昭和12年=1937年)は伊東静雄と逸見猶吉の中間に立錐的に位置するもので、見かけの上ではよりこなれているために広く読まれることになったのです。

 草野心平を始めとする「歴程」グループ編の十字屋書店版『逸見猶吉詩集』の構成はおおむね四部に分かれており、先三部では『ウルトラマリン』18篇(逸見猶吉自序によると昭和4年=1929年~昭和11年=1936年作品)に加えて同時期の『ウルトラマリン』未収録詩篇を収め、最後の部では昭和2年からの初期詩篇と『ウルトラマリン』以降晩年近い時期までの作品を集めています。前回と今回を区切ったのは、冒頭からの8篇連続して漢字とカタカナ詩篇が続きましたが、9篇目の詩からはようやく漢字とひらがなの散文詩になるからです。発表年代も昭和10年に飛びます(次の「牙のある肖像」からはまた発表年度が戻りますが、これは逸見猶吉自身が生前にまとめていた詩集草稿による配列を踏襲したからで、十字屋書店版の時点では厳密な編年考証は行われていません)。漢字ひらがな詩への転換は今回ご紹介する作品でも昭和6年の「詩と詩論」発表作品から始まっていたのがわかりますが、読者を寄せつけないようなカタカナ詩篇から漢字ひらがな詩篇に変わっても難解な印象はほとんど変わらないのではないでしょうか。現代詩は21世紀になっても80年前の逸見猶吉や伊東静雄の文体以上の水準で読んでいる読者はほとんどいないので、その分おそらく逸見猶吉詩集がポピュラーな読者を獲得するのは絶望的なくらい望めないと思われます。たいがいの詩の実作者や読者は忘れかけられた過去の詩人より今ある現代詩の新しさや達成を基準としますから、逸見猶吉ほど現代詩に拮抗して異なる可能性を示していた詩人にはなかなか気づけません。

 今回ご紹介の作品では「詩と詩論」に発表されたきり逸見生前の『ウルトラマリン』には未収録になり、『逸見猶吉詩集』で初めて詩集に収められた長編散文詩「牙のある肖像」があり、これは逸見作品中最長で雄大な規模を持ち、内容的にも『ウルトラマリン』連作と連続したもので、本来なら雑誌未発表詩編「終駅」「火を享ケル」同様に山雅房版『現代詩人集3』の『ウルトラマリン』に収録されるべき作品ですが、「詩と詩論」既発表詩編「大外套」もおそらく長大さのため『ウルトラマリン』未収録になっており、「牙のある肖像」も「大外套」同様アンソロジーの紙幅を考慮して分量の面から割愛されたのでしょう。幸い十字屋書店版『逸見猶吉詩集』、後の『定本逸見猶吉詩集』は『ウルトラマリン』→十字屋書店版→定本詩集と段階的に納得のいく増補がなされており、納得のいく根拠はそれぞれの段階では未収録詩編に明快な理由があることです。『ウルトラマリン』では昭和11年までを区切りとして分量的な調整から、十字屋書店版では『ウルトラマリン』期の未収録詩編を重点的に補い初期詩編を加えるもGHQ検閲下の出版のため満州詩編に遺漏が生じたこと、定本詩集でようやく残存していた遺稿の全貌がまとめられたものの未収録詩編・散文の発見がその後も続いていることで、中原中也立原道造なら屋上屋を重ねてでも新版がくり返されるところです。今後、逸見猶吉が理解されるには散文も合わせて集成した全集が望ましいと思われます。

 合同詩集「現代詩人集3』(昭和15年=1940年7月・山雅房)収録の小詩集『ウルトラマリン』序文に逸見猶吉は、「満州國に移り住んで四年、この間のものは全くこの集にいれなかつた。深い理由はない。仮に『ウルトラマリン』と題したのも、以前詩集を出さうと考へた時この言葉を思ひついたからで、今になれば一寸した愛情である」とし「私は私の詩の世界を信じてゐる。もつと深いところで面つき合せてゐる。こういふ言葉が自分にはなぜか不向きに思へるが、それ以外にいま言ふほどの事が見当らない」さらに「私の信条をいへば虚妄につきる。目に見えないその箇條書きの中で私の力は試され、牽かれてゆく。詩の底にある不信のかたちが何であれ、頑固にこの世界の壮大を希ふことに変りはない。十年書いてゐる、一體これらの詩とは何ものだらうか」と書いています。また昭和10年(1935年)5月の「歴程」創刊号掲載のエッセイでは「二十世紀は詩が死にかかつてゐる。歌つてゐるうちに睡くなつてきた類であらう。それなのに肉體を消耗することさえしない。己の肉體を消耗するとは己にもつとも直接なモラルを觸火せしめることだ。それなくしてどんな詩の飛躍もありはしないのだ。詩人はまつたく退屈すぎる」と表明しており、これは逸見が畏敬していた吉田一穂の詩観、また拮屈な詩風と一致するものでもあれば21世紀と置き換えても通用する詩観でしょう。しかし詩観だけなら中原中也伊東静雄の詩論も逸見と同質の硬度と認識を持っていました。そして詩を見ると、1歳年長の伊東静雄、同年生まれの中原と逸見が同時期にこれらを書いていたとはにわかに信じがたいくらい異なる詩的言語にたどり着いているのは、日本の現代詩の可能性の振幅を示すものです。あえて逸見に拮抗する詩人として伊東静雄中原中也の名前を上げるゆえんです。

『逸見猶吉詩集』(全38篇)
昭和23年=1948年6月・十字屋書店
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『定本逸見猶吉詩集』(全78篇)
菊地康雄編・昭和41年=1966年1月・思潮社
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ナマ

徹夜の大道はゆるやかに異様にうねり、うねるままに暗暈の、氷る伽藍のはてに沈まうとする。道は遠くこの一筋に盡きて、地と海との霾然たる、また人間の灰神樂。飛び交ひなだれ堕ちる星晨や殺氣のむらむらや、それら撃發する火のやうな寂しさのなかに、己は十字火に爛れた生(な)まをつき放さうとするのだ。おお、集積(マツス)の眼!不眠の河となつて己を奪つたすゑは、むざんに溷濁の干潟に曝し、滄々たる季節の下にいまとはなつたが、挑みかからうと己みづからが空をつく。何者へ對つてか、嗤へ、長年漂泊にあらび千切れた胸の底に捉へやうとする、生きがたい、夢の燔祭。埓もない見てくれの意匠も舊い日のことになつた。
神々といふあの手から離れてここに麻のやうな疲れが横たはる。

あたらしひ希ひを言へと、誰がみ近く呼ばふのだ。
氷霧に蝕む北方の屋根に校倉(あぜくら)風の憂愁を焚きあげて、屠られた身の影ともない安手の虚妄をみてとつたいま、なんと恐ろしいものだけだらうか。原罪の逞(ふと)い映像にうち貫かれた兩の眼に、みじろぎもなく、氷雪いちめんの深い歪(ひづ)みをたたえて秘かに空しくあれば、清浄といふ、己はもうあの心にも還る事はできないのだ。沍寒の夢はつららを砥いで、風は陣々と滲みいるやうにあたりを廻りはじめてゐる。内から吹きあげる血の苦がい、灼けるやうな飛沫が叫ぶ、とうてい身はかわしきれないと。
善哉(よし)!人の闘ひはまだつづく。

(昭和10年=1935年5月「歴程」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

牙のある肖像

 I

嘗ての日、彼等こそ何事を經て來たであらうか強烈の飲料をその傷口に燃やし、行方なく逆毛(さかげ)の野牛を放つては、薪のやうに苛薄の妄想をたち割つた彼等。こころに苦い移住を告げて、内側から凍りつく鰊のたぐひを啖ひ、日毎無頼の街衢(ちまた)から出はづれては歌もなく、鐵のやうな杳かの湾流がもたらす風の、勒々とした醉ひのひと時を怖れた彼等。到るところしどろな悪草の茎を噛み、あらくれの蔦葛を滿身に浴びて耕地から裡の臺地へと。また深夜のど強(ぎつ)い落暉(いりひ)にうたれて、犁(すき)のたぐひを棄て去つた彼等。《雲と羅針とを嘲りわらふ、その朦昧の顔の冷たさ。》ひとたび扉口は手荒く閉ざされ、傾く展望はために天末線(スカイライン)を重沛のやうに沈澱したのだ。佯(いつは)りの花と糧秣はぶち撒かれ、床板に虚しく齒車の痕が錆びてゐる。いま襤褸をづらし、十指を組み、ヂザニイの干乾らびた穂束に琥珀を添へて、純潔の死と親愛とを祈る彼等だ。野生の卓に水が流れる。水が流れる。
一途に貪婪なる収穫の果がこれであらうか。

いよいよ下降する石疊から、壊はされた黒い楔(くさび)の扉口からだ。ざんざんと頽(なだ)れこむ躁擾からそれら卑少の歴史から、虜はれの血肉をみづから引き剥して、己は三歳の嬰児だ。絶えまない不吉の稲妻と、襞もない亜麻の敷布に繋がれて、この無様(ぶざま)な揺籃の底に目覺めてゐるとは誰が知らう。
ああ、最後の人の手から手へ、斑らなる隈どりで残された記憶。あれは秋であつたらうか。《諸々の狭隘な傲りを押し破つた水。季節を逸れた水の氾濫!それこそ兇なる星辰(ほし)の頽れだ》四肢を張り、頑強に口を閉ぢ、むざんに釘うたれたまま、ぎるんぎるんと渦巻く氣圏に反りながら、冷酷な秋の封鎖のまつただ中を抛れた、その記憶がま新らしい。己はどんなざまに聲をあげたらうか。凹凸に截られた、石疊の隅で、彼等街衢から出はづれ臺地を降る者の、鹽を銜(ふく)んだ頤が獣のやうに緊るのを知つた時。その不可解の一瞥に、蒼ざめた北方路線がまざまざと牽かれるのを、己は視たのだ。隙もれた裏屋根の、冴えた肋(あばら)に入り交ふものは、しらじらと西風に光る利鎌、はやくも鉤なりに、彼等の額に纏(まつは)る何ものの翳であらう。ひと時の寂寞。
蘆のよぶ声がする。その向ふを久しく忘られたまま、湾流に沿ふ屍の形。頸のぐるりを霙の兆(しら)せ。錘のやうに寂寞が見えてくるのだ。今こそ潤ひなき火に、密度の凄まじい地角の涯に、彼等ひとしく参加する時を待つてゐるのか。見知らぬ移住地に獸皮を焚き、轍を深める。己は餓ゑ、さらに彼等は餓えるだらう。

 II

すべては荒蕪の流域につらなる裏屋根の、出窓の格子に假泊する、夥しい鴉の群だ。海藻を絡んだ羽を搏つて、失はれた耕地の跡に、ばさばさと自らの影を追ひたてる鴉の群だ。その腥い印象から、なんとも知れぬ獸血のたぐひに濺がれて、しぜんに斃れてゆくものは、展望をしだいに埋めてゆく。唯ひとり、揺籃の底に艱(なや)むでゐる己の額に、やがては稲妻も十字を投げるだらうか。いま一筋荒々しく乗りこんでくる歌聲をきかう。愛憐もなく火に醉へる、三歳のつぶらな眼底に滲みては、たちまち水浸しの肺腑を侵してくるその歌聲。ああ 己の身うちにがんがんする無邊から襲つてくる非情の歌聲。

 枝を折り
 すぎゆくものは羽搏けよ
 暴戻の水をかすめて羽搏けよ
 石をもつて喚び醒ます
 異象の秋に薄(せま)るもの
 獸を屠つて
 ただ一撃の非情を生きよ
 ……………………………
 きみの掌に
 すぎゆくものは
 沸々たる血を斬きたまへ
 ふりかかる兇なる光暉の羽搏きに
 野生の花を飾るもの
 血肉を挙げ
 あくまできみの非情を燃えよ
 ……………………………

歌聲は嗄れた。激しい裂目をみせてもう雲母(きらら)の冬。水退けの昏い耕地をずり落ちて天末線の風も凄く、とほく矮樹林は刺青(いれずみ)のやうに擾れてゐる。ここにあるものは己の三歳とその他。純潔の約定と飢餓とその他。ばらばらに黒い楔(くさび)の外されたこの残留の街衢の中で、彼等の笑ふやうに、その笑ひが己の面上にあると思ふのか。強力な抵抗に撓められた鐵格子、また荒廃した扉口に吊られ、牙のある肖像こそおよそ愚劣の意匠をこらして、寒々しい光栄に曝されてゐる。これら牙のある肖像こそ彼等と己をめぐる、妄想の限りない露呈ではないのか。みよ、欣然と卓をたたいて空しい収穫のおもひに縊られるもの。丹赭を塗つた鬱屈の姦淫者。嗤ふべき取引。小學生らは石を投げて屋根の下に陥りてみ、青くざらざらした灰が四邊をたち罩める時、やうやく亜麻の敷布を擴げてゆく戦慄。

大利鎌の刃先に漂ふ薄暮の白い眼差し。蘆のよぶ聲のむかふを、湾流に沿ふて屍のまつたく忘られた形。下降する石疊にサイレンが鳴らされ、斷続の後それも杜絶えた彼等の苦(にが)い表情から、残忍な行為ばかりを讀んだうへに、苛立つ矮樹林から、その聲高な笑ひの中に、己ばかりは不逞な精神の射殺をきくのだ。誰も彼も居なくなる。やがて霙がくるだらう。この無様な揺籃の底に、天才を死に果てたとは誰が氣付かう。横なぐりに出發の時が來たのか。己は再び引き剥す血肉に飢餓を鎧つて、ひとときの眠りを墜ちてゆく身だ。

(昭和7年=1932年3月「詩と詩論」)

途上

 Niの思ひ出として

ひび割れの
一層むごい凌辱と貪婪の
手にとるこの世のあらひざらひだ
やくざな助材を解きはなつておもふざま
幻象に仕上げるのが日常なら
それに火をつけ
奈落を渫ひ
どのみちおほきく笑へればいいといふものさ
これをしも不誠実だと責めるまへに……
だがいまは言ふな
すべる蠅よ
のさばる光栄のしやつ面(つら)たちよ
生活だと言つたのが愚の骨頂なら
もう何ひとつ文句はつけぬ
この身は暗い百年に觸火して亂雜たるあれ――――なほ渡つてゆく
歩みは一片の悔いもないが
意地わるくつらく強力に泣いてゐるのだ
風ともない通り魔のしはぶきのやうなやつに折からの風物が絞めあげられて
ながい間めいめいのおもひは錯落した
すれ違ひざまに光つてきらりと此方を見た眼
なんとあたり前のかなしげな挨拶
あるけあるけと渡つてきたのだ
行きあたるところの無い限り 愛や動亂や死の胆妄に
灼かれる業も
まして尼からのぞいた孤獨といふやつ
一時が永遠に木ツ葉微塵の形なしだといふのさ
及びがたい力につらぬかれ
きらりとし錆びいろとなりふき晒されて
それこそどんな暗黒にも閉ぢることはないだらう
別々でありながら身内に燃え燃えながらも離れてゆくといふ
おかしなさういふたぐひの眼だ
せつかく此處まで來たところがこれでは説明がつきかねる
これをしも不誠實だと責めるまへに
だがいまは言ふな
おまへが何を共力しようとするのかそれも知らぬ
おれは世界が何故このやうにおれを報いたかを考へてみるのだ
宇宙大の夢をもつためには
しばしばその夢からさへ脱がれようとする
だがいぶかしげにおれをうながす
憫みともつかぬだんまりが反つておまへの常套なのか
どうやらそれも怖ろしい眼の裏側を糾問するためのことらしい
がたんと重いぶれーきで停り
わづかな喧騒の後はまたもとの静けさに歸つた
いやおれはこのまゝでいいのだ
辛いやつを口になめては
歌をやるすべもない
左様なら
いちめんの斑雪(はだれ)に煤がながれこんで
黒い車輛の列からはみだしてる
途方もない
陸のつゞきさ

(昭和11年=1936年3月「歴程」)

煉瓦台にて

水沫(しぶき)を擾して抛物線の、刻薄を傳つて。
空に痙攣れた船體(ハル)の悲しみが沈むでゆく。
燃え盡きた煉瓦臺に身を打ちなげて己は、薊の花と落日と、荒々しい時の轉移を聴いてゐる。地に墜ちる氣流の行方にもがいては、刹那刹那の斷面を過ぎる候鳥の黒く。
己はその憎々しい掌に、自らの頽唐を深めて、雲を自在に馳つてゐるのだ。死はやがて己を、天上の水沫に捲き込むであらうか。とまれ無限への不逞な身構へであらうとも、彼の煉瓦台に、一沫の血漿を残すであらう。
ああ今は盛り反へる船體(ハル)の悲しみ、その滲み透る深度にこそ、最も惨忍な意志との婚姻を誓ふのだ。
拒絶されたこの双手を投げるのだ。水沫を擾して、その刻薄をはるかに傳へよう。
友よ。己は君に一撃をくれて此處を発つ。

(昭和6年=1931年6月「詩と詩論」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

大外套

足もとの草々は冷たく。泥濘の中を、アカシヤに凭れて水を飲んだ。口に苛立たしい音階を繰り返し、遠く暗欝な入江をかき毟る風に、己は愴然と眼をなげてゐた。なんの當があつて。この丘陵地方の荒頽の中に迷ひこんだのか知らぬ。《彼の灰色のバルドヰン。怖ろしい大外套の襟をたてて、北方ハンガリヤの暴々たる野末だ。胸の傷痍をまざまざと見せつけて、彼が此方へ顔を向ける。河沿ひの人気ない酒肆の一隅で、己は久しく待つてゐるのだ。の梢がざわめいて、限りない憂愁の歪みがあたりに擴がる。頂垂れて、しかも力をこめて彼は近づく。硝子戸に黒い紋章。一匹の蠅と砂と。過ぎゆく時が己の肩に羽搏たいてゐる。喉が渇いて、舌が痙れて……》さうだ、嗤ふべき彼の生涯が、己の肉體にくまなくその破片を留めてゐる。だが敵意と冷笑とで己に挑みかかる彼の辛辣を思へば、寧ろ平静に酒杯をあげる己ではなかつたか、卑屈な闘ひを見棄てて、いまは己は目覺める。そしてまた歩きだす。泥濘の凹地を。アカシヤの伐られた涯を。不器用な音階を繰り返し繰り返し、入江に向つて降りてゆく。齒と齒のあひだの寒烈。裏がへしの低い太陽。太陽こそ恒に陽氣でありたい。孤獨に価しないものを孤獨として、なんと世界は諧謔のない笑ひばかりだ。狂つた頭脳の短い顛末に就て、己は最早考へるどころではないのだ。自分こそ最も奇怪ではないか。冬の襲ふ前に、秋の去らぬ内に、彼の擾然たる街に還らう。
其処には投げだされた鐵器等、毀れた肢体、錯落する事件等。空氣にはイペリットが薄く滲みて、軍鶏の肋骨がごつごつ曝らされてゐるのだ。バネの錆びた秘密や喚いてゐる塗料。誰かがきまつて言ふに違ひない。《ありふれた眠りであつたか。夙く寝台を離れて顔を洗へよ。青い眼鏡を掛け給へ》蒙昧の友等は深く反省する。単純な街角をあわただしく馳け廻る。深夜の凄まじい挺轉に捲き込まれて、誰が笑ふことを忘れるだろうか。ああ擾然たる街に還らう。己ばかりは寂しく慚愧して、恐らく崩潰する天の一角を狙ふだらう。悪辣なる少年となつて大破産を希ふだらう。何でもいい、今一度、灰色のバルドヰン、大外套の亡霊。めぐり遇つた時こそ、彼の傷痍をむざんに刳つてやるのだ。……足もとの草々には風に切れて、丘陵地方の夜明けを、己はなほも歩きつゞける。入江に向つて降りてゆく。

(昭和6年=1931年6月「詩と詩論」)

終駅

聴カセテクレ
木ツ葉ガ飛ンデル眼ノオク底カラ
黒ノ organ ヲブチ壊ス
凄マジイ君ノ音樂ヲ
流木ノヤウニ刃コボレタ音(ネ)イロガ
ソツポ向イタ君ノ無表情カラ離レルト
ソコカラ ドカドカト冬ガ踏ミコンデクルノダ
季節ハズレナ大扉ノ外デ 雹ニウタレタ signal ニ凭レ
不逞ノ 頽廃シタ terminus ノ人ヨ

ブザマニ棉花ヲ曝ス
酷イ旱魃ノ地角カラダ
ナン百ノ貨車ノ下ヲ
wire ノ痕ト瀝青ヲ背負ツテ 遠ク過ギテキタ己タチ
ワヅカ Cobalt ヲ採ル者ラガ疾(ヤ)ンデ 去ルト
アア ケフモ意味ノナイ雲ノ形カ
車輪ニ凍リツイテ 山々ガ低ク
背後ノダンダラナ茨ノ中ニ溶ケテユク
傷ツイタ野犬ノ群ハ ムカフニ駆ツテイツタラシイ
アイツラ シラフデ 吠エテルノダ
イマ両人(フタリ)ノマン中ヲ流シテ
針金ノヤウナ冷血ガ冱エ
薄レタ網硝子ニ ハジメテ己ヲミル君ノ笑ヒ
足モトカラ沸キタツテクル 時間ノ水イロ
ソノ怖ロシイ水イロデ タイガイ妄想ノ下積ミニナルノダ
生(ナマ)々シイソコラノ 切リ株ヲ跨イデ
己ハ Garshin ヲオモヒ
頬ヲ擦ルト 火ト水イロガ混ザルトイフ
ソノコトダケデ イツパイニナル愛(カナ)シサデハナイカ

聴カセテクレ terminus ノ人ヨ
スルドク氷層ノ露呈スルヤウナ
音モナク裂ケテユク 稲妻ノヤウナ
マタ シダイニ消エテユク 君ノ音樂
木ツ葉ガ飛ンデル君ノ顔 グルツト西ニ偏奇シテ
冬ハ水イロニ光ツテル
ガタガタスル大扉ノ外カラ ナニカ歌フヤウニ
ダガ君ハ ヤガテ倒レテユクバカリダ
雹ニウタレタ signal ガ殘リ
黒ノ organ ガソノ側ニ屠ラレテ 凄マジイ
……………………………………

(昭和15年=1940年3月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

火ヲ享ケル

夏ハ光ノ槍ブスマ
屠ラレタブナノ大樹ノ面ダマシイ
噎ルバカリノ狂ヒヲ深メテギラギラト
山岳地方ノ透明嵐氣ガ燃エアガル オオ嵐氣ニ千切レタ贖罪ノ館
泡立ツ黒ト緑金ト ソノ怖ロシイウネリヲ重ネテ トメド無ク
毒麦ノ穂ガ逆ニ磔木ノ天上ヘ押シナガサレ
 ハルカニ下ノ世界カラ
 暉石・橄欖石ノ断面ヲ
 イチメン火ノ叫喚ハ掠メテユク
 ……………………………………燃エアガル
燃エアガレヨソノ涯ハ
テツペン大藍青ノイキレニコソ捲キアガル
底シレヌ冽シイ嵐氣ノ渦ガ群レテ 深ミドロ光ノ網目ヲ撥ジク刹那ダ
小鳥千羽ハ礫トナツテ墜チテクル
コノ爛醉ノ畏怖ノ時ヲナダレコムノダ
餓エテハ人ラ自ラノ屍ニ乗リアゲテ
馬・鶏ノタグヒハマツシグラ
ナニヲ叫ブカ 血ヲ吹キアゲルママ流サレテ
目盲ヒタルママ黒イ耕地ヲ アア遠ク天來ノ柵ヲ破レバ
タチマチウネリ凄ジイ毒麦ノ昏ク
熾ンナル不断ノ歌聲ハ大刈鎌ニ乗ツテ奔騰スル
大刈鎌ニ跨ガレバ 天ハサラニ展カレテ己ト醉ヒ
磔木ノ荒クレタ影ノ裡 諸々ノ凶ナル種子ヲフリ撒カフ
ココニアレ友ヨ
黒ト緑金ノ刺シ違ヒ
ムジンナ光ノ槍ブスマ 夏
畳コム透明嵐氣ノマツタダ中ダ
コノ醉ヒニコソ己ハ 悪血ニ噎ル生肉ノ日々ヲ潔メルノダ
胸ヲバンバン晒シテサラニ 苛薄ノニ搏タレヨウ
火ノ飛沫ヲ享ケヨウトスルノダ

(昭和15年=1940年3月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

(以下次回)

(旧稿を改題・手直ししました)